LOGIN大学を卒業したら結婚しようと約束していた幼馴染は、私の卒業式の日、偽物のお嬢様・江原志乃(えはら しの)にプロポーズした。 一方、世間から「東都の仏子」と呼ばれる九条蓮斗(くじょう れんと)は、幼馴染のプロポーズが成功したその日に、堂々と私に愛を告げてきた。 結婚してからの五年間、彼は私に限りない優しさを注ぎ、甘やかしてくれた。 けれど、ある日偶然、彼と友人の会話を耳にしてしまった。 「蓮斗、志乃はもう有名になったんだし、これ以上江原佳織(えはら かおり)との芝居を続ける必要ある?」 「どうせ志乃とは結婚できないんだ。どうでもいいさ。それに、俺がいれば佳織は志乃の幸せを邪魔できないだろ?」 彼が大切にしていた経文の一つ一つには、すべて志乃の名前が記されていた。 【志乃の執念が解けますように。心安らかに過ごせますように】 【志乃の願いが叶いますように。愛するものが穏やかでありますように】 …… 【志乃、俺たちは今世では縁がなかった。どうか来世では、君の手を取って寄り添いたい】 五年間の夢から、私は突然目を覚ました。 偽の身分を手配し、溺死を装う計画を立てた。 これで、私たちは生まれ変わっても、二度と会うことはない。
View More彼の瞳には、祈るような、そしてどこまでも卑屈な光が宿っていた。 まるで、私のそばにいられるなら何でも受け入れる――そんな覚悟さえ感じさせた。その時、洋介が口を開いた。 冷静でありながら、鋭さを帯びた声だった。「九条さん、僕はあなたたちの過去を詳しく知っているわけじゃない。でも、そばにいていいかどうかは、彼女自身の気持ち次第だと思います。 あなたはずっと自分の気持ちばかりを話しているけれど、彼女が何を望んでいるか、考えたことはありますか?」蓮斗はハッとし、口を開こうとしたが、言葉が出なかった。私は彼を見つめ、静かでありながら決して揺るがない声で告げた。「蓮斗、どんなに言われても、あの五年間はもう過ぎたこと。たとえ私が生きていたとしても……あなたはもう、私が選ぶ人ではない」その言葉に、彼の顔から血の気が引いていくのがわかった。 私は続けた。「私に無理やり、すべてを間違いだったとまで思わせたいの? それとも―― 私が本当に死んでいれば、満足できた?」「そんなこと……言わないでくれ!」彼は苦しげに叫び、私の言葉を遮った。 その目には痛みと懇願が浮かんでいた。「佳織ちゃん、俺が悪かった。すべて俺が悪かったんだ。だから、もう君が俺の前からいなくなるなんて……そんな風に消えないでくれ。 君が望むなら、俺は消える。 君の人生から、ちゃんと消えるから……お願いだ」その目を見て、私はわずかに息を詰めた。 だが、静かに答えた。「わかった。それなら、私を完全に解放して」彼は長い沈黙のあと、ようやく頭を垂れ、 かすれた声で一言だけ――「ごめん」そう言い残し、踵を返して去っていった。 その背中は、まるで魂の抜け殻のようだった。洋介は子どもたちを一人ずつ宥め、怪我がないか確認してから、私のそばに来た。「大丈夫?」私は首を振り、かすかに笑った。「平気。ありがとう」洋介は微笑み、それ以上何も言わず、教室の後片付けをして駿人と一緒に帰っていった。しばらくして、ニュースで短い報道が流れた。志乃は暴行とその他複数の罪で正式に起訴された。 江原家は必死に手を回したものの、すべてをもみ消すことはできなかった。驚いたのは―― 蓮斗が自ら志
蓮斗は志乃の言葉など一切気にも留めず、視線を私から逸らすことはなかった。その声は懇願に満ちていた。「佳織ちゃん、お願いだから聞いて。俺は本当に後悔してる。俺が間違ってた、君を大事にしなかった……お願いだ、もう一度チャンスをくれないか」「チャンス?」 私は冷たく笑い、鋭い目で彼を見つめ返した。 「蓮斗、今さら自分にそんな資格があると思ってるの?」「わかってる、全部俺が悪い。君を無視したこと、他人の言葉に耳を貸したこと……全部俺のせいだ。変わるから、許してくれ……」彼の声はだんだん掠れ、まるで懇願するように続けた。「君が望むなら、俺は何だってする」その姿に焦りを覚えた志乃が、堪えきれず割り込んできた。「蓮斗、あなたは私だけを愛してるって言ったでしょ?私に……」「黙れ!」 蓮斗は冷たくその言葉を遮った。 その目にはこれまで見たことのない冷酷な光が宿っていた。「お前には何度も言ったはずだ。俺とお前はもう終わった。何を言おうが、俺には関係ない」その一言は、志乃の心を容赦なく叩き潰した。 彼女は顔面蒼白になり、歯を食いしばって叫ぶ。「どうしてよ!蓮斗、あなたは私を裏切るの?私たちが一緒に過ごした時間を忘れたの?それに……あんた知らないの? 彼女はもう別の男と……!」その言葉に、私の心は一瞬ざわめいた。 けれどすぐに気持ちを落ち着かせ、静かに口を開いた。「蓮斗、私は一度死んだの。そう思ってくれた方がいい。私たちはもう終わった。お互いに解放されるべきよ」「いやだ!」蓮斗は激しく首を振り、絶望の色を浮かべた目で私を見つめた。「佳織ちゃん、お願いだ。君が俺を憎んでも、嫌っても、罵倒しても構わない。でも、いなくならないでくれ。お願いだから戻ってきてくれ!」その声に胸が痛んだ。 けれど、私は冷静に答えた。「蓮斗、あなたが欲しいのは私じゃない。私たちの始まりそのものが、最初から間違いだった」「違う!俺が馬鹿だったんだ。君がいなくなって、ようやく君がどれほど大切だったか気づいたんだ!」彼の必死の訴えも、私の心にはもう届かなかった。そんな中、蓮斗が自分を無視し続けることに耐えられなくなった志乃が、突然椅子を掴み、私に向かって突進してきた。「佳織、死ね!!」
言葉が終わらないうちに、志乃は突然私に飛びかかってきた。私は反射的に子どもたちを庇ったが、避ける暇もなく、彼女の手が私の服を乱暴に掴んだ。 鋭い爪が腕を引っかき、何本もの赤い傷跡が残った。「やめて!」 私は叫んだが、彼女は完全に理性を失っていた。 そのまま私を強く押し倒し、床に叩きつけた。子どもたちは恐怖で叫び声を上げた。 駿人は涙を浮かべながらも、そっと私の元へ駆け寄り、小さな拳で志乃を叩いた。「先生をいじめないで!」志乃は一瞬驚いたように固まったが、すぐに怒りで顔を歪めた。「このガキ……私に手を出すなんて!」彼女は手を振り上げ、駿人を叩こうとした。 私は慌てて立ち上がり、彼を庇ってその一撃を受け止めた。肩に走る鋭い痛みに耐えながら、私は子どもたちをしっかりと抱き寄せ、大声で叱りつけた。「もうやめなさい!志乃、これ以上やるなら、警察に突き出すわよ!」志乃は冷たく笑い、目に嘲りを浮かべた。「佳織、逃げたつもりでも、私はあんたを見つける。今日、絶対に許さない!」その時、扉の外から足音が響き、勢いよく洋介が駆け込んできた。洋介は何も言わず、志乃の腕を掴んで引き離した。彼女は数回もがいたが、相手が誰かに気づくと、嘲りを含んだ笑みを浮かべた。「ふふ、佳織、随分早かったわね。また男を手懐けたの?」彼女は私と洋介を交互に見て、わざと大きな声で続けた。「蓮斗には言ってたのよ、あんたが本当は彼なんか愛してないって。でも、彼は信じなかった……。ほら、見なさい! こんなにすぐ次の男を味方につけるんだから! これがあんたの本性よ!」洋介は眉をひそめ、私の前に立ちはだかった。「ここは子どもたちが学ぶ場所だ。あなたが何をしたいかは知らないが、ここで騒ぐのはやめろ。子どもたちを怖がらせるな」志乃は一瞬呆気に取られたが、すぐにまた冷たい笑みを浮かべた。「あなた、何者なの?何の資格があって私に説教してるの?」私は彼女の言葉には耳を貸さず、駿人や他の子どもたちを抱き寄せて静かに声をかけた。「大丈夫、怖くないよ。先生がついてるから」志乃はその様子を見て、怒りが頂点に達したのか、鋭く叫んだ。「佳織、あんたが勝ったと思ってるの?あんたは私を壊したけど、私だってあんた
「試してみてよ。あなたの絵は、もっとたくさんの人に見てもらうべきです」その晩、私は久しぶりに画材を取り出した。キャンバスの上に少しずつ描かれていくのは、一面の海。 水平線の向こうには、夜明け前のかすかな光が差し、波間には私の影が揺れている。最後の一筆を描き終えたとき、私ははっきりと理解した。 この絵は、蓮斗のためでも、誰のためでもない。 ただ、自分のためのものだったのだと。展覧会当日、私の作品は審査員から高い評価を受けた。長い間、封じ込めていた才能が、ようやく再び世に出た瞬間だった。これは私の人生の再出発の一歩にすぎない――そう思っていた。 けれど、この「復帰」が、私の静かな日常を大きく揺るがすことになるとは思いもしなかった。ある日、私は教室で子どもたちに色彩の組み合わせについて説明していた。 窓から差し込む陽の光の中で、子どもたちは静かに絵を描いている。 その穏やかな時間が、私にとっては何よりの癒しだった。その時。突然、教室の扉が勢いよく開かれ、一人の女が飛び込んできた。「佳織!」私は顔を上げ、言葉を失った。そこにいたのは志乃だった。 大きなお腹を抱え、憔悴しきった顔に怒りを湛えている。彼女は一歩一歩、私に迫ってくる。 その目には狂気じみた光が宿っていた。「やっぱりね!あなたが死ぬはずなかった! 私をここまで追い込んでおいて、のうのうと隠れてるなんて!」私は眉をひそめ、子どもたちを庇いながら冷たく問いかけた。「志乃……どうやってここを見つけたの?」彼女はその問いに嘲るような笑みを浮かべた。「どうやって?あなたの画風なんて、見慣れてるわよ!昔から先生には、あなたの方が才能があるって言われ続けた。あなたの手癖、もう全部覚えてるんだから!」彼女は肩を震わせ、さらに冷笑した。「匿名で出展しても、残念だったわね。私は一瞬でわかった。佳織、この世界に、私から逃げ切れる人間なんていない!」その言葉に、私は背筋が冷たくなるのを感じた。 過去に何度も彼女の足元に蹂躙された記憶―― 無理やり抉り出されるような感覚だった。「そこまでわかってるなら、あの絵が誰のものかもわかるはず」私は冷静に答えたが、その声には皮肉が滲んでいた。「こん