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愛はなかったように

愛はなかったように

By:  お休みお月様Completed
Language: Japanese
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お金を返してもらう約束の最終日、私は真壁時礼(まかべ ときのり)の義妹から、貸していた六百万円を取り戻した。 その翌日、時礼は私の目の前に、見たこともない帳簿を叩きつけた。 「去年のお前の誕生日には、162000円を送った。 十周年の記念日には、2160000円。 それに、毎月初めには生活費として400000円も送っていた。 今日中に、全部返してもらう」 私は動けなくなった。時礼は笑っていたが、その顔には少しの温もりもなかった。 「どうした?金がないのか? 朝倉音羽(あさくら おとは)、詩乃に勝手に嫌がらせするなんて、ひどかったな。 これはお前への罰だ。今日返さなかったら、これから三年間、お互い一切会わない。お前も俺に会いに来るな」 その後の三年間、私は一度も時礼に会わなかった。探しにも行かなかった。 彼が義妹とペアリングをつけて世界を旅していた頃、私は幼なじみと、親族や友達の前で結婚式を挙げた。 彼が義妹と海辺で手をつなぎ、キスを交わしていた時、私は夫と、猫一匹、犬一匹と一緒に新居へ引っ越した。 すべてが、順調に進んでいるはずだった。 なのに時礼、どうしてまた深夜に、私が泊まっているホテルの下で泣きながら「ごめんなさい」なんて言うの?

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Chapter 1

第1話

分厚い帳簿が、私の目の前に叩きつけられた。

中には、真壁時礼(まかべ ときのり)がこの十年間に私へ送金した記録が、ページごとにぎっしりと書かれていた。

送金の金額だけでなく、日時まで正確に記されている。

「去年のお前の誕生日には、162000円を送った。

十周年の記念日には、2160000円。

それに、毎月初めには生活費として400000円も送っていた。

今日中に、全部返してもらう。

送金の日時は全部記録してある。自分の目で確認すればいい」

……

「どうした?金がないのか?

朝倉音羽(あさくら おとは)、詩乃に勝手に嫌がらせするなんて、ひどかったな。

これはお前への罰だ。今日返さなかったら、これから三年間、お互い一切会わない。お前も俺に会いに来るな」

その冷たく突き放すような言葉は、今でも耳に残っている。

彼がこんなことを言ったのは、心の中で一番大事にしている義妹を守るためだった。

昨日、私はその義妹から貸していた六百万円を返してもらった。それが、彼の怒りの理由だった。

私にお金がないことは、時礼もよく知っていた。

母は早くに亡くなり、父は長年寝たきり。

この数年は、少しでも余裕があればすべて父の治療費に回していた。

私は仕事もしていなかった。

若い頃に流産し、さらに貧血体質で、体調はずっと思わしくなかった。

何をするにもすぐに倒れそうになり、冷や汗をかくような毎日が続いていた。

私は小さくため息をついて、キャッシュカードを手に外に出た。

照りつける陽射しが容赦なく体力を奪い、数歩歩くだけでしゃがみ込んで休まなければならなかった。

そうやって時間をかけ、ようやく銀行で現金を引き出した。

まさか時礼が、ここまで細かく帳簿をつけていたとは思わなかった。

なにしろこの十年間、彼は給料のカードすら私に預けていたのだから。

でもありがたいことに、そのカードには一度も手をつけたことがなかった。彼から送られてきたお金も、無駄遣いしたことはない。

さもないと、今返せなかったのだ。

金額を数えてみると、おおよそ合っていたが、少し足りない分は義妹から返してもらった六百万円のうち、一百万円を充てた。

昨日、父が危篤になり、急ぎで治療費が必要だった。

その時私も時礼に、あの六百万円は命を救うために必要だったと伝えた。

お金を引き出し終えたあと、私は呆然と立ち尽くしていた。

時礼をどこで探せばいいのか、まったく見当がつかなかった。

何度か電話をかけたが、すべて無視された。

最後には、うんざりしたのか、私の連絡先をブロックされた。

込み上げる悔しさと寂しさに、私は鼻をすすりながら、ただその場に立ち尽くしていた。

かつての私たちは、こんな関係じゃなかった。

昔は、一日に百回もの電話をかけても、彼は嫌な顔一つせずに応じてくれていたのに。

そんな日々を思い出しながら、私は久しぶりに、あるアプリを開いた。

時礼と付き合っていた頃、お互いのスマホに入れていた位置情報アプリだった。

その位置情報を頼りに、私は彼がいる個室の前までたどり着いた。

扉の向こうからは、真壁詩乃(まかべ しの)の楽しげな笑い声がはっきりと聞こえてきた。

「お義姉さんって、ケチすぎじゃない?六百万円くらいでしょ?

お兄さんが私に買ってくれたバッグ、あれだけでも六百万円以上するのに。

ねえ、もしお義姉さんが返さなかったら、どうするの?」

時礼はまるで気にも留めず、こう答えた。

「じゃあ、三年会わないさ。ちょうどこの三年はお前のとこに引っ越して、一緒に暮らすよ。寂しさを埋めてやるぞ、小悪魔ちゃん」

詩乃は甘えるような声で笑い、さらに言った。

「でもさ、そしたらお義姉さん、お兄さんと別れちゃうかもよ?」

一瞬、空気がぴたりと止まった。

そのあとに聞こえた時礼の言葉が、私の胸に重く響いた。

「彼女は俺と別れないよ。

あいつは結婚したがってるしな。十年付き合って、俺の子どもも流産して、今さら俺と別れて、他の誰と一緒になるってありえないんだ。

それに彼女は働けない。父親もがんで寝たきり。俺が支えてやらなきゃ、昔の少しの貯金だけじゃ、生きてこれたはずがない」

私はバッグを握る手が小さく震え、膝から力が抜けた。

泣き声が聞かれてしまうのが怖くて、慌ててエレベーターのボタンを押した。

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第1話
分厚い帳簿が、私の目の前に叩きつけられた。中には、真壁時礼(まかべ ときのり)がこの十年間に私へ送金した記録が、ページごとにぎっしりと書かれていた。送金の金額だけでなく、日時まで正確に記されている。「去年のお前の誕生日には、162000円を送った。十周年の記念日には、2160000円。それに、毎月初めには生活費として400000円も送っていた。今日中に、全部返してもらう。送金の日時は全部記録してある。自分の目で確認すればいい」……「どうした?金がないのか?朝倉音羽(あさくら おとは)、詩乃に勝手に嫌がらせするなんて、ひどかったな。これはお前への罰だ。今日返さなかったら、これから三年間、お互い一切会わない。お前も俺に会いに来るな」その冷たく突き放すような言葉は、今でも耳に残っている。彼がこんなことを言ったのは、心の中で一番大事にしている義妹を守るためだった。昨日、私はその義妹から貸していた六百万円を返してもらった。それが、彼の怒りの理由だった。私にお金がないことは、時礼もよく知っていた。母は早くに亡くなり、父は長年寝たきり。この数年は、少しでも余裕があればすべて父の治療費に回していた。私は仕事もしていなかった。若い頃に流産し、さらに貧血体質で、体調はずっと思わしくなかった。何をするにもすぐに倒れそうになり、冷や汗をかくような毎日が続いていた。私は小さくため息をついて、キャッシュカードを手に外に出た。照りつける陽射しが容赦なく体力を奪い、数歩歩くだけでしゃがみ込んで休まなければならなかった。そうやって時間をかけ、ようやく銀行で現金を引き出した。まさか時礼が、ここまで細かく帳簿をつけていたとは思わなかった。なにしろこの十年間、彼は給料のカードすら私に預けていたのだから。でもありがたいことに、そのカードには一度も手をつけたことがなかった。彼から送られてきたお金も、無駄遣いしたことはない。さもないと、今返せなかったのだ。金額を数えてみると、おおよそ合っていたが、少し足りない分は義妹から返してもらった六百万円のうち、一百万円を充てた。昨日、父が危篤になり、急ぎで治療費が必要だった。その時私も時礼に、あの六百万円は命を救うために必要だったと伝えた。お金を引き
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第2話
エレベーターの隅に座り込むようにして寄りかかり、手の甲にぽつんと涙が落ちた。一か月前、長く行方が分からなかった時礼の義妹・詩乃が突然姿を現した。そのとき彼女は、純白のキャミソールワンピースを着て、唇を噛みしめながら涙ぐんでいた。「お兄さん、ごめんなさい……もう迷惑かけないって約束するから。でも、今はどうしても、六百万円が必要なの。一か月だけでいいの。必ず返す。借用書もちゃんと書くから……お願い」どれだけ詩乃が必死に頼んでも、時礼の表情はまったく変わらなかった。ただ、私だけが彼のわずかな変化に気づいていた。我慢しているのか、つないだ右手の力がどんどん強くなっていたのだ。手首に鋭い痛みが走り、思わず声を上げた。「……痛いっ」それでも彼は、聞こえていないかのように無反応だった。結局、詩乃が慌てて近寄って彼の手を握り、ようやく私は解放された。しかしその瞬間、彼は怒りに任せて詩乃を突き飛ばした。「俺に触るな!」驚いた詩乃はうろたえながら謝ったが、時礼はそのまま私に責任を押しつけた。「金が必要?それならまずお義姉さんの許可を取れ。金の管理は全部、彼女がやってる」「お義姉さん」という言葉が強調された。その一言で、私は詩乃の目に浮かんだ痛みと葛藤を見逃さなかった。「お義姉さん......」詩乃がそう言った瞬間、時礼は勢いよく椅子を蹴飛ばして部屋を出ていった。その日、私は自分の貯金から六百万円を詩乃に渡した。正直、彼女のことは好きじゃなかった。でもあのときの彼女は、本当に困っているように見えた。だから、借用書を書かせた上で、金を渡した。私が詩乃を好きじゃなかったことは、時礼も知っていた。彼女は彼の継母が連れてきた義理の妹で、私たちと同じ歳だった。十九のとき、私は時礼と両想いになり、自然と交際が始まった。誰からも反対されなかった。たった一人、詩乃を除いて。なぜなら、彼女もこの義理の兄を愛していたから。それに、私の目の前で彼に告白したことさえある。「どこか遠くに逃げようよ。世間なんて関係ない」までも言ってた。でも、時礼はいつも彼女を冷たく突き放していた。「あんな母娘、大嫌いだ」「偽善者だらけで虫酸が走る」と、私に何度も言っていた。それに彼は真壁家を継いだ
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第3話
朝日が差し込む頃、目を覚ますと、時礼はすでに荷物をまとめて家を出ていた。半分空になった家に、私は妙に慣れなかった。朝食をすませ、私は父のお見舞いのため病院へ向かった。一昼夜かけて説得し、ようやく父は集中治療室へ移ることになった。私は、ガラス越しに弱々しい父の顔をじっと見つめていた。「容態が安定すれば、すぐに一般病棟へ移れます。そうなれば、引き続き化学療法も受けられます」どう返せばいいのか分からず、私はただこうつぶやいた。「……ありがとうございます」温かい手のひらが、そっと私の頭に触れた。顔を上げると、深く静かなまなざしと目が合った。その瞳に、どこか見覚えがあった。「大丈夫ですよ。お父様、きっと良くなります。たとえ末期の胃がんでも、治る可能性は30%から50%あります。お父様を、そして医者を信じてあげてください」理由は分からないけど、その言葉を聞いただけで、ほんの少し心が軽くなった。エレベーターで1階に降りたとき、会計窓口の前で詩乃と鉢合わせた。彼女は、こやかに笑ってみせた。「偶然ね。まさかこんなところで会うなんて」私は特に話すこともなく、軽く会釈だけしてその場を離れようとした。そもそも彼女と雑談できるような関係じゃない。しかし彼女は、そうは思っていないようだった。支払いを終えた私の腕を、彼女がすっと引き止めた。その瞬間、彼女の足元に傷があることに気づいた。私の視線に気づいたのか、詩乃の頬がじわじわと赤らんでいった。「もう、お兄さんったら本気出しすぎなんだよ。私、危うく吹っ飛ばされるところだったんだから。それで足をくじいちゃってさ。お義姉さんも、お兄さんと一緒のときはそんなに激しいの?」その声に、私は強い不快感を覚えた。わざと聞かせているのは明らかだった。黙っている私に、詩乃は小首をかしげながら、じっと顔を覗き込むようにして続けた。「ごめんね、お義姉さん。うっかり忘れてた。お兄さん、もうずっとあなたに触れてないんだっけ?でも怒らないであげて。お兄さんってさ、私のこと、気にし過ぎだけだよ」その瞬間、私はただただ惨めで、滑稽にさえ思えた。夜になって、もう戻らないはずだった時礼が帰ってきた。彼は無言のまま険しい顔で私の手を取り、二階の階段まで引っ張って
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第4話
十三年は十年よりさらに三年も長い年月だった。しかもその十三年のうちの十年は、彼と恋人同士として過ごした。十三年を捧げても信じてもらえなかったなんて。あまりにも滑稽で、虚しかった。もう言い返す気力もなく、かすれた声でつぶやいた。「……もう行って」時礼は一瞬だけ立ち止まったが、何も言わずにドアを開けて出て行った。その後、私は救急車で病院に運ばれた。彼に突然強く押されたことで、足を捻っただけでなく、手も骨折していた。一週間後、疲れ果てた体でようやく退院した。帰宅すると、私はこの十年間、時礼と共に暮らした家を見渡した。高校を卒業してすぐ、大学一年のときにこの家に引っ越してきた。家の家具はすべて二人で選び、配置も一緒に考えた。壁に掛けてあるクロスステッチも、二人で少しずつ縫い上げたものだった。この十年間のすべての思い出が、今日になって私の心に深く突き刺さる刃となった。私はベッドの下から二つの大きなスーツケースを引き出し、まだ完治していない右手をかばいながら、片手で荷造りを始めた。時礼のものはすでに持ち出されていたので、荷造りは半分の労力で済んだ。その後の一か月間、時礼は言った通り、一度も私に会いに来なかった。私は母が生前に買ってくれた小さなマンションに引っ越した。時礼と暮らした家は完全に空になり、清掃業者を呼んで徹底的に掃除を頼んだ。これで、私たちの生活の痕跡は何一つ残っていなかった。ちょうどその頃、病院から父の容態が良くなったと連絡があった。私は医師の勧めに従い、父を他の都市にある大学病院へ転院させることに決めた。出発前に、私はどうしても時礼に一度会いたかった。はっきり言葉にしておきたいことがあったし、それに私たちの十年の関係にふさわしい終止符を打ちたかった。メッセージを送ろうとした瞬間、私は彼にlineでブロックされていることに気づいた。仕方なく、私は詩乃のSNSを開いた。それまではずっと彼女の投稿を非表示にしていた。しかし私は知っていた。時礼はきっと詩乃と一緒にいる。案の定、三十分前に詩乃が投稿した写真に、時礼が映っていた。車を走らせ、バーへ向かい、個室のドアをノックした。中から扉が開き、私は中央に座る二人の姿を一目で見つけた。彼らは周囲の歓声
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第5話
父が無事に転院したその日、南市の空はいつになく澄んで青かった。父と一緒に昼食を済ませると、私は張り切って部屋探しと引っ越しの準備を始めた。不思議なことに、南市は初めて訪れた街なのに、まるで私を歓迎しているかのように感じられた。一時間も経たないうちに、気に入った部屋を見つけた。家賃は驚くほど安く、立地も申し分なかった。父の容態もどんどん良くなり、ついには元気に長く話せるまで回復した。そのおかげで、私の新しい生活への期待とやる気は一層強まった。苦しむ父の姿を見つめながら、私は思わず涙ぐんだ。あの時、時礼のために両親の気持ちを顧みず、無理に海市の学校に入った。両親は仕方なく故郷の家を売り、400キロ離れた海市へ私についてきてくれた。しかし海市での生活は、年を重ねるごとにどんどん辛くなっていった。母が亡くなったあとも、故郷に戻るには400キロの距離を越えなければならなかった。私は自分が愚かで、孝行もできなかったのだと痛感した。悲しみを察した父は、一生懸命に手を伸ばし、私の涙をそっと拭ってくれた。娘の気持ちは、父にこそ一番わかるものだろう。父は不明瞭ながらも優しく言った。「音羽、泣くな……父さんも母さんも……君を責めたりしないから……」私は父の手をしっかり握りしめ、涙が止まらなかった。一方、あの日私が金の入った袋を置いたあと、時礼は個室の全員を追い出していた。詩乃は驚きながら袋の中身を見つめた。「お兄さん!音羽さん、本当に別れを告げるつもりなの?」彼は冷たい目でテーブルに並んだ大量の一万円札を見つめ、怒りが滲んでいた。時礼は私に電話しようとしたが、結局スマホを置いた。個室の外へ出て、彼は私たちが10年一緒に暮らしたアパートに向かおうとしたが、詩乃の誘いを断れず、彼女の所に帰った。そのせいで、彼が私に連絡を取ろうと思ったのは、それから一週間後のことだった。【こんなにたくさんの金、どうやって手に入れたんだ?】【朝倉、俺はお前が体を売ったりして稼ぐなんて望んでいない】【ただ間違いを反省して、素直になってくれればそれでいいんだ。わかったか?】メッセージを送ってから30分経っても返事はなかった。彼はブロックを解除したのに、どうして返事がないのだろう。時礼は何かおかしいと感
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第6話
「音羽、聞いたんだけど……いや、もうすぐ昼だし、一緒に食事でもどう?」楽人はシフトを変えてくれて、私を自分の家に連れて行った。彼の家は病院のすぐ近くで、なんと私の家のすぐ上の階だった。楽人はまるでずっと前から知っていたかのように、驚きもせずに言った。「偶然だね、これからは隣人だ!」そう言って彼はドアを開けると、引き出しから新品の女性用スリッパを取り出した。私は少し戸惑った。彼はちょっと照れたように頭をかいた。「新品だよ。誰も履いてないから安心して。それに、他の女性も来てないしね」私はしゃがんで少しぎこちなくスリッパを履いた。楽人が軽く咳払いをして言った。「午後はシフト変えたんだ。よかったら一緒に散歩でもどう?何か欲しいものが見つかるかもしれないよ」「いいよ、こっちに来てまだあまり歩いてない」ショッピングモールでは、いろんな店で少しずつ買い物をした。父の病気がまだ長引きそうで、南市にもう少し滞在しなければならなさそうだ。買い物のたびに、楽人はさりげなく私の手から袋を受け取り、自分から率先してお金を支払った。私は少し気まずくて言った。「私が支払うから……」すると楽人は眉を上げて言った。「音羽、たまにはおもてなしをさせてね」私は驚いた。「そうか、あなたはこの街に引っ越してきたんだね!」楽人とは幼なじみで、両家も仲が良かった。私が時礼との関係を確認した後、楽人は突然別の都市の大学に行くと言い出した。そのときは気にしなかった。休みになればまた会えると思っていた。でも、その後橘おじさんと橘おばさんも転勤で引っ越してしまった。それ以来、楽人に会うことはなくなった。年末年始に両家の親が電話で挨拶する時だけ、彼の声を聞くことがあった。橘おばさんがふざけて楽人に「音羽に挨拶しなさいよ」と言うこともあったが、彼が話すのは短い言葉だけだった。「音羽、あけましておめでとう」「うん……あけましておめでとう」その後、母が突然心筋梗塞で亡くなり、葬儀で楽人の背中を見た。さらに父の病気と時礼との問題で私は忙しくなり、楽人のことをすっかり忘れていた。橘おじさんと橘おばさんは昔からとても優しく、我が子のように私をかわいがってくれた。「おじさんとおばさんはお元気か?ご無沙
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第7話
半月前は【まだ寝起き?俺が送ったメッセージ見てないの?なんで返信しない】一昨日は【うちで育ててる花に水やった?】今日は【朝倉、いい加減にしろよ。反省しろって言ったのに、自分の非を認めないどころか、わざと怒って返信しないのか?】私は口元を引きつらせた。時礼、どうしてまだわかってくれないの?私はもうあなたと別れたのよ。指をスライドさせて、時礼をブロックした。父の声が聞こえて顔を上げると、楽人が笑いながらこちらを見ていた。「音羽のお母さんが亡くなる前、一番の願いは音羽が愛する人に裏切られないことだった。でも……音羽はずっと俺に隠してたけど、実は分かってたんだ。真壁ってやつは全然頼りにならないってな!」涙が込み上げてきた。父が病気になってから、私はもう父に時礼のことを話していなかった。父の前ではいつも幸せそうな仮面をかぶっていたのに。まさか父は全部見抜いていたなんて。「ごめんね、お父さん……」「大丈夫だ、音羽。誰だって間違いはある。でも慌てるな。なるようになるさ」そう言って、父はまた楽人を見た。「楽人、君は俺たち夫婦がずっと見守って育ててきた。人柄も家族も、安心して任せられる。俺の今の姿を見てるだろう。もし俺がこの難関を乗り越えられなかったら……音羽のことがどうしても心配で仕方ない」父の言いたいことは分かったけど、止めたかった。楽人が父と母の願いを背負って私と結婚し、互いに敬意を持つ夫婦になるかどうかは別として。私と時礼はもう十年も無駄にしてきた。多くの人は多少のわだかまりを抱くだろう。そして私は時礼を離れると決めた瞬間から、一生独身でいる覚悟をしていた。「おじさん、安心してください。音羽が望むなら、必ず彼女と結婚します。正直言うと、俺はずっと音羽を嫁さんだと思ってました……」私は驚いて楽人を見た。彼の真剣な表情は冗談に思えなかった。彼が承諾するとは思っていなかった。これまで二人はただ幼なじみとして育ってきた関係だけだったから。母が亡くなったとき、私も時礼も病室にいた。母は時礼に一言、保証の言葉を望んでいた。でも時礼はぼんやりしていて、私は泣きながら彼の手を握って祈った。たとえ心にもない言葉でも、「はい」と言ってくれたら良かったのに。母が息を引き取って
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第8話
「そういう意味じゃない」ため息をついて、私は楽人にちゃんと話すことにした。「楽人、私は真壁時礼と10年も一緒にいたんだ。10年ってどれだけ長いか分かる?私たちは感情もあったし、愛し合っていた時期にはいろんなことを経験したんだ。それに、父の言葉はあまり気にしなくていいよ。私はこれであなたが縛られてほしくないんだ……」その日、楽人は私を家に連れて帰った。彼の息が首筋にかかり、ちょっとくすぐったかった。「音羽、俺はそういうことは気にしない。君は真壁とはもう終わっただけが大事だ。さっき、おじさんの前で言ったことは本気だよ」しばらくして、自分の震える声が聞こえた。「私と彼は、もう終わった」次々と降りかかるキスに、少し耐えられなかった。暗闇の中で楽人と私の心はどんどん近づいていった。私たちの気持ちを確かめ合ってから、楽人は結婚準備に忙しくなった。まさか、それが2年もかかるなんて思わなかったけど。時は流れた。この2年間、すべてが順調に進んだ。父は前向きにがんと闘い、ついに完治して退院した。私たちの結婚式の予定も決まり、故郷に戻って暮らすことになった。湖市の気候は穏やかで、父の療養にはぴったりだった。帰ってから、父はすっかり元気になった。それに暇な時は母の墓前で長い間話していた。私と楽人もハネムーンが終わったら妊活を始める予定だ。その間、時礼が言った通り、私たちはもう会っていないし、私は彼を探そうともしていなかった。「君たち、安心して行きなさい、大丈夫だ!朝倉さんは俺たちに任せて!」義父母は父を車椅子に乗せ、玄関先で手を振ってくれた。私は安心して車窓を閉めた。楽人は2ヶ月の休みを取って、私をハネムーンに連れて行ってくれた。最初の行き先はモルディブだった。まさかそこでまた時礼に会うなんて思わなかった。彼はまだ詩乃と一緒だったが、3年の時間が経ち、二人の関係はあまり良くなさそうだった。楽人がホテルに戻って私の上着を取ろうとした時、時礼が私を呼び止めた。「朝倉、あいつは誰だ?俺の許可もなく他の男と出かけるとは何事だ?家でちゃんと反省しろって言ったのに、どうして勝手に出てきたんだ?家も空っぽにして、俺の連絡先もブロックして……この2年、何回電話したか分かっ
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第9話
彼は何に迷っているのだろう?「朝倉、冗談だろ?お前、俺と結婚したいって言ったじゃないか!」彼の怒り交じりの問いかけに、私は冷たく答えた。「そうよ。昔は本当に結婚したかった。でも、その時あなたは何をしてたの?」時礼はまたぼんやりと遠くを見るようにした。昔のことを思い出しているのだろうか。大学時代、彼は私と甘い時間を過ごしながら、詩乃とも曖昧な関係を続けていた。母が亡くなった時も、彼の頭の中は詩乃のことでいっぱいで、私と母に一つの保証の言葉もくれなかった。詩乃が戻ってきたら、ためらわずに私を捨てて詩乃と付き合い始めた。今は詩乃を飽きて、また私のことを思い出しているか。でも、どうして私はそんなことを我慢して、ずっと待っていなきゃいけないの?時礼はがっかりしたように呟いた。「お前とあいつは……いつの話だ?」私は正直に答えた。「2年前だよ。2年前から私たちは一緒にいた。あなたが真壁詩乃と世界を巡っている間に、私たちは親族や友達の前で結婚式を挙げた。あなたたちが海辺で散歩してキスしている間に、私は夫と病気が治った父と猫と犬と一緒に新しい家に引っ越した」時礼は驚いた顔をした。「おじさん、もう治ったのか?」「そうだ!」思い出した。昔、時礼も父の退院まで付き添うと言っていた。しかし、彼は最初に病院へ父を見舞ったとき、少し慰めたり励ましたりしてくれただけで、それ以降は一度も一緒に病院に来ようとしなかった。この男は、最初から私や家族を大事に思っていなかったんだ。私は彼を宝物みたいに大切にしていたのに。バカみたい、本当に愚かだった。「どうして私たちが旅行したり海に行ったことを知ってるんだ?」時礼は疑いの目で私を見ている。まだ私が誰かを使って演技していると思っているのだろうか。「真壁詩乃のSNSはずっと見てたよ」時礼はよろけて数歩下がった。「お前……全部見てたのか?」私はうなずいた。それを知っていたから、もう私たちに未来はない。その日、時礼はみっともなく逃げ去った。翌日、ホテルで義兄妹が大げんかをして、兄が怒って妹を2階のベランダから突き落としたと聞いた。妹は頭を打って植物状態になり、兄は刑務所行きになりそうだ。その夜、また知らない番号から電話がかかって
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