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10話. もう一度、入ります

Author: 6jay
last update publish date: 2026-10-21 19:38:51

水曜の朝、絵里はアラームが鳴る前に目を覚ました。

携帯に新しい呼び出しはなかった。今日ガーゼを取り出す田島達夫の名前を思い浮かべ、ベッドを出た。昨夜より体は軽かったが、最初のガーゼを外す瞬間が、何度も先に浮かんだ。

病院に着くと、まず美咲の経過を確認した。夜間に、手術の方針を改めて変えるような大きな変化はなかった。美咲は看護師に手伝ってもらいながら姿勢を変え、顔をしかめていた。

「強く引っ張られますか?」

「もう、動きたくないです」

絵里は鎮痛の状況と現在の状態を確かめ、動くときは手を借りるように伝えた。佳織がベッドのそばで、必要なものを整えていた。

美咲が携帯を指した。

「今日は、姉が持ってます」

「任せられてよかったですね」

「ロックまでかけられました。私のなのに」

絵里は小さく笑った。冗談を言えることがうれしかった。それだけで回復をすべて評価することはできないが、少なくとも昨日、手術室へ向かったときとは違う顔だった。

必要なことを確かめ、ICUへ向かった。

達夫はまだ人工呼吸器の補助を受けていた。胸腔ドレーンも、腹部の一時的な閉鎖装置もそのままだった。体温と検査結果、出血の推移を、夜間の担当チームと一緒に確認した。

小野寺が午前の勤務に戻っていた。

「今日、再手術ですね?」

「はい。高瀬先生と最終確認をしています」

小野寺は以前のメモと現在の記録を並べた。2日前からどんな変化があったかを、短く示してくれた。絵里は必要な部分を書き留め、手術室に伝える内容をまとめた。

怜司も胸部を再評価した。今すぐ胸部を再手術すべき所見はなかった。高瀬と方針を合わせてから、絵里に言った。

「胸部は引き続き経過を見ます。腹部の手術中に呼吸状態が変わったら、連絡してください」

「わかりました」

絵里は胸部の方針を申し送りの項目に加えた。それぞれが担当する範囲が明確になると、腹部の再手術の準備に集中できた。

面会を許された短い時間、和枝が夫のそばに立った。靴のかかとは、昨夜よりきちんと履かれていた。ハンドバッグの代わりに、小さな布のバッグを持っていた。

「あなた、私、ここにいるからね」

夫の手の甲を一度なでた。医療者が搬送の準備を始めると、先によけた。

「いってらっしゃい」

患者に向けた言葉だったが、絵里も答えた。

「いってきます」

***

午前9時、再手術を始めた。

最初の手術を終えてから、約37時間。患者の体の状態を立て直すために、多くの人が守ってきた時間だった。

絵里は一時的な閉鎖装置の下を確かめながら、高瀬と方針を再確認した。意図して残したガーゼを回収し、止血が維持されているかを見る。そのうえで、ほかの損傷と腹腔内の状態を再評価する。今日閉腹できるかは、その結果にかかっていた。

最初のガーゼを確認した瞬間、絵里の肩に少し力が入った。昨夜は記録で見ていた6枚が、今、手の前にあった。

ただ急いで取ればいいわけではない。圧迫が解ける瞬間に再出血しないか、見ながら動く必要があった。高瀬は絵里が手を出す範囲を決め、一緒に確かめた。

1枚、回収された。手術室の看護師が数えた。

絵里は次の部位へ目を移した。最初の手術では、あふれる血で詳しく見えなかった肝臓の輪郭が、今は見分けられた。

出血が完全に消えた光景を、期待していたわけではない。損傷部位がどこまで落ち着き、追加の治療が必要なところはないかを確かめる手術だった。

さらにガーゼを確認していると、狭い範囲から血がにじんだ。

絵里の手が止まった。

「先に、ここを見ます」

高瀬も同じ場所を見た。絵里は視野を確保しながら、必要な圧迫を保った。一度に先へ進めば、出血の位置を再び見失いかねなかった。

湊が補助器具を動かしかけ、止めた。

絵里が言った。

「今の位置を維持してください。変えるときは、こちらから伝えます」

最初の手術で、高瀬に言われたのと似た指示だった。今回は、絵里がほかの人の手も導いていた。

高瀬と絵里は残る出血部位を評価し、必要な処置を行った。その間、麻酔チームが患者の反応を伝えた。前の手術のように、何か所からも血が広がり続ける様子ではなかった。

絵里は新たな血が出てこないか、待った。吸引で見えるようになった部位から目を離さず、湊が保っている器具の位置も見た。次のガーゼへ手を移すのは、そのあとだった。

「止血は維持できています」

高瀬が自分でも確かめ、次へ進んだ。

6枚目のガーゼが回収された。看護師が記録と照らし合わせ、枚数を確認し直した。絵里も最初の手術で残した位置を、1つずつ照合した。

一致していた。

そこでようやく、長く息を吐いた。回収されたガーゼから、再び腹腔内へ目を戻した。残る腹部の評価と、閉じられるかの判断が続いた。

高瀬が尋ねた。

「今はどう見える?」

「大きな出血はコントロールされています。残したガーゼの圧迫がなくても維持されることを確認しました。ほかの部位も再評価しています」

「閉じることは?」

絵里は腸のむくみと、腹腔内の状態を見直した。麻酔チームの報告まで確認してから、考えを伝えた。

「今の状態なら試みられると思います。ただ、無理に引き寄せず、閉じる途中も反応を確認する必要があります」

高瀬が同意した。

閉腹の段階に入ると、絵里は手になじんだ動きだけを追わないようにした。初めからここまで進むと決まっていた手術ではない。途中で別の判断が必要になれば、そこで止まらなければならなかった。

頭側から紗季の声が聞こえた。今回の再手術も、最初の手術に入った彼女が麻酔を担当していた。

「現在、呼吸も循環も維持されています」

絵里はそれを聞き、高瀬と次の動きを合わせた。最終確認を終えるまで、大きな変化はなかった。

お腹が閉じられた。

絵里は縫合を終えたところを見た。初日には一時的な閉鎖装置があった場所を、今日は閉じることができた。

高瀬が手を離した。

「よし」

絵里は少し遅れて答えた。

「はい」

初日、自分が一時的な閉鎖を提案した場所を見た。あのときの選択を、今日ここまでつないできた。顔を上げると、高瀬も同じところを見ていた。

「藤崎先生が止めようと言った手術が、今日ここまで来た。今日の目標は達成したよ。この先の経過は、ICUで続けて見ていけばいい」

絵里はそこでやっと、肩の力を抜いた。

***

説明室の扉が開くと、和枝は席を立った。

高瀬が先に伝えた。

「お腹の中をもう一度確認し、今日は閉じました」

和枝の唇が開いた。すぐには言葉が出なかった。

絵里は圧迫用ガーゼをすべて回収し、必要な止血を確認したことと、引き続きICUでの治療が必要なことを説明した。肺の損傷や術後経過も、見続けなければならなかった。

和枝は最後まで聞いてから尋ねた。

「じゃあ、今日やることは、うまくいったんですね?」

絵里は高瀬を見てから、和枝に向き直った。

「はい。今日予定していた治療は終えられました」

和枝は両手で少しだけ顔を覆った。大きく泣き出すことはなかった。手を下ろすと、目の下が濡れていた。

「その言葉が、聞きたかったんです」

次の危険を付け加えようとした絵里は、口を閉じた。必要な説明はもうした。今、無事に終えた治療がある。その事実まで、消してしまう必要はなかった。

説明室を出て、高瀬とともにICUの申し送りを確認した。変わった腹部の状態と、観察すべきことが伝えられた。初日とは違い、絵里は連絡の順番を尋ねられる前に、自分で整理して伝えた。

小野寺は内容を確かめ、サインした。

「今度は、すぐ見えますね」

指していたのはサマリー画面だった。一時的に閉鎖していた腹部を再手術で閉じた経過が、最初の画面に反映されていた。

絵里は更新時刻を見た。たった今、自分で直した内容が、次のチームに見える形になっていた。

高瀬は最後の記録を終えると、水を飲んできなさいと言った。絵里は今度は、もう少し診ますとは言わなかった。担当者に必要なことを伝え、休憩室へ向かった。

廊下で、怜司に呼ばれた。

「閉腹できたと聞きました」

「はい。ICUの申し送りも済みました」

「よかったですね」

あまりにすんなり言われて、むしろ絵里のほうが少し戸惑った。

「まだ経過は見ないといけませんけど」

「それはわかっています」

怜司が休憩室の扉を押し開けた。絵里が入れるだけの場所を空けながら言った。

「それでも、うまくいったことは、うまくいったと言っていいんです」

和枝の言葉を思い出し、絵里の口元が少し緩んだ。

怜司が尋ねた。

「次のコンサルトも、藤崎先生に先に連絡していいですか?」

「私が当直の日でしたら」

「確認してからかけます」

怜司は彼女が答えるまで、開けた扉の横に立っていた。コンサルトの話をした顔は、少し前より真剣だった。

「はい。連絡してください」

怜司が自分の診療エリアへ戻ったあと、絵里は水を飲んだ。紙コップを空にすると、指先の緊張も少しほどけた。

携帯には、本院からの新しいメールはなかった。異議申し立ては、まだ検討中。派遣期間も、残っている借金も、何も変わっていなかった。

絵里は画面を消し、白衣のポケットにしまった。

診療エリアに戻ると、看護師が顔を上げた。

「藤崎先生、次の患者さんを一緒に診ていただけますか?」

本院からいらした方、という言葉はつかなかった。

絵里は白衣の袖を整え、ベッドのほうへ歩いた。

「はい。どんな方ですか?」

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