陽菜のもう半分の顔が、みるみるうちに腫れ上がった。彼女は気づいていた。今の修はもう人間の理性を失っている。何をどれだけ説明しても無駄だと。けれど、納得できなかった。こんなところで死ぬなんて、そんなの絶対に嫌だ。たった数回しか会ったことのない女のために、自分の命を捧げるなんて、馬鹿げてる。死の恐怖に晒されながら、どこから湧き出たのか分からない力が彼女を突き動かし、修の手から逃れ、取っ組み合いになった。陽菜も狂ったように彼の皮膚を引っ掻き、噛みつきながら絶叫する。「彼女は自殺よ!なんで私が道連れにされなきゃいけないのよ!?なんで!?勝手に絶望して、勝手に死んだんじゃない!私と関係ないでしょ!」「私はただ、事実をありのままに伝えただけ。私がいなきゃ、あの人は一生、あんたに騙されてたのよ!足を失って、人生が終わって、それでも浮気した夫に嘘をつかれ続けるなんて、悲惨すぎるじゃない!」「私は彼女を救ったのよ!?あんたの気持ち悪い嘘を聞かされながら生きるより、全部知って自分で道を決めた方がよっぽどマシよ!」一言一言が鋭い矢のように、修の心臓を突き刺していく。彼の頭の中は真っ白になり、陽菜の鋭い叫び声だけが響き続けた。そして、彼の手、彼女の身体を押さえつけていたその手から、力が抜けていった。断線したかのように、だらりと垂れ下がる。解放された陽菜は、自分の言葉が彼を確実に追い詰めたことを確信し、ますます勢いづく。「私が彼女を殺した?違う!瑠奈を殺したのは、あんたよ!」「彼女にとって、私はたった一度しか会ったことのない他人よ?でも毎日一緒に過ごして、同じ家にいたのはあんたでしょ?裏切ったのはあんたじゃない。あんたのせいで、彼女は絶望して死んだのよ!」「足を失ってまで愛した人に裏切られて、それでも信じようとしたのに、あんたはその信頼を踏みにじった。自殺した彼女もバカだった、ゴミクズのために命を絶つなんて。でもさ、お似合いじゃん、あんたら。壊れた人間同士で、地獄でも仲良くしなよ!」「あんたは私と関係持ちながら、罪悪感に縛られて生きてる。妻を死なせておいて、それを認める勇気もない。だから私を巻き添えにしようとしてる……それでも男?」「復讐したいなら勝手にしなよ。今ならまだ間に合うかもしれないよ。あの世で土下座でも
車内には、長い静寂が流れた。修は慌ててファスナーを閉め、火傷したようにカバンを後部座席へ放り投げた陽菜を見つめ、無言で手を伸ばし、車のロックとすべての窓をロックした。「見覚えあるか?」そう言ったときも、彼の口調は終始淡々としていた。まるでこれからの予定でも語っているかのように、他の感情は一切読み取れなかった。だが、陽菜の耳には、車のロック音だけが大きく響いた。彼女の体内の血が、まるで逆流を始めたように凍りついていく。外の冬風よりも冷たい寒気が、背中を這い上がり、頭の後ろまでじわじわと達していた。彼女は手を引き、身をすくめ、車のドア側に寄っていく。無理に笑みを浮かべながら言った。「修……どうしたの?目が痛いって言ってたじゃない……?」彼女がまだ何も知らないふりをしているのを見て、修もまた笑った。まるで彼女の無邪気な口調を真似るように。「そうだよ。これを見たから、目がすごく痛くなったんだ」「君はどう?これを見て、どこか痛くなった?目?心臓?それとも……別の場所かな?」その言い方と、まるで作り物のような笑顔が、陽菜の恐怖心を一気に掻き立てた。彼女はもう演じきれず、顔に明らかな恐怖の色を浮かべた。まるで目の前に亡霊でも現れたかのように。「わ、私、何もしてない!彼女は自殺したの!」修はもちろん知っている。瑠奈が自殺だったことなど、とっくに承知だ。だが、それで陽菜のしたことが帳消しになるわけではない。もし陽菜があんな卑劣な手段で瑠奈を追い詰めなければ、彼女の鬱は再発しただろうか。死を選ぶほど、追い込まれただろうか。彼が彼女の希望を断ち切った鎌だったとすれば、陽菜はその鎌を握っていた手だ。彼らは共犯だ。一緒に、ひとりの人間を死に追いやった。そして、それ相応の罰を受けるべきだ。命には、命で償う罰を。夜風は激しくなり、ここは郊外。窓の外では風の音がうねりを上げ、修の声に、不気味で陰鬱な響きをまとわせていた。「彼女には鬱病の既往があった。もう治ってたのに、十一月に突然再発した。本当に原因が思い当たらない?」陽菜は瑠奈に鬱病の過去があったことすら知らなかった。ただ、夫婦仲を裂き、自分が堂々と修のそばに立つためだけに、あのメッセージを送っただけだった。最初から、瑠奈を死なせるつも
陽菜は大きなスーツケースを引いて階下に降り、すでに車のそばで待っていた修の姿を見つけると、すぐに彼のもとへ飛びついた。「修!まだ怒ってると思ってたよ。この前は私が悪かった、ごめんね、あんなこと言って……許してくれて、ありがとう」彼女の髪から漂う濃厚な香りが修の鼻腔を刺激し、彼の胃はまたひどくかき乱されそうになった。それでも、彼は何も言わなかった。神経から伝わる不快感を無理やり抑え込み、一方の手でスーツケースを引き、もう一方で彼女の腰に腕を回し、車の方へとゆっくり歩き出した。陽菜は、彼の手が自分の腰にあるのを見て、こっそりと喜びをかみしめた。頬はほんのり赤く染まっている。知り合って五ヶ月、修が自分にこんなふうに触れてきたのは初めてだった。彼がようやく悲しみを乗り越え、自分と向き合おうとしていると感じた彼女は、弾んだ声で言った。「最近ちゃんとご飯食べてないでしょ?すごく痩せたよ。見てて心が痛む程に」修は小さく「ああ」と返しながら、トランクを開けた。陽菜はさらに何か言おうとしたが、視線の端に映った空っぽのトランクに気づき、少し驚いた様子で聞いた。「旅行に行くんでしょ?なのに修、何も持ってきてないじゃない」修はしばらく彼女を見つめ、それからぽつりと答えた。「君がいるから」陽菜は、その言葉を「今回の旅行はすべて君に任せる」という意味に受け取り、顔いっぱいに笑みを浮かべた。彼女は自分の荷物を一緒に積み込むと、彼の手を引いて車の前へと歩いた。「じゃあ、今回の旅行は全部私の言うとおりにしてもらうからね。ちゃんとご飯食べること、写真もいっぱい撮ってもらうし……」彼女が話し始めると、止まらなくなった。修はその話をほとんど黙って聞いていた。彼女が時々、冷たく感じて視線を向けてくるときだけ、ようやく一言二言を返す程度だった。そのうち、陽菜も彼の様子がどこかおかしいことに気づき、少し不安そうに尋ねた。「修……なんだか元気ないね?どうしたの、黙り込んで......」修はカーナビを一瞥し、淡々とした声で言った。「君の話、好きだから」この言葉は、以前にも何度か聞いたことがあるものだった。その一言で、陽菜はようやく安心し、また元気よく話し続けた。たくさん話して疲れたのか、彼女は水のボトルを取り出し、開
瑠奈の埋葬の日の朝早く、修は家を出た。彼は顔のひげを剃り、髪を短く切り、風呂に入ってから黒い服に着替えた。階下に降りると、片づけたゴミを捨て、ふと顔を上げて7階の青いカーテンがかかっている部屋を長いこと見上げた。朝の最初の陽光が昇る頃、彼はくるりと身を翻し、ポケットから鍵を取り出して、そこにつけてあったキーホルダーを外し、鍵を排水溝へと投げ捨てた。そのまま車庫に入り、車を出して南山へと向かった。瑠奈の墓がどこにあるのかは分からず、彼は山のふもとから一つひとつ探していった。中腹まで登ったところで、墓前で頭を下げている母の姿が目に入った時、全身から力が抜けたようになった。彼は額の汗を拭き、一歩一歩ゆっくりと歩み寄って、小さな声で「母さん」と呼んだ。だが堀尾母は彼に反応を見せなかった。しゃがんだまま、手に持っていた百合の花を墓前に供え、ハンカチを取り出して、墓石についた泥や埃を丹念に拭き取っていく。墓石がまるで新品のように綺麗になるまで拭き続けたあと、ようやく立ち上がり、彼の手元が何も持っていないのを見る。「何しに来たの」その声は冷たく、まるで通りすがりの見知らぬ人に話しかけているようだった。修は気にしなかった。母の姿を見たときから、彼の視線は一度も離れていなかったのだから。だが母は彼の顔を見なかった。今、彼の目にどれほど複雑な感情が渦巻いているか、知ることはなかった。彼は小さく息を吸い込み、胸に込み上げてくる苦しさを抑え、平然を装った。「母さんに会いに来た」「私はまだ死んでない」この場所で「死」という言葉を聞いたとたん、修は袖の中の手をピクリと震わせた。なんとか笑みを浮かべる。「そんなこと言わないでよ……母さんはきっと長生きして、元気に老いていくさ」その言葉を聞いて、ようやく堀尾母は彼の顔を一瞥した。顔には険しい表情を浮かべていた。「笑えることなの?……酒で頭やられた?」彼は正気だった。首を横に振り、墓碑の写真に目を向ける。「中には、何が入ってる?」「ブレスレットだよ」母の空っぽの手首を見て、修の脳裏に結婚式の日の情景が蘇った。半年かけて用意した結婚式が、盛大な花火の中で幕を開けた。彼は瑠奈を抱えて家に戻り、「ここが俺たちの新しい家だよ」と言った。
26枚の紙には、26件分の印刷されたメッセージ記録があった。白黒の写真に、長々とした文章が添えられており、それらが一度に修の目に飛び込んできた。そしてそのまま彼の脳裏に流れ込んで、長らく封じていた過去の記憶を次々と引きずり出していく。彼は一枚ずつ手に取り、まずは白黒の写真に目を通した。どの写真も見覚えのあるものだった。中には、長らく電源も入れていなかった彼のスマホの中に、原本が残っているものもあった。すべての写真を確認し終えたころ、彼はこめかみにじんわりとした痺れを感じ始めた。痛くはなかったが、その感覚が彼の意識を鮮明に戻してくれた。散らばった紙を拾い集め、ふらつきながらもなんとか立ち上がり、寝室に戻って灯りを点けた。そして部屋の隅に放り出されていたスマホを見つけ、充電ケーブルを差し込み、電源を入れた。待ち受け画面は瑠奈の写真だった。パスコードは、彼女の誕生日。ギャラリーに保存されていた瑠奈との写真は、わずか十数枚。しかもどれも9月以前のものばかりで、それ以降は一枚もなかった。なぜなら彼の視線は、別の人物に引き寄せられていたからだ。そしてそのレンズもまた、ただ一人の人物だけを捉えていた。撮った写真は彼自身の手で隠され、パスワードを入力しないと見られないようになっていた。そのパスワードは、陽菜の誕生日。数字を押し込むと、画面が瞬く間に切り替わり、数えきれないほどのサムネイルが次々と現れた。彼は延々とスクロールし続け、ようやく一番下まで辿り着いた。紙の上のぼやけた画像と見比べながら、修は該当する写真を次々と見つけていった。服装、撮影場所、背景の風景、どれも一致していた。これらの写真は陽菜が彼のスマホで撮ったもので、そこから彼女が気に入ったものを自分に送信した。残った分は、彼がそのままロックをかけて隠していたのだった。本来であれば、この写真を第三者が見ることはあり得ないはずだった。修には家庭があり、身体に障がいを抱えた妻もいたからだ。だから、故意であれ無意識であれ、このアルバムにある写真は決して外に漏れてはならなかった。だが彼が気付かぬうちに、それらの写真は、噂の中で「彼が心から愛していた」妻の手に渡っていた。瑠奈はそれらを印刷し、書斎に残した。いつか彼自身の手
このところ、堀尾母はずっと瑠奈のために墓地を探していた。遺骨すら残っていないとはいえ、彼女を孤独なままにしておくのは忍びなく、やはり土に還してあげるべきだと考えていた。何度も見て回り、ようやく南山の方にある陽当たりのいい区画を見つけ、購入した。瑠奈は旅立つ前に自分の物をすべて処分していたが、幸いにも結婚の際に義母へ贈ったブレスレットだけは残っていた。堀尾母は、そのブレスレットを墓地に納め、供養するつもりだった。今回修の家に来たのは、遺影のコピーを取って墓碑に貼るためだった。年中行事のたびに彼女を弔いに来られるようにするためだ。だが、そこで思いがけず瑠奈の死の真相を知ることになった。心の中は混乱し、どう向き合っていいのかわからなかった。もはやこの息子の顔を見たくもない。少し冷静さを取り戻した頃、彼女は床に崩れ落ちている修を一瞥もせず、まっすぐ部屋へと入っていった。数日空いただけで、部屋の中はまたしても乱雑になっていた。彼のために片付けようとも思わず、彼女は真っすぐ寝室へと向かい、遺影を探し始めた。だが、隅々まで探しても見つからず、今度は書斎へと足を運んだ。修は母が何を探しているのか分からないまま、黙ってその後をついていった。堀尾母がプリンター横の引き出しを開けたとき、中に整然と並べられていたものを目にし、母子ふたりは同時に息を呑んだ。厚みのある紙の束が、整然と並べられていた。一番上の一枚には、びっしりと文字が書き込まれていて、「遺願リスト」の五文字が彼の目に飛び込んできた。彼の脳裏には、スイス行きのチケットを手配した翌日、瑠奈が机に向かい、一字一句丁寧にこの文字たちを書き記していた姿が浮かんできた。彼女はその日、妙なことを口にして、彼の心をざわつかせたのだった。「こんなに楽しそうに笑うの、久しぶりに見たわ」彼女が何かに気づいたのかと焦った彼は、その言葉には触れず、話題を変えるしかなかった。だが今思えば、それは単なる過去を懐かしんだときの、何気ない一言だったのかもしれない。けれどその何気ない一言が、幸せそうに見えた二人の結婚生活の表層を剥ぎ取り、中に潜んでいた腐敗を露わにしたのだった。すべてを失ってから過去を振り返って初めて、修は気づかされた。自分の無理な笑顔を、瑠奈はち