LOGINロッカールームで服に着替えたあと、綾は湊のところへ向かった。通りすがりに健吾と目が合うと、小さく頷いてみせた。「湊、お誕生日おめでとう!」綾は背伸びをして、メダルを湊の首にかけてあげた。湊は大袈裟な仕草で胸を叩いた。「最高の誕生日だよ、思い残すことはないね」そんな彼を綾はチラッと見て言った。「もう、大げさなんだから、言いすぎよ!」だが、湊は朗らかに笑い、「さあ、帰ろうか」と促した。綾も頷いた。競技もそこそこ終わっているわけだし、学校に残ってもやることがないから。車に乗り込むと、綾はすぐに健吾にメッセージを送った。【今から帰るよ。また明日!】健吾は返信した。【最高の泳ぎだった。よくやったな】それを見て綾は表情を綻ばせて返信した。【青木くんこそ、お疲れ様!】彼女が水泳で1位になり、健吾もフェンシングで1位を取った。二人はこれで立派に肩を並べられたはず。これでもう、自分は相応しくないなんていう人はいないだろ。夕方になって家に帰ると、ドアを開けた瞬間に甘いバターとパンの香りが漂ってきた。和子がエプロン姿のまま、台所から顔を出した。「お帰り!手を洗って。ケーキを用意してあるの」普段ならまだ帰宅していないはずの和子が、わざわざ手料理まで作ってくれている。何か特別な日だったかと不安になった綾は、湊の袖を引いて尋ねた。「湊、今日は何の日?」湊はいたずらっぽく笑った。「ケーキを見れば分かるさ」するとダイニングテーブルに置かれたケーキに飾られた、チョコレートプレートに「祝・優勝」の文字が書かれてあった。綾は目を丸くして自分の顔を指さした。「これ、私のために?」湊は楽しそうに笑う。「うちで今日、水泳の金メダルを獲ったのはお前しかいないだろう?」綾はなんだか照れくさいような、嬉しいような気持ちになった。ただ学校の体育祭で競技に参加しただけなのに。和子が早めに帰宅して料理を作り、わざわざケーキまで注文してくれたなんて。綾は湊の方を見て聞いた。「もしかして、あなたがおばあさんに教えたの?」「おばあさんはそんなに疎くないさ、家族のこととなると驚くほど耳が早いんだ」湊が台所を手伝いに向かうと、幸子がもう綾をダイニングテーブルに座らせていた。「主役は座ってないと。さあゆっくりしててね」ろうそくに火
綾がプールサイドに立つと、ギャラリーはすっかり人で埋め尽くされていた。スピーカーから「国際クラス、中野綾」と呼び出されると、ごくわずかな拍手に混ざって、あちこちからあからさまなブーイングが上がった。飛び込み台に立った彼女は、視線をギャラリーへと走らせた。湊がフェンスのそばで、一眼レフを構えながら嬉しそうに頷いている。一方、クラスTシャツ姿の健吾は、ギャラリーの反対側の隅に佇んでいた。手を振ることも、声を上げて応援することもしない。彼はただそこに立ち、まっすぐに綾だけを見つめていた。それから、綾は視線を戻すと、水面を見下ろした。水は照明を反射してキラキラと輝いている。彼女は深呼吸をして、すべての雑音を頭の中から追い出した。スタート音が響き、綾は水の中へ飛び込んだ。水に包まれると、いつもの馴染んだ感覚に心が解き放たれるのを感じた。自分の胸を打つ激しい鼓動、水を掻き分ける腕が立てる水音、そしてギャラリーからの微かな応援――それらすべてが混ざり合い、遠い輪郭のぼやけた背景音となって耳の奥に響いていた。片や健吾は、泳いでいる綾よりも緊張した様子で、身を強張らせていた。彼はプールの水面を凝視している。緑の水着に身を包んだ綾は、痩せていながらも引き締まった体をしており、白い肌がまるで人魚のように美しかった。普段の物静かでどこか影のあった様子とはまるで別人のように、今の彼女は溢れんばかりの生命力に満ち、自由奔放で、息をのむほど鮮烈な輝きを放っていた。こうして、綾はただ前へ前へと泳ぐことに集中していた。20メートル、あと10メートル……タッチ。綾が顔を上げて大きく息を吸い込むと、まだ視界がぼやけている中でギャラリーからの大歓声が聞こえてきた。顔をぬぐってタイマーを見ると、そこには彼女の名前が堂々と一番上にあった。綾はプールの縁に手をつき、湊の方を見上げた。湊は大きな笑顔で、力一杯に拍手を送っているのだった。綾は思わず笑い、疲労でタイルにひれふしたまましばらく動けなくなった。そして視線をずらし、ギャラリーの反対側の隅を見た。健吾はまだそこにいて、彼女を見て軽く会釈すると、親指を立てて見せてくれた。綾は腕に顔を埋めた。濡れた髪から雫がこぼれ、白いタイルを濡らした。鼓動がまだ激しい。こん
ピストを降りた健吾の周りにはすぐに人が群がり、ドリンクを渡す者や写真を撮る者で溢れ返る。彼は水を受け取ると小さく頷き、スタンドのほうを見回した。すると、人混みの後ろにいた綾は、彼が自分の方を見て一瞬だけ足を止めたような気がしたが、気のせいかもしれないと思った。ついに、健吾の圧倒的な存在感で、あまりにも騒がしく込み合う会場に息苦しさを覚え、綾は先に外に出て、湊を探しに行った。「湊、お昼は食堂に行こう」湊は腕時計を見て言った。「食堂は混むだろう。外で食べよう。この前送ってくれた友達を呼んだらどうだ?お礼を言ういい機会だ」綾は少し考えてから答えた。「連絡してみる」そう言って彼女は少し離れた場所へ行き、健吾に電話をかけたが、呼び出し音は鳴り終わっても電話は繋がらなかった。きっと健吾は立て込んでいるから、スマホが手元にないのだろうと綾は思った。湊に諦めようと言おうとした時、着信があった。綾はすぐに出た。「青木くん、昼ご飯、一緒にどう?」続けて付け加えた。「湊がご馳走してくれるって」送ってもらったお礼だとはあえて言わなかった。健吾のことだから、「何度乗せたと思ってんだ。一食分だけか?」と毒づくに決まっているからだ。この時も綾はそんな誘いを健吾はどうせ断るだろう、と踏んだ。ところが、返ってきた答えは、「いいよ。今からそっちに行くから、どこにいる?」という即答だった。「私たちのクラスの席にいる」と綾はそう答えた。「すぐ行く」電話が切れ、綾は湊のところへ戻った。「すぐに来るって。ご馳走してくれてありがとうとも言っていたよ」湊は微笑んだ。「礼儀正しい子だな」「……」綾は言葉を失った。数分後、健吾が小走りで駆け寄ってきた。彼は湊に向かって微笑み、「こんにちは」と言った。綾はあんぐりと口を開けた。これは本当にあの健吾なの?湊には礼儀正しいのに、どうして自分には皮肉ばかり言うんだろう。一方、湊は頷いた。「こんにちは」それから、湊が予約していたレストランは学校のすぐそばだったので、3人で歩いて向かった。店に入ると、湊は店員を呼び、真っ先に健吾へメニューを差し出した。「君は留学生ですか?」「ハーフなんです。父は東都で働いています」健吾がそう説明すると、「お腹が空いていて……多め
綾は健吾が担任と話をしたいのだろうと察し、ペンを置いて担任に一言声をかけてから立ち去ろうとした。健吾のそばを通る際に彼女は何げなく「おはよう」と言った。健吾は低く「ん」とだけ返し、彼女の後ろ姿が遠ざかるのを見届けてから、担任のデスクの前へと歩み寄った。担任から体育祭の人員配置と用具の統括を任された健吾は、手元のエントリーシートに視線を落とした。女子50メートル自由形の欄には、「中野綾」という文字がまだ乾ききっていない真新しいインクで書かれていた。そこで、担任が「青木くん、あなたは本当に何も出ないのか?」と残念そうに尋ねた。健吾は少し考え、ペンを取るとエントリーシートの空欄に自分の名前を書き込んだ。体育祭当日は天気に恵まれ、グラウンドには真っ赤な横断幕が掲げられ、スピーカーからは軽快な音楽が流れていた。各クラスはグラウンド脇に並ぶそれぞれの応援テントに陣取り、色とりどりのクラスTシャツを着た生徒たちで応援席はぎっしりと埋め尽くされていた。綾の競技は午後からだったので、午前中は応援席でミネラルウォーターを握りしめながら、時折、保護者席の方を気にしていた。綾は午後から出場するとはいえ、湊は朝から彼女に付き添って学校に来ていた。そこで、校内放送で次の競技がアナウンスされた。「男子個人戦フェンシング、参加者は学校のフェンシング館に集合してください」うつむいてペットボトルのキャップを回していた綾の指先が、「フェンシング」という言葉を耳にした瞬間、ぴたりと止まった。隣にいた女子生徒が綾の肩をちょんとつついて促した。「行こうよ!フェンシング場なら間近で見られるんだって。うちのクラスからは誰も出てないみたいだけど、砲丸投げ見てるよりずっと面白いじゃん」こうして誘われるまま彼女は学校のフェンシング館へ向かった。学校の施設は簡素なものだったが必要な設備は揃っていた。校内でフェンシングができる生徒は限られているため、普段はあまり使われず、他の目的で使用されることが多かった。館内には人だかりができている。選手たちは既に防具を身に着け、マスクを着けて準備運動をしており、顔は見えなかった。だが綾はすぐに健吾を見つけた。左から3番目のコースで、姿勢を正し、左手は自然に下ろし、右手で剣を持って地面を軽く突いていた。その姿は他の選手の張り詰め
「私は無理よ」綾は肩をすくめた。「競技となると緊張してしまうし、うまく泳げないとクラスの足を引っ張ってしまう。泳ぎが得意な人が出た方がいいわよ」湊は箸を置き、ふっと視線を上げて綾を見つめると、穏やかな声で語りかけた。「体育祭なんてさ、参加することにこそ意義があるんだよ。俺だって高校の頃は、水泳とテニスに申し込んだことがある」綾は声を弾ませた。「覚えてる!あなたはメダルを持って帰ってきたよね。テニスが2位で、水泳が1位だったはず」湊は少し笑った。「順位は関係ない。大切なのは、お前が挑戦しようとする気持ちだよ」結局、綾はご飯を最後まで平らげるまで悩んでも、やはり迷っていた。彼女は健吾が自分を「弱くて卑屈な人間」と評したことを思い出した。その言葉は、まさに的確なのだ。現に、申し込みたいと思いつつ、自分には無理だと思い込んでいるのだ。「湊、私……人の前で自分を見せるのが怖いの」湊はしばらく彼女を見つめたあと、突然問いかけた。「体育祭はいつなんだ?」「来週の木曜日、金曜日、土曜日」「その間、ちょうど予定が空いているんだ。お前が水泳の競技にでるなら、見に行くよ」綾は躊躇した。「でも……」「俺への誕生日プレゼントだと思えばいい。来週が誕生日なんだけど、まだ用意してないだろう?体育祭に出てくれることが、何よりの贈り物だよ」湊はソファの背にもたれかかり、軽い口調でそう言った。「綾、人生において失敗は許されるものだ。たかが高校の体育祭じゃないか。万が一最下位になっても、どうってことないさ。逆に、勇気を出して参加することは、お前にとって人生を大きく踏み出す一歩になる。当たって砕けろの気持ちで試してみないか?」彼は真剣な眼差しで綾を見つめて言った。「綾、全力を出すんだ。最下位になったっていいとそう思えばいいさ」そう言ったが、綾の泳ぎは自分が教えたものだ。湊には綾の腕前なら、上位に入ることは間違いないという確信はあった。だが、綾にプレッシャーは与えたくなかった。ただ少しだけ、勇気を持って自分に自信を持ってほしかったのだ。湊の言葉に、綾は反論できなかった。彼の誕生日が来週であることは事実で、週末にでも何か買おうと思っていた矢先だった。だが、そんなふうに言われては断るわけにはいかなくなった。それに湊の言う通り、た
中野邸が近づいてきた頃、健吾が口を開いた。「なぜ大森に断ったんだ?」「今は恋愛してる場合じゃないもん」綾は即答した。それを聞いて、健吾の目にわずかな落胆がよぎった。「その理由だけか?」綾は首を振る。「それだけじゃないよ」その言葉に健吾の目はまたキラリと輝いた。「じゃあ、他に理由があるのか?」なぜこの答えに固執しているのか健吾自身もわからなかったが、弘幸の最後の言葉が、頭から離れなかったのだ。「大森くんに対してそういう気持ちはないし。ずっと友達だと思ってるから」「友達」という言葉を口にすると、綾の声が自然と低くなった。健吾は一瞬動きを止めたが、すぐさま自嘲気味の笑みを浮かべた。「そうだな。お前には勉強が一番だ」それは何とも言えない変な言い方だった。だけど、綾にはその違和感がどこからきたのかがわからなかった。そんな会話をしているうちに中野邸に着いた。マイバッハが静かに停車すると、綾は玄関で待つ湊の姿を見かけた。「青木くん、先に帰るね。じゃあね」足早に告げると、綾は車のドアを開けて飛び出し、湊の方へ駆けていった。「湊!」湊はニコニコしながら綾を迎えると、彼女が背負っていたカバンを受け取った。一方、バックミラー越しに仲睦まじい二人を見ていた健吾はわずかな笑みを浮かべた。中野家が綾を大切にしているのは確かだが、過保護すぎる気もした。もう高校生だというのに、中野家の人間はまだ彼女を幼い子供のように扱っているのだ。家に入ると、湊はカバンを置いてスリッパを出し、綾の目の前でしゃがみこんだ。綾は慌てて止めた。「湊、自分でできるよ」「いいから動かないで」湊は逃げようとした綾の足首をしっかり握り、丁寧にスリッパを履かせた。華奢な綾の足首は、彼の大きな片手ですっぽりと掴みきれてしまうほど細かった。運動好きのおかげで、ふくらはぎには程よい筋肉がついている。履き替えると、湊は立ち上がって聞いた。「さっき送ってきたのは誰だ?」ドアが開いた際、後部座席には金髪と青い瞳を持つ少年が座っているのが見えたのだ。綾は正直に答えた。「国際クラスのクラスメートだよ。家が同じ方向だから、ついでに乗せてくれただけ」湊は眉をひそめる。「うちにも運転手がいるだろ。これからは送り迎えをしてもらうといい」国際ク