夜の不真面目

夜の不真面目

By:  談棲Updated just now
Language: Japanese
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一ノ瀬菫(いちのせ すみれ)は深夜、一年ぶりの夫と再会したが、いきなり「不倫」の疑いが浮上し、離婚を決意する。 一ノ瀬司(いちのせ つかさ)は強烈な気迫で彼女を追い詰め、いつものようにけだるく冷たい声で言った。「いいだろう。 だが、まだ一年しか経ってない。奥さんは忘れてないよな?お前は俺に子供の件で借りを作ったことを。 子供を産んだら離婚してやる。 もちろん、前提として、俺がお前と子作りする気になればの話だがな。 頑張れよ、俺の奥さん」

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Chapter 1

第1話

室内はじっとりと蒸し暑く、湿気が肌にまとわりついていた。

男の体温が熱く伝わってくる。

「そんなに感じてるのか?こんな可愛い声出しちゃって」彼は彼女の耳元で低く笑いながらささやく。少しかすれた声が、どこか物憂げに響いた。「それなら。

こうしてやろうか?」

「あっ!」

一ノ瀬菫(いちのせ すみれ)は勢いよく目を見開いた。心臓がドクンと激しく跳ね上がる。

ハッと我に返ると、ようやく気づく。夢だったのか……

夢の中での彼の行動で、今でも喉がカラカラに渇き、胸の鼓動が早鐘のように鳴り響いていた。

しばらくしてから気を取り直し、隣に手を伸ばす。

そこは空っぽで、シーツは冷たかった。

夫は家にいない。

菫は長い髪をかき上げ、深くため息をついてベッドから立ち上がると、水を飲みに向かった。

数歩歩いたところで下着の不快感に気づき、少し煩わしそうにクローゼットから清潔な下着を取り出し、バスルームで着替えた。

女だって男と同じ欲求がある。

特に彼女のような、結婚してから夫婦の営みがとても盛んだった女性は。

以前はほぼ毎晩明け方まで眠れなかったが、あの一件があってから、夫は海外転勤を引き受け、もう一年近く帰ってきていない。

彼女があんな夢を見るのも当然といえば当然だった。

菫は着替えを終え、ついでに洗濯物でも干そうかと思ったとき、ベッドサイドのスマホが鳴った。深夜の静寂を破る着信音が、やけに耳に響く。

彼女は外科医で、夜中の緊急手術の呼び出しは珍しくない。最初は何も気に留めなかったが、電話に出ると、相手は見知らぬ男性だった。

「一ノ瀬菫さんでいらっしゃいますか?」

「はい、どちら様でしょう?」

「こんばんは、中央通り交番の警察官です。一ノ瀬司(いちのせ つかさ)さんはご主人でいらっしゃいますか?本日深夜、バーで酔って喧嘩騒ぎを起こしまして。お手数ですが、交番まで迎えに来ていただけませんでしょうか」

菫は最初ぽかんとした。司が帰国していた?

帰国しただけでなく、交番まで入ってしまった。

菫はとても驚いたが、少し間を置いてから答えた。「分かりました、すぐ伺います」

彼女は外出用の服に着替え、車のキーを手に取って家を出た。

中央通りは、都内で最も有名な歓楽街だ。ネオンが色とりどりに瞬き、音楽が遠くから近くから聞こえてくる。郊外の自宅からは少し距離があった。菫が到着したのは、すでに午前四時を回っていた。

ここはバーやクラブが多く、トラブルも絶えない。夜明け前のこの時間帯でも、交番は人でごった返していた。

菫は交番のガラスドアを押し開け、一目で白いパイプ椅子に座っている司を見つけた。

こんな雑然とした騒がしい環境でも、彼は相変わらず人目を引く存在だった。

そして他の人とは一線を画すように、一人で一角を占めていて、周りには誰も近づこうとしない。

一年ぶりの再会で、菫の視線は思わず彼の全身を眺めた。彼には何も変わったところがなかった。

白いワイシャツに黒いスラックス、ネクタイも上着もなく、上質な生地で仕立てられた服にはシワひとつない。体にぴったりと合わせたカットが、彼の百八十八センチの長身を際立たせている。

彼は大股開きで座り、ボタンを二つ外して、鋭い喉仏と胸元を覗かせていた。スラックスは座った拍子に少し上がり、黒いソックスから足首が見えている。全体的に見て、だらしなくもセクシーだった。

彼は少し頭を垂れている。酔いのせいか、目元が赤く、普段の整ってる顔にどこか妖艶さが加わっていた。

この魅惑的な美しさは、以前彼がベッドで特に興奮したときにだけ、彼女が一度か二度垣間見ることができたものだった。

今こんなにも堂々と人前にさらすなんて、交番を出入りする人々が皆、彼に視線を奪われるのも無理はない。

見ているだけで得した気分になる。

大手財閥の跡取り息子、顔と才能を兼ね備え、権力も財力もある。

都内を見渡しても、彼に歯向かおうとする者はいない。普段は高嶺の花で、決して下界には降りてこない。今日は一体何があったのか、こんな場所に連れてこられるなんて。

よくそんな度胸があったものだ。

おそらく彼女の視線を感じ取ったのだろう。男はゆっくりと顔を上げ、黒い瞳がぼんやりとしていた。菫を認識できているかは分からないが、あの垂れ目は、相変わらず色っぽかった。

菫はすぐに彼のもとへは向かわず、受付カウンターで身分を明かした。「こんばんは、一ノ瀬菫です。お電話をいただいて参りました」

若い警察官が現れた。彼がこの件を担当しているようで、菫は彼の階級章を見て、新人の交番勤務員だと判断した。

きっと新人なのだろう。都内一ノ瀬家の御曹司を知らないに違いない。

「あなたが一ノ瀬司さんの奥さんですね。ご主人がバーで喧嘩をしまして、詳しい状況は防犯カメラの映像をご覧ください」

警察官は防犯カメラの映像を再生した。そのカメラは司の真上にあり、ほぼ彼を狙って撮影していた。

まだしっかりしていた司は、見とれるほどイケメンで、立体的な骨格がバーの眩い照明に映えていた。眉間にはどこか世の中を見下すような無関心さが漂っている。

彼は片手をポケットに突っ込み、片手でスマホを持ち、何かを見ていた。その直後、スタイル抜群の女性がそばに駆け寄り、いきなり彼の腰に抱きついた。

菫はその場で愕然とした。

女性は爪先立ちになり、司の耳元で何か二言三言話しかけた。司は興味津々に、口角を上げる。その時彼の高い鼻筋には金縁眼鏡がかかっており、知的でありながらどこか危険な魅力を醸し出していた。

菫は手の中の車のキーを強く握りしめ、尖った部分が手のひらに食い込んだ。

防犯カメラの映像が進むと、司がエレベーターから出てきたばかりの数人の若者とばったり出会った。お互い何か言葉を交わしたが、音声にノイズがあり、聞き取れない。ただ彼がゆっくりと眼鏡を外し、ポケットにしまうのが見えた。

その後雰囲気が一変し、双方が喧嘩を始めた。

司の身のこなしは菫も承知していた。一ノ瀬家が幼い頃から一流のコーチを雇って叩き込んだ格闘技は、ただ殴り合うような野蛮なものとは次元が違う。彼は数回の攻撃で相手を制圧した。

バーの警備員が駆けつけて喧嘩を制止し、警察に通報、そして警察が介入した。

一部始終が、非常にはっきりと映っていた。

この時菫の脳裏に焼き付いているのは、あの女性が司に抱きついている場面だった。

彼女はあちらの意識朦朧とした男を見て、また殴られたあの数人の若者を見た。若者の中には二人の女の子がいて、彼女が暴力を振るった男の妻だと知り、この防犯カメラの映像を見て、彼女を見る目がどこか同情的だった。

夫の浮気疑惑はさておき、喧嘩騒ぎで交番まで来て、しかも妻が迎えに来なければならない。

めちゃくちゃすぎる。

「奥さん、私たち本当に何もしてないんです。友達が冗談で、数日前までお腹が出てたのに、今日はどうしてないの、こっそり妊娠してこっそり堕ろしたのって私に聞いただけなんです。この人はおそらく私たちが隣にいた女性のことを言ってると思って、それで私たちに手を出したんです」

「こっそり堕ろした」という言葉で、菫は突然背筋がゾクッとするのを感じ、思わず自分のお腹に手を当てた。

ようやく理解した。人前では穏やかで、気品ある貴公子である司が、なぜチンピラのように、バーで人と喧嘩をしたのかを。

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第1話
室内はじっとりと蒸し暑く、湿気が肌にまとわりついていた。男の体温が熱く伝わってくる。「そんなに感じてるのか?こんな可愛い声出しちゃって」彼は彼女の耳元で低く笑いながらささやく。少しかすれた声が、どこか物憂げに響いた。「それなら。こうしてやろうか?」「あっ!」一ノ瀬菫(いちのせ すみれ)は勢いよく目を見開いた。心臓がドクンと激しく跳ね上がる。ハッと我に返ると、ようやく気づく。夢だったのか……夢の中での彼の行動で、今でも喉がカラカラに渇き、胸の鼓動が早鐘のように鳴り響いていた。しばらくしてから気を取り直し、隣に手を伸ばす。そこは空っぽで、シーツは冷たかった。夫は家にいない。菫は長い髪をかき上げ、深くため息をついてベッドから立ち上がると、水を飲みに向かった。数歩歩いたところで下着の不快感に気づき、少し煩わしそうにクローゼットから清潔な下着を取り出し、バスルームで着替えた。女だって男と同じ欲求がある。特に彼女のような、結婚してから夫婦の営みがとても盛んだった女性は。以前はほぼ毎晩明け方まで眠れなかったが、あの一件があってから、夫は海外転勤を引き受け、もう一年近く帰ってきていない。彼女があんな夢を見るのも当然といえば当然だった。菫は着替えを終え、ついでに洗濯物でも干そうかと思ったとき、ベッドサイドのスマホが鳴った。深夜の静寂を破る着信音が、やけに耳に響く。彼女は外科医で、夜中の緊急手術の呼び出しは珍しくない。最初は何も気に留めなかったが、電話に出ると、相手は見知らぬ男性だった。「一ノ瀬菫さんでいらっしゃいますか?」「はい、どちら様でしょう?」「こんばんは、中央通り交番の警察官です。一ノ瀬司(いちのせ つかさ)さんはご主人でいらっしゃいますか?本日深夜、バーで酔って喧嘩騒ぎを起こしまして。お手数ですが、交番まで迎えに来ていただけませんでしょうか」菫は最初ぽかんとした。司が帰国していた?帰国しただけでなく、交番まで入ってしまった。菫はとても驚いたが、少し間を置いてから答えた。「分かりました、すぐ伺います」彼女は外出用の服に着替え、車のキーを手に取って家を出た。中央通りは、都内で最も有名な歓楽街だ。ネオンが色とりどりに瞬き、音楽が遠くから近くから聞こえてくる。郊外の自宅からは少し
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第2話
「状況はお分かりいただけましたでしょうか?この件については……」警察官が口を開いた。菫は彼の話を遮った。「すみません、この状況で、一ノ瀬司は傷害罪になりますか?」警察官は少し戸惑ってから答えた。「厳密に言えば、お互いに手を出していますから、双方の喧嘩ということになります」菫は続けて聞いた。「では、暴行罪とかには当たりませんか?」「……暴行罪は、故意という前提が必要ですが、今回の発端は誤解でしたし、お互い酔っていて、多少感情的になっていました。一般的にはそこまでの処理はしません」菫は食い下がった。「結婚中の不倫、大勢の前で女性と抱き合うのは、風紀を乱しませんか?公序良俗違反でも数日は拘留できるでしょう?五日間?それとも十日間はどうでしょう?」「……」この時になって、警察官を含めた全員が気づいた。菫は夫を迎えに来たのではなく、あらゆる罪状を探し出して、警察に司を留置してもらおうとしているのだと。皆、苦笑いを浮かべた。本当に「仲睦まじい」夫婦だ。司はこの時、姿勢を変えて背もたれに寄りかかり、その動作で体が伸び、ますます長身で端正に見えた。彼はゆっくりと、かすれた声で、冷たく彼女の名前を呼んだ。「す・み・れ」脅迫ではないが、脅迫以上の迫力があった。菫は最終的に一ノ瀬グループの株価のこと、そして一ノ瀬家の両親がこれまで彼女によくしてくれたことを考えて、仕方なく司の代理として相手方と示談交渉を行い、六十万円を支払って司を連れて帰った。道中、二人は一言も口をきかなかった。家に着くと、菫が駐車に手間取っている間に、司はもう着替えを持ってバスルームに入ってしまった。彼女は仕方なく客室で顔を洗って、パジャマに着替えた。ベッドに横になって、菫は心底疲れていた。やっと運が向いたのか、今夜は緊急手術もなく、本来なら快適に眠れるはずだったのに、こんなくだらない騒動で往復二時間も無駄にして、少し仮眠したらまた仕事に行かなければならない。菫は急いで仮眠を取ろうとして、ようやく眠気が差してきたとき、スカートの裾を誰かに持ち上げられ、男の手が直接彼女の太ももの間に伸びてきた。菫は一瞬で両脚を閉じ、勢いよく目を見開いた――バスローブを着た司がベッドの縁に座っていた。前をきちんと合わせておらず、大きく胸を露わにしていた。冷たい白い
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第3話
彼の一言で、菫は一年前のあの激しい喧嘩を思い出した。「お前がいつ妊娠して、いつ子供を産むか。それで俺たちがいつ離婚するかが決まる。この借りを返し終わるまでな」司は眼鏡を押し上げ、声には柔らかい笑みを含ませながら、まるで恋人同士のささやきのように言った。「菫、逃げようなんて夢見るなよ」「……」そう言い残すと、司は立ち去った。菫は椅子の背もたれに深くもたれかかり、胸が締め付けられるように苦しかった。昨夜あの二人の少女が当時の会話を再現するのを聞いて、彼女は分かっていた。司が手を出した引き金は「こっそり妊娠して、こっそり堕胎」という言葉だったのだと。やっぱり彼は、まだあの出来事を根に持っている。菫は無意識にお腹に手を当てた。自分は彼に、子供のことで借りがある……加害者のくせに先に文句を言うなんて。……菫は今日、外来当直だった。彼女は東華病院の心臓外科主任医師。年齢的に考えれば、このポストに就くのはかなり異例だ。だが彼女には才能があり、専門知識も確かで、海外の一流医科大学を卒業した後、院長が高給で招聘して帰国させた経緯がある。東華病院に来て数年、菫は実力で周囲を黙らせ、「心臓外科のエース」と呼ばれるにふさわしい存在になっていた。診察室は医師一人に一室。菫は回転椅子に腰を下ろし、手近の呼び出しボタンを押した。アナウンスから機械的な女性の声が流れる。「1番の患者様、3号診察室にお入りください」菫はパソコンで1番患者のカルテを開いた。間もなく、扉の向こうから一人の少女が入ってくる。彼女は顔を上げて一瞥した。第一印象はどこかで見たことがある。「カルテがないみたいですね。初診の方ですか?今日はどうされました?」少女はまだ二十歳で、かなり若いだが、年齢には似合わない深いVネックのワンピースを着て、大股で歩み寄ると、椅子を引いて菫の向かいに座った。菫は再び尋ねる。「どこか具合が悪いんですか?」少女はしばらく彼女をじっと見つめていたが、突然口角を上げ、こう言った。「妊娠しました」菫は疑問を抱いた。「司さんの子です」「……」どうりで見覚えがあった。バーの防犯カメラに映っていた、司にキスしたあの少女だった。バーでは濃いメイクをしていて、ほとんど気づかなかったのだ。菫の
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第4話
司はすぐ立ち上がり、彼女のオフィスのドアに鍵をかけた。菫は一気に警戒した。「何をするつもり?」「奥さんは本当に賢いし、懐も深い」司の声には感情の色がなく、長い脚で歩み寄りながら、腕時計を外していく。凄い迫力だった。菫は素早く椅子から立ち、回転椅子を引き寄せて前に置いた。「病院には監視カメラがあるのよ。昨日は交番に入って、今日はマスコミのネタになりたい?」司の視線がゆっくりと彼女を上から下まで見回す。菫はごく普通の白衣を着ていた。ウエストを絞ったデザインではないのに、整った体のラインを隠しきれず、きちんとした姿がかえって清楚な色気を漂わせていた。「俺たちは夫婦だ。せいぜい院内で某一ノ瀬家の女医は欲求不満で職場でイチャついたと注意されるくらいだろう。マスコミに載るほどじゃない」嫌な予感がして、菫は足を向けて逃げようとした。だが、間に合わなかった。司の長い腕が伸び、彼女の手首を掴むと、そのまま奥の部屋へ押し込んだ。そこは、彼女が昼休みに休むための小さなベッドのある部屋。「痛っ!」ベッドに投げ出された拍子に肩をぶつけ、痛みで一瞬動きが止まった。司は片膝をベッドにつき、彼女の両手を掴んで頭上に押さえつける。その目は、正面から見れば情も感じられるのに、こうして見下ろされると目尻がわずかに上がり、感情の欠片もないように見えた。「お前の計算は見事だが、残念ながら俺はそんな等価交換は受け入れない。菫、俺は、お前が産んだ子供しかいらない」その二つの言葉を、特に強調して言った。菫は必死に抗おうとしたが、彼の力はあまりにも強い。司が身を屈めると、馴染みのあるようで知らない気配が、完全に彼女を覆った。「何をじたばたしてる?俺はとっくに言っただろ。お前がいつ子供を産むかで、俺たちがいつ離婚するかが決まる。今後お前が離婚って言ったら、それは俺を誘ってるって意味だと思うぞ」菫は息を詰めた。「もちろん、誘ったからって必ず応じるとは限らないけどな」司はふざけたように言う。「だから頑張れよ、奥さん。俺にその気を起こさせてみろ」菫は一言も返さなかったが、表情には「ふざけるな」と書いてあるようだった。司は今はその気がない様子で、つまらなそうに目尻を下げ、彼女の下に手を伸ばした。手に取ったのは、指輪の箱。片手で開けると
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第5話
「でもすみ、安心して。一ノ瀬家が認めるお嫁さんはあなただけよ」美穂は優しくそう言った。「司が帰国したから、お父さんの考えでは、もう海外勤務はさせずに、都内に留まって、段階的に会社を継がせる予定なの。あなたたち夫婦も、これからはもっと気持ちを育てていけると思うわ」菫は美穂を見つめながら思った。三年前に心臓のバイパス手術を受けた彼女に、司との揉め事で心配をかけたくない。だから口にした。「分かりました、お義母さん」その返事は本心ではなかったが、美穂の言葉は真剣そのものだった。一週間後、美穂からまた電話がかかってきた。「すみ、司は最近家に帰ってないんじゃない?」「……」確かに、その通りだった。菫は司が帰国していることすら、時々忘れそうになっていた。「仕事が忙しいんだと思います。私も最近――」自分も手術が多くて忙しいと先に言い、司を家に戻してほしいと言われないよう先手を打った。ところが話し終わらないうちに、美穂が続ける。「司が今夜、田辺健一(たなべ けんいち)たちと『雅月会館』で飲むって聞いたの。あなたも残業続きで大変だったでしょ?今夜は早く帰って、友達と一緒に気分転換してきたら?お義母さんが経費出してあげるから」「……」さすが若い頃に一ノ瀬会長と一緒に財界を渡り歩いた人だ。司の居場所も調べ、今夜自分が残業しなくていいことも把握し、しかも「司を家に連れ戻せ」とは一言も言わず、「リラックスしてきなさい」と、逃げ道を完全に塞いでくる。菫は言うしかなかった。「分かりました、お義母さん」電話を切ったあと、恵茉にメッセージを送る。【今夜予定ある?】【特にないけど、どうしたの?】【雅月会館に行かない?】雅月会館は、レトロな外観をした五階建ての洋館だった。由緒ある邸宅の跡地に建てられた高級クラブで、会員は権力者や富豪ばかり。一晩で高級車一台分の金を使うことも珍しくないと言われている。「雅月会館の裏のオーナー、すごく謎なのよ。誰なのか全然分からない。多分どこかの政治家の息子がこっそり作ったんじゃない?じゃなきゃ、あれだけ都内に名士がいても、誰も手を出さないわけがないでしょ。絶対に裏に大物がいるわよ!」二人は一階のロビーでボックス席を見つけ、腰を下ろした。そこへウェイターが近づいてくる。「一ノ瀬様、一色様。
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第6話
菫は平然とした顔で部屋に入った。「さっき下でお酒を飲んでたら、泉さんが駆け寄ってきてね。あなたに私をひどい目に遭わせてもらうって言ってたから、どんなふうに懲らしめるのか一緒に見に来たの」「……」個室にいた全員が、怪訝そうな顔で黙り込んだ。表情はそれぞれ違ったが、誰一人として言葉を発せなかった。この場にいるほとんどは司と親しい友人で、彼が妻を大切に守っている姿も見たことがある。だが、一年前に皆の前で面子も捨てて大喧嘩したのも見ていた。だから今、司がどんな態度を取るのか誰も読めなかった。新しい女と、かつて愛した妻。二人を前にして、彼はどちらの味方をするのか?菫を庇って雪菜を叱れば、まだ情が残っているということになる。でも、雪菜の肩を持ったら……考えがまとまる前に、司は面倒くさそうに笑い、少し声の調子を上げて言った。「彼女はまだ若くて分別がない。冗談だよ。先生は命を救う仕事をしてるんだから、子ども相手にムキになるな」雪菜はこの言葉を聞いて、勝ち誇ったようにニヤリと笑った。それで皆は理解した。司にとって、この妻はもう「過去の人」なのだと。しかし司はさらに言った。「先生も、この子のせいで白けるのは嫌だろ?座って一緒にどうだ。これで埋め合わせってことで」新しい女のために、妻に埋め合わせをする。個室の中で、全員の表情はますます複雑になり、恵茉は怒りで今にも爆発しそうだった。彼女は菫を引っ張って座らせた。「いいわよ!一緒に遊ぼ!」誰が遊べないって?「何する?サイコロ?トランプ?ロシアンルーレット?一ノ瀬さんの友達の集まりって、お酒飲むだけじゃないのね?それじゃあつまらないもんね!」司の悪友グループの中に、津山常雄(つやま ときお)がいた。彼は司を見て、次に菫を見て、何を勘違いしたのか――司が妻を残して一緒に遊ばせるのは、きっと彼女を屈辱するためだと考えた。じゃなければ何だ?愛人のために「謝罪」し、妻を残して自分と愛人がいちゃつく姿を見せるなんて、屈辱以外の何だというのか。津山はずっと司の内輪に入れなかった。だからこそ、この機会に一発かまして見直してもらおうと意気込んでいた。「新しい遊びをやろうぜ。『イエスゲーム』ってどうだ?ルールは簡単、質問されたやつは『はい』しか答えちゃダメ。言えなきゃ三杯一気飲み、
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第7話
司は舌打ちした。恵茉は思わず息を呑んだ。菫、やるじゃない。こんなことまで言うなんて。でも、ちょっと切なかった。冗談っぽく言う言葉ほど、本音だったりする。菫はきっと、ずっと前からこう聞きたかったのだろう。司はじっと菫を見つめた。その目は、何を考えているのか分からず、ただ深い。しばらくして、タバコを灰皿に押しつけ、手を伸ばしてグラスを取った。「俺は飲む」「赤、白、黄、全部混ぜて」アルコールを混ぜるのは一番酔いやすく、体にも悪い。医者の菫が知らないはずはない。司はゆっくり口を開く。「菫、容赦ないな」「一ノ瀬さんが本気じゃないだけでしょ」ここで「はい」と答えれば、酒は飲まずに済んだ。「それは違う。先生の質問が俺の人格を侮辱してるんだ」そう言うと、司は本当に三種類の酒を混ぜて飲み始め、周囲を唖然とさせた。しばらく考えて菫は理解した。浮気はしていない。だから「はい」とは答えられない。「そうかしら」彼の言い分を信じるか、それともUFOを信じるか。ただ証拠を残したくないだけだ。離婚の時に「事実婚中の不倫を認めた」と記録され、財産分与で不利になるのを避けたいだけ。三杯飲み干したあと、司の顔色が少し青ざめたように見えた。照明のせいかもしれない。健一はこの夫婦の空気がおかしいのを察し、慌てて場を収めようとした。「もう遅いし、今日はここまでにしよう。続きはまた今度な」他の皆も、この空気に耐えられず立ち上がる。「そうね、また今度」司は席を動かず、眉を上げた。「まだ俺、聞いてないんだけど?こんな損していいのか?」健一は苦笑し、肩をすくめた。「分かったよ、聞けよ」余計なことを言った。これまでのゲームは、どれも核心を突く内容ばかりで、誰も容赦しなかった。司がまだ続けると言い出した時、皆は「復讐だ」と思った。菫への質問も鋭いに違いないと。雪菜は、菫が困るところを見られると思って上機嫌になり、隣で得意げに見ていた。司はあの垂れ目で、菫の身体を意味ありげに見回した。菫の背筋が無意識に強張る。司は突然笑い、語尾を伸ばした。「奥さん、昨夜俺の夢、見たか?」「??」全員が目を丸くした。これだけ?雪菜は倒れそうになり、不満げに声を上げた。「これが質問なの!?」「俺が何を聞こうが勝手だろ。お前には関係ない」
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第8話
もちろん、その考えはほんの一瞬だけだった。菫はすぐに正気に戻り、男を押しのけてベッドから身を起こした。もし本当に子どもができたら、二人の関係はさらに複雑なものになってしまう。一ノ瀬家の若奥さまである菫が、最後に見せた気遣いは――司の足をベッドに上げ、布団を掛けてやってから、自分は客室で眠ることだった。翌朝。菫が目を覚まし、階下へ降りると、司はすでに身支度を整え、食卓で朝食を取っていた。菫も席に着き、田中さんが料理を運んでくる。ひと口食べたところで、男が口を開いた。「見た感じ、先生は結構自制心があるみたいだな」「どういう意味?」司はゆったりとした声で答える。「昨日は俺が酔ってたのに、つけ込んで子どもを作ろうとはしなかっただろ」田中さんは話題に気づくと、口元を押さえてクスクス笑い、そそくさと退室した。司は味噌汁をすすり、微笑む。「まあ、やらなくて正解だな。そうじゃなきゃ、朝起きたときに慰謝料を請求してたかもな」「……」菫は淡々と返す。「科学的に言えば、本当に酔ってる男性は機能しないの。もし昨夜あなたが可能だったなら、それは酔ったふりをしてたってこと。つまり、あなたが私と一緒にいたかったってことよ。慰謝料?一ノ瀬さん、図々しいにも程があるわね」明らかに言い返しているのに、司は口の端を上げ、だらけた笑みを浮かべた。「ほう?じゃあ先生が手を出さなかったのは、酔うと機能しないって知ってたからか?」彼は身を乗り出した。「ってことは、もし俺が酔ってなかったら、本気で手を出すつもりだったってことか?」昔から、口論で彼に勝てる人はいなかった。菫は、こんな口喧嘩に付き合うのは無駄だと思った。さっさとスープを飲み干し、立ち上がって病院へ向かおうとする。数歩進んでから、ふと立ち止まり、振り返って言った。「一ノ瀬さんがあの女を都内に置いておきたいなら、少しは行動を慎ませて。私の前で騒ぐのは別にいいけど、秋日通りでまた騒ぎを起こしたら……小鳥遊さんは上品な人だし、子どももまだ小さいんだから、耐えられないでしょ」司は彼女を見つめ、先ほどまでの興味深そうな色は消え、倦怠を滲ませた声で言った。「新しい女だの古株だの……先生はどうしてそんなレッテル貼りが好きなんだ?」菫は言葉の意味を測りかねたが、考えるのも面倒になり、そ
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第9話
「……」菫は司のカフスボタンを留め終わると、何も言わずに振り返り、そのまま足早に歩き去った。顔には何の感情も浮かんでいなかった。司はただ、彼女の後ろ姿を黙って見送る。その後、二人は並んで古川家の披露宴が行われるホテルへ向かった。司は菫を連れて、元気な中年夫婦のもとに歩み寄る。「おじさま、おばさま」古川夫人は振り向き、彼を見て目を輝かせたが、わざとらしく笑った。「あら、どなたかしら?一瞬分からなかったわ」司は口元を吊り上げる。「俺みたいな顔、一度見たら忘れないでしょう。それでも分からないなんて、年取った証拠ですね」古川夫人は彼を軽く叩く真似をした。「生意気言うんじゃないわよ。あとで美穂に言いつけてやるから!」「ところで、娘さんがいるなんて聞いてありませんよ?どこで拾ったんですか?」司は、親しい相手にはこういう調子で話す男だった。菫は隣で二人のやり取りを見ていたが、まさかその矛先が自分に向かうとは思ってもみなかった。古川夫人は冗談めかして言う。「あなたに狙われたら困るから、黙ってたのよ」司は菫を前に押し出す。「そんな心配無用ですよ。俺にはちゃんと妻がいますから。菫、挨拶して」菫は笑顔を作るしかなかった。「おばさま、おじさま」古川夫人は驚きながら、彼女の周りをぐるりと見回す。「まあ、奥さんまで連れて来るなんて珍しいこと。この私の顔も立つわね」それは本当に珍しいことだった。司はこれまで、ビジネスの席でもプライベートの集まりでも菫を連れて来ることはなかった。結婚式を挙げたとはいえ、彼が既婚者で、その妻が菫だと知る人はほんのわずかしかいなかった。秋日通りであの女を見つけるまでは、菫は理由も分からず、司が一人で動くのを好むだけだと思っていた。だが、あの女の存在を知ってから気づいたのだ。司は一度も彼女を「妻」として認めず、社交の場に連れて行くこともなかったのだと。菫は空気を読むのが得意で、相手が望まないなら無理に関わろうとしない。主催者に挨拶を済ませると、司に声をかけた。「ちょっと歩いてくるわ」「ああ」彼女は振り返らずに歩き去った。二人でいる姿をなるべく人に見られないようにするためだった。菫は新郎新婦の姿を見に行った。新婦は優しく美しく、新郎は上品で端正な顔立ち。二人の瞳には互いへの深い愛情が映
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第10話
菫は、自分の叫び声が司に届いたかどうか分からなかったが、誰かに頼るわけにはいかなかった。隙を見て、彼女は体当たりするようにエレベーターのパネルにぶつかり、全階のボタンを一気に押した。坊主頭の男が苛立った顔で手を振り上げ、殴ろうとした。だが、まだ飯窪さんに会わせる前で、顔に跡を残すわけにもいかないのか、舌打ちしながら拳を下ろした。エレベーターは階ごとに止まり、そのたびに菫は必死で外に飛び出そうとしたが、毎回腕を掴まれて引き戻される。運が悪いことに、こんなに何度も止まったのに、待っている人には一度も出くわさなかった。恐怖で心臓が早鐘のように鳴る。相手が人違いなのか、それとも誘拐犯なのかも分からない。19階でエレベーターが止まり、「ピン」という音と共に扉が開いた。思わないことに、そこには司が立っていた。彼は、ちゃんと声を聞いてくれていたのだ。だから、こうして現れた。「司!」菫は思わず叫んだ。司の目は氷のように冷たい。「俺の嫁をどこへ連れて行くつもりだ?」坊主頭は司を見て、ひょろっとした男だと思ったのか、全く怯えずに吐き捨てる。「誰だよ、あんた?邪魔すんな」司はゆっくりシャツのボタンを外し、薄く笑った。「お前らの事情なんか知ったこっちゃない。ただ、俺の嫁の化粧を崩した。代償は払ってもらう」坊主頭は大笑いした。「よく吠えるじゃねぇか!いいぜ、余計なことする奴がどうなるか教えてやる。やれ!」司の拳が閃いた。鋭く、正確で、重い一撃。坊主頭の鼻から血が噴き出し、手下二人が慌てて飛び出してくる。司は片手で手下の襟を掴み、もう片方の拳を顔面に叩き込んだ。腕の血管が浮き上がり、高級スーツの下に隠れていた野生が剥き出しになる。表情が一気に獰猛に変わった。もう一人の手下が背後から飛びかかろうとしたが、司は即座に蹴りを入れた。そいつはゴミ箱に激突し、床に転がって胸を押さえ呻いた。坊主頭はさすがにまずいと悟り、慌ててスマホを取り出して仲間を呼ぶ。すると、近くの部屋から五、六人が飛び出し、乱闘になった。司は一歩も引かず、鬼神のような勢いで拳を振るう。菫は、以前にもこんな司を見たことがあったが、今回も息を呑んで固まった。だが、数の差は大きい。誰かが司の背中に重い一撃を食らわせた。「司!」菫が悲鳴を上げる。司はよろめき
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