INICIAR SESIÓN私が選んだ武器は、あゆみの嫉妬だった。
契約完了通知を見つけてから3日後。直紀は地方の講演へ出かけ、今夜まで戻らない。あゆみも朝から姿を見せていなかった。
療養室では、玲奈が限定操作用のスマートフォンを研究用モニターへ接続していた。
大きなボタンで、アプリを開く。入力欄を選ぶ。確認画面で送信する。今の私にできるのは、その程度だ。
それでも、自分で選んだ相手へ言葉を届けられる。
限定操作用の端末は研究機関の管理下にあり、使えるアプリと連絡先は事前に登録される。私は文字入力とYES/NOで、新しいメールアドレスと匿名アカウントの作成を申請した。
他人の氏名や写真は使わない。直紀やあゆみの端末へ侵入しない。公開されている宛先へ、自分が作った文章を送るだけだ。
玲奈は研究責任者へ、個人的な連絡機能を
判決の確定から4か月後、私は大学のBCI研究室で、3回続けて入力を間違えた。【続ける】を選んだつもりが、【休む】になる。削除しようとして、今度は画面を閉じた。玲奈が端末の横で待っている。「今日は精度が落ちています。どうしますか」私は右手の人差し指へ力を集めた。指先が、机に固定された大きなスイッチへ触れる。一度押せばYES。二度ならNO。一度。少し遅れて、確認音が鳴った。「休んでから続ける、ですね」玲奈は画面を閉じ、15分の休憩を設定した。右手の人差し指を自分の意思で動かせるようになったのは、半年前だった。動く範囲はわずかで、続けて押せるのは数回だけ。疲れれば、指はまた机の上で動かなくなる。首と左手にも小さな反応が戻ったが、日によって差が大きい。自分で起き上がることも、歩くこともできない。言葉を声にするには、今もBCIとAI音声が必要だ。完全に元へ戻ったわけではない。それでも、使える手段がひとつ増えた。BCIが不安定な日は指で答える。指が動かない日は眼球反応を短い確認に使う。どれも難しければ、その日は話さない。話さないことと、意思がないことを、もう誰も同じにはしなかった。休憩中、研究室の窓から中庭を見る。学生たちが白衣のポケットへ手を入れ、早足で別棟へ向か
判決の確定を聞いた日、弁護士は3冊のファイルを病室の机へ置いた。公開実証から1年8か月。窓の外で、若い木が揺れていた。青は直紀、白はあゆみ、灰色は三浦。私は背を起こしたベッドから、その表紙を見た。「3人とも、執行猶予の付かない拘禁刑が確定しました」誰か1人の供述だけで決まったのではない。三浦の指示音声、会社車両のGPSと加速、治療費名目の送金、あゆみの録音、提案者A文書の更新履歴。別々の場所に残った記録が、3人の説明を照らし合わせた。判決は、あゆみが私を会議へ行かせないよう発案し、直紀が車両接触という具体的な方法を選んで三浦へ指示し、三浦が実行したと認定した。想定より重い傷害になったことは、故意に接触させた事実を偶然の事故へ戻さなかった。私は法廷へ出ていない。長時間の移送と傍聴は身体への負担が大きく、映像で見ることも選ばなかった。私の意見は、作成過程と確認記録を付けた文書で提出した。判決の日も、直紀たちの顔ではなく、認定された事実を弁護士から聞くと決めていた。弁護士は、判決文のうち私が指定した箇所だけを読んだ。3人が私の死亡を望んだとは認定されていない。一方で、契約判断を妨げるため故意に車を接触させる計画を共有し、傷害の危険を現実のものにした。結果が計画を越えたという主張は、被害を引き受けなくてよい理由にならない。事故後、直紀が私の意思を確認できない状態を利用して契約を進め、三浦へ削除を求め、あゆみへ責任を集める文書を作った経過も、供述の信用性を判断する材料になった。
あゆみは、接見室の透明な仕切りに映る自分の顔を見ていた。公開実証から8か月。髪は肩で切りそろえられ、爪には何も塗っていない。弁護士が書類を机へ広げるあいだ、両手を膝の下へ挟んでいた。「久保さん側の供述調書が開示されました」直紀を指す【久保さん】が、自分ではなく恵美の夫だと理解するまで一瞬かかった。「事故への関与は、今も否定しています。会議を妨害する案は矢代さんが出し、三浦さんが方法を暴走させた。自分は事後に会社を守ろうとしただけだと」あゆみは笑おうとした。喉から出たのは、短い息だった。「録音に、会社を守ったって入ってるでしょう」「入っています。ただ、何をした意味かは争うと言っています」弁護士は、録音1本で決まるとは言わなかった。三浦の通話音声には、直紀の具体的な指示と、【あゆみが言い出した】という言葉がある。あゆみの端末には、自分が会議妨害を提案したと認める声がある。事故対応草案の更新履歴には、提案者Aへ責任を寄せる過程が残っていた。あゆみが原端末を提出した事実も記録されている。提出したから、事故前の言葉が消えるわけではない。「あなたが経緯を説明し、原端末を任意提出したことは、今後も事情として主張します」「助かるんですか」弁護士は答えを飾らなかった。「結果を約束はできません。少なくとも、提出したことだけで責任を免れるわけではありません」起訴状には、あゆみが恵美を契約変更の会議へ行かせないよう提案し、直紀が三浦へ具体的な方法を指
配信が終わって1時間後、直紀から17件の着信が残っていた。玲奈が端末を視界へ置く。画面には番号が並び、最後だけ留守番電話があった。【聞きますか】私はNOを選んだ。主治医が照明を落とす。公開実証で使い切った集中力は戻らず、既知質問にも2度続けて誤った。今は直紀の言葉を受け取るときではない。着信を消す必要もなかった。聞かない。返さない。記録は残す。その3つを、弁護士が私の希望として確認した。「今後の連絡は代理人へ一本化します。久保直紀さん本人からの面会、電話、メッセージには応じない。それでよろしいですね」【YES】すぐに離婚が成立するわけではない。事故の捜査も、契約の争いも、会社の調査も始まったばかりだ。それでも、直紀が私へ直接届く道は閉じられた。午後、ネクサス・メディカルの監査担当者が病院の会議室から接続した。画面に映ったのは、公開実証を止めなかった女性と、社外取締役の2人だった。「本日付で、久保直紀さんの代表権と業務執行を一時停止しました」有罪と決めたからではない。調査対象である本人が、社内資料や端末へ触れられないようにするためだという。管理者権限は変更され、事故当時の経理、車両、契約、広報のデータへ保全措置が取られた。公開実証のアーカイブも、大学側の映像と照合できる状態で保存された。私は、会社を今すぐ潰したいかと聞かれたことはない。聞かれても、YESとは答えなかっただろう。直紀の指
配信開始の赤いランプが点灯した。カメラの向こうに、何人いるのかは分からない。正面のモニターには、大学病院の配信室と、ネクサス・メディカルが用意した会場が並んで映っている。会社側には報道陣と社員、取引先が座っていた。直紀は私のベッドから離れ、会社側のカメラの中央に立っている。「本日は、妻・久保恵美が取り戻した声を、皆さまへお届けします」いつもの穏やかな声だった。あゆみの原端末が外へ渡ったあとでも、彼は献身的な夫の顔を作れた。「事故から1年。妻は、私たちの技術と大学研究チームの支援によって、再び自分の意思を伝えられるようになりました」私たちの技術。私の特許も、大学のBCIも、彼の事業として語られている。直紀が次の説明へ進もうとすると、司会者が止めた。「ここからは、研究チームが確認手順をご説明します」玲奈が大学側のカメラの前へ出た。画面の隅に【本人作成・当日確認済み】と表示される。「これは思考を読む実演ではありません。久保先生が作成した文章を、今使うかどうか、ご本人へ確認します」それだけ告げて、玲奈はカメラの外へ下がった。研究担当者が、最初の確認画面を出す。【事前作成した文章を、今から使用しますか】訂正できなかった一文が、私の同意として公開された日の画面がよみがえる。確認手順があると分かっていても、呼吸が浅くなった。YESへ集中する。
磨りガラスの向こうで、直紀の影が止まった。主治医が入口の中央へ立ち、病棟責任者と警備担当者がその左右を塞いでいる。私はベッドから、磨りガラスへ落ちる彼の影を見ていた。「恵美。5分でいい。会社の話じゃない」扉越しの声は低かった。「昨夜、あゆみが妙な録音を送った。君が誤解する前に、俺から説明させてくれ」説明を求めたのは、何度も私のほうだった。三浦とは何を話したのか。契約をどうしたのか。あゆみをなぜ家へ入れたのか。目しか動かせなかった私に、直紀は【疲れている】【勘違いだ】【僕を信じろ】と答えた。今になって、彼自身が話す時間を欲しがっている。看護師が確認画面を私へ向けた。【扉を開けますか】【NO】「恵美、聞こえているんだろう」影が一歩近づく。「あゆみの言葉だけで決めるな。あの女は、自分が助かるためなら何でも言う」その言葉で、直紀が何を選ぶか分かった。一緒に暮らした女を切り離し、三浦へ命じた行為を事故へ戻し、最後には私の判断まで誰かのせいにする。扉を開けても、別の物語を聞かされるだけだ。私は入力画面で短い文を選んだ。【面会しません】研究担当者が語句を読み上げ、私の確認を取る。AI音声が病室に流れた。直紀は黙った。ほんの数秒だったのに、その沈黙には、7年間のどの口論より重さがあった。