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第3話

Author: 談棲
彼の一言で、菫は一年前のあの激しい喧嘩を思い出した。

「お前がいつ妊娠して、いつ子供を産むか。それで俺たちがいつ離婚するかが決まる。この借りを返し終わるまでな」

司は眼鏡を押し上げ、声には柔らかい笑みを含ませながら、まるで恋人同士のささやきのように言った。

「菫、逃げようなんて夢見るなよ」

「……」

そう言い残すと、司は立ち去った。

菫は椅子の背もたれに深くもたれかかり、胸が締め付けられるように苦しかった。

昨夜あの二人の少女が当時の会話を再現するのを聞いて、彼女は分かっていた。司が手を出した引き金は「こっそり妊娠して、こっそり堕胎」という言葉だったのだと。

やっぱり彼は、まだあの出来事を根に持っている。

菫は無意識にお腹に手を当てた。

自分は彼に、子供のことで借りがある……

加害者のくせに先に文句を言うなんて。

……

菫は今日、外来当直だった。

彼女は東華病院の心臓外科主任医師。

年齢的に考えれば、このポストに就くのはかなり異例だ。

だが彼女には才能があり、専門知識も確かで、海外の一流医科大学を卒業した後、院長が高給で招聘して帰国させた経緯がある。

東華病院に来て数年、菫は実力で周囲を黙らせ、「心臓外科のエース」と呼ばれるにふさわしい存在になっていた。

診察室は医師一人に一室。菫は回転椅子に腰を下ろし、手近の呼び出しボタンを押した。

アナウンスから機械的な女性の声が流れる。「1番の患者様、3号診察室にお入りください」

菫はパソコンで1番患者のカルテを開いた。間もなく、扉の向こうから一人の少女が入ってくる。彼女は顔を上げて一瞥した。

第一印象はどこかで見たことがある。

「カルテがないみたいですね。初診の方ですか?今日はどうされました?」

少女はまだ二十歳で、かなり若いだが、年齢には似合わない深いVネックのワンピースを着て、大股で歩み寄ると、椅子を引いて菫の向かいに座った。

菫は再び尋ねる。「どこか具合が悪いんですか?」

少女はしばらく彼女をじっと見つめていたが、突然口角を上げ、こう言った。「妊娠しました」

菫は疑問を抱いた。

「司さんの子です」

「……」

どうりで見覚えがあった。

バーの防犯カメラに映っていた、司にキスしたあの少女だった。

バーでは濃いメイクをしていて、ほとんど気づかなかったのだ。

菫の表情はますます冷たくなり、淡々と言った。「妊娠なら産婦人科を受診してください。ここは心臓外科です。診察枠の無駄になります」

少女は薄く笑った。「とぼけないでよ、先生。私が司さんの子を妊娠してるのに、まだ席を譲る気がないの?」

席を譲る。

菫はボールペンを回した。司が秋日通りで数年囲っている古株の愛人ですら、こんな言い方はしなかった。この新参者、なかなか度胸がある。

どうやら司が、彼女に騒ぐ理由を与えたらしい。

菫は少女と多くを語らず、内線電話を手に取った。「一色先生、手術枠を一つ追加してください。今すぐです。無痛中絶。患者は……泉雪菜(いずみ ゆきな)さん」

少女の顔色が一変し、勢いよく立ち上がった。「菫!何するつもり?!私の子を殺す気?!そんなことしたら司さんが絶対許さない!」

「力の強い看護師を二人お願いします。患者さんが少し協力的じゃないので」

電話を切ると、すぐに体格のいい看護師二人が部屋に入ってきた。「先生」

雪菜は菫が本気だと悟り、怒りと恐怖で足を踏み鳴らした。「菫!調子に乗らないで!業界で誰もが知ってるわよ?あんたがどうやって司さんと結婚したか!あんたはただの計算高い悪女よ!」

菫は保温ボトルを開け、自分の白衣を指差した。「私のどこが悪女なの?」

雪菜は叫んだ。「あんたの母親が一ノ瀬家の奥様と親友だったのをいいことに、子どもの頃から一ノ瀬家に入り浸って奥様に取り入り、ムカつくけど、結局は思い通りになった!奥様が司さんに無理やり結婚させなかったら、彼があんたみたいな両親殺しの女なんて欲しがるわけない!あんたが司さんをこんなに長く独占して、もう十分でしょ!彼を私たちに返しなさい!」

菫は慌てずに水を一口飲み、他人事のように聞き流す。罵倒されても怒らず、むしろ感心したように頷いた。「よく知ってるのね。司が教えた?」

雪菜は憎々しげに言い放つ。「私は絶対、あんたが司さんを傷つけ続けるのを許さない!」

菫は彼女を上から下まで眺め、最後にお腹に視線を落として、ふと思いついたように言った。「そんなに彼のために怒るなら、私があなたの願いを叶えてあげる」

雪菜は一瞬理解できなかった。「何の願いを叶えるって?」

菫は看護師たちに向かって言った。「この人を裏口から産婦人科の一色先生のところへ連れて行って。先生には事情を話してあるから」

雪菜が悪態をつきながら看護師に連れ出されるのを見届け、菫は司に電話をかけた。

一度目は切られた。

辛抱強く二度目をかける。

今度は司が出た。声には面倒そうな響きがあった。「会議中だ。三分以内で済ませろ」

「あなたの新しい女が病院で騒いで、私の仕事の邪魔をしてるの。早く来て対処して。じゃないと、どうなるか分からないわよ」

そう言って電話を切った。通話時間、三十秒。

おそらく彼の女を心配したのだろう、司は会議を終えるとすぐに現れた。菫はちょうど午前中の診察を終え、オフィスで彼を迎えた。

司は朝と同じ黒のスーツ姿だったが、ネクタイを外し、シャツのボタンを二つ開けていた。わずかに開いた襟元から鋭い喉仏がのぞく。

彼が椅子に座ると、上品さと自由奔放な本性が同時に滲み出ていた。

菫は思わず背を引き、距離を取って言った。「彼女、妊娠してるって。あなたの子よ」

司は聞いても表情を変えず、金縁の眼鏡が目の感情を隠していて、菫には彼がこの件を知っていたのか分からなかった。

「彼女は今、私の手の中にいる」

司はようやく少し興味を示した。「お前、彼女を監禁したのか?先生って案外ワイルドだな」

これでワイルド?一ノ瀬坊ちゃん、世間知らずね。

菫は心の中でそう思いながら言った。「あなたと取引したいの」

司は嘲るように笑う。「十五分前に俺の前で持ちかけられた契約が、どれだけの価値があったか知ってるか?」

菫は平然と答えた。「この提案も同じくらい価値があるわ。雪菜の子を産ませてもいいし、外には私が産んだことにしてあげる。そうすれば私生児じゃなくなる。両親にも話をすれば、受け入れてくれるでしょ。

そして、これは、私があなたに返す子供。これで貸し借りはチャラ。離婚できるわよ」

司の眉がわずかに上がり、眼鏡の奥の瞳が一瞬鋭く光ったが、すぐに元に戻った。

「見かけによらず、先生は計算高いんだな。等価交換が上手いとは」

菫は彼が嘲笑しているのか気にも留めず、腕時計を指差した。「考える時間はあげるけど、長くは待たない。雪菜はもう手術台の上。彼女のお腹の子が助かるかどうかはあなたの答え次第よ」

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