LOGIN結婚式1時間前、真紀は新郎控室のスイートルームで、婚約者・颯真と親友・美和の情事を目撃する。2年前の裏切りは終わったと信じていたが、関係は続いていた。逆切れする颯真を捨て、式を中止した真紀は、彼に奪われた仕事の実績も取り戻すと決意。北陸で出会った湊と共に、自分の名前と人生を取り戻していく。
View More結婚式まで、あと1時間。
ホテル最上階のスイートルームで、私、沢田真紀(さわだ まき)の婚約者・栗田颯真(くりたそうま)は、私の親友を抱いていた。
そのスイートは今日、新郎控室として貸し切られていた。リビング側で着替えと撮影を行い、奥のベッドルームは荷物置きと休憩用に使う。式場スタッフから、そう説明されていた部屋だった。
半開きのベッドルームのドアの向こうで、シャンパン色のドレスが颯真の腰をまたいでいる。
シャンパン色のドレスは、友人代表を頼んだ坂下美和(さかした みわ)と、結婚式のために一緒に選んだものだった。
肩紐は落ち、裾は太ももまで捲れ、颯真の手が慣れた動きで美和の腰を抱いていた。
私は半開きのドアに手をかけ、ゆっくりと押し開けた。
ドアが動く気配に、美和が振り向いた。私と目が合った瞬間、彼女は息をのみ、ずり落ちたドレスの胸元を押さえる。顔からみるみる血の気が引いていった。
それでも謝ろうとはせず、颯真の膝の上から慌てて降りると、私の視線を避けるようにうつむいた。
颯真は一瞬だけ目を見開いた。だが、すぐに眉間へしわを寄せた。そこに罪悪感はない。見つかった焦りさえなかった。浮かんでいたのは、行為を途中で邪魔されたことへの苛立ちだけだった。
私の顔を見たあと、壁の時計へ目をやる。
「真紀。式まで、まだ時間があるだろう」
謝罪ではなかった。見つかったことへの焦りさえない。私が黙って後始末をするのを、当然だと思っている声だった。
美和は胸元をシーツで隠しながら、泣きそうな顔を作った。
「違うの、真紀。これは――」
「服を着て」
自分でも驚くほど静かな声が出た。
頭の中では、昨夜2時まで直した颯真の企画書、以前、彼の父の会社へ無償で渡した分析表、美和の様々な相談に付き合った夜が、フィルムを逆回転させるように流れていた。
私が差し出した時間も、知識も、信頼も、2人にとっては、いつでも使える便利な道具にすぎなかった。
胸が裂けるより先に、ひとつの答えが落ちてきた。
私は左手の指輪を外し、サイドテーブルへ置いた。
「今日の結婚式はやめる」
名刺を見た数週間後、颯真から意外なことを聞かされた。美和は私たちと同い年で、商談中、ふとした言葉に私と同じ土地の訛りが混じったらしい。颯真が出身地を尋ねると、高校まで私と同じだった。「俺の彼女も同じ高校だって話したら、名前を聞かれた。真紀だって教えたら、ぜひ会いたいってさ」 その翌週、颯真に連れられて入ったレストランで、美和は私の顔を見るなり目を見開いた。「真紀?うそ、懐かしい」高校時代、美和は親友ではなかった。話せば笑うし、同じ班になれば協力する。けれど、休日に2人で出かけるほど近くもない。そんな同級生だった。美和は母親を早くに亡くし、田舎町で父親と2人で暮らしていた。私の母と美和の母が同級生だったと知ったのは、高校へ入ってからだ。「美和ちゃんのお母さん、交通事故だったの。残された子に罪はないから」母はそう言って、体育祭や文化祭の日には、ときどき弁当を2つ持たせた。高校2年の体育祭。昼休みに美和を探すと、体育倉庫の裏で紙パックの牛乳だけを飲んでいた。「よかったら、一緒に食べない?」私は赤い弁当箱を差し出した。中には卵焼き、鶏の照り焼き、タコの形のウインナーが詰まっていた。母は美和の好きな甘い卵焼きを覚えていた。美和は一瞬、嬉しそうに蓋を開けた。けれど、クラスの女子が通りかかり、「真紀って優しい」と言った途端、表情を硬くした。「別に、頼んでないけど」「うん。お母さんが作り過ぎて、余っただけだから」傷つけないように言い直したつもりだった。美和は黙って食べ、帰り道に空の弁当箱を返した。その日の体育祭で、私たちのクラスは対抗リレーに優勝した。アンカーとして表彰された私に、担任が「勉強も運動もできて、沢田は何でも持ってるな」と笑った。隣にいた美和も笑っていた。ただ、拍手する手だけが止まっていた。体育祭の帰りには夕立が来た。校門には私の母が傘を2本持って立ち、美和へも乾いたタオルを渡した。「お父さんが遅いなら、うちでカレーを食べていきなさい」母は善意で誘った。けれど美和は、私と母を交互に見て、タオルを私へ押し返した。「家族ごっこしなくていいから」雨の中を走り去る背中を、私は追えなかった。翌日、美和は何もなかったように話しかけてきた。だから私も、触れてはいけない傷なのだと思い、何も聞かなかった。再会した美和は洗練され、当時よりずっ
7年前。大学4年の春、私は21歳だった。森鷹製薬の1次選考会場で、私は原料分析職の面接を待っていた。隣の椅子では、紺色のスーツを着た青年が、営業職の応募書類を握り潰しそうになっていた。それが颯真だった。その日、私の就活バッグには、小さな遮光瓶が入っていた。卒業研究で精油の成分変化を調べており、研究内容を説明するため、分析に使ったラベンダー精油を持参していたのだ。颯真は何度も深呼吸をした。けれど、呼吸が浅くなるばかりだった。「香り、平気ですか」私は瓶の蓋を少しだけ緩め、彼へ渡した。「ラベンダーです。直接肌につけないで、少し離して、ゆっくり呼吸を意識すると落ち着きます」颯真は半信半疑で香りを吸い、やがて肩の力を抜いた。「これ、魔法?」「化学です」私が答えると、彼は初めて笑った。2次面接の日も、偶然同じだった。廊下で私を見つけた颯真は、まっすぐ歩いてきた。「今日も、ラベンダーを貸してくれる?」「どうぞ、今日はもっと緊張しますね」「ありがとう。この香りのおかげで、受かる気がする」調子のいい人だと思った。それでも、緊張を隠さず頼ってくる素直さが、少し可愛く見えた。私たちはそれぞれ希望職種で内定を得て、翌春、22歳で同じ会社へ入社した。後から知ったが、颯真の実家は社員約100人の栗田貿易を営んでいた。父の栗田克彦(くりたかつひこ)が医薬品・化粧品原料の輸入で会社を大きくし、颯真はいずれ後継者になる予定だった。大手で営業実績を作るために、森鷹製薬へ入ったのだという。付き合い始めたのは研修が終わるころだった。颯真は人の懐へ入るのが早く、私は数字と成分を見るのが好きだった。違うからこそ、補い合えるのだと思った。入社2年目、颯真が海外原料の大型案件を任された。彼は深夜まで見積書を作り、私へ誇らしげに見せた。私は合計欄を見て、指を止めた。「この為替レート、契約日の仲値じゃない。輸送保険も二重に入ってる」再計算すると、提示額は本来より8.6%高かった。そのまま出せば競合へ負けていた。颯真は青ざめ、私が直した数字で翌朝の商談へ向かった。案件は取れた。営業部長は颯真の交渉力を褒め、社内報には彼の写真が載った。「真紀のおかげだ」2人きりのとき、彼は何度もそう言った。私は、その言葉で十分だと思ってしまった。表彰台へ上がるのが彼でも、2人で
結婚式まで、あと1時間。ホテル最上階のスイートルームで、私、沢田真紀(さわだ まき)の婚約者・栗田颯真(くりたそうま)は、私の親友を抱いていた。そのスイートは今日、新郎控室として貸し切られていた。リビング側で着替えと撮影を行い、奥のベッドルームは荷物置きと休憩用に使う。式場スタッフから、そう説明されていた部屋だった。半開きのベッドルームのドアの向こうで、シャンパン色のドレスが颯真の腰をまたいでいる。シャンパン色のドレスは、友人代表を頼んだ坂下美和(さかした みわ)と、結婚式のために一緒に選んだものだった。肩紐は落ち、裾は太ももまで捲れ、颯真の手が慣れた動きで美和の腰を抱いていた。私は半開きのドアに手をかけ、ゆっくりと押し開けた。ドアが動く気配に、美和が振り向いた。私と目が合った瞬間、彼女は息をのみ、ずり落ちたドレスの胸元を押さえる。顔からみるみる血の気が引いていった。それでも謝ろうとはせず、颯真の膝の上から慌てて降りると、私の視線を避けるようにうつむいた。颯真は一瞬だけ目を見開いた。だが、すぐに眉間へしわを寄せた。そこに罪悪感はない。見つかった焦りさえなかった。浮かんでいたのは、行為を途中で邪魔されたことへの苛立ちだけだった。私の顔を見たあと、壁の時計へ目をやる。「真紀。式まで、まだ時間があるだろう」謝罪ではなかった。見つかったことへの焦りさえない。私が黙って後始末をするのを、当然だと思っている声だった。美和は胸元をシーツで隠しながら、泣きそうな顔を作った。「違うの、真紀。これは――」「服を着て」自分でも驚くほど静かな声が出た。頭の中では、昨夜2時まで直した颯真の企画書、以前、彼の父の会社へ無償で渡した分析表、美和の様々な相談に付き合った夜が、フィルムを逆回転させるように流れていた。私が差し出した時間も、知識も、信頼も、2人にとっては、いつでも使える便利な道具にすぎなかった。胸が裂けるより先に、ひとつの答えが落ちてきた。私は左手の指輪を外し、サイドテーブルへ置いた。「今日の結婚式はやめる」颯真はようやく私を見た。「感情的になるな。客はもう来てる。式だけ済ませて、話はあとだ」「あなたに『あと』はない」私は廊下へ出ると、従弟の沢田直樹(さわだ なおき)へ電話した。直樹は今日、受付を手伝うために早く来ていた。ホテル勤務の
結婚式まで、あと1時間。ホテル最上階のスイートルームで、私、沢田真紀(さわだ まき)の婚約者・栗田颯真(くりたそうま)は、私の親友を抱いていた。そのスイートは今日、新郎控室として貸し切られていた。リビング側で着替えと撮影を行い、奥のベッドルームは荷物置きと休憩用に使う。式場スタッフから、そう説明されていた部屋だった。半開きのベッドルームのドアの向こうで、シャンパン色のドレスが颯真の腰をまたいでいる。シャンパン色のドレスは、友人代表を頼んだ坂下美和(さかした みわ)と、結婚式のために一緒に選んだものだった。肩紐は落ち、裾は太ももまで捲れ、颯真の手が慣れた動きで美和の腰を抱いていた。私は半開きのドアに手をかけ、ゆっくりと押し開けた。ドアが動く気配に、美和が振り向いた。私と目が合った瞬間、彼女は息をのみ、ずり落ちたドレスの胸元を押さえる。顔からみるみる血の気が引いていった。それでも謝ろうとはせず、颯真の膝の上から慌てて降りると、私の視線を避けるようにうつむいた。颯真は一瞬だけ目を見開いた。だが、すぐに眉間へしわを寄せた。そこに罪悪感はない。見つかった焦りさえなかった。浮かんでいたのは、行為を途中で邪魔されたことへの苛立ちだけだった。私の顔を見たあと、壁の時計へ目をやる。「真紀。式まで、まだ時間があるだろう」謝罪ではなかった。見つかったことへの焦りさえない。私が黙って後始末をするのを、当然だと思っている声だった。美和は胸元をシーツで隠しながら、泣きそうな顔を作った。「違うの、真紀。これは――」「服を着て」自分でも驚くほど静かな声が出た。頭の中では、昨夜2時まで直した颯真の企画書、以前、彼の父の会社へ無償で渡した分析表、美和の様々な相談に付き合った夜が、フィルムを逆回転させるように流れていた。私が差し出した時間も、知識も、信頼も、2人にとっては、いつでも使える便利な道具にすぎなかった。胸が裂けるより先に、ひとつの答えが落ちてきた。私は左手の指輪を外し、サイドテーブルへ置いた。「今日の結婚式はやめる」