Mag-log in
夕依は茶封筒をこちらへ差し出したが、私は受け取らなかった。「……中、見てみて」夕依の顔を見てから、ようやく封筒を受け取った。封筒の中に入っていたのは、セイラン湖で撮った写真だった。湖畔の手すりの前で、悠と夕依が並んで笑っていた。後ろには青い湖とリンファ山が広がっていた。写真を裏返すと、夕依の字でこう書かれていた。【ごめん。あのとき、私、自分が何してるかわかってた】私は写真を膝の上に置いた。夕依の目がまた赤くなった。「柚葉の言うとおりだった。私、本当はわかってたの。悠の彼女だと思われるの、嫌じゃなかった。むしろ、周りにそう見られるのがちょっと嬉しかった」夕依は俯いた。「ただ、そう見られるのが嬉しいだけだって、自分に言い聞かせてた。悠が好きなわけじゃないって。でも……」「本当は好きだったんでしょ」夕依は唇を噛み、小さくうなずいた。「……うん。高校の頃からずっと好きだった。大学に入って、悠が柚葉と付き合い始めて……そのうち諦められると思ってた。でも、無理だった。だから、ずっと2人のそばにいた。2人きりになりそうなときも、私が一緒についていってた」夕依は、周りのざわめきに紛れそうなほど小さな声で続けた。「柚葉がいなくなって2週間くらいして、悠と喧嘩したの。私のことは一度も好きじゃなかったって。それに、周りに勘違いさせてたのも私だって言われた。柚葉と別れたのも、私のせいだって」私は黙って聞いていた。「悠の言ってること、間違ってないと思う。でも、それだけじゃない」夕依は顔を上げた。今度は目をそらさなかった。「でも、全部が私のせいだったわけじゃないと思う。悠だって、私が何してるかわかってたはずだよ。周りに勘違いされたときに違うって言うこともできたし、私が近づきすぎたなら、距離を置くことだってできた。でも、しなかった」夕依は膝の上で手を握りしめた。「私も悠も、自分のことばっかりだったんだと思う。柚葉がどう思ってるのか、ちゃんと見ようとしてなかった」そのとき、構内アナウンスが流れた。そろそろホームへ向かう時間だった。私は写真を封筒に戻し、夕依に差し出した。「これ、返すね」「でも……柚葉に持っててほしくて」「ごめん。もういらない」私は立ち上がり、バ
「仕事に集中しな。図面がちゃんと仕上がると、それだけで結構気が晴れるよ」入社して最初の1か月は、とにかく忙しかった。休日出勤も珍しくなく、帰る頃には日付が変わっていることも多かった。そんな中、ときどき知らない番号から電話がかかってきた。最初の週は3回、次の週は5回。3週目に入る頃には2日に一度くらいかかってくるようになったが、一度も出なかった。ある日の深夜1時過ぎ、まだ事務所で図面を直していると、突然一通のメールが届いた。どう見ても悠のアドレスからのメールだった。【柚葉、お願いだから追加して】私はそのまま無視した。5分もしないうちに、またメールが届いた。今度はアドレスが変わっていた。【ただ、元気にしてるか知りたいだけなんだ】それも無視した。そのあと、もう一度メールが届いた。【今どこにいる?無理に会おうとはしない。ただ、元気にしてるかだけ知りたい】そのメールを見て、少しだけ迷った。それでも結局、無視して削除した。「こんな時間に連絡してくるの、彼氏?」急に声をかけられて振り返ると、いつの間にか知佳が後ろに立っていた。「元彼です」「ああ、そっちね」知佳は持っていた缶コーヒーを一本、私の机に置いた。「元彼なら、なおさら放っときな。それ終わったら今日はもう帰って寝て。明日9時からクライアントと打ち合わせなんだから」「はい」スマホを伏せ、またCADの画面に戻った。最後の寸法線を入れ終えた頃には、もう3時を回っていた。部屋に帰って明かりを消し、ベッドに横になると、天井の染みが目に入った。ぼんやりした形が、どこかリンファ山に似ていた。私は寝返りを打ち、壁のほうを向いた。入社して2か月目には、初めて一人で任された案件を仕上げた。社内レビューでは、知佳に空間構成を褒められ、それを聞いた部長も私の図面をもう一度見た。その日の帰り、美咲からメッセージが届いた。【白井くんが柚葉の住所聞いてきたよ。もちろん教えてないけど】【それと、雨宮さんもあちこちで柚葉のこと聞いてるみたい。どこに行ったのか探してるっぽいよ】歩きながら返した。【たぶん見つからないよ】【白井くんがそっちまで探しに行ったらどうするの?】【どこにいるかも、どこで働いてるかも知らないから大丈
美咲は目を見開いた。「会うの?」「これで最後にする。夕依が何を言いたいのか、ちゃんと聞いてくる」25分後、南門近くのカフェに着くと、夕依はもう窓際の席に座っていた。今日はきちんとメイクをして、白いワンピース姿で、髪も下ろしていた。私に気づくと、夕依は立ち上がった。目元は赤かった。「柚葉……」私は向かいに座った。「話って何?」夕依は唇を噛み、カップを両手で包んだ。「柚葉、ごめん。あの旅行で、あんなにつらかったなんて知らなかった。私、ずっと3人でうまくやれてると思ってたの。だから……」「だから?」「柚葉なら、私と悠がただの友達だってわかってくれてると思ってた。悠とは幼なじみだし、昔からあのくらいの距離感が普通だったから、自分でも意識してなくて……」夕依は顔を上げた。頬を涙が伝っていた。「柚葉は私にとって一番の親友だよ。傷つけようなんて、一度も思ってない」夕依が泣くと、私はいつもそこで何も言えなくなった。でも今回は、そのまま流す気にはなれなかった。「夕依。旅行3日目の夜、私の部屋で何言ったか覚えてる?」夕依は一瞬、言葉に詰まった。「最近、悠がよく夕依のこと見てくるって言ってたよね。悠は夕依のことが好きなんじゃないかって、私に聞いたでしょ」「あれは……柚葉がどう思うのか、ちょっと気になって……」「でも、そのとき私、悠は私の彼氏だって言ったよね」夕依は黙った。「夕依も、わかってるって答えた。それなのに、そのあとも悠の上着を着たり、腕を組んだりしてた。周りに付き合ってるって思われても、別に気にしてなかったよね」話しているうちに、夕依の顔色がだんだん悪くなっていった。「夕依がこっちの大学に来てから、悠と2人で出かけようとしても、気づけばいつも夕依も一緒だったよね。悠にあんなふうに甘えて、周りに勘違いされても気にしなかった」夕依は俯いたままだった。「それ全部、本当に何とも思わずにやってたの?私はそうは思えない」夕依の涙がテーブルに落ちた。「柚葉、本当に違うの……私、人に甘えすぎるところがあるのは自分でもわかってる。でも、悠をそういうふうに見たことは本当にないの」「もう、そこはどうでもいい」私は席を立った。「悠は、私が嫌がっててもずっと黙ってた。夕依も、
「まだいたんだ」私は荷物を抱え、そのまま寮のほうへ歩き出した。「柚葉」悠もついてきた。「2分だけでいいから、聞いてくれ」私はそのまま歩いた。「夕依にはもう話した。これからは今までみたいに連絡も取らないし、夕依の用事に付き合うのもやめる」何も答えなかった。「お前に言われたこと、ずっと考えてた。俺、柚葉ならわかってくれるって、勝手に甘えてた」夜風が吹くたび、隣を歩く悠から柔軟剤の匂いがした。この2年、何度も枕に残っていた匂いだった。「柚葉……もう一回、やり直せないか」そこで足を止めた。月明かりの下、アスファルトに私たちの影が伸びていた。「悠。あの日、セイラン湖であの夫婦に夕依と恋人同士だと思われたとき、私が彼女だって一言でも言ってくれてたら……たぶん、先に帰ろうとは思わなかった」悠の顔がこわばった。「たった一言でよかった。でも、悠は何も言わなかった。あのときだけじゃない。今まで何度もそうだったよね。勘違いされても、悠はいつも黙ってた」悠が何か言いかけた。「夕依と付き合ってるみたいに見られても、別に嫌じゃなかったんでしょ。だから何も言わなかったんじゃないの?」「違う」「じゃあ、なんで最初に勘違いされたときに言ってくれなかったの?」悠は答えなかった。「本当に嫌だったなら、そのときちゃんと否定してたはずだよ。私が帰って、別れるって言って、それから謝られても……もう遅いよ」悠は結局、何も言わなかった。ひどく疲れた顔をしていたけれど、かわいそうだとは思えなかった。私だって、この2年ずっと我慢してきた。「明後日、卒論の発表が終わったら、ここを出る」「……どこに行くんだ?」「もう、どこでもいいでしょ」「柚葉――」「悠」私は一度息を吸って、まっすぐ悠を見た。「悠が優しい人なのはわかってる。でも、彼氏としてはもう無理。夕依にも、周りの人にも優しい。でも、私のことはいつも後回しだったよね。もう、いつか変わってくれるって待つのはやめる」それだけ言って、私は寮のエントランスへ向かった。カードキーをかざすと、ガラスの扉に、まだその場に立っている悠の姿が映った。今までだって、いつもそうだった。悠が追いかけてくるのは、私がずっと先まで行ってからだった。
悠は顔をそらし、顎にぐっと力を入れた。「わざとじゃないって。向こうが勝手に勘違いしただけだろ。会う人みんなに、いちいち違うって説明しろっていうのか?」「そんなこと言ってるんじゃない。勘違いされたときに、手を握ってくれるだけでよかった。私の隣に来てくれるだけでもよかった」悠は黙ったまま、こちらを見なかった。「私が彼女だって、一言言ってくれればそれでよかったの。でも、悠は一度もそうしてくれなかったよね」少しして、悠が低い声で言った。「……わかった。俺が悪かった。でも、それで別れるってのは違うだろ。そこまでのことか?」「今回のことだけじゃないよ。ずっとそうだった」悠は黙ったまま、私のほうを見ていた。「夕依がこっちの大学に編入してきてから、私といる時間、どんどん減ったよね。何をするにも、まず夕依の予定を気にするようになった。ごはんに誘っても、先に夕依が空いてるか確認してた。2人で映画を見たいって言っても、夕依が1人じゃつまらないからって、結局いつも連れてきたよね」悠は何も言わなかった。「私の誕生日に40分遅れてきたときだって、買い物してた夕依を迎えに行ってたからでしょ」悠は手にしていたオルゴールを強く握った。「そのたびに、次は埋め合わせるって言ってたよね。私、その『次』を2年も待った。でも結局、一度も埋め合わせてもらえなかった」悠はしばらく黙っていた。「……それ、夕依が悪いって言いたいのか?」「違う。私が言いたいのは、悠がずっと私より夕依を優先してきたってこと」「夕依は幼なじみで――」「わかってるよ。夕依は私の親友でもある。でも私、夕依を優先して悠との約束を後回しにしたことなんて、一度もないよ」悠は唇をきつく結んだまま、何も言わなかった。怒っているのか、気まずいだけなのか、もう私にはわからなかった。そのあと、悠が一歩だけ近づいてきた。「柚葉、悪かった。もうこんなことしない。ちゃんとするから……別れるなんて言うなよ」私は悠を見た。赤くなった目元を見ていると、2年前に告白されたときのことを思い出した。あのときは、悠のそんな顔を見るだけで胸がいっぱいになった。でも今は、何も感じなかった。ただ、ひどく疲れていた。「そのオルゴール、持って帰って」「お前に買ったん
40分ほどタクシーに揺られて学生寮に戻ると、ルームメイトの江藤美咲(えとう みさき)はまだ起きていた。キャリーケースを引く私を見るなり、美咲は驚いた顔をした。「帰ってくるの、明後日じゃなかった?」「予定変えて、早く帰ってきた」キャリーケースを部屋に入れると、美咲は私の顔をちらりと見た。でも、何も聞かずに温かいお茶を淹れてくれた。「晩ごはん、食べた?」「まだ」「さっきデリバリー頼んだんだけど、チキン残ってるよ。温めよっか?」私はベッドの端に腰を下ろし、両手でカップを包んだ。私は温かいお茶をひと口飲んだ。美咲がチキンを温めている間にスマホを確認すると、悠からの不在着信が12件、夕依からのメッセージが7件届いていた。まず、夕依からのメッセージを開いた。【柚葉、何か勘違いしてない?私と悠、本当に何もないから。こんなことで帰っちゃうなんて……】【悠、すごく慌ててるよ。今、いちばん早く帰れる便を探してる。お願いだから、電話だけでも出てあげて】【柚葉、こんなふうに急に帰っちゃうのはよくないよ。私たちだって心配してるんだから……】3件目まで読んだところで、もう続きを見る気にはなれなかった。心配してる。あなたのためを思ってる。そんな言葉なら、この2年で嫌というほど聞いてきた。そうしているうちに、電子レンジが鳴った。美咲は温めたチキンを私の前に置いた。「ほら、食べな。今は何も考えなくていいから」私はチキンに手を伸ばし、ひと口かじった。熱さと香ばしさが口いっぱいに広がった途端、涙がこぼれた。美咲は何も言わず、ただ軽く肩を叩いてくれた。私はそのまま、泣きながら食べ続けた。泣きながら食べていたせいで、顔はもう涙と油でぐしゃぐしゃだった。ひとしきり泣いてから、私はスマホの電源を切った。……翌日の昼。私はベッドに座り、昨夜美咲が作ってくれたおかゆを食べていた。「柚葉、開けろ」突然、ドアの向こうから悠の声がした。スプーンを持つ手が止まった。「柚葉、いるんだろ」今度は、さっきより強くドアを叩く音がした。美咲は眉をひそめてドアのそばまで行き、振り返って「開ける?」と口だけ動かした。私はスプーンを置き、ベッドを降りた。ドアを開けると、悠が立っていた。