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色褪せた愛よ、さようなら

色褪せた愛よ、さようなら

By:  稼ぎたい子Completed
Language: Japanese
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千早名月(ちはや なつき)は、誰もが羨む完璧な結婚生活を送っていた。骨の髄まで愛してくれる完璧な夫とともに。 しかし妊娠が判明したその日、彼女は衝撃の真実を知った――最も信頼していた夫が、実は2年間も浮気を続けていたことを。 しかもその浮気相手は、大学時代に彼女を執拗にいじめていた吉塚青(よしづか あおい)であり、二人の間にはすでに双子の子どもまで生まれていた。 あの愛人は繰り返し挑発を仕掛け、夫もまた、愛人と密会するために幾度となく彼女を欺いてきた。 裏切られた約束に復讐するため、名月は躊躇なく中絶を選び、さらに自身の死を偽装する事故を企てた。 そして去る間際、流産したときの診断書と、愛人からの挑発の証拠を贈り物として夫に託し、「数日後に開けて」とだけ言い残した……

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Chapter 1

第1話

「プライベートジェットでの墜落事故を偽装してほしいの。笹原嘉行(ささばら よしゆき)と綺麗に別れたいから」

そう頼んできた千早名月(ちはや なつき)の言葉に、親友の柳橋園子(やなぎばし そのこ)は思わず顎が外れそうになった。幻聴かとさえ思った。

まるで、あの二人が結婚すると聞かされたときのように。

貧しい田舎から出てきた女の子と、Z市の名門・笹原家の御曹司。まるで住む世界が違うふたりが、誰もが予想しなかった形で結ばれたのだ。

世間は騒ぎ立てた。嘉行がただの遊びで付き合っているとか、叶わぬ恋の代わりに選ばれた「影武者」にすぎないとか、はたまた誰かと賭けをして結婚したのだとか。

だが、結婚して三年。嘉行はすべての疑念を行動で打ち消してきた。彼が結婚したのは、ただひとえに名月を愛していたから――それだけだった。

しかも、狂おしいほどに。

出会った瞬間、彼は名月に一目惚れし、激しくアプローチを開始した。

プレゼントを惜しみなく贈るだけではなく、「千早名月」の名義で数千億を慈善団体に寄付し、世界各地に「名月小学校」を設立した。

彼の願いはただ一つ。世界中の誰もが名月の名を知り、彼女が困ったときには必ず誰かが手を差し伸べてくれるように、と。

彼女と過ごす時間を少しでも増やすため、名月のアルバイトにも付き添った。飲食業、チラシ配り、宅配の仕分け作業……

生まれてこの嘉行、自分の服すら洗ったことのない御曹司が、歯を食いしばって二年もの間、彼女と一緒に汗を流した。

バイオリンを奏でていた繊細な指は、今では荒れてしまった。

その誠意がようやく名月の心を動かしたのだが、二人の家柄の差はあまりにも大きく、笹原家はふたりの交際を断固拒絶した。

彼は両親の同意を得るため、十六度も家族からの制裁を受け、鞭で打たれて血まみれになった。今でも背中には傷跡が残っている。

それでも彼は諦めなかった。ついにはすべての財産と跡継ぎの地位を放棄し、一から起業したのだ。誰にも口を出させないために。

周囲の友人たちは「狂った」と笑った。数十代かけても使いきれない財産を手放してまで、たった一人の女性に尽くすなんて。

家族も手を焼き、ついには二人の結婚を認めるしかなかった。

結婚後、彼は周囲のスタッフをすべて男性に入れ替えた。

名月が何も要求していないにもかかわらず、行動予定を細かく報告し、居場所を確認できるようGPSまで装備した。

ネット上では「神のような愛」と称賛され、純愛を信じる者たちの象徴として彼らのカップル人気は沸騰、数多の芸能人をも凌ぐ勢いだった。

だが――

名月以外、誰も知らなかった。

この完璧な男が、密かに別の女性と双子をもうけ、外で別の家庭を築いていたことを。

その事実を知った日、名月は血を吐いて気を失った。

この知らせを聞いた嘉行は、数百億の取引を即座にキャンセルし、すぐに帰国した。昼夜問わず彼女のそばに付き添った。

名月が目を覚ましたとき、彼はベッドの傍らで点滴チューブを握って温めながら、心配そうに彼女を見守っていた。

「目が覚めた?本当に……怖かったんだ」

彼は顔を彼女の手にすり寄せ、涙をこぼしそうだった。

過去、銃口を突きつけられても眉一つ動かさなかった男が、名月の吐血に膝を崩したという。

彼の目に宿る焦りと心配――それが演技でないことは、誰よりも名月自身が知っていた。

この人は、本当に自分を愛している。

けれど、同じその目で吉塚青のことも見つめたのだろうか?

あの甘い言葉を、彼女にも囁いたのだろうか?

吉塚青(よしづか あおい)。彼の浮気相手であり、幼なじみ。

嘉行が名月を追いかけ始めたと知った当時、青は名月に執拗な嫌がらせをした。バイト先で難癖をつけ、仕事を潰し、果てはチンピラをけしかけて辱めようとまでした。

だが、それを止めたのも嘉行だった。告白しに来た彼がその場に居合わせたのだ。

彼は吉塚家との縁など一切気にせず、そのまま吉塚家を破産に追い込み、母に止められなければ命さえ奪っていただろう。

だからこそ、あの醜い動画と親子鑑定書を目にするまでは、名月は彼の裏切りを信じることができなかった。

もう、子どもは一歳だというのに。

名月は目を閉じて顔をそらし、涙が頬をつたって枕を濡らした。

嘉行はその涙に気づかず、「さっき先生が言ってたよ。君、妊娠してる。二ヶ月目だって!」と嬉しそうに声を弾ませた。

「五日後は俺たちの結婚記念日だし、赤ちゃんもできた。まさにめでたいことが重なるんだよ!」

その瞬間、名月の目が見開かれた。

幼い頃、父親に氷河に突き落とされて凍傷を負い、医者には「妊娠は難しい」と何度も言われてきた。

それを知っている笹原家の両親は、彼女に冷たい態度を取った。

彼女は我慢してきた。夫の両親だから。

でも、嘉行は違った。

「名月は俺の大切な人だ。彼女が一緒にいてくれるだけで、俺はもう幸せなんだ。子どもができないってことで、彼女に冷たくするなら、俺は親子の縁を切る」

小さな命が宿る腹に手を当てながら、名月はこらえていた感情を押し止められず、嗚咽を漏らした。

嘉行は彼女を優しく抱きしめ、「誰が君を泣かせたの?俺が懲らしめてやるぞ」と囁いた。

けれど、その彼の体からは、知らない香水の匂いと、微かに乳製品の甘い匂いが混ざっていた。

名月は激しく彼を突き飛ばし、ベッドの端に倒れ込むようにして嘔吐した。

嘉行はそれを妊娠の悪阻だと思い、反射的に両手で彼女の口元を受け止めようとした。

潔癖症のはずなのに、彼は自分の服が汚れることなど一切気にしていなかった。

その姿に、名月は言葉を失った。

彼は本当に潔癖なのに、自分のためならここまでできる。

彼女の服も靴も、すべて彼が手洗いしていた――三年の間、彼はずっと名月に誠意を注ぎ続けた。名月もまた、本気で彼を愛していた。

もう彼なしでは生きられない。

そう思った矢先、嘉行はメッセージを受け取ると「会社に呼ばれた」と言って出て行った。

その三十分後、青から写真が届いた。

写真には、双子の赤ん坊を抱き、彼らの額に優しくキスをする嘉行の姿が写っていた。

その一枚が、彼女の最後の幻想をすべて打ち砕いた。

病院を出た名月は、園子の元を訪れた。

「飛行機事故を偽装して。あの人の手を振り切るためには、それしかない」と、園子に頼んだ。

彼の性格を、一番よく知っているのは彼女だった。

嘉行は、絶対に離婚には応じない。彼女を手放すくらいなら、狂ってしまうような男なのだから。
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Comments

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蘇枋美郷
不倫して後悔して自殺するくらいなら最初からしなきゃ良いだろ。ほんとクズ!死のうが許さねーよ!
2025-07-01 23:04:05
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21 Chapters
第1話
「プライベートジェットでの墜落事故を偽装してほしいの。笹原嘉行(ささばら よしゆき)と綺麗に別れたいから」そう頼んできた千早名月(ちはや なつき)の言葉に、親友の柳橋園子(やなぎばし そのこ)は思わず顎が外れそうになった。幻聴かとさえ思った。まるで、あの二人が結婚すると聞かされたときのように。貧しい田舎から出てきた女の子と、Z市の名門・笹原家の御曹司。まるで住む世界が違うふたりが、誰もが予想しなかった形で結ばれたのだ。世間は騒ぎ立てた。嘉行がただの遊びで付き合っているとか、叶わぬ恋の代わりに選ばれた「影武者」にすぎないとか、はたまた誰かと賭けをして結婚したのだとか。だが、結婚して三年。嘉行はすべての疑念を行動で打ち消してきた。彼が結婚したのは、ただひとえに名月を愛していたから――それだけだった。しかも、狂おしいほどに。出会った瞬間、彼は名月に一目惚れし、激しくアプローチを開始した。プレゼントを惜しみなく贈るだけではなく、「千早名月」の名義で数千億を慈善団体に寄付し、世界各地に「名月小学校」を設立した。彼の願いはただ一つ。世界中の誰もが名月の名を知り、彼女が困ったときには必ず誰かが手を差し伸べてくれるように、と。彼女と過ごす時間を少しでも増やすため、名月のアルバイトにも付き添った。飲食業、チラシ配り、宅配の仕分け作業……生まれてこの嘉行、自分の服すら洗ったことのない御曹司が、歯を食いしばって二年もの間、彼女と一緒に汗を流した。バイオリンを奏でていた繊細な指は、今では荒れてしまった。その誠意がようやく名月の心を動かしたのだが、二人の家柄の差はあまりにも大きく、笹原家はふたりの交際を断固拒絶した。彼は両親の同意を得るため、十六度も家族からの制裁を受け、鞭で打たれて血まみれになった。今でも背中には傷跡が残っている。それでも彼は諦めなかった。ついにはすべての財産と跡継ぎの地位を放棄し、一から起業したのだ。誰にも口を出させないために。周囲の友人たちは「狂った」と笑った。数十代かけても使いきれない財産を手放してまで、たった一人の女性に尽くすなんて。家族も手を焼き、ついには二人の結婚を認めるしかなかった。結婚後、彼は周囲のスタッフをすべて男性に入れ替えた。名月が何も要求していないにもかかわらず、行動予定を細
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第2話
園子のもとから戻った後、名月はすぐに地方の病院へ行き、中絶手術の予約を取った。笹原家の人間は誰もが手段を選ばない大物ばかりで、この市内で手術しようものなら、手術に入る前に嘉行へ情報が漏れてしまうだろう。手術室に入る直前、青からまた動画が送られてきた。全編2時間半。画面の中では、青がセクシーなランジェリー姿で、嘉行はピシッとしたスーツ姿。テーブルにはいくつもの大人のおもちゃが並べられ、キッチン、書斎、玄関……部屋のあらゆる場所でふたりは愛を交わしていた。動画の中の嘉行は、名月がこれまで一度も見たことのないほど狂ったような姿だった。そのすべての場面が彼女の心を引き裂くほどに痛めつけたが、それでも彼女は自分を責めるように最後まで見届けた。「千早さん、もうすぐ手術の時間ですが……今の状態で大丈夫ですか?」医師が不安げに声をかけてきた。名月はようやく、自分がすでに涙を流し、全身震えていることに気づいた。ただ悲しみのせいではなく、彼女は気づいてしまったのだ――嘉行が浮気したと分かっていても、自分の心はまだ彼を愛しているのだと。人は服のように簡単に捨てられるものではない。嘉行を人生から切り離すことは、彼女にとって胸を裂き、自らの心臓を血まみれのまま引きずり出して粉々にするに等しかった。涙をぬぐい、名月は最後にもう一度、嘉行にチャンスを与えようと決めた。彼に電話をかけた。「今どこ?会いたくなった……戻ってきてくれる?」嘉行の声はどこか押し殺されたような緊張を帯びていた。「名月か?今、会社でどうしても外せない用事があって……うっ……!」彼は低く唸り、急に早口になった。「今日は帰れそうにない!」そのまま電話を切られた。名月は呆然と立ち尽くし、止まらない涙が溢れてきた。彼が自分から電話を切ったのは、これが初めてだった。数分後、彼女は目を閉じ、深呼吸した。「大丈夫です。お願いします、手術を」……深夜、疲れ切った体で家に戻ると、園子からメッセージが届いていた。【名月ちゃん、準備はすべて整った。あと二日で実行するわよ】名月はベッドに倒れ込み、一晩中、眠っては泣いて目を覚まし、後半の夜は膝を抱えて闇の中に座り込み、夜明けを迎えた。翌朝、嘉行が帰ってきた。彼はコートを脱ぎ、体が温まる
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第3話
青の登場により、場の空気は一気に重苦しくなった。だが彼女は皆が歓迎していない様子に気づかぬふりをして、勝手に名月の向かいに腰を下ろし、笑みを浮かべながら皆の手元にある贈り物を眺めた。「シャンリ・シュエナか……有名なブランドよね。でも皆まだ知らないの?これ、私が立ち上げたブランドなのよ」彼女のブランド?皆の心に疑念がよぎった。吉塚家は当時、嘉行によって破産に追い込まれ、国内ではどこにも立場がなくなったはず。そんな彼女がどうやってこんな高級ブランドを作れたのか。「うちはあの時ちょっとした災難に遭ったけど、その後、今の夫に出会ってね。二年前、彼が数千億投じてくれたの。それに人脈も総動員して、会社の設立を手伝ってくれたのよ。しかも、ひとつじゃないわ。全部で二十六社も設立してくれたの」そう語る彼女の目線は、ちらりと嘉行をかすめ、そしてわざとらしく挑発的な笑みを浮かべて名月を見た。その瞬間、名月の呼吸が止まりそうになった。思い出したのは二年前、嘉行が異常に多忙だったあの時期。あの時、彼は「海外市場を開拓してるから忙しい」と言っていた。だが、実際は青のために奔走していたのだ。胸の奥から激しい痛みが走り、名月は思わず胸元を押さえた。「どうしたんだ、名月?どこか痛いのか?」嘉行はすぐに立ち上がり、慌てた様子で言った。「今すぐ医者を呼んでくる!」青は冷笑した。「ねえ、千早さん。笹原社長にあれだけ大事にされてるのに、なんでそんな死人みたいな顔してんのよ?」その言葉が終わるか終わらないかのうちに、嘉行の顔が一瞬で険しくなり、力強く彼女の頬を打った。「まだ黙らないなら、二度と口をきけなくしてやる」青は頬を押さえながら、悔しそうに鼻を鳴らし、個室をあとにした。彼女が去ると、場の空気は再びにぎやかさを取り戻したが、名月の顔色は一向に良くならなかった。嘉行は彼女の手を強く握った。「名月、どこが痛む?もうすぐ医者が来るからな」名月は彼の手を振り払った。「大丈夫。ちょっとお手洗いに行ってくるから、ついて来ないで」廊下に出た名月は、再び青に行く手を塞がれた。「さっきのことで、自分が嘉行にとってどれほど大事かなんて思わないでよ。私は彼の子を二人も産んでるのよ。彼の心はもう私に傾いてる。私が『子どもが熱を出した』って言っ
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第4話
午後、名月は大学の先生を訪ねた。別れ際、先生は彼女の手を引いて近くの神社に立ち寄り、「ここは特に霊験あらたかだから、君のためにお守りをもらってやろう」と言った。だが、そこにいた一度も会ったことのない宮司が、名月の名前を口にした。「不思議に思われましたか?どうして千早様のお名前を知っているのかと」宮司は微笑んで答えた。「一年前、笹原嘉行という方が十六億円を当宮に寄進されました。その際、高額を投じて千早様のためにお守りを願われました。ただし、そのお守りは持ち帰らず、当宮で大切に保管するようにと預けられました」先生は満足そうに笑った。「笹原さんは君のことを本当に大切にしているのだな。夫婦仲睦まじくて何よりだよ、私も安心した」名月は黙って視線を伏せた。過去の温もりと裏切られた痛みが心中で交錯し、ようやく静まっていた感情が再び波立った。「せっかくのご縁ですし、千早様もいらしたのですから、そのお守りをお持ち帰りください」そう言われてお守りを受け取って帰ろうとした時、宮司が再び呼び止めた。「お待ちを、笹原様はあの時、お守りを三枚お求めになりました。それらもどうぞお持ちください」名月は受け取ったが、そこに記された名前を見た瞬間、思わず笑い出しそうになった。そこに記されたのは、吉塚青と双子の名前だった。……夜、嘉行が帰宅した時、名月はすでに眠りについていた。これまで何年も、互いが帰ってくるのを待ち、一緒に抱き合ってからでないと眠れなかったのに――彼女が先に寝ているのは、これが初めてだった。嘉行の胸に、不安が静かに浮かび上がった。彼は彼女を抱きしめ、首筋に顔をうずめた。「会いたかったよ、名月。ほんの数時間ぶりなのに、何世紀も会ってない気がした。もし君がいなくなったら……俺は生きていけない」「そうなの?」名月は静かに囁いた。「そうだ。一つ相談があるんだけど……あの島のこと、占い師に見てもらったら風水が良くないって言われて、新しく二つ買ったんだ。そっちのほうが良さそうだよ」「好きにして」名月は目を閉じた。その冷淡でどこか倦んだ口調に、嘉行の不安は募っていった。「名月……もしかして、俺が何か怒らせた?」「別に。ただ、少し疲れただけ」彼女は深く息を吸った。「もうすぐ結婚記念日でしょう。明日の
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第5話
彼女は宴会場の外の柱の陰に身を潜めたが、嘉行とその従妹・笹原霧子(ささばら きりこ)の会話が聞こえてきた。「ねえ、ほんとにこのままずっと二重生活を続けるつもりなの?」霧子は眉をひそめた。「いくら隠しても、真相は覆い隠せないでしょう。いつかお義姉さんにバレるわよ」嘉行は笑って言った。「俺が愛してるのは名月だ。でも青には子どもまで産んでもらった。だから彼女を捨てることなんてできないさ。このまま二人とも守って生きていくのも、悪くないと思ってる」「でももしバレたらどうするの?」霧子は不満げに言った。「それって結婚に対する裏切りじゃない。お義姉さんに失礼すぎるでしょ」「そんな日は来ないさ。もう何年もこんなふうにやってきたんだから」嘉行は自信たっぷりに言った。「名月には申し訳ないと思ってる。だからその分、もっともっと大切にするつもりなんだ」霧子は呆れて目を剥いた。「愛って、物で償えるものなの?忠告してあげるけど、叔父さんがもうすぐ帰国するんだからね。あの人、頑固で、こういう不倫まがいのことが大嫌いなの。浮気相手をちゃんと隠しておきなよ。叔父さんに見つかったら、絶対黙ってないから!」柱の陰で、名月はそっと膝を折り、地面に崩れ落ちた。心が痛みすぎて、もう何も感じなかった。ただ、吐き気だけが込み上げてきた。ふらつく足取りでホテルを飛び出したが、連日の精神的ショックに体が耐えきれず、目の前が真っ暗になり、そのまま地面に倒れ込んだ。目が覚めたら、彼女は見知らぬ部屋のベッドの上にいた。ソファにはスーツ姿の男が座っており、縁なしの眼鏡をかけ、分厚い資料に目を通していた。無表情だった、その端正で整った顔立ちからは、どこか圧倒的な雰囲気が漂っていた。名月はしばらく呆然とした後、その人物が誰かを思い出した。嘉行の叔父、笹原五郎(ささばら ごろう)――彼は長年海外でビジネスをしており、名月も数回しか会ったことがなかった。ただ、嘉行が三歳年上のこの叔父を少し苦手にしていることは知っていた。子どもの頃、親が甘やかして叱らなかった分、よく代わりに彼を叱っていたらしい。嘉行は言っていた。「叔父さんは真面目で融通が利かない。何でもルール通りじゃないと気が済まない人だ」「目が覚めたか」男は書類を閉じた。「先生の話では、流産の
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第6話
数時間後、嘉行は別荘から姿を現した。名月はしばし彼を見つめた後、ふと手を上げて手首の腕輪を見せた。「これ、あなたが自分で作ってくれたもの。でも今日、気づいたの。色が落ちてた。嘉行……ねえ、あなたの愛も色褪せるのかしら?」「そんなことない!」嘉行は真剣な顔で彼女の手を握り、まるで誓いを捧げるようにキスを落とした。「俺の愛は、日に日に深くなるだけだよ!」名月は曖昧に微笑んだ。「愛してる」と言いながら、あんな風に欺いて、弄んで。本当は静かに去るつもりだった。でも今、考えを変えた。嘉行の二心を、彼女を二年間も騙してきたことを、彼が破った誓いを――そして何よりも、愛を与えながら深い傷を刻んだことを、彼女は思い知らせてやりたかった。彼女はそっと彼を抱きしめた。「嘉行、私もあなたを愛してる。だから――待っててね。私と……私たちの赤ちゃんが帰ってくるのを。三度目の結婚記念日、あなたと一緒にお祝いするから」そして、彼女は封筒を取り出して彼の手にそっと置いた。「これはプレゼント。二日後に開けて」中には、彼女が流産したときの診断書と、青が送りつけてきた動画のスクリーンショット。今日の午後、飛行機事故の知らせが届いたとき、彼はこれを開くはずだ。そのときようやく彼は気づくだろう。自分の裏切りが、彼女を絶望の淵に追い込み、望んでいた子供を失わせ、そして愛する妻の命さえも奪ったのだということを。名月は、彼がこれから一生、悔やみ、苦しみ続けることを望んでいた。「わかった、君の帰りを待ってるよ」嘉行の目は輝き、希望に満ちていた。「空港まで送っていくよ」しかし、名月は首を振って拒んだ。人生という旅路で、彼と共に歩んできた道はもう十分。最後の一歩くらい、自分一人で進みたかった。「いいわよ、送らなくて。あなた忙しいでしょ?どうせまた誰かに呼ばれるんだから」嘉行は一瞬言葉を失った。なぜか、その言葉の裏に含まれた皮肉に気づいた気がして、胸にざわついた不安がよぎった。ちょうどそのとき、スマホが震えた。青からのメッセージだった。【パパ、さっきはちょっと物足りなかったわ。奥さんを見送ったら、また続きしましょ?】そして、そこには名月の下着を身に着けた彼女の写真が添えられていた。嘉行の呼吸が荒くなり、胸に
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第7話
「パパ、どうして続けてくれないの?」蛇のように艶めかしく身体をすり寄せる青。普段なら嘉行はとっくに飛びついているはずだった。だが今の彼は、まるで石像のように動けなかった。数秒後、彼は突如として真っ直ぐに崩れ落ち、大量の血を吐いた。鮮血がベッドの上を染め上げ、青の悲鳴が響き渡る中、嘉行はもがきながら立ち上がり、ふらつきながら車庫へと走った。名月が死んだなんて、あるはずがない。自分の手で確かめに行くのだ!車に乗り込むと、助手席には名月が残していった書類袋がそのまま置かれていた。嘉行の心臓がねじれるように痛み出し、荒い息を吐くたび、その痛みは血の中へと染み込み、全身を蝕んでいいった。なぜ、名月を一人で飛行させることを許してしまったのか。なぜ、経験豊富なパイロットを何人か一緒に乗せなかったのか。──理由は明白だった。人の注意力には限界がある。最近は双子の誕生日パーティーの準備にかかりきりで、それ以外の些細なことには気が回らなかったのだ。捜索は丸二日続けられた。周辺数百キロの海域はくまなく探されたが、生存者の手がかりは一つも見つからなかった。捜索員たちは言葉を慎重に選びながら報告した。何しろ、嘉行と名月の深い絆は周知の事実だったからだ。「笹原様、大洋上での航空事故となると……生存の可能性は極めて低く、千早さんは……おそらくお亡くなりになったと……」嘉行は涙を止められず、その場に崩れ落ちた。もはや自力で立つことすらできず、周囲の人間に支えられてやっと立っているような状態だった。だが「お亡くなり」という言葉を聞いた瞬間、彼は突然捜索員に飛びかかり、襟元を掴んで怒鳴った。目は血走り、まるで狂気に飲まれたかのようだった。「ふざけるな!よくも俺の妻を呪えたな!名月は死んでない!あいつは死んでないんだ!そんなこと言うな!」助理が必死に彼を引き剥がした。嘉行はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動かなかった。そしてぽつりと呟いた。「今日は……結婚記念日だった。名月、帰ってくるって言ってたんだ」彼は盛大なセレモニーを用意していた。だが式典は葬儀へと変わった。事故現場にはもう用はない。彼は一人式場へと向かった。中央に掲げられた巨大な結婚写真を見つめ、再び涙を流した。事故のその時、自分が何をしていたか。青とベッドで
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第8話
五郎は看護師に嘉行をしっかり見張るように言い置くと、自ら助手席の書類袋を取りに行った。病室に戻ってきたとき、そこには見知らぬ女と二人の子どもがいた。「あなたはもう何も考えられないかもしれないけど、せめて自分の子どもたちのことくらいは考えて!」その女が泣きながら訴えるのを見て、五郎は眉をひそめ、扉にかけた手を止めた。どういうことだ?彼の知る限り、嘉行と名月の間に子どもはいない。ならばこの「子どもたち」とは?まさか――婚姻中に他の女との間に子どもを?「あなたが死ぬっていうなら、私もこの子たちを連れて一緒に死ぬから!あなたがいないなら、生きてても意味なんてない!」病室内で、嘉行の表情に微かな動揺が走った。彼は手を伸ばして青の髪を撫で、静かに嘆息した。「そんなことをする必要はないだろう……」五郎は冷たい顔つきで中に入り、書類袋を彼に投げつけた。「欲しかった物だ」嘉行は袋を開け、中身を取り出した。その間も青は彼の手を握って涙ながらに語りかけていた。「嘉行……私、名月のこと好きじゃなかったけど、でも彼女が事故に遭ったのは私だって辛いの。だけど、亡くなった人のことばかり見てても、残された人間はどうやって生きればいいの?もう自分を責めるのはやめて、これからは私があなたのそばにいてあげる。ね?」ついにこの日が来た――名月がいなくなった今、嘉行は彼女だけのものになる。青は甘美な未来を夢見ながら、唇の端に浮かびそうになる笑みを必死でこらえていた。だが、そのとき嘉行の顔色は急激に変わっていた。次の瞬間、彼は手にしていた書類を青の頭めがけて叩きつけ、鉄のように硬い顔で立ち上がり、彼女の首を掴んだ。「貴様には前にも言ったはずだ。欲しい物は何でもくれてやる。ただし、このことだけは名月に知られてはならないと……それなのに、どうして貴様は、名月に知らせた!どうして名月を何度も挑発したんだ!」「わ、私はやってない!」青は必死に否定しようとしたが、床に散らばった紙に目をやった途端、その声が止まった。そこには名月が中絶手術を受けた際の記録と、青とのメッセージのやり取りを写したスクリーンショットがあった。瞳が見開かれ、恐怖に凍りついた。まさか、あの傲慢な名月が、こんな証拠を残していくとは――あんな女が、死ぬ間際ま
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第9話
名月が海外に来てから、すでに三か月が経っていた。この間、彼女はいつもカーテンをぴったりと閉め切り、部屋に一人きりでぼんやり過ごす日々を送っていた。一日中何もせず、ただ虚空を見つめていた。彼女の心が沈んでいた原因は、嘉行であることは明らかだった。すでに彼を自分の人生から切り離したはずなのに、あまりにも深く刻み込まれた記憶は、簡単には消えていかなかった。彼の存在は、もはや習慣のようになっていたのだ。親友の園子が彼女を食事に誘った。好物の料理を口にした瞬間、思わず隣の空席に向かってこう呟いた。「ねえ、これ美味しいよ。帰ったら再現してくれない?」その場にいた園子も本人も、一瞬ぎょっとした。夜、眠ろうとしてベッドに入ると、無意識のうちに隣の人を抱こうと手を伸ばしてしまった。しかし、そこにあるのはただの空気。そんな夜は決まって眠れなかった。朝、服を着る時も違和感を覚えた。以前は彼が身の回りのことを細かく気遣ってくれていて、洋服一つ一つにも彼が選んだ香水の匂いが染み込んでいた。今、クリーニングから戻ってきた服には、何の匂いもなかった。ここ数年、嘉行はその優しさで、生活の隅々にまで溶け込んでいた。まるで異なる色の糸が織り重なり、一枚の布になったかのように。彼女には、その織物を一から解きほぐし、新たに編み直す時間が必要だった。嘉行を、人生から完全に消し去るために。三か月後、名月は新たな生活にようやく慣れてきた。自分のことはきちんと自分でこなせるようになり、嘉行のことを思い出す回数も、ずっと減っていた。彼女は大学時代、ソフトウェア工学とAIのダブルメジャーを修了していた。プログラミングが大好きだった。1と0で構成されたこの世界では、すべてが明確でルールに従っており、そのルールを操れば、不確定なものすら自分の手で創造できる。そんな「手の届く確かさ」に、彼女は安心感を覚えていた。卒業後もこの分野の仕事に携わり、豊富な経験を積んできた。今は、自分の技術ブランドの立ち上げを目指している。さらに三か月ほどの試行錯誤の末、彼女は製品を完成させ、工場と交渉して自費で初回ロットを量産。必要な手続きを経て、市場に投入した。これはあくまで「試し」のつもりだった。ところが、反響は予想をはるかに超えて大きかった。一般のユーザーだけでなく、
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第10話
園子は五郎のことを知らず、自分がすでに身元を知られてしまったことにも気づいていなかった。彼女がその場を離れた後、五郎はすぐにアシスタントを呼び寄せた。「彼女がどこに住んでいるか、誰と一緒にいるか調べろ」アシスタントは頷いて退出しかけたが、五郎はふと思い出して彼を引き止めた。「あの子は、まだ見つかっていないのか?」五郎が九歳の時、仇敵の策略に巻き込まれ、人さらいに連れ去られてしまった。連れて行かれたのは、山がいくつも連なる奥地の小さな村。何度逃げても、出口は見つからなかった。人生を諦めかけたその時、彼の手を取ってくれたのが「田中そら」という少女だった。彼女は誰も知らない山道をこっそり教えてくれ、手に握らせたのは硬くなったいくつかのせんべい。「この道をずっと走れば、明日の午後には抜けられるから」五郎はその手を掴み、必死に訴えた。「一緒に逃げよう。もしあなたが僕を逃がしたとバレたら、きっと酷い目に遭う」だが田中そらは首を振った。「行けない。行くならお母さんも一緒に連れていきたい……でも、お母さんの足は折られてて動けないの」しばらく黙っていた彼女は、ぽつりと呟いた。「お兄ちゃん、外に出たら警察に言って。うちのお母さん、攫われてきたんだよ」五郎はその後、必死に山を駆け下り、脱出には成功したが、極度の疲労と発熱で倒れ、しばらく昏睡状態になった。目を覚ました時には、あの村の正確な位置はもう思い出せなかった。けれど、涙をこらえるようなあの意志の強い瞳と、彼女の足首にあった茶碗の口ほどもある傷跡、そして名前――「田中そら」だけは、今も鮮明に覚えている。それから今日まで、彼は彼女をずっと探し続けていた。アシスタントは小さく首を振った。「笹原様……全国に同じ名前の人が多すぎて、まだ絞り切れていません」五郎は心の奥に湧いた落胆を押し込めると、手を振って言った。「もういい、戻って仕事しろ」数日後。園子は名月を連れて、近くのバーで酒を飲んでいた。何人かの男に声をかけられたが、彼女たちは軽くあしらって終わらせた。「この前契約で会った人、マジで死ぬほどカッコよかったの!でもね、なんかオーラがすごすぎて、近寄れなかった……私なんでビビっちゃったんだろ。ああ、惜しい!」園子はそう言って悔
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