All Chapters of 初恋と付き合ったら、車椅子の元夫が立ち上がった: Chapter 1 - Chapter 10

15 Chapters

第1話

「あなたの元婚約者とやり直したいなら、私は邪魔しないわ」中野綾(なかの あや)は両手を固く握りしめた。長いまつ毛を伏せて、車椅子に座る男を見つめる。その言葉を聞いた途端、男の憂鬱そうな瞳はぞっとするほど冷たく凍りついた。「俺と結婚したこと、後悔してるのか?」綾はためらうことなく答えた。「後悔なんてしてない。おばあさんには育ててもらった恩があるから」「俺と結婚したのは、恩返しか?それとも同情か?」中野湊(なかの みなと)はつり目で、鋭い視線を向けた。その整った顔には、深い怒りの色が浮かんでいた。車椅子に座っているのに、とてつもない威圧感が放たれていた。湊に見つめられ、綾は心の中がざわついて、いたたまれなくなった。唇を噛んで、思わず俯いてしまう。5年前の交通事故で、湊は両足が動かなくなった。当時、湊には婚約者がいて、綾にも付き合っている人がいた。湊の婚約者の家から婚約を破棄された後、不治の病を患っていた湊の祖母である中野和子(なかの かずこ)が綾に湊と結婚してほしいと頼み込んできたのだ。綾に選択肢はなかった。8歳の時に両親を亡くし、路頭に迷っていた綾を救い、家族として迎えてくれたのが、両親の恩師である和子だったからだ。結婚式を挙げた後、和子は安心して旅立った。この結婚を承諾したのは、確かに恩返しのためだった。でも、5年間一緒に暮らすうちに、綾は湊のいる生活に慣れ、彼に頼るようになっていた。湊がこの世で唯一の家族で、唯一の拠り所だった。このまま一生を終えるのも悪くない、そう思っていた。しかし1週間前、湊の元婚約者である二宮凪(にのみや なぎ)が、4歳くらいの男の子を連れて帰国した。男の子は中野家特有の白い肌、彫りの深い目元、そして血色の良い薄い唇をしていた。少しぽっちゃりしているけれど、その雰囲気は中野家の兄弟にそっくりだった。長男の中野誠(なかの まこと)と妻は結婚して8年、夫婦仲は円満だ。弟の元婚約者と不倫するなんてありえない。だから、この子は、湊の子供としか考えられなかった。「あの子供は、どうするの?」と綾は尋ねた。「俺がなんとかする」湊は明らかにこの話を続けたくなさそうで、玄関に立っている使用人の山下幸子(やました さちこ)に目をやった。「どうかしたか?」「
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第2話

綾が湊に初めてはっきりと要求を突きつけた。長い沈黙の後、暗闇の中から男の低い声が聞こえてきた。「もう少し待ってくれ。足が治るまで」綾の喉は渇き、夢うつつに呟いた。「こっちが動いても構わないわ」もう5年も待った。これ以上、さらに5年も待てない。湊は起き上がり、綾を後ろから抱きしめた。温かい吐息が首筋にかかる。「綾、時間はまだある。俺たちの初めては、完璧なものにしたいんだ」綾は力なく笑った。こうなることは分かっていた。湊はずる賢い。その足の怪我は、自分にとって「免罪符」のようなものだった。湊は、こう言えば自分は何もできないと分かっていた。「海斗くんのことはどうするの?あの子をずっと隠し子にしておくつもり?」綾は凪のことは好きではなかったが、子供に罪はない。綾は8歳で両親を亡くし、親戚の家をたらい回しにされた半年間、冷たくあしらわれ、疎まれてきた。その後、中野家の屋敷に引き取られ、和子に育てられたおかげで、何不自由ない生活を送ることができた。それでも、両親に会いたいという気持ちは消えず、自分の家庭を持つことに憧れていた。後ろから抱きしめていた腕が離れ、湊はゆっくりとベッドに横たわった。口は開かないままだ。どろりとした闇が沼のように、二人を飲み込んでいく。綾は身じろぎもせず言った。「湊、離婚しよう。そうすれば、あなたはちゃんとした家庭が手に入るわ」湊でなければダメなわけではない。むしろ、心の奥底では、早く離れたいと叫んでいたのかもしれない。湊のそばで完璧な妻を演じる自分は、結局、本当の自分ではなかった。離婚しても、身内として和子への約束は果たし続けられる。後ろから冷たい笑い声が聞こえ、部屋中に寒気が広がった。「綾、お前ごときが俺の俺の人生をどうこうできると思うな。覚えておけ。俺が欲しいのは、お前がいる家庭だけだ」湊の口調は落ち着いていたが、綾は背筋が凍るのを感じた。まるで暗闇の中から野獣が、独占欲むき出しの目で自分を所有物かのように見つめているみたいだった。こんな湊は、知らない。「湊!」ドアの外から凪の焦った声が突然聞こえ、綾はびくりと体を震わせた。凪の声を聞いて、嬉しいと思ったのは初めてだった。「凪、どうした?」湊の声はかすれていて、どこか甘く聞こえた。
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第3話

面接会場に着いた綾は、思わず気が引けてしまった。念花グループは多くの傘下企業を抱えている。綾が面接を受けるのは、グループの主力事業であるバイオ・インテリジェント・メカニクス関連の部署だ。卒業後もずっとこの業界に注目し、勉強を続け、国際的な学術雑誌に論文を発表したこともある。しかし、やはり実務経験はなかった。湊の世話で5年も家にこもっていたせいで、社会から完全に孤立していたのだ。親友の後藤明里(ごとう あかり)の紹介がなければ、面接の機会すら得られなかっただろう。面接では、担当者が履歴書に目を通した後、いくつか専門的な質問をした。綾は我ながらうまく答えられたと思った。でも、面接官は相変わらず気にも留めないという表情を崩さない。「中野さん、あなたの専門知識が豊富なことは間違いありません。しかし、5年間のブランクがあり、実務経験がまったくないのでは、当社のニーズを満たすのは難しいでしょう。なにしろエリートを求めていますので」「チャンスをいただけませんか。1ヶ月の試用期間で結構です。その間の給料は要りません」綾は簡単にあきらめたくなかった。長い目でキャリアを考えれば、念花グループは最高の選択肢なのだ。「中野さん、うちの会社で無給でも働きたいという人は大勢いるんですよ。あなたの総合的な条件が、彼らより優れているとは言えませんね」面接官は履歴書を置いた。彼から見れば、目の前の女性はせいぜい見た目がいいだけのガリ勉だ。その実力は念花の求めるレベルには程遠い。「面接は以上です。本日はお越しいただき、ありがとうございました」面接官の冷たい背中を見ながら、綾は肩をすくめ、部屋を退出するしかなかった。少し落ち込んだけれど、気落ちしてはいなかった。念花は業界トップの会社だ。入れなくても当たり前だ。明里が言っていた。就職活動はまず一番いい会社から始めて、ダメだったら次を考えればいい、と。【明里、念花とはご縁がなかったみたい、泣】エレベーターの中で明里にラインを送った綾は、うつむいて外に出た。その時、隣の来賓専用エレベーターに、目を引く金茶色の髪が一瞬映ったのが見えた。思わずそちらを見たが、すでにドアは閉まっていた。気のせいだと思った綾は、上の空で外へ向かった。履歴書のコピーを落としたことにも気づかなかった。後
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第4話

湊と凪親子は外で夕食を済ませてから帰ってきた。綾は一人で食事をするのが好きではないので、幸子に付き合ってもらった。湊は綾の手に巻かれたガーゼに気づいた。「その手、どうしたんだ?」「午前中に海斗くんに噛まれたの」綾は隠す必要はないと思った。子供のしつけをするのは、実の父親である湊の責任だ。「湊、海斗は普段はこんな子じゃないの」凪はそう言って海斗の背中を押した。「ほら、謝りなさい」海斗は凪の足にしがみついて離さず、わめくように言った。「中野おばさんが僕の水鉄砲を捨てたんだ!それに、叩いたんだもん。怖かったから噛み付いただけだ!」「黙りなさい!ここは中野おばさんのお家なの。言うことを聞かないと、追い出されるわよ!」なんとも含みのある言い方だ。5年ぶりに会ったけど、凪は少しも変わっていない。綾は心の中で呆れてため息をついた。「まだ子供なんだ。そんなに怖がらせるな」湊は今度は綾の方を見て、懇願するような目を向けた。「綾、海斗は俺の子だ。わんぱくなのは俺に似たんだよ。もう少しこの子に優しくしてやってくれないか」凪もそれに合わせた。「綾、海斗の代わりに謝るわ。ごめんなさい」誰が見ても、彼らが親子3人のように見えるだろう、と綾は思った。親が二人ともしつけをしないのなら、こっちが口出ししても無駄だろう。でも、この手の噛み傷を、このまま許すわけにはいかない。「大丈夫よ。私の夫が、ちゃんと埋め合わせをしてくれるから」綾は手のガーゼを外し、湊の前にその手を突き出した。「ほら、見て」湊は眉をひそめ、顔を曇らせた。4、5歳の子供の力なんてたいしたことないから、噛まれたくらいでどうってことないと思っていた。しかし、綾の手は皮膚が裂けて肉が見えていた。白い肌についた二列の深い歯型は痛々しく、見ているだけで辛かった。「どんな埋め合わせが欲しい?何でも言え」「家が一軒欲しいわ」綾が自ら湊に何かをねだったのは、これが初めてだった。彼女には自分名義の家がなかったのだ。両親が遺してくれた家は、子供の頃に親戚に騙されて売られてしまった。お金も綾の手には一円も入らなかった。「わかった。好きなのを選べ」湊はためらうことなく、即座に承諾した。綾は嫌な思いをしたのだ。家の一軒でもプレゼントして機嫌を取る
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第5話

仕事が終わり、綾は親友の明里と夕食の約束をしていた。二人は2週間も会っていなかったので、話したいことがたくさんあった。「本当に湊と離婚するって決めたの?」明里と綾は幼馴染で、綾のことは何でも知っていた。「凪親子まで家に住み着いてるのに、これで離婚しなかったら、私、この家で何の存在なの?」明里はクスっと笑った。「その子供のおばさんってとこかしら?」綾が怒りそうになるのを見て、明里は慌てて折れた。「離婚して正解よ。とっくにそうすべきだったんだから。結婚して5年にもなるのに、まだ処女なんてありえないでしょ?お隣のご主人が寝たきりのお宅だって、その奥さん、二人目がお腹にいるのよ。湊は何を気取ってるわけ?まさか、二宮さんのために操でも立ててるつもり?」綾は黙っていた。湊がもう凪の部屋で寝ていることは、言えなかった。あまりにも惨めで、口にはできなかったのだ。「もう好きにさせてる。どうせ今更、私だって湊を受け入れられないし」自分の中で、湊はもう汚れてしまっていた。体だけじゃなくて、心も。汚れたものは、いらない。明里は安心したような顔をした。「それでこそ私の知ってる綾よ。湊も、離婚には同意してくれるでしょ?」「同意してくれない」ドン。明里が持っていたコップが、テーブルに強く叩きつけられた。木製でよかった。「湊って、もしかして変人?それに、いつの時代の人よ?」綾はティッシュを抜き取り、顔に飛び散った水滴を拭いてから、テーブルの上を拭いた。「明里、もう少し静かにして。別に、人に自慢できるような話じゃないんだから」落ち着いてテーブルを拭く綾を見て、明里はますます腹が立ってきた。「湊は、あなたが何でも言うことを聞くから、こうやってあなたにつけこんでるのよ」綾は結婚指輪を回した。「おばあさんと、約束したの」指輪は、和子が嫁入り道具として実家から持ってきたもので、とても価値のある骨董品だった。それを5年前、綾にくれたのだ。綾にとって、この指輪は和子との思い出の品であって、結婚とは関係なかった。明里はため息をついた。怒りは諦めに変わっていた。17年前の寒い冬。まだ小さかった綾は親戚に道端に捨てられ、凍え死にそうになっていた。そんな彼女を家に連れて帰ったのが、和子だった。和子は、綾に
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第6話

「彼女は、俺の辛さを分かってくれるはずだ」階段を上がってきた綾は、そんな言葉を耳にした。家の中で湊が夜更けに本音で話せる相手なんて、凪しかいない。湊が言う「彼女」とは、間違いなく自分のことだろう。湊に、一体どんな辛さがあるっていうの?理解できなかったし、理解したいとも思わなかった。綾はドアノブにかかっていた手を引っ込め、くるりと背を向けて階段を下りた。立ち聞きするつもりはなかったし、中に入って二人の邪魔をする気にもなれなかった。翌日、綾はいつも通り早く家を出て出勤したが、通勤ラッシュの渋滞は本当にいらいらする。でも、家のあのめちゃくちゃな状況を思うと、あちこちから聞こえるクラクションの音さえ心地よく感じられた。海斗の泣き声なんかより、ずっとましだ。オフィスに着くと、細いフレームの眼鏡をかけた中年男性が社長室から出てくるところだった。男は仕立ての良い黒いベストと同色のネクタイを締め、白いシャツには金のカフスを付けていた。腕時計も同じ色合いのシャンパンゴールドだ。体型はよく維持されていて、着こなしは清潔感があり洗練されている。まさに品格がある人だ。裕也が紹介した。「中野さん、こちらが社長です」綾は急いでお辞儀をして挨拶した。「はじめまして、中野と申します。よろしくお願いいたします」樹はうなずき、ゆっくりと階段を下りながら言った。「これから何かあったら遠慮なく俺に言ってくれ。いつでも頼ってくれていいから」その立ち居振る舞いは、物腰が柔らかく、とても上品だった。綾は、樹はビジネスマンというより、まるで昔の学者や貴族のように感じられた。「ありがとうございます、社長」樹の視線に気づいた綾は、不思議に思って見返した。見れば見るほど、どこかで会ったことがあるような気がした。でも、こんなにすごい人と知り合いのはずがない、と綾は確信していた。オフィスにいる誰もがパソコンの陰からこっそり様子を窺い、目配せを交わしている。社長があんなに親しげに人に接するのを、皆初めて見たからだ。樹は視線を外し、大股で外へ歩き出すと、裕也と他の3人の秘書が後に続いた。裕也は綾に手招きし、ついてくるように合図した。綾はノートパソコンを手に取り、早足で彼らを追いかけた。エレベーターで数階下り、裕也は樹と共に広
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第7話

凪の声で、綾は彼女と湊がいることに気がついた。湊は普段こういう場所には来ない。気に入った品があっても、秘書に代理で落札させていたからだ。今夜ここにいるのは、きっと凪に付き添うためなのだろう。湊は淡々と口を開いた。「あれは綾が気に入ったものだ。お前は別のものにしろ」「『薔薇の心』のデザインは特別だわ。ジュエリー業界で働く私にとって、すごく勉強になるの。本当にこれが必要なのよ」凪は湊の膝にそっと手を置き、お願いした。「綾には、もっと素敵なものを買ってあげようよ。ね?」湊が答えるより先に、綾の凛とした声が後ろから響いた。「6000万!」凪はがっかりしたようにうつむいた。「綾にとって『薔薇の心』はただの綺麗なブローチかもしれないけど、私にとっては芸術品なのよ。湊、私が気に入ったものなら何でもくれるって言ったじゃない」湊は椅子の背にもたれかかり、平然と言った。「落札しろ」綾は宝石に興味がない。どうせ一時的な気まぐれだろう。もっと大きな宝石のものを買ってやれば済む話だ。それに比べて凪は、宝石についてよく勉強しているし、将来はジュエリー業界で働こうとしている。「6400万!」凪の目に勝ち誇ったような光が宿り、札を上げる声も自然と弾んでいた。「7000万!」綾は冷静に札を上げ、値段を吊り上げた。どうせ湊の口座から引き落とされる。これは夫婦の共有財産なのだから。凪が夫婦の共有財産を使おうというのだから、自分がためらう必要なんてない。「8000万!」「9000万!」……二人は一歩も譲らず、競うように値段を吊り上げていった。何度か値が吊り上がった後、綾は2億という高値を付けた。「湊、綾はどうしても私から奪い取りたいみたいね」凪は札を置き、まばゆく輝く「薔薇の心」を名残惜しそうに見つめた。「あなたのお金を無駄にするのは嫌だわ。あのブローチに2億の価値なんてないもの。綾に譲ってあげよう」湊は少し考えると、スタッフを呼び寄せ、何事か小声でささやいた。オークショニアは合図を受け取ると、急いでハンマーを打ち下ろすのをやめた。「まだ終わりではありません。さあ、他にはいらっしゃいませんか?」綾は緊張しながら会場の様子をうかがっていた。このまま誰も声を上げなければ、母の形見を取り戻せる
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第8話

「今、なんて言った?」凪は目を見開いて、信じられないという顔をした。まるで初めて綾という人間を知ったかのようだった。綾はただの居候で、か弱くて何もできないみなしごのくせに。どうしてそんな口がきけるわけ?そもそも自分が婚約を断らなければ、綾が社長夫人の座につくことなんてありえなかったのに。凪は怒りで顔を歪め、歯を食いしばって綾を睨みつけた。「あなたは湊のおばあさんが拾ってきた捨て犬みたいなもの。湊と結婚したって、ただの使用人と変わらないのよ。あなたに関わった人は、みんな不幸になる。あなたの親も、叔父も、湊のおばあさんも……」バチン。乾いた音が響き、凪の顔に強烈な平手打ちが叩き込まれた。黒いマイバッハが玄関に着くと、ちょうどその光景を目撃した湊は、秘書に車椅子を押させて車を降りた。「綾、気でも狂ったのか?」何があったかは分からない。でも、綾の一撃は、とても重そうだった。そこに込められた悪意は、いつもの綾とはまるで別人だった。凪は車椅子にすがりつくようにしゃがみ込み、湊の膝に顔をうずめて泣きじゃくった。「湊、頭が、クラクラする……私が悪いの。綾と『薔薇の心』を競り合ったりしたから……」「凪に競り落とすよう言ったのは俺だ。文句があるなら俺に言え!」湊はいらだたしげに言った。なぜ綾がこんなふうになってしまったのか、理解できなかった。だけど、綾の感情のない瞳に触れたとき、なぜか心がざわついた。なにか大切なものが、自分の中から剥がれ落ちて、どんどん遠ざかっていくようだった。湊は口調を和らげた。「この話はこれで終わりだ。もっと大きいルビーを二つ買ってやるから、もう騒ぐな」綾はとても穏やかな性格だ。人を叩くどころか、きつい言葉さえ口にしたことがない。今夜のことは、もしかしたら何か事情があるのかもしれない。でも、昔の綾なら、何でも自分に話してくれたはずだ。もしあのブローチがそんなに大切なら、どうして言ってくれなかったんだ?「ルビーはいらない。その代わりに、私の口座に4億、振り込んで」綾は平坦な口調で言って、ジンジンと痛む手を振った。人を叩くのは初めてで、勝手が分からなかった。スッキリはしたけど、本当に痛い。でも、「薔薇の心」のありかが分かったから、取り戻す望みはまだある。他の
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第9話

マイバッハの車内で、湊は唇を固く結び、その瞳には怒りの色が浮かんでいた。それに気づいた凪が尋ねた。「湊、あの男が言っていた社長って誰なの?綾はまだ世間知らずだから、ブローチひとつで男に騙されたりしないといいけど」「馬鹿なことを言うな。綾はそんな人じゃない」湊は窓の外に目をやった。窓ガラスには、暗い表情が映り込んでいる。綾はその男と話していて、心の底からの喜びで目を輝かせていた。凪の言葉をはねのけたものの、湊の頭には様々な疑念が渦巻き、いらだちは募るばかりだった。――綾はタクシーで家に戻ったが、まだ夢を見ているような気分だった。アルバムをめくり、母と樹が一緒に写っている写真を見つけた。それは一枚だけではなかった。中学から大学時代にかけての母の写真、その数枚に樹の姿があったのだ。綾は不思議に思った。母の親友にはみんな会ったことがあるのに、樹だけは会ったことがない。それに、父と母が樹の名前を口にした記憶もなかった。まあ、その頃はまだ子供だったから、忘れているだけかもしれない。綾はアクセサリーケースを枕元に置き、そっと片手で握りしめた。こんなに大切なもの、家に置いてはおけない。明里に預かってもらおう。綾はアクセサリーケースを撫でながら、心がじんわりと温かくなるのを感じた。この5年で、初めてこんなに素敵な夢を見ることができた。翌朝、綾が鼻歌まじりで階下に降りると、ダイニングで湊と顔を合わせた。わざと30分も早く起きたのに、湊の様子からすると、どうやら自分を待っていたらしい。「山下さん、オレンジジュースを」綾は湊から一番遠い席に座ると、彼の存在を完全に無視した。湊は綾の向かいに座り直した。「俺に何か言うことはないのか?」綾は少し考え、真剣な顔で尋ねた。「4億はいつ振り込んでもらえるの?」「お前にあの宝石を贈ったのは、誰だ?」湊は目を上げ、向かいに座る綾の若く美しい顔をじっと見つめた。綾が綺麗なことは知っていた。でも、子供の頃からの知り合いで、ずっと一緒に暮らしてきたから、特に意識したことはなかった。でも今、改めてよく見ると、ハッとするほど美しかった。そのちょっとした動きも、ずっと見ていられる気がした。綾は朝食に夢中で、湊の視線には気づかず、何気なく答えた。「母の友人よ」
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第10話

綾はドキッとして凪の方を向き、絵に手を伸ばそうとした。でも、その前に湊がひょいと取り上げてしまった。絵に描かれた人物を見ると、湊は冷たく笑った。「どうりで最近、俺に突っかかってくるわけだ。昔の男を思い出してたってことか」湊は、綾にハーフの元カレがいたことを知っていた。二人は中学からの知り合いで、同じ大学に進学して付き合い始めたのだ。でも、若さに任せた恋なんて、儚くて当てにならないものだ。もう5年も経ったのだから、綾はとっくにその男のことなど忘れていると思っていた。湊はA4用紙を力任せに丸めると、ゴミ箱に投げ捨てた。「今後、家の中で二度とその青い目を見たくない」綾はその絵を拾い上げた。そして、湊の目の前で丁寧にシワを伸ばすと、折りたたんでハンドバッグにしまった。「あなたの元婚約者がこの家に住んでるのに、私の元カレの絵がここにあっちゃいけないわけ?」綾の声は淡々としていた。でも、体は何とも言えない不快感に襲われていた。まるで、15、16歳の頃に飲んだレモネードが、胃の中で苦く酸っぱく発酵しているみたいだった。その言葉を聞いた湊の眼差しは、凍りつくように冷たくなった。ダイニングの空気は一気に重くなる。「それは違う、綾。俺を試すような真似はするな」綾は眉間にしわを寄せ、胸が一瞬痛んだ。湊はこんな陰険で偏屈な人ではなかったはずだ。綾は車を運転して家を出た。今日は土曜日で、仕事は休みだ。綾は明里に連絡を取り、「薔薇の心」を明里の家に届けに行くことにした。明里は広々としたマンションに住んでいた。猫を一匹、犬を二匹飼っていて、ペット専門の家政婦を雇っている。「ハルちゃん、ナツちゃん、アキちゃん、遊びに来たよー」綾は猫を撫で、二匹の犬の背中を掻いてあげた。ハルちゃんはクールで、大きなあくびを一つすると、窓際で毛づくろいを始めてしまった。綾が熱心に構おうとしても、完全に無視している。一方、ナツちゃんとアキちゃんは、しっぽを振って綾の周りを嬉しそうにくるくる回っている。明里は「薔薇の心」を金庫にしまい、時間を確認した。「今日の予定は?」綾は床に座り込み、左手でナツちゃんを、右手でアキちゃんを抱きしめた。「今夜、試合があるんだけど、観に来る?」「うそでしょ?結婚してから、そういう趣味は全部やめち
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