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第3話

Auteur: 歳々
でもまさか、心が壊れるより先に、本物の災難がやってくるなんて思いもしなかった。

私の住んでいるマンションで、突然火事が起きたのだ。

瞬く間に濃い煙が流れ込んできて、鼻をつく匂いに息が詰まる。我に返った私は、急いで逃げようとした。

口と鼻を押さえて階段へ向かったが、そこはもう火の海だった。燃え盛る炎から吹きつける熱波に、私は押し戻されてしまう。

部屋の隅に縮こまることしかできない。

濡らしたタオルで必死に口と鼻を押さえたが、恐怖で体は震えるばかり……

濃い煙で視界はぼやけ、室温はどんどん上がっていく。意識が遠のき始めた。

もう、ここから出られないのかもしれない。

死の恐怖の中で、真っ先に頭に浮かんだのは、やはり弘樹の顔だった。

最後の力を振り絞り、私は弘樹の番号を呼び出す。

呼び出し音はいつまでも鳴り続けた。

しかし、相手が出る前に通話は切れてしまった。

それでもいい。

口の端をかすかに持ち上げる。私の意識は、そこで完全に煙に飲み込まれた。

次に目を開けた時、そこは病院だった。真っ白な天井と鼻をつく消毒液の匂いがする。

充血した弘樹の目の下には隈ができていた。

「やっと起きたか。大丈夫か?」

弘樹を見た瞬間、これまで抱えていた寂しさや不安が、一気に溢れ出す。

私は声は詰まらせ、夢中で彼の胸に飛び込んだ。

「弘樹!」

私が口を開きかけたその時、ドアの方からも声が聞こえた。

「社長?弘樹も?」

弘樹の体が一瞬にしてこわばる。

そして私が反応するより早く、躊躇うことなく私を突き放した。

弘樹はドアの向こうにいた雪に歩み寄ると、彼女の手を握った。

雪と二人で病室に入ってくる姿は、まるで絵に描いたようなお似合いのカップル。

そして今、弘樹が私に向ける視線には、さっきまでの心配そうな色はもうなかった。ただ、私を牽制するような強い光だけが宿っている。

この瞬間、もう痛まないと思っていたボロボロの心が、それでもやはり痛んだ。

雪はベッドのそばにやって来て、心配そうな顔をする。

「社長、大丈夫ですか?本当にびっくりしましたよ。

社長のマンションが火事だって聞いた弘樹が、私を引っ張って飛んできたんですよ。来るまでもすごく慌てていて」

その声は無邪気だが、言葉はナイフのように私の心を抉った。

口を開いても、苦い塊が喉につっかえて、声が出なかった。

雪は首をかしげて、私と弘樹の顔を交互に見る。

「社長のマンションが大変だって聞くやいなや、弘樹はベッドから飛び起きて……知らない人が見たら、社長が彼女なのかって思っちゃいますよね。

そういえば、さっきお二人は何をしていたんですか?」

その声には、明らかに私を探るような響きがあった。

弘樹はすぐさま、淀みない口調で話を合わせる。

「雪、誤解だよ。西村社長が、目を覚ましたばかりで動揺していたから、落ち着かせていたんだ。

俺の目にお前しか映ってないの、知ってるだろ?」

その言葉は一本の針のように、さっと私の心の奥深くを突き刺した。

大学の卒業パーティーでの出来事。

私は王様ゲームで「ここにいる異性とキスをする」という罰ゲームを引き当てた。

酔ったふりをした私は、一生分の勇気を振り絞って弘樹を見る。

それなのに弘樹は、視線をそらすと携帯をいじり始めた。

まるで私が、赤の他人であるかのように。

結局、親友が「代わりに私が飲むから」と、一気飲みをして助けてくれた。

その帰り道、弘樹は冷たく私の顎を掴んで、こう言った。

「凪、あんな小細工はやめろ。俺たちの関係が周りに知られたらどうするんだ?」

思い出と現実が重なり、指先が震えるほど体が冷えていく。

目の前で雪を甲斐甲斐しく世話する男。

やっと、私は自分の声を取り戻した。

「和田さんの言う通りだよ。目が覚めたばかりで、少し混乱してしまって」

雪はほっとしたように、ぱっと顔を輝かせた。

そして、彼女は甘えたように、弘樹の胸をぽんと叩く。

「それでこそ私の弘樹だよね。でも、本当にひどいんだから。社長が大変だって聞くやいなや、私を置き去りにして走って行っちゃうんだもの。知らない人が見たら、社長が本命の彼女かと思っちゃうよ?」

雪は拗ねたように弘樹を睨んだ。

弘樹も愛おしそうに雪の頭を撫でる。

「分かってるって。お前がいつも西村社長にはお世話になってるし、姉さんみたいなもんだって言ってただろ?だから、お前が悲しむんじゃないかと思って焦ったんだよ」

私の目の前でイチャつく二人の姿が、目に焼き付いて痛かった。

布団の下に隠した手を、手のひらに爪が食い込むほど強く握りしめる。その痛みだけが、私の最後の理性を保ってくれた。

その時、雪がふと不思議そうに口を開いた。

「社長。昨日、婚約者さんに会うからって早上がりしてませんでしたっけ?その婚約者さんは、来てないんですか?」

その言葉を最後に、病室は水を打ったように静まり返った。
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