Share

壊れた愛の巣に、もう二度と帰らない
壊れた愛の巣に、もう二度と帰らない
Author: 森野白鷺

第1話

Author: 森野白鷺
第二子を妊娠中、医師から絶対安静を命じられていた望月晴香(もちづき はるか)は、退屈しのぎに幼稚園の保護者グループを眺めていた。

先生からメッセージが届いている。

【親子運動会の参加者名簿を作成します。参加される方は、園児名と参加する保護者名の形式で続けてご記入ください】

晴香は息子、賀来知宏(がく ともひろ)の分を入力しようと、画面をスクロールした。

十七番目で、指が止まった。

【賀来一花(かく いちか):父:賀来征司(かく せいじ)】

賀来征司。

それは、晴香の夫の名前だった。

けれど、賀来一花は晴香の子どもではない。

同姓同名だと思った。そう思おうとした。

けれど、その保護者のアイコンを開いた瞬間、晴香は息をのんだ。

男がベビーカーを押して、公園を歩いている写真だった。

横顔ははっきり写っている。左耳の後ろには、一本の傷跡があった。

征司が八歳のとき、木から落ちてできた傷だ。

晴香は、その傷を隅々まで知っている。

数えきれないほど、そこに口づけてきたから。

震える手で過去の投稿を遡った。三か月前の行事アルバムの中で、征司は、晴香が出張先のホテルに忘れてきたと思い込んでいたポロシャツを着て、二つ結びの小さな女の子を抱き上げていた。

その笑顔は、見たこともないほど優しかった。

彼の隣に立っている女を、晴香は知っていた。

親友の柳原甘奈(やなぎはら かんな)だった。

何より皮肉だったのは、その直後に続いた十八番目の書き込みだ。

【賀来知宏:母:望月晴香】

同じ幼稚園。

同じクラス。

晴香の息子と、その女の娘は、席まで隣同士だった。

晴香はその写真を見つめたまま、望月グループの顧問弁護士に離婚協議書の作成を依頼しようとした。

その瞬間、腹部に激痛が走った。

冷や汗が一気に噴き出す。

晴香は必死に体を支えながら征司に電話をかけたが、何度鳴らしても出なかった。

救急車を呼ぶしかなかった。

救急外来で診察を終えた医師は、厳しい表情で告げた。

「胎児の状態が非常に不安定です。必ず絶対安静にしてください。これ以上強い刺激を受けたら、この子は助かりません」

その日の午後、晴香は退院し、市内中心部にある二人の家へ戻って静養することになった。

主寝室のベッドに力なく横たわり、がらんとした部屋を見つめた。

心が、少しずつ沈んでいった。

夕方、主寝室のドアが開いた。

征司が汗だくで駆け込んできた。

その体には、甘奈がいつもつけている香水の匂いがまとわりついていた。

「晴香、どうして急に病院なんかに行ったんだ?」

征司は近づいてきて、晴香の手を取ろうとした。

彼女は身をよじって避け、スマートフォンを彼の胸に叩きつけた。

画面には、彼が公園でベビーカーを押している写真が明るく映っていた。

「緊急会議に行っていたんじゃなかったの?その会議、幼稚園の親子行事で開かれていたわけ?」

晴香は彼を睨みつけた。

征司の顔が青ざめる。

けれどすぐに眉をひそめ、まるで自分が正しいとでも言うように口を開いた。

「そんなに過敏になるなよ。甘奈は一人で一花を育てていて大変なんだ。一花には父親がいない。ああいう行事で父親が来なかったら、ほかの子にからかわれるだろ。俺は少し手伝っただけだ。それだけのことで、病院に運ばれるほど騒ぐ必要があるのか?」

晴香は、もっともらしい顔でそう言い切る彼を見て、吐き気が込み上げた。

かつて、大雪の中で三時間も並び、彼女に温かい焼き栗を食べさせるためだけに待ってくれた男。

その男が今では平然と嘘をつき、他人の娘を宝物のように大切にしている。

ドアの外から、ばたばたと慌ただしい足音が聞こえた。

甘奈が一花の手を引いて入ってきた。

その後ろには、二人の共通の友人たちまでついていた。

玄関先には、友人たちが持ち込んだ花束や紙袋が並んでいた。

そのうちの一人が、小さなメッセージボードを掲げて笑う。

そこには、丸い文字でこう書かれていた。

【晴香、二人目おめでとう】

彼らは花束や手土産を抱え、口々に祝いの言葉をかけてきた。

本来なら、誰にも踏み込まれたくないはずの寝室で。晴香がようやく息をつける、たった一つの場所で。その祝福めいた声は、彼女の尊厳を静かに踏みにじっていた。

晴香は腹部が痙攣するように痛み、思わずお腹を押さえた。

「お腹が痛いの。医師から安静にして、興奮しないようにって言われてる。出ていって」

だが征司は、彼女が大げさに騒いでいるだけだと思った。

「さっき俺に食ってかかっていたときは、ずいぶん元気だったじゃないか。みんなわざわざ家まで見舞いに来てくれたんだぞ。どうしてそんなふうに場の空気を悪くするんだ」

友人たちも口をそろえた。

「晴香、甘奈は一花を産んだとき、大出血で死にかけたのよ。今までずっと大変だったんだから、征司が少し助けたくらいで何が悪いの?」

「あなたはもう二人目を妊娠しているんだから、少しくらい大目に見てあげなよ」

甘奈が前に出て、果物の詰め合わせをベッドサイドテーブルに置いた。

か細い声で言った。

「晴香、征司を責めないで。全部、私が悪いの。一花がずっとパパがほしいって泣くから、どうしようもなくて、彼にお願いするしかなかったの」

一花は甘奈の後ろに隠れていた。

その手には、征司が買ったばかりの限定版のバービー人形が握られていた。

征司は歩み寄り、一花を抱き上げた。

それから晴香を見た。

「見ろよ。甘奈はわざわざみんなを連れて、お前を祝うために来てくれたんだ。そんな冷たい顔をしていないで、起きてリビングで少し果物でも食べよう」

晴香の胃が激しく波打った。「出ていって」

「いったい誰が騒ぎを起こしていると思っているの?」

晴香は声を張り上げ、甘奈を指差した。

「この女が人を引き連れて私の寝室に押しかけてきて、あなたがこの女の娘の親子行事に付き添ったことを見せつけている。それをあなたは、お祝いだって言うの?」

「晴香」

征司は声を低くして警告した。

「自分が正しいと思って、いつまでも食い下がるな。俺と甘奈は潔白だ。これ以上そんな理不尽なことを言うなら、もうお前のことは知らないぞ」

甘奈はそのタイミングを見計らったように目を赤くし、征司の服の裾をつかんだ。

「征司、私のせいで晴香と喧嘩しないで。やっぱり私、一花と先に帰るわ。晴香は今、気持ちが不安定なの。これ以上、体に障ったら大変だわ」

一花まで泣き出した。

「パパと離れたくない。一花、パパがいい」

征司は胸を痛めたように一花の頭を撫で、晴香へ向けた目には失望がにじんでいた。

「今のお前の姿を見てみろよ。まるでヒステリーを起こした女じゃないか。母親らしい優しさなんて、どこにも残っていない」

征司の表情が完全に冷えきった。

「いい加減にしろ」

晴香はガラスのコップを甘奈めがけて投げつけた。

甘奈が悲鳴を上げ、一花の手を引いて後ろへ逃げる。

一花は足を滑らせて転び、砕けたガラスのそばで大声で泣き出した。

征司の顔色が一変した。

彼は晴香を突き飛ばし、甘奈母娘を背中にかばった。

「晴香、お前正気か!五歳の子どもに八つ当たりしてどうするんだ!」

怒鳴り声が響き、額には青筋が浮かんでいた。

晴香は彼に突き飛ばされて後ろへ倒れ、脇腹が硬い無垢材のベッドサイドテーブルの角へ強く打ちつけた。

激しく引き裂かれるような痛みが走る。

息をのんだ晴香は、そのまま棚にすがるようにして床へずり落ちた。

晴香は冷や汗を流しながら、目の前で別の女を必死に守る夫を見つめた。

その瞬間、彼女の心はついに粉々に砕け散った。

震える手でスマートフォンを取り出し、メッセージ画面を開いて送信ボタンを押した。

【長谷川弁護士、すぐに離婚協議書を作成してください。賀来征司には一銭も渡さず出ていってもらいます】

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 壊れた愛の巣に、もう二度と帰らない   第18話

    火の勢いはますます強まり、濃い煙で目も開けていられないほどだった。甘奈は炎のただ中に立ち、狂ったように笑っていた。「みんなで死にましょう!誰一人、幸せになんてさせない!」彼女は、完全に正気を失っていた。拓海は警察官たちを連れて工場内へ駆け込み、消火器で火を抑えようとした。だが晴香は知宏に近づきすぎていた。彼女の頭上では、焼け落ちかけた梁が、今にも崩れそうに揺れている。「晴香!危ない!」征司が喉を裂くように叫び、ためらいもなく炎の中へ飛び込んだ。彼は晴香を突き飛ばし、自分の体で知宏をかばった。轟音とともに、燃え盛る梁が征司の背中へ重く落ちる。征司は大量の血を吐いた。それでも、腕の中の知宏を必死に守り、一歩も退かなかった。拓海が駆け寄り、晴香を安全な場所へ引き寄せた。警察官たちはすぐに征司の周囲の火を消し、知宏を救出した。征司は梁の下敷きになり、全身血まみれで、今にも息が絶えそうだった。火の向こう側では、甘奈が落下してきた重い瓦礫に押し潰され、耳をつんざくような悲鳴を上げていた。晴香は少し離れた場所に立ち、冷たい目で征司を見ていた。征司は苦しそうに顔を上げ、晴香を見つめた。その目には涙があふれている。「晴香……ごめん……俺が、お前を苦しめた……」かすれた声で言い、震える手を伸ばして、彼女の服の裾に触れようとした。「来世では……必ず、大事にする……」彼は悔恨の涙を流した。死ぬことで、晴香の許しを得られるとでも思っているのだろうか。晴香は彼を見つめた。その目に、揺らぎは一つもなかった。「私たちに、来世なんてないわ」声は静かだった。征司の目の奥に残っていた光が、完全に消えた。伸ばした手が力なく床へ落ちる。彼は絶望と苦痛の中で、目を閉じた。やがて火は完全に消し止められた。甘奈は全身に重い火傷を負い、残りの人生を刑務所内の病床で過ごすことになった。征司は死んだ。命を賭けて知宏を守った。けれど彼が、晴香の許しを得ることは永遠になかった。一度つけられた傷は、もう二度と消えない。一か月後。S市のレストラン。拓海は店を貸し切り、スーツ姿で晴香の前に片膝をついていた。手には一通の書類と、ダイヤの指輪があった。「晴香、これは俺

  • 壊れた愛の巣に、もう二度と帰らない   第17話

    征司は十五日間拘留された。釈放されたときには、賀来グループはすでに他人の手に渡っていた。彼名義の不動産も車も、裁判所によってすべて競売にかけられ、晴香への損害賠償と、婚姻中に晴香側から移された財産の返還に充てられた。母親の佳代子もその衝撃に耐えきれず脳卒中で倒れ、入院したまま、彼とは完全に縁を切った。征司は、帰る場所のない男になっていた。皺だらけのスーツを着て、無精ひげを生やしたまま、晴香の事務所の外に立っていた。やがて、晴香と拓海が一緒に出てくる。拓海はさりげなく晴香に上着をかけ、身をかがめて彼女の耳元で何かを囁いた。晴香はその言葉に笑い、顔を上げて彼を見つめた。征司は二人を食い入るように見ていた。その目には、絶望と嫉妬が満ちている。彼はたまらず駆け寄り、晴香の手を掴もうとした。「晴香!俺にはもう何も残っていないんだ!俺のところに戻ってきてくれ!」泣きながら懇願した。晴香は一歩下がり、その手を避けた。冷ややかな目で彼を見つめ、耳元にかかる髪をそっとかき上げた。首筋には、くっきりと赤い跡が残っていた。昨夜、拓海が残したキスマークだった。征司の視線がその赤い痕に落ちた瞬間、瞳孔が大きく揺れた。「お前……お前たち……」晴香の首筋を指差す声が震えていた。「見ての通りよ。私はもう、新しい人生を始めているの」晴香の声は静かだった。それは、征司の心をえぐるには十分すぎる一言だった。征司は完全に崩れ落ち、胸を押さえて苦しげに身を折った。ようやく思い知ったのだ。自分は永遠に晴香を失った。もう、彼女のそばにいる資格すらない。「あああっ!」彼は悲鳴のような声を上げ、雨の中へ飛び出し、通りをめちゃくちゃな足取りで走っていった。晴香はその背中を見つめたが、同情は少しも湧かなかった。すべては、彼自身が招いたことだった。そのとき、晴香のスマホが突然鳴った。知らない番号だった。彼女は通話ボタンを押した。「晴香!今すぐ一人で市西部の廃工場へ来なさい!来なければ、息子を殺す!」電話の向こうから、甘奈の狂ったような声が響いた。晴香の頭の中で、何かが弾けた。血の気が一瞬で引いていく。「知宏?知宏に何をしたの!」彼女は叫んだ。「あの子、サマーキ

  • 壊れた愛の巣に、もう二度と帰らない   第16話

    征司は車のドアを押し開け、大股で二人の前まで歩いてきた。拓海が晴香の手を握っているのを睨みつけた。その目の奥の怒りは、今にも噴き出しそうだった。「その手を離せ!」征司は拓海を指差して怒鳴った。拓海は手を離すどころか、晴香の手をさらにしっかりと握った。「賀来さん、あなたはどういう立場で命令しているんですか?」その口調には、かすかな嘲りが含まれていた。征司は怒りに我を忘れ、晴香の手を掴もうとした。「晴香、もう意地を張るな!甘奈は俺が警察に突き出した。俺たちの間には、もう何の障害もない!」彼は必死に説明した。甘奈さえ追い払えば、晴香がすべてをなかったことにしてくれるとでも思っているのだ。晴香は冷ややかに彼を見た。「あの女が警察に連れていかれたのは、当然の報いでしょう。私に何の関係があるの?」「関係あるに決まっているだろう?俺はお前のためにやったんだ!」征司は声を荒らげて反論した。「いったい何をすれば、俺を許してくれるんだ?俺は、命だってお前に差し出せる!」彼は一人で勝手に感極まっていた。晴香はその姿を見て、吐き気を覚えるだけだった。「私の視界から消えて」彼女は容赦なく言い放った。征司の顔から血の気が引いた。信じられないという目で晴香を見つめ、次に拓海へ視線を向ける。その目に悪意がよぎった。「そんな男を連れてきたのは、俺を怒らせたいだけだろう?お前がほかの男を好きになるはずがない!」彼は勝手にそう決めつけた。晴香が自分を試しているだけで、自分から離れられるはずがないと信じ込んでいるのだ。「男を見せつければ、俺が動揺するとでも思うなよ。晴香、お前は一生、俺の女だ!」征司は強引に所有権を主張した。拓海が小さく笑った。その目は冷えきっていた。「賀来さん、その自信には感心しますよ」拓海は軽蔑を含んだ口調で言い、スマホを取り出して番号を押した。「中川署長、何人か寄こしていただけますか。こちらで騒ぎを起こしている者がいます」電話に向かって淡々と告げる。征司は鼻で笑い、露骨に見下した顔をした。「警察を呼ぶ?警察がこんなことに首を突っ込むとでも思っているのか?お前はいったい何様だ」挑発するように言い放った。五分もしないうちに、二台のパトカーがサイレ

  • 壊れた愛の巣に、もう二度と帰らない   第15話

    甘奈は顔を上げた。頬は涙で濡れていた。「晴香、私にはもう何も残っていないの。征司にカードも全部止められて、家からも追い出されたのよ!」大げさに訴えるその声には、惨めさよりも恨みが滲んでいた。「あなたはもう十分でしょう!それなのに、どうしてまだ征司を手放してくれないの?」まるで自分こそが被害者だと言わんばかりに、甘奈は晴香を責め立てた。今でもまだ、征司に価値があると思っているらしい。晴香は彼女を見下ろし、冷たく言った。「私が捨てたものよ。欲しいなら拾えばいい」「でも、彼は私を相手にしてくれないの!彼が欲しがっているのは、あなたなのよ!」甘奈は叫び、勢いよく立ち上がると、晴香の目の前に指を突きつけた。「晴香、そんな澄ました顔して、本当に征司のことを何とも思ってないって言えるの?」晴香を怒らせようとしているのは明らかだった。「人を踏み台にしないと上に行けないあなたには、人の譲れない一線なんて一生わからないでしょうね」晴香の声は静かだった。彼女はスマホを取り出し、警察に通報しようとした。それを見た甘奈は、すぐに態度を変え、またその場に膝をついた。「晴香、私たち、昔は一番の親友だったじゃない!あなたがつらかったとき、私がどれだけそばにいたか忘れたの?」今度は情に訴えてきた。「私の夫のベッドにもぐり込んだとき、私たちが親友だったことは思い出さなかったの?」晴香が言い返すと、甘奈は一瞬言葉に詰まった。だが次には、当然のように一花を盾にしてきた。「一花には父親が必要なのよ!五歳の子どもから普通の家庭を奪うなんて、あなたは平気なの?」一花を持ち出したその姿に、晴香は吐き気を覚えた。「一花の部屋に火を放ったときは、あの子が自分の娘だとは思わなかったの?」晴香は容赦なく暴いた。甘奈の顔色が一変し、目を見開いた。「あ……あなた、どうしてそれを……」しどろもどろに問い返す。「知られたくないなら、最初からしなければよかったのよ。自分のやり方で、全部隠し通せるとでも思っていたの?」晴香は冷ややかに笑った。「出ていって。ここを汚さないで」そう言って、彼女は踵を返し、家の中へ戻ろうとした。その瞬間、甘奈が突然地面から跳ね起きた。ポケットから果物ナイフを取り出す。「晴

  • 壊れた愛の巣に、もう二度と帰らない   第14話

    征司はゲストルームのドアを蹴り開けた。室内では、甘奈がハンガーを手に、一花の腕を容赦なく打ちつけていた。「泣いてばっかりで、うるさいのよ!あんたの父親を引き止める役に立たなかったら、とっくに放り出してたわ!」甘奈の顔は、醜く歪んでいた。一花は部屋の隅で身を縮め、声を上げて泣いている。征司は戸口に立ったまま、その光景を見つめた。全身の血が一気に冷えていくようだった。これはもう、心の歪んだ異常者だった。「何をしている!」征司が怒鳴った。甘奈はびくりと全身を震わせ、手にしていたハンガーを床に落とした。次の瞬間には、すぐさま傷ついたような顔を作り、征司の腕にすがりつく。「征司、聞いて。一花があまりに言うことを聞かないから、少し脅かしただけなの」甘奈は言い逃れようとした。征司は彼女を乱暴に振り払い、返す手で頬を強く打った。「脅かしただけ?俺が見ていなかったとでも思っているのか!」征司は一花の腕に残った、何本もの血の筋を指差した。甘奈は頬を押さえ、信じられないという顔で征司を見た。「また私を殴るの?あの女のために私を殴っただけじゃなく、今度は子どもをしつけただけで殴るの?」甘奈は金切り声を上げた。「お前に母親を名乗る資格があるのか?」征司は歯を食いしばり、甘奈の髪を掴むと、そのまま廊下へ引きずり出した。「あの夜の火事を起こしたのは誰だ!」征司は彼女の目を睨みつけた。甘奈は視線を泳がせながらも、まだ言い張った。「晴香よ!私たち母娘に嫉妬したの!監視カメラにも映っていたじゃない!」甘奈が叫ぶ。ぱんっ。征司はまた彼女の頬を打ち、スマホを甘奈の顔の前に突きつけた。画面では、復元された映像が再生されていた。自分が火をつける姿を見た瞬間、甘奈の顔から血の気が引いた。「違う……これは違う……合成よ!」彼女は必死に首を振った。「証拠がここまで揃っているのに、まだ言い逃れする気か!」征司は甘奈の腹を蹴りつけた。甘奈は悲鳴を上げ、腹を押さえて床の上をのたうち回った。征司は彼女を見下ろした。「お前は子どもを利用して俺の気を引き、火までつけて晴香に罪を着せようとした。そのうえ、俺の子が死んだのは当然の報いだとまで言った」その声は、凍りつくほど冷たかった。

  • 壊れた愛の巣に、もう二度と帰らない   第13話

    拓海は床の破片をきれいに片づけると、温かいお茶を淹れて晴香に差し出した。「温かいものを飲むほうがいい。少しは胃も楽になるから」彼は湯呑みを彼女の手にそっと渡した。湯呑みのぬくもりが掌に伝わり、冷えきっていた晴香の指先に、ようやく感覚が戻ってきた。「今日は助かった。あなたがいなかったら、どうやって逃げればいいのか、本当にわからなかった」晴香は湯呑みを両手で包み込んだ。「大したことじゃないよ」拓海はかすかに笑い、晴香の向かいのソファに腰を下ろした。「ただ、賀来征司のような人間は、簡単には諦めない。もっと徹底した手を打つ必要がある」その言葉は、核心を突いていた。晴香はうなずいた。征司は今、晴香を失うことよりも、自分のプライドを傷つけられたことに腹を立てているだけだった。冷静になれば、きっともっと極端な手段で彼女を連れ戻そうとする。「彼名義の資産は、もうすべて押さえてある。今の彼には、何も残っていない」晴香は淡々と言った。拓海はわずかに眉を上げた。「それだけじゃ足りない。彼がまだしがみついている最後の言い訳を、ここで潰しておかないと」晴香は拓海を見つめ、その意味を理解した。征司が今でもあれほど堂々としていられるのは、すべての罪を甘奈に押しつけているからだ。自分はそこまで悪くないと思っている。ならば、彼が命がけで守ってきた女がいったいどんな人間なのか、その目で見せてやればいい。晴香はスマホを取り出し、征司にメッセージを送った。【あの夜の火事、本当に私が火をつけたと思っているの?】【あの日、子ども部屋の窓の外にある監視カメラの死角を調べてみたら?誰が着火剤を染み込ませた布を投げ入れたのか、わかるはずよ】送信を終えると、晴香はそのまま彼の番号を着信拒否にした。一方、征司は市内へ戻る車の中で、そのメッセージを見つめ、眉をきつく寄せていた。「止めろ!」彼は運転手に怒鳴った。車が路肩に急停車する。征司は画面を食い入るように見つめていた。監視カメラの死角。着火剤。彼の頭の中に、あの夜の光景がよみがえった。甘奈は胸が張り裂けるほど泣きながら、晴香が火をつけたと訴えた。執事が差し出した監視映像には、晴香が子ども部屋のドアを開ける姿だけが映っていた。だが、

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status