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9話. 先に呼んだ名前

Author: 6jay
last update publish date: 2026-10-21 19:38:49

絵里が手術記録を仕上げる間、三浦湊は1行を消した。

『初回CTでは特記すべき所見を認めなかったが』

午前の読影レポートを開き直した。腸間膜周囲の変化と、少量の腹腔内液体が記されている。手術に至る前から、残されていた疑いだった。

湊が文章を直した。

「観察中に症状と画像所見が変化し、手術に至った経過として書きました」

絵里は修正された文を読んだ。同じ手術でも、始まりをどう書くかによって、それまでの医療者が何も見ていなかったような記録になってしまう。

「それが実際の経過に合っています。自分で気づいて直したんですね」

自分の記録にも、日中の観察と他科の意見を入れた。最後に手術した人だけが残れば、患者が手術室に来るまでの判断が消えてしまう。

高瀬が書類を確認し、必要なところを加えた。それから湊に尋ねた。

「次に似た患者さんが来たら?」

湊の姿勢が硬くなった。

「初回の画像で大きな損傷がなくても、症状の変化を続けて確認します」

「それから?」

「変化があれば、待たずに報告します」

高瀬はうなずいた。

「時間がたってから痛いと言っているのに、鎮痛薬が効いたかだけで済ませないこと。患者さんも診て」

湊はその言葉を書いた。緊張しながらでも、質問を避けずにいることが、絵里にはありがたかった。今日一度学んだからといって、明日からすべての判断が簡単になるわけではない。

午後8時を少し過ぎ、美咲が回復室から病棟へ移った。絵里は病棟で、患者の状態と術後の方針が正しく伝わっているか確認した。

佳織がベッドのそばに小さなバッグを置いて座っていた。美咲は目を開けていたが、長く話すには疲れているようだった。

「お腹の具合はいかがですか?」

「手術したところが痛いです。さっきみたいに、中がひどく痛いのとは少し違います」

絵里は痛みやほかの不快感を確認し、担当看護師と治療計画をすり合わせた。熱はないか。痛みがどう変わるか。回復の過程で何を見るかを、短く説明した。

美咲は今度は、携帯を探さなかった。

代わりに姉に尋ねた。

「長谷川さん、何て?」

「無事に出せたって。最初からメールを見てって言ってくれたら、あんなに迷わなかったのにって」

美咲の口元が少し動いた。

「そんなこと、お姉ちゃんに言ったの?」

「私が聞いたの。何からすればいいのって」

立ち去りかけた絵里は、その短いやり取りを聞いた。店の仕事がどう終わったかが、患者の表情を変えていた。

美咲が彼女を呼んだ。

「先生。さっき、ちょっと外へ行ってこようかって話したじゃないですか」

「はい」

「行ってたら、連絡に気づくのも遅かったでしょうね」

絵里は、仮定の中の悪い結末をわざわざ話さなかった。

「病院にいてくださって、変化も伝えてくださいました。今は回復に集中してください」

美咲はようやく、携帯を姉に渡した。

「今日はお姉ちゃんが出てくれる?」

その様子を見て、絵里は病室を出た。

***

ICUでは、達夫の明日の手術を準備していた。

絵里は現在の担当チームがまとめた経過を読み、患者を診た。日中に追加で撮った画像では、右肺の挫傷が残っていたが、方針を変えるほどの新たな大きな損傷はなかった。胸部と腹部の排液の推移も整理されていた。

血が止まるための条件は、前日より回復していた。輸血や循環を支える治療も、減らせる方向だった。すべての検査が正常になったわけではなかったが。

高瀬はここまでの経過を踏まえ、翌朝の再手術の予定を維持した。

「開けて圧迫用のガーゼを取り、出血していないかをもう一度見る。状態が許せば、お腹を閉じる方向で」

「肝臓の状態と、ほかの部位も再評価するんですね」

「そう。明日、改めて判断できるように準備しよう」

絵里は前日の手術記録を開いた。6枚。意図して残したガーゼの枚数と位置が、明確に書かれていた。それを取り出したあとも、出血が抑えられているかを確認する必要があった。

高瀬が別のベッドへ移ると、怜司が入ってきた。胸部の経過を確認し、看護師に排液と呼吸について尋ねた。

絵里は待ってから声をかけた。

「明日の腹部再手術は、予定どおりです」

「聞きました。胸部も、午前にもう一度確認します」

「胸部も手術に入られるんですか?」

「今の経過なら、胸を開け直す理由はありません。再評価して変わるようなら伝えます」

絵里はうなずいた。明日、腹部を見ている間に胸部側の変化があれば、すぐ怜司に知らせるつもりだった。

怜司が胸部の経過記録を仕上げながら尋ねた。

「今日の腹部の患者さんは?」

「傷んだ小腸の一部を切除して、吻合しました。回復室を経て、病棟に上がっています」

「高瀬先生と一緒に?」

「はい」

どれほど手が速かったか、どの段階で褒められたかは付け加えなかった。不思議と彼には、手術の結果を正確に伝えたかった。

怜司は説明された経過を聞き、短く答えた。

「無事に終えられましたね」

「食事は?」

絵里は彼を見た。

「患者さんですか、私ですか?」

「藤崎先生です」

「これから食べます」

「昨日も、似たような返事を聞いた気がしますが」

「昨日は結局、食べました」

怜司の目元がわずかに変わった。笑ったというには一瞬だったが、わざと同じ質問をしているのでは、と絵里は思った。

白衣のポケットを探った。寮に持ち帰るつもりのおかずを思い出した。勤務前に医局の休憩室の冷蔵庫へ入れたまま、忘れるところだった。

「それから、今朝のおかずですけど」

「どうしました?」

「お返しに買ってきたんです」

「返さなくていいんですが」

「もう買いました」

怜司の目が、何も持っていない絵里に一瞬とどまった。

「では、いただきます」

あまりにあっさりした返事に、次の言葉を失った。何度か遠慮されると思っていた。怜司は本当にもらう気らしく、食事の時間になったら一緒に持って帰ると言った。

「私は午後10時に申し送りが終わります」

「私もそのくらいに帰ります」

おかずを渡せば済むのに、帰る時刻まで合わせてしまった。自分から時間を言ったことに、遅れて気づいた。今さら、渡すだけで部屋に戻りますと付け加えるのも嫌だった。

ICUの面会を終えた和枝が、廊下で待っていた。

「明日もう一度手術すると、久世先生に聞きました」

絵里は術前の説明内容を確認し、追加の質問を受けた。和枝は初日より落ち着いていたが、同じバッグの持ち手をまだ握っていた。

「今度は、お腹を閉じられますか?」

「それを目指して準備しています。ただ、中の状態をもう一度見てから決める必要があります」

和枝がうなずいた。

「夫にも、明日また手術だって話したんです。聞こえていたでしょうか」

確かに聞こえたとは答えられなかった。鎮静の状態や意識の確認はその都度違い、本人の記憶まではわからなかった。

「どう受け止められたかは、私たちにもはっきりとは言えません。でも、そばでお話ししていただいて大丈夫です」

和枝は少し唇を結んでから言った。

「明日も、先生はいらっしゃいますよね?」

「はい。高瀬先生と一緒に入ります」

それを聞いて、和枝はバッグの持ち手から手を離した。

***

午後10時、絵里は美咲の病棟での経過と、達夫の手術準備を次の担当者に申し送った。連絡を受ける人と役割が決まっていることを確かめ、白衣を脱いだ。

玄関で怜司が待っていた。片手には自分のバッグ、もう片方には小さな紙袋を持っていた。

「それは何ですか?」

「ご飯です」

「おかずを受け取るために、待っていたんですよね」

「ご飯と食べるので」

絵里は笑いをこらえられなかった。

外の空気はひんやりしていた。2人は並んで坂を上った。怜司の紙袋が、歩くたびにかさかさ鳴った。朝と違ってキャリーケースがないぶん、階段が短く感じられた。

共用キッチンで食事の準備をしながら、怜司がおかずの蓋を見た。

「301号室と書いてありますね」

「ほかの方にも、私のだとわかるように」

「今は、私の分も含まれるんじゃないですか?」

絵里はペンを探し、数字の後ろに小さく書き加えた。

302号室にも、少し。

怜司がその字を読んだ。

「量は藤崎先生が決めるんですか?」

「今朝いただいた分だけ、お渡しします」

彼は言い返さず、箸を取った。絵里はそこでやっと、気兼ねなく笑えた。

食事の間、手術の話は長くしなかった。病院裏の階段は雨の日に滑ることや、荷物はどの入口に配達されるか。そんな話をした。先にここに住んでいる彼の知識は、思いのほか役に立つのだと絵里は思った。

食べ終わり、部屋へ戻る前に、怜司が言った。

「明日の手術までは、よく寝てください」

「先生も」

扉が閉まった。絵里は翌朝のアラームをセットし、手術のメモを机に置いた。ベッドに入ってから読み直すことはしなかった。

初日の患者のもとへ戻る時間が、近づいていた。

明かりを消す前に、明日の手術予定を一度だけ確かめた。

田島達夫。

その名前の下に、高瀬と自分の名前が並んでいた。

絵里は机のメモを見た。明日は、残したガーゼ6枚を取り出す。圧迫を外しても血が止まっているか。それはもう一度入って、確かめるしかなかった。

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