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第2話

作者: 青山米子
床に散らばるガラスの破片を見て、男は眉をひそめた。その高慢な態度がより冷たさを増す。「病院でも物を投げ散らすのか。いい加減、分別を持て」

一葉は目を丸くした。「???」

物を投げ散らす?

この人は誰?

彼は何か言いかけたが、何かを思い出したように言葉を切り替えた。「一葉、お前が無理難題ばかり言って退院を拒んでいるせいで、優花が傷ついて去ろうとしている。今日こそ彼女に謝罪して、引き止めるんだ」

そう言いながら大股で近づき、一葉をベッドから引きずり出そうとした。一葉は咄嗟に彼の手を避けた。「誰なんですか!知りません。触らないでください!」

今は少しは動けるようになったとはいえ、傷は完治していない。誰かに触られることへの恐怖が一葉の心を支配していた。

「一葉、また何を演じている?」男は苛立たしげに眉を寄せた。

「演じるって何ですか。あなたが誰なのか分かりません。すぐに出て行ってください。でないと......」

言葉を終える前に、彼は一葉の肩を強く掴んだ。「一葉、これ以上ふざければ、本気で怒るぞ」

その力の強さに、まだ完治していない骨が再び砕かれるのではないかとという恐怖が一葉を襲った。

一葉は痛覚過敏で、骨折の痛みは思い出すことさえ恐ろしかった。まして、もう一度その痛みを味わうなど想像するだけで身体が震える。

恐怖で制御が利かなくなり、一葉は悲鳴を上げた。

予想外の反応に男は一瞬怯み、思わず手を放した。

その隙に、一葉は必死でナースコールを押し続けた。誰か助けを呼びたい一心だった。

医師と看護師たちが駆けつけると、彼女は彼らの後ろに身を隠し、震える声で警察を呼んで欲しいと懇願した。

一葉が警察を呼ぶと言った途端、男の整った眉が険しく寄せられた。「一葉、何を馬鹿なことを」

なぜ自分の名前を知っているのか、なぜ自分のことを知っているような態度なのか、一葉には理解できなかった。今は考える余裕もない。この危険な男を早く警察に連れて行ってもらいたかった。

一葉は必死で医師に警察を呼ぶよう懇願を繰り返した。

彼女が警察を呼ぶことに固執するのを見て、彼の切れ長の美しい瞳に苛立ちが滲んだ。

「一葉、いい加減にしろ」

そう言って彼は医師たちに向き直った。この女の戯れに付き合う必要はない、自分は彼女の合法的な夫だと告げる。

彼が自分の夫だと聞いた瞬間、この狂人を一刻も早く逮捕してもらいたい気持ちが一葉の中で増した。

怪我をしただけで、頭がおかしくなったわけではない。自分が結婚しているかどうか、夫がいるかどうか、そんなことくらい分かる。

まさか、自分の夫だなんて!

どこかの精神を患った男が人違いをしているのだと一葉は思ったのに、警察の確認によると、彼は確かに一葉の法的な夫だという。

驚きで目を見開いたまま、一葉はもう一度確認を求めた。

しかし何度警察が調べても、目の前のこの男は、紛れもなく一葉の法律上の夫だった。

一葉の頭が真っ白になった。

何を言えばいいのか、何を考えればいいのか、まったく分からない。

ふと、二度目の怪我から目覚めた時の、何かを忘れているような違和感が一葉の記憶に蘇った。

でも......でも......

三歳の記憶までハッキリしているのに、なぜ結婚して夫がいるという、こんな重大なことだけを忘れているのだろう?

こんなことがあり得るはずがない!

医師も一葉の症状について、明確な説明が出来ないようだった。

「全てを覚えているのに、俺のことだけ忘れた?」彼は高みから見下ろすような目で一葉を見た。その眼差しには軽蔑と嘲りが混ざっていた。

まるで一葉が全てを演じているかのような態度。

居心地の悪さが一葉の胸に込み上げてきた。

夫だろうが何だろうが、まずは退室してもらおうと彼女が思った矢先、彼は分厚い診断書の束をベッドに投げつけた。「一葉、随分と手が込んできたな。これほどの重症を偽装して入院を続け、今度は記憶喪失まで演じ始めたか」

「優花が戻ってきて以来、お前は騒ぎを起こし続けている。そして今度は記憶喪失だと?」

一葉は目を丸くした。「???」

医師も同じように困惑の表情を浮かべている。「???」

診断書を偽造して入院を続けている?

「前にも言っただろう。どんな芝居を打とうが無駄だ。おとなしくするんだ。

今夜だ。遅くとも今夜中に退院して優花に謝罪しろ。さもなければ、もう二度と戻ってくるな」

そう言い放つと、この法律上の夫は、一葉に反論の機会すら与えず、威圧的に部屋を出て行った。

彼が去った後、医師の目には深い同情の色が浮かんでいた。

こんな男と結婚していたなんて......

命を落としかけるほどの重傷を負い、二ヶ月以上も寝たきりだったというのに、夫は一度も見舞いに来ず、それどころか怪我を偽装していると疑っている。

診断書まで偽造だなんて......呆れて言葉も出ない。

医師の同情的な眼差しに、一葉は言葉を失った。

たった今、法的な夫がいると知らされたばかりの一葉には、今の心境を表現する言葉さえ見つからない。

三歳の記憶まではっきりしているのに、結婚していることだけを忘れるなんて、どう考えても理解できない。

考えれば考えるほど、一葉の頭が痛くなってくる。

自分は昔から痛みに弱かった。

理解できないことを考え続けるのは、もうやめにしよう。

そうだ。

きっと、彼が重要な存在じゃなかったからだ。

子供の頃から、自分の記憶は大切で意味のある人だけを覚えていて、どうでもいい人や出来事は記憶に残らない。

重要でない人なら、考える価値もない。

法的な夫のことは忘れて、これからのリハビリに専念することに一葉は決めた。

その夜、電話が鳴った。

「一葉、今すぐ戻って来い。もし戻って来なければ......」

名ばかりの夫の声を聞いた瞬間、一葉は言葉を遮って電話を切った。

事故から二ヶ月以上。一度も見舞いに来なかった冷血な男。妻の生死すら気にかけない人なのに。そして自分は誰のことも覚えているのに、彼のことだけを忘れている。これは間違いなく、愛のない政略結婚に違いない。

感情のない契約結婚の夫が、まるで帝王のように命令してくる。一葉にはどこまで傲慢に思えた。

彼からのくだらない電話はもう受けたくない。一葉はスマホを置く時に、ついでに着信拒否リストに追加した。

やっと上手く注げた水を満足げに口に運ぶ。

切られた通話画面を見つめる言吾は、一瞬現実を理解できずにいた。今まで電話を切るのは常に自分の方で、一葉が電話を切るなど......むしろ彼女はいつも必死に引き止めようとした。最後まで話を聞いて欲しいと、帰って来て欲しいと、ただただ懇願するばかりだった。

それなのに今日は、言葉も最後まで聞かずに切られた。

午前中の病院での出来事が蘇る。まるで他人を見るような一葉の目、そして一見すると本物にしか見えない診断書の数々。説明のつかない焦りが胸の内を掻き乱す。

「言吾さん、お姉さんはまだ怒っているんですか?」

「私からもう一度謝りに行きましょうか?全て私が悪いんです。あの時、病院でもっと我慢できていれば......気を失わずに、お姉さんの怒りを受け止められていれば、こんなに怒らせずに済んだのに」

春雨優花(はるさめ ゆうか)が自分を責め、全ての非を被ろうとする姿に、言吾の瞳が一段と冷たさを増した。人を殴れるほどの体力があるなら、大した怪我のはずがない。

「放っておけ。騒ぎ疲れたら自分で戻って来る」

「でも......」

「でもも何もない。悪いのはお前じゃない。あいつだ」勝手にすればいい。永遠に戻って来なくても構わない。

「言吾さん......私が......私が居なくなれば、お姉さんも怒らずに済むんじゃ......」

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