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第5話

Penulis: 談棲
「でもすみ、安心して。一ノ瀬家が認めるお嫁さんはあなただけよ」美穂は優しくそう言った。

「司が帰国したから、お父さんの考えでは、もう海外勤務はさせずに、都内に留まって、段階的に会社を継がせる予定なの。あなたたち夫婦も、これからはもっと気持ちを育てていけると思うわ」

菫は美穂を見つめながら思った。三年前に心臓のバイパス手術を受けた彼女に、司との揉め事で心配をかけたくない。

だから口にした。「分かりました、お義母さん」

その返事は本心ではなかったが、美穂の言葉は真剣そのものだった。

一週間後、美穂からまた電話がかかってきた。「すみ、司は最近家に帰ってないんじゃない?」

「……」確かに、その通りだった。

菫は司が帰国していることすら、時々忘れそうになっていた。

「仕事が忙しいんだと思います。私も最近――」

自分も手術が多くて忙しいと先に言い、司を家に戻してほしいと言われないよう先手を打った。

ところが話し終わらないうちに、美穂が続ける。「司が今夜、田辺健一(たなべ けんいち)たちと『雅月会館』で飲むって聞いたの。あなたも残業続きで大変だったでしょ?今夜は早く帰って、友達と一緒に気分転換してきたら?お義母さんが経費出してあげるから」

「……」

さすが若い頃に一ノ瀬会長と一緒に財界を渡り歩いた人だ。

司の居場所も調べ、今夜自分が残業しなくていいことも把握し、しかも「司を家に連れ戻せ」とは一言も言わず、「リラックスしてきなさい」と、逃げ道を完全に塞いでくる。

菫は言うしかなかった。「分かりました、お義母さん」

電話を切ったあと、恵茉にメッセージを送る。【今夜予定ある?】

【特にないけど、どうしたの?】

【雅月会館に行かない?】

雅月会館は、レトロな外観をした五階建ての洋館だった。

由緒ある邸宅の跡地に建てられた高級クラブで、会員は権力者や富豪ばかり。一晩で高級車一台分の金を使うことも珍しくないと言われている。

「雅月会館の裏のオーナー、すごく謎なのよ。誰なのか全然分からない。多分どこかの政治家の息子がこっそり作ったんじゃない?じゃなきゃ、あれだけ都内に名士がいても、誰も手を出さないわけがないでしょ。絶対に裏に大物がいるわよ!」

二人は一階のロビーでボックス席を見つけ、腰を下ろした。

そこへウェイターが近づいてくる。「一ノ瀬様、一色様。本日は何をお飲みになりますか?」

開口一番、名前を呼ばれたので、恵茉は面白そうに笑った。「私たち、来るの初めてよね?よく知ってるわね」

ウェイターは若くて色白で、口も達者だった。「一ノ瀬様は心臓外科のエース、一色様も産婦人科の新進気鋭で、お二人とも名医として有名でいらっしゃいます。以前からお名前は存じ上げております」

恵茉は顎に手を当て、彼をじっと見つめた。クラブの雰囲気に合わせ、しっかりアイラインを引き、元々やんちゃな性格をさらに悪戯っぽく見せていた。

「それじゃ、ここで一番高いお酒を三杯。二杯は私たち用、もう一杯はあなたに奢るわ」

ウェイターはにっこり笑って言う。「ありがとうございます、お姉さま」

そう言って去っていった。

恵茉は舌打ちして笑った。「やっぱり雅月会館は只者じゃないわね。きっと都内の有名人の顔と名前を全部覚えさせて、お客さんが来た時に失礼しないようにしてるんだわ」

「私もそう思う」菫が相槌を打つ。

「この徹底ぶりだから儲かるのよね……でも、年下の男の子って可愛いわ。『お姉さま』って呼んでくれるし」

菫はほとんど化粧をせず、ただ髪を解いただけだった。緩やかなカールの毛先が頬のラインを縁取り、いつもの清楚さが少し和らいで見える。

彼女は笑って言った。「好きなら付き合えば?」

恵茉は指を振った。「可愛い系をからかうのは好きだけど、私のタイプは肉食系なの。強引で、独占欲が強くて、私を支配してくれる男がいいの」

「……だから、ドラマの見すぎだって」

菫は何気なく辺りを見回した。

雅月会館には来たが、本気で司を探すつもりはなかった。

体裁だけ整えて、美穂をごまかせればそれでよかった。

ウェイターが美しい色のカクテルを二杯持ってきた。「一ノ瀬様、一色様。こちらは今日入った新作で、味もいいと思いますので、ぜひお試しください」

グラスを置くとき、彼は菫に少し近づき、小声でささやいた。「ご主人は二階の1号個室にいらっしゃいます」

「……」

そこまで気を利かせなくてもいいのに、彼女は本当に司を探したくなかった。

だが、この会話を聞かれてしまった。

甲高い女性の声が響く。「おばさん!恥知らずね!司さんを追っかけて雅月会館まで来るなんて。あんたって昔からストーカー体質だったもん……きゃあ!」

語尾が悲鳴に変わったのは、恵茉がカクテルを雪菜の顔にぶっかけたからだ。

「24歳でおばさん?あんた、この歳まで生きられないんじゃない?あぁそうか。愛人なんてすぐ使い捨てられるもんね。死ぬときは何歳だって同じか」

雪菜の顔はぐしゃぐしゃにされて、信じられないという目で二人を見た。「よくも酒かけたわね?!

司さんが私をどれだけ愛してるか知ってる?!六億の真珠のネックレス、私が見たらすぐプレゼントしてくれたのよ。こんなことしてタダで済むと思ってる?司さんに頼んであんたたち、めちゃくちゃにしてもらうんだから!」

殴りかかろうとした雪菜を、気の利くウェイターがすかさず止めた。

菫は恵茉の前に立ち、淡く笑う。「放してあげて。司は二階にいるんでしょ?今すぐ行こう。私も見てみたいわ、彼がどうやって私たちをひどい目に遭わせるのか」

雪菜は一歩も引かない。「いいわよ、行こうじゃない!逃げたら負けだから!」

彼女は八センチのピンヒールを鳴らし、階段を上っていく。

ここまで強気なのは、司が必ず自分を守ってくれると信じているからだ。

六億のネックレスを贈る男が、菫には慰謝料を一円も多く払わなかった。誰だって、男は自分に夢中だと思うだろう。

菫は美穂が雪菜を送り出したと言ったことを思い出した。だが、結局彼女はまだここにいる。きっと司がまた呼び戻したのだ。

恵茉もそれを思い、怒りと心配の入り混じった目で菫を見た。「すみぺ……」

菫は安心させるように笑いかけ、それから二階へ向かった。

雅月会館の内装はレトロ調で、クリスタルのシャンデリアが柔らかな黄色い光を落とし、ジャズがけだるく流れていた。空気には杉の香りとウイスキーの芳醇な匂いが漂っている。

ガラガラと個室の扉を押し開ける。

男女が一斉にドアの方を見た。

菫は一目で見つけた。一人用ソファに座り、指の間にタバコを挟み、赤い火が明滅する――暗い瞳の色と同じように。

司は足を組み、気まぐれで、冷淡な雰囲気を纏っていた。

菫が思い出すのは、甘かった日々。今思えば、まるで嘘のような記憶。

雪菜は司の足元のカーペットに座り、甘える声で「司さん」と呼ぶ。

恵茉は怯えていたが、同時にもう見ていられなかった。

「ここまで来たら、やけくそだわ」と思い、大股で踏み込む。「あら、これは一ノ瀬さんじゃない!久しぶりね、いつ帰国したの?ほら、乾杯させて!」

彼女はテーブルのグラスを取り、「うっかり」雪菜にぶちまけた。「あら!カーペットにまだ人が座ってたの?ペットかと思ったわ!」

雪菜は勢いよく立ち上がる。「あんた!」

司は恵茉を見ることもせず、騒ぎも無視し、タバコの灰を弾いて半分伏せた目で菫を見た。「先生も遊びに来たのか」

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