LOGIN作業台の黒いビロードの上で、磨き上げられたラベンダー青翡翠のカボションが、夜明けの霞のような幽玄な光を放っていた。 中心に据える至高の原石は手に入った。しかし、それを取り囲むべきティアラ全体の骨格――フレームの設計図の上で、真白の手は完全に止まっていた。 「……駄目だ。これじゃ、ただの偽物だ」 真白は鉛筆を取り落とし、両手で顔を覆った。 机の上には、第49話:誇りの骨格 奇跡のラベンダー青翡翠は、片桐の神業のような手技によって、完璧な潤みを湛えたカボションへと磨き上げられた。 水滴のように滑らかな石の表面は、見る角度によって冷たい蒼から夜明けの紫へと艶やかに表情を変える。心臓となる至高の原石は揃った。 だが――真白の前に、次なる絶望的な壁が立ちはだかっていた。 「……まとまらない」 南青山アトリエの机の上。 無数に引かれたティアラのフレーム設計図を前に、真白は頭を抱えていた。 青翡翠を中心に据え、純国産プラチナの骨格で頭部を包み込む構造。だが、国家慶祝式典という「格式」を重んじようとすれば、どうしても左右対称の古典的で荘厳なアーチに行き着いてしまう。それでは、一条麗華が何十年もかけて極限まで磨き上げた王道美の劣化コピーにすぎない。 かといって、『BLANC』らしい躍動感を押し出して前衛的(アヴァンギャルド)に振れば、皇室の神聖な儀礼に求められる品格と静謐さが失われてしまう。 伝統の重圧と、革新の狭間。 どちらへ舵を切っても、一条麗華の背中には届かないという焦燥が、真白の思考を鉛のように鈍らせていた。 「どうすればいいの……。お母さん……」 縋るように、作業台の脇に置いていた母の形見のデザインノートを開いた。 色褪せた紙面をめくっていく。粗削りながらも命の脈動に溢れた母のデッサンの数々。その最後の余白に、擦れた万年筆の文字で、強い筆圧の殴り書きが残されていた。 『装飾とは、己の権威を誇るために身に纏う鎧ではない。それを着ける人の魂を肯定し、その背筋を凛と伸ばすためにある』 「背筋を……伸ばすため……」 真白の指先が、その文字をなぞった。 そうだ。自分は何のためにデザインを描いているのか。国家の権威に怯え、審査員の顔色を窺い、「減点されないための枠組み」に囚われていたのではないか。
南青山の『BLANC』地下工房。換気扇の低い唸りと、微細な研磨水の匂いが立ち込める中、作業台の中央には、糸魚川の濁流から引き揚げた無骨な塊が鎮座していた。泥を落とし、粗削りの皮膜を剥いだ原石は、白く乾いた岩肌の奥底に、かすかな山紫水明の光を閉じ込めている。だが、問題はその先だった。「……ダイヤモンドより厄介だぞ、こいつは」作業用ルーペを目元に挟んだ片桐が、煙草の灰を落としながら唸った。「ダイヤは硬いが、特定の方向に割れやすい結晶構造(劈開)があるから、決まった面で叩けば綺麗に割れる。だが、翡翠は微小な繊維状の結晶が複雑に絡み合った『靭性(じんせい)』の塊だ。地球上で最も割れにくい岩石のひとつと言っていい。下手に刃を当てりゃ、内部の青い脈が粉々に濁ってただの濁った石ころになっちまう」「はい……。光を通す角度を、一ミリでも見誤れば終わりです」真白は拡大鏡を覗き込み、手元のトレーシングペーパーに三次元の断層図を書き込んでいた。東京に戻ってから丸三日。真白は一度もベッドに入っていなかった。原石に強力な透過光を当て、内部を走る淡い紫と清流のような青のグラデーションが、どの角度で最も鮮やかに浮かび上がるのか。微細なクラック(亀裂)を巧みに避けつつ、ティアラの中心に据えるべき至高のカボション(曲面研磨)を切り出すための切断ラインを、何百回と計算し続けていた。目の下には濃い隈が落ち、唇は乾いてひび割れている。指先は糸魚川での裂傷と寒さで赤く腫れ上がり、ペンを握るたびに激痛が走る。それでも、真白の琥珀色の瞳は異様な熱を帯びてギラついていた。「ここ……この角度から四十三度の傾斜で刃を入れれば、内部のラベンダーが青の奥から滲み出るように光を反射します。片桐さん、もう一度シミュレーションを――」ガタツ、と突然、真白の膝から力が抜けた。机に突っ伏しかけた真白の細い肩を、背後から伸びてきた屈強な腕が乱暴に抱き留めた。「……何の真似だ」低く、氷のように冷徹な声。顔を上げると、蓮が作業着姿の真白を片腕で抱き寄せ、冷ややかな眼差しで見下ろしていた。「く、黒羽さん……どうしてここに」「どうしても何もあるか。三日間、一歩も地下から出てこないと高杉から報告が入った。……鏡を見てみろ。幽霊のような面をして、まともに石が見えているのか」「見えています! あと少しなん
ズズズ……ゴオオォォッ!腹の底を激しく揺さぶる重低音とともに、頭上の斜面から大量の土砂と倒木が滝のように崩れ落ちてきた。「逃げろ! 岩陰へ走れ、呑まれるぞッ!」案内人が絶叫し、真白の腕を強引に引こうとする。だが、真白の足は一歩も動かなかった。濁流の底、二つの巨岩の噛み合う隙間に差し入れた右手――その指先が触れた感触から、神経のすべてが離れようとしないのだ。激流の飛沫の奥。灰色の泥水がわずかに引いた一瞬、水底の亀裂に、息を呑むほど幽玄な光彩が浮かび上がった。単なる青ではない。薄暮の冷たい空に、わずかに紅を差したような――紫がかった、幽かな、だが決して濁ることのない玲瓏たる色彩。(これだ……。この石だ……!)「おい真白! 何やってやがる、早く手を抜け!」片桐の怒号が飛ぶ。「片桐さん、ここにいます! この奥に、本物の石が挟まってる!」「馬鹿野郎! 死んだら石もへったくれもねえんだよ! 来い!」片桐が真白の肩を掴もうとした瞬間、真白はそれを身を捩って振り払った。常軌を逸した執念だった。真白は上半身ごと冷たい激流の中へ突っ込み、両腕を巨岩の隙間へとねじ込んだ。水底の泥と鋭利な砂利が皮膚を切り裂く。爪が根元から剥がれかけるほどの激痛が走り、泥水の中に赤い血の筋が滲み出た。それでも真白は指を緩めない。岩盤の圧力に抗い、角張った無骨な原石の輪郭に指先を食い込ませ、全身の筋肉を軋ませながら渾身の力で引き抜こうとする。(動いて……お願い、動いて! 一条先生と戦うための、私たちの光……!)ゴロゴロと頭上から拳大の落石が降り注ぎ、真白の防寒着の背中を強打した。激痛に息が止まりかける。だが、その瞬間――水底でメキリと鈍い音が響き、何万年もの間、大地に囚われていた塊が泥の中から剥がれ落ちた。「取れた……ッ!」両手で抱え込んだ拳大の重み。だが、同時に視界の上半分が、黒い土煙と崩れ落ちる巨大な土砂の壁で完全に覆い尽くされた。「しまっ――」真白が息を呑んだ瞬間、襟首を背後から万力のような力で掴まれた。「うおおおおッ!」片桐の咆哮とともに、真白の身体が後方の岩棚へと強引に引きずり上げられる。間髪を容れず、真白が数秒前まで伏していた足場へ、数トンの巨岩と黒い泥流が凄まじい地響きを立てて雪崩れ込んだ。激しい水飛沫と泥煙が視界を白く染め上げる。「ゲ
灰色の霧が立ち込める姫川上流。両脇を切り立った黒褐色の断崖に挟まれた谷底には、初冬の冷たい雨を含んだ激流が、白い飛沫を上げて唸りを上げていた。「足元に気をつけろ! 岩の表面の苔を踏んだら、そのまま濁流へ真っ逆さまだぞ!」地元で雇った山岳案内人の怒鳴り声が、渓流の轟音に掻き消されそうになる。長靴を履いた足首は、氷水のような水流に浸かるたび感覚を失いかけた。吐く息は真っ白で、合羽を叩く霙交じりの雨が容赦なく体温を奪っていく。「おい小娘、へばってんじゃねえぞ! 翡翠拾いってのはな、宝探しじゃねえ。地球の骨をへし折って捥ぎ取る命懸けの作業だ!」片桐が重いハンマーとバールを担ぎ、荒い息を吐きながら岩場を跳ぶように進む。真白は唇を噛み締め、無言で頷いた。濡れた岩肌に爪を立て、泥に塗れながら一歩一歩崖沿いを這い進む。手の感覚はすでに麻痺しかけていたが、胸の奥だけは薪をくべられたように熱かった。(探さなきゃ……。一条先生の完璧な美に、真正面からぶつかり合えるだけの、本物の命を宿した石を)真白は防寒手袋を強引に引き抜いた。「おい、何やってんだ! 素手なんか出したら凍傷になるぞ!」案内人が制止の声を張り上げるが、真白は首を振った。手袋越しでは、石の比重も、熱の伝わり方も、微かな肌触りの違いも分からない。かつて黒羽蓮の屋敷で、何千個という原石を前に課された過酷な特訓の記憶が蘇る。――『石を見るな。石が語る温度と重さを、己の骨で測れ』冷酷な瞳で真白を見下ろし、妥協を一切許さなかったあの男の声が、頭の芯で鋭く響いていた。真白は濁流の浅瀬に膝をつき、凍える水の中に両手を突っ込んだ。拾い上げては手のひらで転がし、指先で弾き、皮膚に直接当てて比重を確かめる。石英、流紋岩、蛇紋岩、石灰岩――河原に転がる無数の「ただの石」を、瞬時に指先の感覚だけで仕分け、投げ捨てていく。「こ、この娘……本当に素手で石の重さを嗅ぎ分けてやがるのか……?」案内人が目を見張った。泥水が顔を跳ね、爪の隙間から滲んだ血が白い飛沫に混ざる。だが真白の琥珀色の瞳は、濁った渓流の底一点を狂気じみた集中力で見据えていた。どこかにあるはずだ。何億年もの地殻変動の圧力を耐え抜き、この激流に削られながらも、己の青い炎を殺さずに眠っている「本物の脈」が。◇同刻、東京・黒羽グループ本社タワー、
石油ストーブの灯油臭さが立ち込める事務所内には、重苦しい沈黙が落ちていた。 煙管をくわえた集積所の責任者――五十嵐は、灰皿の縁にとんとんと雁首を打ちつけると、薄汚れた帳簿に視線を落としたまま顔も上げようとしない。 「帰んな、お嬢ちゃん。片桐の爺さんの顔を立てて事務所に上げてやっただけでもありがたいと思いな」 「五十嵐さん、頼みます!」 真白は濡れたボストンバッグを床に置き、深く頭を下げた。 「私たちが立ち入りたいのは、保護区域外の旧鉱床跡です。密猟をするつもりはありません。国が迎える新しい時代の式典で、この糸魚川の石を……日本の原初の魂を冠に据えたいんです!」 「能書きはいいんだよ」 五十嵐は苛立ちを隠さず、真白を睨みつけた。 「俺たち零細の山持ちはな、東京の黒羽グループ……征四郎副総裁の息がかかった商社に鉱石の定期買い付けを支えてもらってんだ。あそこから『あの女に立ち入り許可証を出したら、糸魚川の石の買い取りを全面停止する』って言われてるんだよ。お前ひとりの我儘で、仲間全員の飯の種を潰すわけにはいかねえ」 「そんな……!」 「おい五十嵐、てめえ」 背後で片桐が野太い声で唸り、一歩踏み出そうとした。だが、真白はその前に腕を伸ばし、片桐を制した。 「片桐さん、待ってください」 「真白、こいつらは話して分かる連中じゃねえぞ」 「でも、力づくで押し通したら、ただの密猟者になってしまいます」 真白は五十嵐の前に進み出ると、リュックから透明なクリアファイルを取り出し、机の上に広げた。 鉛筆と絵の具で描かれた、何十枚にも及ぶティアラの初期構成案。線はまだ荒削りだが、石の輪郭一つひとつに、息を呑むような執念が込められている。 「これは……?」 「設計図です。真ん中に据えるべき石の場所だけが、まだ真っ白です。外国の輸入ダイヤモンドじゃ駄目なんです。この厳しい北陸の雨と雪に打たれ、気の遠くなるような年月を生き抜いてきた糸魚川の翡翠でなければ、この線は完成しません。……お願いします。山に入らせてください」 「駄目なものは駄目だ。警察を呼ぶ前に出て行け!」 五十嵐は図面を一瞥しただけで、乱暴に手で払いのけた。紙片が冷たい土間に散らばる。 事務所の扉が乱暴に閉ざされ、真白と片桐は土砂降りの雨の中へと追
「糸魚川……? 新潟の、あの糸魚川ですか?」 真白は受話器を強く握り締め返した。 『そうだ。日本海へ注ぐ姫川の流域、ヒスイ峡だ』 片桐のしゃがれた声が、電話口の雑音を切り裂いて届く。 『都内の問屋どもが征四郎の鼻息を窺って右往左往してるなら、下らねえ流通など捨てちまえ。日本の国家式典だろ? なら、この列島の骨組みから削り出された、本物の「原初の石」を据えるべきだ。……小娘、お前には泥を掘る度胸があるか?』 「あります!」 迷いは一秒もなかった。 「行きます、片桐さん。今すぐ準備します!」 『おう、明朝五時、上野発の始発に乗れ。糸魚川の寂れた駅前で待ってる』 ツーツーと切れた受話器を置き、真白はすぐにアトリエの奥へ走った。 華やかなドレスも、デザイン画を飾る額縁もいらない。手袋、作業用ルーペ、硬度計、そして母の遺したボロボロのデザインノート。泥に塗れるための厚手の作業着と長靴を、無骨なボストンバッグに詰め込んだ。 靴紐を結び直してアトリエの通用口を開けた瞬間、冷え込む深夜の空気を切り裂いて、黒塗りのセンチュリーが音もなく滑り込んできた。 後部座席のドアが開き、漆黒のチェスターコートを羽織った蓮が降り立つ。 無言のまま真白の足元――泥作業用の頑丈なブーツと、膨らんだボストンバッグを見下ろした。 「……夜逃げの準備か」 「違います」 真白は顎を上げ、蓮の鋭利な瞳を見据えた。 「片桐さんと糸魚川へ行きます。市場で手に入らないなら、山から直接、私の手で最高の石を掘り出してきます」 「糸魚川の翡翠峡は、国の天然記念物に指定されている区域も多い。立ち入りを誤れば密猟として即座に警察送りだ。それに、今の時期の北陸の山間部は初冬の雪混じりの豪雨が降る。崖崩れで毎年遭難者が出るような危険地帯だぞ」 淡々と、だが一切の誇張なく危険を突きつけてくる。 冷酷な総帥の視線は、真白がどれほどの覚悟でその足を踏み出そうとしているのかを、容赦なく測っていた。 「分かっています。危険も、寒さも承知の上です。でも、一条先生は今この瞬間も、命を削って『至高』を創り出そうとされている。安全な東京の部屋で指をくわえて待つくらいなら、泥水に飛び込んで死に物狂いで探す方を選びます」 真白の瞳に揺らぎはなかった。 蓮は