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声々の想い

声々の想い

By:  ラッキーセブンCompleted
Language: Japanese
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私はヤクザの親分・荒川正幸(あらがわ まさゆき)に十年も付き従ってきた。だが、彼が足を洗ったその日、舎弟たちが別人を「姐さん」と呼んでいた。 銃を握り、血を浴びたその手が、少女にズック靴を履かせている。 「矢崎琴乃(やざき ことの)、あの子はお前とは違う」 「お前は名分なくても俺と道を外せるが、あの子は無理だ」 あの日、私は振り返らなかった。 正幸は知らない。私が道を外したことを家族は承知で、ちゃんとした男を育てておき、名分を待たせていたことを。

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Chapter 1

第1話

私はヤクザの親分・荒川正幸(あらがわ まさゆき)に十年も付き従ってきた。だが、彼が足を洗ったその日、舎弟たちが別人を「姐さん」と呼んでいた。

銃を握り、血を浴びたその手が、少女にズック靴を履かせている。

「矢崎琴乃(やざき ことの)、あの子はお前とは違う」

「お前は名分なくても俺と道を外せるが、あの子は無理だ」

あの日、私は振り返らなかった。

正幸は知らない。私が道を外したことを家族は承知で、ちゃんとした男を育てておき、名分を待たせていたことを。

正幸が足を洗うと決めた日、彼は私をベッドに引きずり込み、昼も夜もなく貪り合った。

床に散らばった裂けた下着の破片を見て、私は言葉を失った。

「正幸、世界が終わるの?」

彼の貪欲な様子は、まるで明日がないかのようだった。

正幸は煙をくゆらせ、薄い瞼を伏せてぼんやりと呟いた。

「琴乃、俺と別れても……泣き喚いたりすんじゃねえよな?」

十年も付き合えば、彼の性分はわかる。

彼は従順そうで、どこか反抗的な女を好む。

今も、彼の吸いかけの煙を奪い、感情を押し殺して慵げに眉を上げた。

「私も十八歳じゃないわ」

もしズック靴を履いた十八歳のままなら、正幸に捨てられれば彼の縄張りに突っ込み、命を投げ出していただろう。

だが二十八歳になった今--喉が詰まり、続けられなかった。

正幸は私の頭を撫で、指元まで燃え尽きた煙草を消した。

「琴乃、これで終わりだ」

「煙草もやめろ。体を雑に扱うんじゃねえ」

「もう子供じゃない。ふざけたままでいられねえ」

その瞬間、私は凍り付いた。

二十八歳で別れる時、先に涙を零した方が負けだ。

崩れた化粧で惨めな姿を見せまいと、コートを手に立ち上がると、正幸の長い腕が私を再び引き寄せた。

窓の外で黒雲が渦巻き、雨が降りそうだった。

正幸の唇が裸の背中に触れ、慣れた手つきでドレスの肩紐を整える。

耳を噛みながら、彼は囁いた。

「聞こえてるか?」

答えない私を咎めず、支配者のように言い放つ。

「雨だ。少し待て」

十年の歳月は葛藤を表面の平穏に変えた。

正幸は忘れているらしい--私の気性が、単なる演技だけじゃないことを。

別れるなら、きっぱりと。

背筋を伸ばし、彫刻のような彼の顔を押しのけて笑った。

「この雨、いつまで続くの?」

彼の心に他人がいるなら、私をいつまで留められる?

正幸の眉がぴくりと動いたが、すぐに平静を取り戻した。

正幸が彼女を紹介する言葉は簡素だった。

「琴乃、お前は賢い女だ」

「石原純子(いしはら じゅんこ)という。あの子はお前とは違う。お前は名分なくても俺と道を外せるが、あの子は無理だ」

「彼女が……清らかすぎる」

喉が詰まった。

床の惨状を見下ろし、言葉を失う。

「名分なくても道を外せる」とは?

黒のストッキング、ハイヒール、シースルーのドレス--正幸の好みで十年も着せられ、艶やかさに慣れた私を、今さら「俗」だと言うのか?

抗議しようとした時、正幸が唇に指を当てた。

石原純子からの電話だった。

「正幸さん、迎えに来るって言ったじゃないですか……」

「一人で……怖いです……」

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第1話
私はヤクザの親分・荒川正幸(あらがわ まさゆき)に十年も付き従ってきた。だが、彼が足を洗ったその日、舎弟たちが別人を「姐さん」と呼んでいた。銃を握り、血を浴びたその手が、少女にズック靴を履かせている。「矢崎琴乃(やざき ことの)、あの子はお前とは違う」「お前は名分なくても俺と道を外せるが、あの子は無理だ」あの日、私は振り返らなかった。正幸は知らない。私が道を外したことを家族は承知で、ちゃんとした男を育てておき、名分を待たせていたことを。正幸が足を洗うと決めた日、彼は私をベッドに引きずり込み、昼も夜もなく貪り合った。床に散らばった裂けた下着の破片を見て、私は言葉を失った。「正幸、世界が終わるの?」彼の貪欲な様子は、まるで明日がないかのようだった。正幸は煙をくゆらせ、薄い瞼を伏せてぼんやりと呟いた。「琴乃、俺と別れても……泣き喚いたりすんじゃねえよな?」十年も付き合えば、彼の性分はわかる。彼は従順そうで、どこか反抗的な女を好む。今も、彼の吸いかけの煙を奪い、感情を押し殺して慵げに眉を上げた。「私も十八歳じゃないわ」もしズック靴を履いた十八歳のままなら、正幸に捨てられれば彼の縄張りに突っ込み、命を投げ出していただろう。だが二十八歳になった今--喉が詰まり、続けられなかった。正幸は私の頭を撫で、指元まで燃え尽きた煙草を消した。「琴乃、これで終わりだ」「煙草もやめろ。体を雑に扱うんじゃねえ」「もう子供じゃない。ふざけたままでいられねえ」その瞬間、私は凍り付いた。二十八歳で別れる時、先に涙を零した方が負けだ。崩れた化粧で惨めな姿を見せまいと、コートを手に立ち上がると、正幸の長い腕が私を再び引き寄せた。窓の外で黒雲が渦巻き、雨が降りそうだった。正幸の唇が裸の背中に触れ、慣れた手つきでドレスの肩紐を整える。耳を噛みながら、彼は囁いた。「聞こえてるか?」答えない私を咎めず、支配者のように言い放つ。「雨だ。少し待て」十年の歳月は葛藤を表面の平穏に変えた。正幸は忘れているらしい--私の気性が、単なる演技だけじゃないことを。別れるなら、きっぱりと。背筋を伸ばし、彫刻のような彼の顔を押しのけて笑った。「この雨、いつまで続くの?」彼の心に他人がいるなら
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第2話
正幸は私を置いて去った。地下駐車場の轟音が響く中、携帯にメッセージが届く。【しばらく戻らない。家にある自分のものは片付けておけ】【二週間後に鍵を替えるから】返信はしなかった。五年間暮らした別荘に残った自分の痕跡を、無言で消し去る。しばらくして、携帯の画面が明滅する。正幸はもう、怯えきった石原純子に会っているのだろう。十年続いた関係に、せめてもの体裁を整えるためか。【用事があったら電話しろ】【名分は与えられないが、友達ではいられる】十年も正幸を愛し続けて、手にしたのは「友達」という淡い言葉。……激しい雨が二日間降り続いた。南の都は雨に濡れ、湿気が骨まで染みる。夜中に目が覚めるたび、ライターを手にした。正幸と出会った頃、彼は半地下の薄暗い部屋で暮らす金のないならず者だった。黴臭い空気の中、ライターの火だけがゆらめく。「パチ」「パチ」、点火しては消える音。角刈りの正幸が学生服の私を睨む。「覚悟はあるか、琴乃」「俺みたいな奴に未来なんてねえ」「お前が望むようなものは、何もやれねえ」あの頃の私は純粋すぎた。雨に濡れたズック靴を脱ぎ、冷え切った足を彼の胸に押し当てた。ランニングシャツの薄い生地越しに、正幸の体温が火のように体を焦がした。ライターの小さな炎だけが頼りなのに、私は強がって頷いた。「正幸、私に未来なんていらない」「あなたがいればいい」拳銃を握り合い、刃物を手にしたこともある。包帯と消毒液の匂いが漂う夜中、首を締められながら、意識を失うほど抱き合った。正幸は言った。足を洗う日が来たら、真っ先に私を嫁に迎えると。今、彼は足を洗うという。その真っ先に、私との線引きを選んだ。二十八歳、もう子供じゃない。愚かさに溺れる年でもない。実家が用意した男に、そろそろ形だけの約束を果たさねばならない。
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第3話
南の都を離れることにした。別荘の鍵を握りしめ、正幸の縄張りへ向かう。化粧もせず、ジーンズにズック靴の姿。敷居を跨いだ時、誰も私を見分けられなかった。帽子を脱いだ瞬間、かつて「姐さん」と呼んでいた連中が一斉に沈黙した。正幸の心変わりは周知の事実らしい。仲の良かった子分が揶揄うように声を上げる。「琴乃姐さん、俺たちはやっぱり姐さんと親分が一番似合ってると思うぜ」「学生みたいなガキ連れて歩いても、体裁悪いだけだろ」「姐さんがちょっとでも泣けば、親分はすぐ……」自嘲の笑みが零れた。十年もの間、正幸と共にいた。私は顔が幼く、赤い唇を引けば妖艶にもなる。陰で狙う者も多かったが、彼が盾となった。私の髪一本触れた者は、北の砂漠で砂袋を運ぶ重労働に放り込まれた。涙一粒見せれば、彼は何より優先して慰めてくれた。かつては私だけの特権だった。だが今回は、子分の言葉が完結する前に出来事が起きた。陶器の杯が眉尻を掠め、砕け散る。正幸の顔が険しく歪む。「琴乃の縄張りだとでも思ってんのか」「俺がいない間、商売をこれで守ってきたのか?」広間の空気が一瞬で凍りつく。これが彼の威光だ。ただ今その矛先は、私に向けられていた。弁明しようと口を開く刹那、彼の背後から小柄な影が怯えたように顔を覗かせた。「正幸さん……この方がお話にあった琴乃さんですか?」「私と、服がそっくりですね」石原純子--ジーンズにズック靴の姿は、十八歳の私に五分似ている。正幸が眉をひそめ、私を見据える。「琴乃……純子を調べたのか?」石原純子という少女の思惑は見え透いていた。だが口を噤んだ。私が調べたと言うより、彼女こそ正幸の好みを調査したのでは?十年も一緒なのに、彼は私をそこまで信じられないのか。唇を噛みしめると、正幸は嗤った。「似せたって十八じゃない」「琴乃、何を意地張ってる?」瞼が痙攣した。今の言葉を信じられない。「そうだな」彼は舌打ちし、冷たく続けた。「十年分、金額を言え」身体が揺らぐ。銃弾を代わりに受け、刃物と対峙した時ですら、これほどの痛みはなかった。爪が掌に食い込み、声が震える。「正幸……今、何を言った?」「十年の青春を棒に振らせた償いとして、金額を言え」
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第4話
荒川正幸と二年目のことだった。南の都で致死率3%のインフルエンザが流行した時、私は体力がなく、隔離病棟に運ばれた。熱で視界がぼやける中、正幸の顔が揺らいで見えた。夢かと思った。手を握りしめ、嗄れた声で彼の名を呼んだ。「正幸、会いたかったよ」「もう会えなくなるのかな……」一日に数分しか意識が戻らない日々。正幸は泣いたことなどない男だった。あの日、彼は犬のように嗚咽を漏らしていた。不良上がりの彼が、どうやってボランティアとして学校に入り込んだのか。A棟からC棟まで駆け回り、やっと隔離名簿に私の名前を見つけたという。「バカじゃないの?重症の私に近づいて命を縮める気?」罵っても聞かず、正幸は銀のバングルを私の手首にはめた。「琴乃、誕生日おめでとう」あの頃、私たちは貧しくて、アクセサリーショーの銀の指輪を眺めてはため息をついていた。次の春は来ないと思っていたのに--正幸が祝福してくれた日、隔離病棟の窓に桜の花びらが舞い散った。後になって知った。あのバングルは、正幸が幼い頃から身につけていた「無事息災」の銀のお守りを溶かして作ったものだ。「俺は運が強い。どんな災いも跳ね除ける」「琴乃はただ、平穏に生きてくれりゃいい」バングルは九年間、私の手首に光った。青年時代の正幸が刻んだ「印」だった。あの時は本当に思った。このバングルのように、二人の運命も溶け合うのだと。けれど今、荒川正幸は私にとって、サイズの合わないバングルと同じだ。無理やり引き剥がそうと手首を擦りむき、血痕が滲んでもがく私を、彼は慌ててタバコを消しながら睨みつけた。「琴乃……どういうつもりだ!?」眉を顰め、涙を堪える。十年分の青春に値段を付けろと言ったのは彼ではなかったか。私が提示すれば、今度は彼が躊躇う。「正幸、私たちもう……」「言うな!」遮ろうとする手を、石原純子が引き留める。「ずっと……縛り付けてたわけじゃない」震える声で呟き、変形したバングルを庭の池に投げ込んだ。赤い鯉が緑の水を跳ね上げる中、正幸は雨の中へ飛び出し、膝まで泥に浸かりながら銀の光を探した。胸が締め付けられる。まだ私を思っているのか?十年の記憶が走馬燈のように過ぎる。呼吸も苦しいほど痛んだ。あの日の「誕生日おめでとう」を返す
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第5話
彼が足を止めた時、私は歩みを緩めなかった。雨に打たれる覚悟で前へ進もうとした瞬間、頭上に黒い傘が差し延べられた。ふわりと湯気の立つような懐に引き寄せられて、傘骨を握る指先が冷たい白玉のように冴えていた。速水賢一(はやみ けんいち)が正幸の怒りに歪んだ視線を遮り、淡々と言い放つ。「荒川さんはご自身の家庭問題を片付けられた方がよろしいでしょう」「僕のお嬢様は僕がお守りします」「お嬢様」--この呼称を何年ぶりに耳にしただろう。息が詰まり、眉を寄せて顔を上げると、雪解けの泉のような黒瞳が待ち構えていた。彼の端正な面差しからは、病弱だった少年時代に屋根裏部屋で私のデッサンを溜め込んでいたなど想像もつかない。思わず後ずさりした腰を、男の手がしっかりと捉えた。漆黒の傘を軽く揺らしながら、彼の薄唇が緩む。「もう二歩でも外へ出たら、傘が届きませんよ。それとも……相変わらず逃げるおつもりですか?」傾きすぎた傘柄に頸元が熱を帯びる。南の都へ逃げ出したあの年、私は賢一という存在が心底嫌いだった。病弱で無趣味な男と一生を共にするなんて絶望的だと思い込んで、彼とは真逆の荒川正幸に惹かれ、わざと俗っぽい扮装に身を包んだ挙句、今また賢一の前に正体を曝け出している。背筋を伸ばして慣れたふりをするも、彼の目を直視できずにいた。「余計なお世話よ。私が雨に濡れたら父上が許さないわ」わがままで反抗的なこの性格は、そもそも賢一が甘やかして育てたものだ。バックミラーに映った正幸が雨中に佇む姿を最後に、私は唇を噛んだ。彼の言う通り、この十年間私は本当に愚かだった。両親が敷いたレール--賢一と共に留学し、帰国後は家業を継ぐという王道を、成人式の翌日に志願書を書き換えて逃げ出したのだ。十年もの間、家族は一片の連絡さえ寄越さなかった。私はずっと、自分の醜態が恥ずかしくて縁切りを決意したのだと思い込んでいた。「ご両親に接触を控えるようお願いしたのは僕です」ハンドルを握る賢一の声に、私は指先をぎゅっと摘んだ。年上とはいえ二歳差の男が放つ威圧感に、膝の上の手のひらがじっとりと汗ばむ。「お嬢様が遊び飽きれば自然に帰ってくる。急がなくともよいと」自嘲的な笑いが喉元で軋んだ。遊び飽きたのではなく、男に裏切られた末の帰還だとい
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第6話
助手席に戻された時、賢一は淡々と言い放った。「十年間、あの男は君をちゃんと守れなかったようだな」疑問形ではなく、断定の調子。強がりの反論を口にしようとして、不甲斐なく鼻がツンとした。靴底から伝わるカーぺットの温もりが、禁断の依存症のように染み渡る。今すぐ賢一の懐に飛び込んで泣きじゃくりたくなる衝動に駆られた。車は雨の幕を突き破り、前へと進み続ける。私の瞼を赤く腫らした様子を見て、賢一が穏やかに囁く。「お嬢様、過去を忘れる一番の方法は新しい恋ですよ」彼の前では思いついたら即行動が私の流儀だ。言葉が消えないうちに命じた。「車を止めなさい」ハンドルを握る手が一瞬止まった。疑問そうな表情を浮かべながらも、彼は路肩に停車した。サイドブレーキを引いた瞬間、私はコンソールを跨いで彼の膝の上に座った。賢一の太腿が緊張で硬くなるのが分かる。背もたれに体を預けようとする後退りが、かえって私の独占欲を掻き立てた。赤くなった目で彼のネクタイを握りしめ、気取ったような弱々しい声で命令した。「賢一、私を抱きなさい」男の手が私の太腿の横で震えた。ふっと笑い声が漏れ、睫毛の奥に光るものが見えた。「まだ僕を嫌ってないのかい?」昔の私は賢一の温和さも堅物ぶりも大嫌いだった。整然とした仮面を剥がしてやるのが楽しみで仕方なかった。だが今、ワイシャツの襟元から覗く鎖骨の紅潮や、上下する喉仏を見ていると、この氷山が別の色気を放っていることに気付いた。神壇から転落する聖人こそ、最もたまらない光景なのだ。腕の力を徐々に強め、互いの隙間を消していく。賢一の冷たい唇が触れた瞬間、思考が一瞬白くなった。次の瞬間には欲情が勝り、彼の首にしがみついてシートへ押し倒した。感情をぶつけるように賢一の唇を噛む。すると主導権を奪い返された。両手を背中で束ねられ、ハンドルに押し付けられた。乱れた息が車内に響く中、コンソールのスマホが鳴り始めた。切ろうとした指が誤って通話ボタンを押した。荒川正幸の硬い声が炸裂する。「琴乃、忘れ物だ。明後日北の都に行くから届ける」絡み合う唇の音と切ない吐息が受話器に拾われた。賢一の額に触れながら電話を切るよう促すと、向こうでガラスの割れる音がした。「矢崎琴乃!返事しろ!」ま
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第7話
あの日、感情が高ぶり、自分が賢一にどんなことをしてきたのかを思い出した。彼の目をまっすぐ見ることすらできなかった。賢一は相変わらずだった。金の如く輝き、玉の如く清らか。他人の目には、常に穏やかで淡々とした様子。ただ毎晩、温かいミルクを届けに来る時だけ、私の部屋の扉を押し開ける。さりげなく聞く。「お嬢様、今夜は特別なサービスが必要あります?」Vネックのシルクパジャマ姿で、唇に噛み跡を残している彼がどれほど誘惑的か、本人は気づいていないのだろう。だが私、矢崎琴乃はそんな簡単に揺らぐ女ではない。ミルクを一気に飲み干し、賢一をドアの外に押し返した。今夜も彼は扉をノックしてきた。面倒くさそうに眉を上げ、先手を打とうとして「要らない」と言いかけた瞬間、賢一がソファに座る二人を目で示した。荒川正幸が来ていた。一人ではなかった。石原純子も連れてきていたのだ。心臓を巨大な手で握りつぶされるような感覚。何かが砕ける音が頭の中で響く。私はやはり駄目な女だ。こういう事態になると、反射的に逃げたくなる。力任せに扉を閉めながら冷たく言い放った。「あの人たちを追い出して」賢一は静かに頷いたが、扉を押さえる指の関節は微動だにしなかった。「お嬢様、荒川さんは商談に来ています」つまり、私が階下に降りるべきだと言いたいのだ。彼が決めたことを他人が覆せるはずがない。なぜか胸に澱のようなものが溜まった。それでも無表情で、彼の影のようにぴたりと付いていく。正幸が真っ先に私に気づいた。賢一にべったり寄り添う私を見て、彼の表情が険しくなる。黒いレースの下着を指先でぶら下げ、単刀直入に切り出した。「琴乃、別れたのにこんなものが俺の所に残ってるのはまずいだろ?」以前、正幸が出張する時は私の肌着を持参する癖があった。私の物がないと眠れない、と言っていた。この下着は整理の時に見つからず、もう捨てられたと思っていた。正幸の鞄にずっとしまわれていたのかと思うと、急に吐き気がした。別れるつもりでいたなら、なぜ私の物を保管していたのか?鼻の奥が熱くなるのを抑え、冷たい声で言った。「正幸、そんな些細な物のためにわざわざ北の都まで?」正幸は軽く笑い、私が拳を握って怒りを堪えているのを見て満足そうに足を組み、純子を引
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第8話
お風呂から上がって初めて気づいた。荒川正幸と石原純子の部屋が、私の隣に選ばれていたのだ。矢崎家の屋敷は建材の遮音性が悪く、洗面所を出て立ち止まった隙に、隣の部屋から絡み合う息遣いが聞こえてくる。「正幸さん、その服まだ捨てないのですか?見てて気持ち悪くないですか?」正幸は純子の後頭部を押さえつけながら、目を伏せた。全身から冷たいオーラが漂い始めた。「ただの思い出よ。矢崎琴乃があの時、俺の下でどんなに卑屈に喘いだか……忘れさせたくないだけだ」「速水賢一みたいな虚弱体質じゃ、彼女を満足させられるはずないだろ?」「俺を逆撫でするために適当な男を引っ張ってきただけさ」苦笑が零れた。私はそこまで品のない真似はしない。ふと振り返ると、賢一の漆黒の瞳がすぐそこにあった。温かいミルクを届けに来たのだろう。だが今回は様子が違う。無言でテーブルにグラスを置き、踵を返そうとする。賢一が怒るときは、わざと歩幅を遅くする癖がある。私は爪先立ちでふわりと近づき、悪戯心を掻き立てた。彼の手首を掴み、視線を滑らせた。黒のバスローブの隙間から覗く腹筋のライン。その先は厳重に隠されている。「全部聞いちゃった?」甘えるように問うと、賢一の瞳が暗く翳った。頷く仕草に、私は少し考え込むふりをしてミルクを一口含んだ。「じゃあ、賢一……本当に満足できるの?」次の瞬間、ドアが内側からロックされる音がした。膝が腿の間に押し付けられ、熱の奔流が下半身を駆け上がる。「お嬢様、今の質問の意味を理解してますか?」賢一の吐息が徐々に接近する。額の前髬が微かに湿り、冷たい白い肌が幽霊のような妖しさを放っていた--しかし、どこか艶めかしい。私は耳を赤らめながらも強がった。「あの時だって、確かに……」言葉の途中で口を塞がれた。賢一は私に制限を設けたことがない。部屋の鍵もかけず、呼べばすぐ現れ、下着のサイズまで把握している。だから初めて、彼が浴室で一時間も立ち尽くしているのを目撃した時、私は我慢できずに名前を呼んだ。その一声で、賢一の抑えた呻きが聞こえたのだ。慌てて出てきた彼は、そっと私を押しのけた。浴室に残った麝香のような甘い匂いがなければ、彼の動揺に気づかなかったかもしれない。後日、経験豊富な友人との雑談
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第9話
翌日、正幸が賢一を私の部屋から出てくる場面にぶつかった。彼は眉をひそめ、顔を青ざめさせていた。首に残ったキスマークをさらしながら、私を問い詰める。「琴乃……あいつと、どういう関係だ?」その言葉に胸の奥が熱くなった。彼に何の権利があって、私に干涉できるというのか?気づかなかったが、廊下にいた賢一の足が止まった。私の答えを待っている。「あなたが知る必要のない関係よ」賢一と私は婚約者にも、家族にも、友人にもなり得る。だが、彼の疑いの対象になる関係では決してない。空腹が限界に達し、階下へ降りてミルクを頼もうと身を翻した瞬間、正幸の手首が私を掴んだ。彼は俯き、声を柔らげて囁く。「琴乃……ネクタイ、締めてくれないか?」私は玄関で縮こまっている石原純子をちらりと見て、眉を上げた。「彼女ができないの?」「不器用でな。お前のウィンザーノットには及ばない」二人の距離が近づき、まるで正幸が私を抱き寄せているように見える。純子の顔が蒼白になり、涙をこぼして階段を駆け下りた。私は腕を組んだまま冷たく言い放つ。「追わなくていいの?」たった一夜で、長年の倦怠感を抱えたかのように、正幸は純子に一瞥も与えず呟いた。「小娘は面倒だ」「放っておけば大人しくなる。気にするな」温かな笑みを浮かべながら、瞳だけは冷え切っていた。爪先立ちでネクタイに手を伸ばし、彼が得意げに笑った瞬間--ぐいっと引き締め、窒息させた。正幸が赤い目で壁に押し付けようとした時、私はすでに手を離し、軽やかに後退る。「ごめんね、久しぶりで手が鈍って」肩をすくめて不貞腐れた態度を見せ、階下へ向かうと、暗い瞳に捉えられた。賢一がどれだけそこに立っていたのか。サンドイッチを握った手先が震え、まるで砕けそうな佇まいだ。「……食事だ」声はかすれていた。なぜかその瞬間、胸が高鳴り、足元がふらついた。朝食は重い沈黙に包まれた。たまに正幸の足が私のすねに密着し、嫌そうに避けると、さらに露骨に触れてくる。賢一は無言でオムレツを噛み、眉間の皺が一度も緩まない。食後、賢一が書斎に消えると、リビングには再び私と正幸だけが残された。バラエティ番組を流すと、元カレの男が彼女が他の男とのデート現場を目撃し、詰め寄るシーンが映る。「すぐ他人を好きになれる
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第10話
書斎のドアを叩くと、賢一は無縁メガネを掛けていた。穏やかな仮面が剥がれ、人を寄せ付けない骨格が浮かび上がる。二秒間見つめているうちに、ふと気付いた。彼を「温和で杓子定規な堅物」だと思い込んでいたのは、間違いだったのかもしれない。「賢一、携帯を見せて」彼は一瞬戸惑ったが、素直に差し出した。私の指紋で簡単に解除できる。縁を撫でた指先に、かすかな煙草の香りがする。全ての痕跡を消したはずなのに、アルバムに一枚だけ残っていた写真。あの頃、私と荒川正幸は貧乏だった。足を折られた彼を背負い、病院まで歩いた日。黄ばんだズック靴に水たまりが染み、デニムの膝は擦り切れ、ポニーテールは汗でべとついていた。見るだけで胸が締め付けられるような、痛々しい姿。石原純子が現れたあの日と同じだった。南の都を去る前、真実を調べさせた。北の都で取引中に対立勢力に襲われた正幸を、大きすぎる制服で包み「カップルのふり」をして救ったのが純子だった。そして、正幸は校門前で灰皿いっぱいの吸殻を落としながら立ち尽くした。あの日から彼は足を洗う決意をした。青白い校服、擦り切れた靴先--私に似せた仕掛けだと、写真を見た瞬間に悟った。賢一がメガネを軽く押し上げる。「彼女は僕の部下です」わざわざ正幸の傍に送り込んだ女。指先が震え、思わず目を見開いた。「お嬢様、また嫌いになりましたか?」問い掛ける声に、自分を厭悪する響きが混じっている。初めて賢一の屋根裏部屋に入った時、壁一面に飾られた肖像画に凍り付いた。あらゆる角度から描かれた私。高熱に浮かされながらも鉛筆を握り、輪郭をなぞる彼の呟きが蘇る。「お嬢様より相応しいモデルはいません」欲望はもっと前から芽生えていた。北の都を去る日、最後に会ったのも彼だった。バスターミナルまで追ってきたのに、「賢一、大嫌い」と言った途端、足が止まった。目に見えない檻に閉じ込められたように、彼は呟いた。「嫌われても構いません」後半の言葉は風に消えたと思っていた。今になって雷のように頭を貫く。「結局、僕の元へ戻って来るのですから」そう、私は南の都から北の都へ戻ってきた。逃げたかったあの男の元へ。直情的で、執着深く、型にはまった愛情。眉を寄せ、唇を噛んでいると、賢一の薄紅の目頭が真実を漏らす。
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