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第2話

Author: ラッキーセブン
正幸は私を置いて去った。

地下駐車場の轟音が響く中、携帯にメッセージが届く。

【しばらく戻らない。家にある自分のものは片付けておけ】

【二週間後に鍵を替えるから】

返信はしなかった。

五年間暮らした別荘に残った自分の痕跡を、無言で消し去る。

しばらくして、携帯の画面が明滅する。

正幸はもう、怯えきった石原純子に会っているのだろう。

十年続いた関係に、せめてもの体裁を整えるためか。

【用事があったら電話しろ】

【名分は与えられないが、友達ではいられる】

十年も正幸を愛し続けて、手にしたのは「友達」という淡い言葉。

……

激しい雨が二日間降り続いた。

南の都は雨に濡れ、湿気が骨まで染みる。

夜中に目が覚めるたび、ライターを手にした。

正幸と出会った頃、彼は半地下の薄暗い部屋で暮らす金のないならず者だった。

黴臭い空気の中、ライターの火だけがゆらめく。

「パチ」「パチ」、点火しては消える音。

角刈りの正幸が学生服の私を睨む。

「覚悟はあるか、琴乃」

「俺みたいな奴に未来なんてねえ」

「お前が望むようなものは、何もやれねえ」

あの頃の私は純粋すぎた。

雨に濡れたズック靴を脱ぎ、冷え切った足を彼の胸に押し当てた。

ランニングシャツの薄い生地越しに、正幸の体温が火のように体を焦がした。

ライターの小さな炎だけが頼りなのに、私は強がって頷いた。

「正幸、私に未来なんていらない」

「あなたがいればいい」

拳銃を握り合い、刃物を手にしたこともある。

包帯と消毒液の匂いが漂う夜中、首を締められながら、意識を失うほど抱き合った。

正幸は言った。足を洗う日が来たら、真っ先に私を嫁に迎えると。

今、彼は足を洗うという。

その真っ先に、私との線引きを選んだ。

二十八歳、もう子供じゃない。愚かさに溺れる年でもない。

実家が用意した男に、そろそろ形だけの約束を果たさねばならない。

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