第4話

司はすぐ立ち上がり、彼女のオフィスのドアに鍵をかけた。

菫は一気に警戒した。「何をするつもり？」

「奥さんは本当に賢いし、懐も深い」司の声には感情の色がなく、長い脚で歩み寄りながら、腕時計を外していく。

凄い迫力だった。

菫は素早く椅子から立ち、回転椅子を引き寄せて前に置いた。「病院には監視カメラがあるのよ。昨日は交番に入って、今日はマスコミのネタになりたい？」

司の視線がゆっくりと彼女を上から下まで見回す。菫はごく普通の白衣を着ていた。ウエストを絞ったデザインではないのに、整った体のラインを隠しきれず、きちんとした姿がかえって清楚な色気を漂わせていた。

「俺たちは夫婦だ。せいぜい院内で某一ノ瀬家の女医は欲求不満で職場でイチャついたと注意されるくらいだろう。マスコミに載るほどじゃない」

嫌な予感がして、菫は足を向けて逃げようとした。

だが、間に合わなかった。

司の長い腕が伸び、彼女の手首を掴むと、そのまま奥の部屋へ押し込んだ。

そこは、彼女が昼休みに休むための小さなベッドのある部屋。

「痛っ！」ベッドに投げ出された拍子に肩をぶつけ、痛みで一瞬動きが止まった。

司は片膝をベッドにつき、彼女の両手を掴んで頭上に押さえつける。

その目は、正面から見れば情も感じられるのに、こうして見下ろされると目尻がわずかに上がり、感情の欠片もないように見えた。

「お前の計算は見事だが、残念ながら俺はそんな等価交換は受け入れない。菫、俺は、お前が産んだ子供しかいらない」

その二つの言葉を、特に強調して言った。

菫は必死に抗おうとしたが、彼の力はあまりにも強い。司が身を屈めると、馴染みのあるようで知らない気配が、完全に彼女を覆った。

「何をじたばたしてる？俺はとっくに言っただろ。お前がいつ子供を産むかで、俺たちがいつ離婚するかが決まる。今後お前が離婚って言ったら、それは俺を誘ってるって意味だと思うぞ」

菫は息を詰めた。

「もちろん、誘ったからって必ず応じるとは限らないけどな」司はふざけたように言う。「だから頑張れよ、奥さん。俺にその気を起こさせてみろ」

菫は一言も返さなかったが、表情には「ふざけるな」と書いてあるようだった。

司は今はその気がない様子で、つまらなそうに目尻を下げ、彼女の下に手を伸ばした。

手に取ったのは、指輪の箱。

片手で開けると、中には彼女の結婚指輪が入っていた。

そのとき、菫はようやく思い出した。指輪、ここにあったんだ。数日探しても見つからず、もう捨てちゃったと思っていたのに。

司は意味深に言った。「奥さんがこの結婚をどれだけ望んでないか、よく分かったよ」

菫は説明しようと口を開きかけたが、司はすでに立ち上がり、指輪の箱を棚の目立つ場所に置く。ポケットから腕時計を取り出し、再び身につけると、立ち去ろうとした。

新しい女のことなど、もうどうでもいいという顔だった。

その背中に、菫が声をかける。「雪菜の子供はいらないって言うなら、秋日通りのあの子も、一ノ瀬家に迎えるつもりはないの？」

司の足が一瞬止まる。

菫は真剣な顔で謝った。「ごめん。私、小さい頃から愛に飢えてて、あなたが私にとても優しくしてくれたから、誰にでもそんなふうにするなんて知らなくて、本気で私を好きなんだと思い込んでた。だからお義母さんが結婚を提案したとき、承諾しちゃったの。

でも最初から、あなたが私を猫や犬と同じようにしか見てないって知ってたら、私と結婚することであなたの邪魔をして、本当に好きな人との幸せまで奪っちゃうなら、私は最初から距離を置いてた」

司は何も言わずに振り返らなかった。だが、菫の気のせいでなければ、彼の周りの空気が急に冷え込んだ気がした。

それもそうだ。これは過去をえぐる話。彼が不機嫌になっても当然だ。

菫はさらに言った。「今、私は間違いを正して、あなたを自由にしたい。離婚に同意してくれれば、愛する人も子供もすぐ手に入るのに、どうしてそんなに拒むの？」

司の冷たい一言で、会話は終わった。

「俺との結婚をゲームか何かと勘違いしてないか？先生、自分を過大評価するな。俺が離婚しないのは、純粋に損するのが嫌だからだ。金も物も全部返してもらうまでは別れない」

司が去った後、菫はまだベッドに横たわったまま、起き上がろうとしなかった。

とにかく疲れていた。心の底から、全身が疲れ切っていた。

スマホが鳴り、彼女はちらりと画面を見て、力なく電話に出た。「恵茉？」

一色恵茉（いっしき えま）――産婦人科の一色医師だ。受話器を押さえ、小声で言った。

「菫、一体何する気？あの女がこっちで大騒ぎして、みんな集まっちゃったのよ。知らない人が見たら、私が悪役ボスのために清純派ヒロインを処分してるみたいじゃない！」

「……ドラマの見すぎよ」菫は起き上がりながら答えた。「彼女、妊娠してるの？」

「してないわよ。エコーで見たけど、兆候は全くなし」

菫は笑みを漏らして言った。「彼女を解放して」

菫と恵茉は中学からの親友だった。彼女が人工中絶の予約を入れたとき、恵茉は事情が分からなかったが、それでも芝居に協力してくれた。

恵茉は看護師に解放するよう指示しながら尋ねる。「で、彼女って誰？」

「司の新しい女よ」

恵茉は少し黙ったあと、クスっと笑った。「やっぱ子宮摘出して悪女に移植しちゃおっか！」

物騒すぎる。

菫は肩をすくめた。「そんなことしたら、司があなたを都内にいられなくするかもね」

司は前から恵茉を嫌っていて、懲らしめる機会を狙っていた。

恵茉は強気に言う。「彼に度胸があるなら、アメリカから帰ってきて私を殴ってみなさい！」

菫は冷ややかに言った。「彼、もう帰ってきてるわよ」

「……」恵茉は時務を識る者だった。「今のナシで」

しばらくして、やはり聞いてくる。「で、あんた離婚するつもり？」

菫はベッドから起き上がり、棚の上の指輪の箱をちらりと見た。「彼は私に、あの子の償いをしろって言ってる」

恵茉は絶句した。「去年……あんたが堕ろした子供のこと？」

「そう」

その手術をしたのは恵茉自身だ。事情も誰より知っている。この一言で、彼女の怒りが爆発した。それから三十分間、恵茉は司を罵倒し続けた。

優しい一色医師の口から飛び出すと、司は「立たない男」呼ばわりされた。

菫は聞いていて、少しだけ気が晴れた。電話を切ると、義母からメッセージが届いていた。【今夜は家で夕食を、一緒に司の帰国祝いをしよう】

菫は承諾した。

だが夜、庭園付きの別荘に来たのは菫だけ。主役の司は秘書を通じて一言。

「忙しい、後日」

夕食のテーブルには、義父・一ノ瀬隆志（いちのせ たかし）、義母・一ノ瀬美穂（いちのせ みほ）、そして菫だけが座っていた。

美穂は菫に酢豚を取り分けた。「あの泉さんは、もう送り返したわ」

菫は少し手を止めて、彼女を見た。「ご存じだったんですね」

美穂はため息をつく。「また辛い思いをさせちゃったわね」

「また」という言葉には、秋日通りのあの女のことも含まれていた。ただ、あの件については、美穂も隆志も一度も口を出さなかった。