ログイン恩返しのため、中野綾(なかの あや)は初恋の人を捨て、足が不自由なはずの中野湊(なかの みなと)に嫁いだ。 結婚して5年。湊は綾の夫であり、幼い頃からの大切な人でもある。そして、彼女にとって、かけがえのない存在だった。 綾は湊の従順で物分かりのいい妻であり、車椅子の後ろから決して離れない影のような存在だった。 息子を連れて帰国した元婚約者を、どんなにえこひいきしようとも、綾が自分のもとを去ることはないと、湊は確信していた。 だが湊は知らなかった。綾の心には、もう恩義しか残っておらず、愛情はひとかけらもなかったことを。 しかし、真実が明らかになった日、綾はためらうことなく離婚協議書を突きつけた。それに湊は、ひどく慌てふためいた。 湊は目を真っ赤にし、狂ったように綾を離そうとしなかった。 綾は、しっかりと立つ湊の両足を見て、心の底から冷え切っていくのを感じた。 5年間も騙され、愛する人を失ったのだ。許すことなんて、絶対にできない。 かつてあれほど誇り高かった男は片膝をつき、充血した目で訴える。「綾、俺にはお前しかいないんだ」 綾は表情一つ変えず、湊を哀れに思う気持ちは、もうまったくなかった。 綾は愛する人の隣に立ち、まっすぐな瞳で言った。「でも私には、あなただけじゃないのよ、湊」 その人こそ、誰もがこぞって取り入ろうとする謎の大物。綾が少女だった頃の憧れであり、忘れられない初恋の人だった。 I国とのハーフであるその優雅な貴公子は、何も言わずに、ただ綾の指に破格のダイヤモンドの指輪をはめるだけだった。 彼は、この日を、丸5年も待ち続けていたのだ。 そう、これは本来、5年前に綾が手に入れるはずのものだった。
もっと見る……綾はだんだん酔ってきて、語り始めた。「私、小さいころから湊と一緒だったの。もう十何年もよ。好きという気持ちはなくても、家族みたいな情はあった。湊は、私に後ろ盾がないと思って甘く見てるのよ。もし親が生きてて、20代の私がこんな風にしてるのを見たら、どれだけ悲しむでしょか。私が臆病なのは認めるわ。失うのが怖かった。でも……」綾は鼻をすすり、お酒をぐいっとあおった。「だって私には何もないもの。生きていくためには、何かにすがりつかないといけないでしょ?」綾は顔を上げた。涙で潤んだ瞳は、酔いのせいかどこかぼんやりしている。「湊のおばあさんとの約束があったから、湊の面倒を見るのが、私の責任になった。颯太さん、親がいない子ってね、1日生きるごとに、誰かへの借りが1日分増えていくようなものなのよ」本来は両親だけに感謝していればよかった。でも両親がいなくなり、他の優しい人たちが親の代わりになってくれた。その人たちへの恩は、親への恩よりもずっと重いの。親には甘えられるけど、他の人にはそうはいかないじゃない?颯太はティッシュを二枚取って綾に渡し、「これからは、俺が味方だから」と言った。「うん。今日、湊を私の身内リストから外す。まあ、リストには湊一人しかいなかったんだけど」綾は酒瓶を持ち上げて、乾杯のポーズをした。「これからは、颯太さんが、私が選んだ初めての家族よ」湊はへらへらと子供のように笑い、お酒を飲み干した。颯太はグラスを少し持ち上げ、一口だけ口をつけた。自分の知っている綾は、物静かで穏やかな子だった。学生時代、一番前の席に座っているようなタイプだ。それが酔っぱらうと泣いたり罵ったりして、鼻水まで垂らしている。ボロボロだが、生き生きして見えるその顔が、たまらなく愛おしかった。「ありがとう、颯太さん。こうやって全部話したら、体が軽くなったみたいで、なんだか飛べそうね」綾はテーブルに手をついて立ち上がると、ふらふらと外へ歩き出した。「もう帰るから。送らなくていいよ」……颯太は綾の後ろについていき、彼女が無事に寮へ戻るのを見届けてから、ようやく安心した。翌日、綾は電話の音で目を覚ました。「今どこだ?井上を迎えに行かせる」湊の声で綾は一気に目が覚め、パーティーのことを思い出した。「
以前の綾は、いつも湊のことが心配だった。湊が彼自身を追い詰めてしまうんじゃないかって。でも、今朝、凪が彼の部屋から出てくるのを見て、はっとした。ずっと自分を苦しめていたのは、こっちだったんだって。いつも一人ぼっちだったのはこっちだ。最後の砦を守っていたのもこっちだ。何度も我慢してきたのだって、こっちだった。それなのに、自分は人としての最低限の尊厳さえ、踏みにじられていた。湊は、綾の目が赤くなっているのに気づいて、驚いたように説明した。「凪とは何もない。海斗のそばにいただけだ。朝、俺の部屋に来たのは、はちみつ湯を持ってきただけだよ」湊は、綾がこんなことを気にするなんて、思ってもみなかった。今まで一度も、そんな素振りを見せなかったから。綾が隣で寝ていても手を出さずに我慢できたんだ。凪なんかに、気持ちが動くはずがない。「お正月が明けたら、あの二人には出て行ってもらう。だから、もう少し時間をくれないか」湊は怒るどころか、むしろ予想外のことなほど機嫌が良さそうだった。綾が自分に怒りをぶつけてくれるのが、嬉しかった。そうすることで初めて、綾の中で自分が存在していることを実感できるからだ。今までの綾は従順だったけど、自分に対してあまりにも淡白だった。まるで、ガラス越しに向き合っているみたいに。そこにあるのは形式ばった優しさだけで、愛情の温もりは伝わってこなかった。綾は、自分に触れようと伸ばされた湊の手を避けた。そして、信じられないものを見るような目で、目の前の男を見つめた。自分はこんなに訴えているのに、湊はなんと笑っているのだ。こっちは真剣に夫婦のあり方を問いただしているのに、湊はまるでドラマのワンシーンみたいに、余裕の笑みを浮かべている。綾は、あまりのことに言葉を失った。「私が出ていくか、あの二人を今すぐ追い出すか。湊、どっちか選んで」綾は固い表情のまま、湊をまっすぐに見つめた。心の中では、答えはもう決まっていた。だから、何も心配はしていなかった。案の定、湊はしばらく黙り込んだ後、疲れたように言った。「あの親子が落ち着く場所を見つけたら、迎えに行くから」綾は一歩下がり、スーツケースを引いて、迷わず背を向けた。玄関のドアを開けた瞬間、冷たい風が頬をなでた。まるで、心の中にずっと溜まっていた淀ん
【コーヒーでもどうだ?】健吾からのメッセージが来た。綾は、指を滑らかな髪の中に差し込み、いらだたしげにかきむしった。健吾からの誘いがろくなことにならないと分かっていた。それに、彼とはもう個人的な関わりを持つべきじゃない。帰国前夜、洋館での出来事を思い出すと、今でも怖くなる。ある偉人はこう言った。「人の欲望は、その人の運命を予言する」と。もしこの欲望に身を任せたら、自分の運命は地獄に落ちるに決まっている。【年末までのプロジェクトで私の担当はもうないから】綾は、やんわりと断った。健吾はすぐに返信した。【個人的に誘っている】【ごめんなさい。個人的に会うのは、ちょっと】綾はビアンカを思い出した。自分がされて嫌なことは、人にしてはいけない。このまま高鳴る胸の衝動に身を任せていたら、凪と何が違うというのだろう?【中野のせいか?】【いいえ。私自身が、あなたに会いたくないの】この言葉を送るのに、綾は全身の力を振り絞った。会いたくないだと?健吾はスマホの画面に映る短い一文をじっと見つめ、自嘲気味に鼻で笑った。そうだ、忘れかけていた。あの日、綾がどれほど冷酷に自分の元を去っていったのかを。綾は、湊とは一番お互いを理解していて、一番お似合いの二人だと言った。自分の見た目がまあまあだから、遊びで付き合っただけだとも言った。そして、一度も愛したことはないと。健吾はタバコに火をつけた。5年前、綾と別れてから、タバコを吸うようになった。その後、一度はやめられた。しかしタバコへの依存が消えたと思ったら、今度は綾への依存が静かにぶり返してきたのだ。そして、馬鹿な決断をした。東都へ戻るという決断を。タバコはやめられても、綾への想いだけはやめられない。胸をかきむしるように苦しい。健吾は引き出しから、綾が描いた一枚の絵を取り出し、ゆっくりとタバコの火に近づけた。絵の中の少年は、少しずつ灰になっていった。健吾はUSBメモリを引き出しに放り込んだ。「マルス、屋敷でパーティーを開く」「健吾様、これは何か強制的な政治活動なのですか?」マルスは自分の耳を疑った。健吾は「もてなし好き」という言葉とは全く無縁の人間だったからだ。健吾とは一緒に育ってきたが、マルスが何かの集まりに熱心なところは一度も見たこと
綾は、自分たちの会話に聞き耳を立てている海斗をちらりと見て、「どうかしてる」と悪態をつき、足早にリビングを後にした。凪は5年前に会った時よりも、さらにどうかしている。こんな女に毎日狙われているなんて、まるで時限爆弾を抱えているようだ。翌日、出勤した綾は設計図を手に研究所にこもり、護身用のアイテム作りに没頭した。作るの自体はそう難しくない。市販の強力なストロボと超音波を組み合わせ、GPS機能と防犯ブザーを取り付けるだけだ。危険な目に遭った時、逃げられる確率を上げてくれるはずだ。それから、数日後の深夜、湊が帰ってきた。その顔色の悪さを見て、綾は思わず息を呑んだ。あれだけの人数を連れて行ったのだから、普通はここまで疲れるはずがないのに。「湊、大丈夫?」湊は眉間を揉みながら、「なんでもない。ちょっと疲れただけだ」と答えた。海斗が湊の手を引っ張った。「中野おじさん、一緒に寝ようよ」湊は海斗の頬に触れた。「いい子だから、先に寝てなさい。今夜は2階のゲストルームに泊まるから。明日の朝、お土産をあげるよ」海斗は唇をとがらせた。「でも、一緒に寝たい」「海斗が寝付くまでそばにいてやるから。な?」湊は海斗を抱き上げ、部屋まで連れて行った。綾はベッドに横になりながら、心配でたまらなかった。湊のことはもう気にしないと自分に言い聞かせても、どうしても彼のことが気になってしまう。翌朝早く、目を覚ました綾は、2階のゲストルームからネグリジェを着た凪が出てくるのを目にした。なるほど。湊は一人で抱え込んでいたのではなく、打ち明ける相手がちゃんといたということか。わざわざゲストルームで寝たのも、海斗に気付かれないようにするためだったんだ。綾は吹っ切れたように笑った。気分は晴れやかではなかったけれど、そこまで重くもなく、ただ、なんの感情も湧かなかった。人生とは、とかくおかしな方向へ転がっていくものだ。もう、そんなことには驚かなくなった。凪は肩ひもを直し、綾とすれ違いざまに、ふんと鼻を鳴らした。昼近くになって、綾が書斎で文献を調べていると、湊が小包を持って入ってきた。「年明けの手土産だ」「ありがとう」綾はそれを受け取った。中身は、甘ったるい香りの香水だった。綾は普段ほとんど香水をつけないし、たまにつけると
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