ログイン永沢陸は、数千万人のフォロワーを抱える、キャンピングカーで旅するインフルエンサーで、私・椎名紬の婚約者でもある。 一年の大半を人里離れた山奥や電波の届かない場所で過ごす彼は、「これから圏外になる場所へ行くから、十日から半月くらい連絡が取れなくなるかもしれない」と言っていた。私はその言葉を信じていた。 全国を巡るという彼の夢を応援するため、私は結婚前に購入したマンションを担保に入れ、自分名義でローンを組んだ。キャンピングカーの改造費を工面し、スタッフを雇い、彼のアカウントも一緒に育ててきた。 「今回の旅が大バズりしたら、戻って結婚式を挙げよう」彼はそう言っていた。 大雪に巻き込まれていないか、事故を起こしていないか、人里離れた山奥で命を落としていないか。私は毎日、天気予報を食い入るように見ていた。 同じ地域で活動する女性インフルエンサーが、ある動画を投稿するまでは。 画面の中で、陸は標高5,000メートルを超える雪山の頂に立っていた。私が買ってあげた衛星電話を使って、彼女のためだけに、朝日に染まる金色の雪山――モルゲンロートの絶景を生配信していた。 「すっごく寒い……」甘えるような女の子の声。 陸はすぐにカメラの位置を下に向けて、優しい声で30分間も彼女をなだめ続けた。 同じ日、私は急性虫垂炎を発症して、激痛のあまり救急外来の受付の前でうずくまっていた。 彼に送った百通近いメッセージは、すべて既読にすらならなかった。ようやく気づいた。遮断されていたのは電波じゃない。私だった。 その日から、旅先の陸へ定期的に送っていた保存食をやめた。車のローンの肩代わりもやめた。督促の電話を取り次ぐのもやめた。一日に三回送っていた「気をつけてね」というメッセージも、もう送らない。 資金援助を打ち切って3か月後、陸のキャンピングカーはサービスエリアでローン会社に差し押さえられた。 ようやく彼から電話がかかってきた。その第一声は、詰問だった。「なんで車のローンが引き落とされてないんだ?」 私は手元にある督促状と契約解除通知書の写真を撮って、彼に送りつけた。 「明日から、あの車も、アカウントも、何千万人ものフォロワーも、もう私には一切関係ない」
もっと見る一年後、私は北アルペスの麓へ向かう。陸の付き添いでも、キャンピングカーを追いかけてのことでもない。旅行会社主催のレンタカー・キャラバンツアーに申し込んで、参加同意書にサインする。ルートも、補給ポイントも、宿泊先も、緊急連絡先も、すべて明記されている。チェックポイントに着くたび、ガイドがグループチャットで人数確認をしてくれる。【椎名さん、大丈夫ですか?】【はい】と返信する。とても簡単なやり取りなのに、私は車の中でしばらくじっと考え込んでしまう。昔、私が陸に一番送っていた言葉も、これだった。【大丈夫?】【着いた?】【車は停めた?】返事の来ない夜を数え切れないほど過ごしてきた。しまいには、スマホのバイブレーションが鳴るだけで心臓が跳ね上がるようになっていた。でも、今は違う。先頭の車は待ってくれるし、ガイドは人数確認をしてくれる。同行する人たちも「急がなくていいですよ」と声をかけてくれる。雪山の麓に到着する日は、素晴らしい快晴だ。ガイドが「ペースを上げすぎないように。高山病の症状が出たらすぐに言ってくださいね」と声をかける。同行者の若い女性が私に尋ねた。「一人で参加するの、怖くないですか?」少し考えてから答える。「昔は、怖かったかも」「今は?」「今は、正しい助けの求め方を知っているし、世の中の人がみんな既読スルーするわけじゃないって分かったから」彼女は笑う。「それって、すごいですね」それ以上説明しない。自分がすごいわけではない。ただ、いくら呼びかけても応えてくれない人間のそばから、ようやく離れることができただけなのだ。モルゲンロートが現れた時、ツアーの一行は静まり返る。全員がスマホを掲げて、誰かが感嘆の吐息を漏らす。私は人混みの後ろに立って、雪山が徐々に黄金色に染まっていくのを見つめている。ここはかつて、陸が結菜のために生配信をした場所。そして、私を連れてくると約束してくれた場所だ。昔は、この絶景を見逃したら一生後悔すると思っていた。けれど、実際にこの地に立ってみて気づいた。後悔とは、雪山を見られなかったことではない。私が見たいと願ったすべての景色を、決して振り向いてくれない一人の男に委ねてしまっていたこと。それこそが、私の最大の後悔なのだ。写真を撮って、母に送る。母からすぐに返事が
玄関に立って、しばらく彼を見つめてから口を開く。「それ、持って帰っていいわよ」陸は顔を上げて、すがるような希望をその目に浮かべる。「もう必要ないから」と私が言い放つ。その希望の光は、あっけなく消え失せた。陸はずっと、あの未再生の救急外来からのボイスメッセージを気にしている。自分に聞く資格がないことは分かっている。だが、知らないままでいることは、胸が締め付けられるように苦しいのだ。彼からメッセージが届く。【一度だけ、聞かせてくれないか?】私は返信しなかった。再びメッセージが来る。【許してほしいわけじゃない。ただ、あの日お前がどんな思いをしていたのか、知りたいんだ】今回ばかりは返信した。【知って、どうするつもり?】陸は画面を見つめたまま、長文を打っては消し、打っては消すことを繰り返す。最後に残ったのは、たった一言。【せめて、俺がどれだけ取り返しのつかないミスをしたのか、教えてほしい】私はもう返信しなかった。……半月後。婚約破棄の合意書にサインする日、陸はひどくフォーマルなスーツ姿で現れた。彼は30分も前に到着して、私が以前よく頼んでいたカフェオレを注文して、メニューを二度も隅々まで見ていたらしい。せめて最後くらい、一緒に食事ができるとでも思っていたのだろう。しかし、私は書類だけを持って席に着いた。座るなり、すぐに署名ページを開く。「目を通した?」陸は低い声で答える。「ああ」「債務については弁護士の話し合い通りよ。マンションの担保ローンは私が組んだけど、融資金はあんたに振り込まれているから、今後はあんたが負担すること。結婚式のキャンセル費用も、あんたの支払いね」「俺が払う」陸はこちらをじっと見つめる。「紬、俺がお前に借りがあるのは、金だけじゃない……」顔を上げる。「法律で清算できるのは、これだけよ。形に残らないものまで、取り立てる気はないわ」陸の目頭が赤くなる。「どうして、俺を責めないんだ?」「これ以上、あんたに時間を使いたくないから」その一言で、陸は完全に沈黙した。サインを終えても、彼はすぐに席を立とうとしない。「俺たち、これからは友達としてやり直せないかな?」書類をカバンにしまう。「友達なら、間に合ってるわ」陸は無理に笑みを作る。「じゃあ、俺はもう、紬のために何もしてやれないの
陸は必死に埋め合わせをしようとするが、焦れば焦るほど空回りした。最初に私を訪ねてきた時、彼は宅配弁当を持ってきた。蓋を開けてみると、エビ風味湯豆腐だ。「私、術後で食事制限があるんだけど」陸は表情を強張らせる。「先生に聞いたら、これが一番胃に優しいって……」「それに、私が甲殻類アレルギーだってこと、知ってたはずよね?」紙袋を握る陸の手が硬直する。「ごめん……最近、いろいろあって……」受け取らずに言う。「もう帰って」二度目は、焼き栗を持ってきた。彼はマンションの下で2時間も待ち続けて、私を見つけると、ようやく失くしたものを見つけたかのような表情を浮かべる。「紬、昔この店の栗が一番好きだっただろ」紙袋に目を落とす。「すぐそこの角を曲がったところに支店ができたわ。今はどこでも買えるのよ」陸はその場に凍りつく。私は袋を受け取らず、ただ静かに言う。「それに今、栗の匂いを嗅ぐと、手術跡が痛むの」陸の顔からスッと血の気が引いていく。私が何のことを言っているのか、彼には分かったのだ。あの日、彼が持ち帰った焼き栗の半分は結菜の胃袋に収まっていたというのに、彼はただ買って帰りさえすれば、私が喜んで受け取ると思い込んでいたのだ。三度目は、キャンピングカーのキーホルダーを持ってきた。もう一度プロポーズをやり直したいのだと言う。私は一瞥して答える。「もう婚約は解消したのよ」陸は消え入るような声で言う。「分かってる。でも、もう一度最初からやり直したいんだ」「最初からって、あんたの旅から始まるってこと?」私は言った。「でももう、あの車には乗りたくないわ」陸は言葉に詰まる。彼は見よう見まねで料理にも挑戦して、弁当箱を持ってきたりもした。蓋を開けると、ツンとしたスパイスの匂いが漂ってくる。「誰がこんな辛い味付け好きなの?」陸は無意識に答える。「結菜が、車の中でよく……」最後まで言い切る前に、彼自身もハッとして口をつぐむ。私は静かに蓋を戻す。「ほらね。あんたは人の世話ができないわけじゃない。ただ、世話する相手は他の人よ」陸の目が真っ赤に充血して、焦りと無力感が混じった声が漏れる。「紬……俺はただ、お前がずっとそばにいることに慣れきっていただけなんだ」彼を冷ややかに見つめる。「慣れていたんじゃない。気を配る必要
陸が過去のトーク履歴を遡り始めたのは、3日目の深夜だ。最初はただ、紬がまだ自分を許してくれている証拠を探したかった。二人の間にはまだ愛情が残っていると、どこかで証明したかったのだろう。しかし、画面を上にスクロールすればするほど、陸は言葉を失っていく。吹雪の夜の前には、決まって紬から気象警報が送られていた。【明日の夜は冷え込むから、夜通しの運転は控えてね】【その道の駅は冬季閉鎖されてるから、次の補給ポイントに連絡しておいたよ。電話番号送るね】【この間の点検で、右の後輪がかなり摩耗してるって整備士さんが言ってたから、早めに交換して】その時、自分は何と返していただろう、と陸は思い返した。【わかった】【細かいことまで口出ししないでくれ】【紬、俺は子供じゃないんだぞ】時には、既読スルーもあった。当時の陸は、それを煩わしいと感じていた。見えない糸で、無理やり旅から家へ引き戻そうとしているのだと思っていた。しかし今になってようやく気づいたのだ。あの糸は、自分を縛る鎖ではなかった。命綱だったのだ。陸はかつて大きな反響を呼んだ動画を開く。大雪が過ぎ去った雪山の峠道に立って、カメラへ向かって笑いながら話す自分の姿が映っている。「あの夜、無理して進むのはやめようって結菜が止めてくれなかったら、俺たちの車は間違いなく遭難してしまった」コメント欄は、結菜の冷静さと勇気を称賛する言葉で溢れている。その画面を見つめながら、陸はふと、玄関先で結菜が言い放った言葉を思い出した。指先が冷たくなるのを感じながら、陸はさらに履歴を遡る。ついにあの夜、紬から送られていたメッセージを見つけた。午前1時37分。【あの峠道には入らないで。気象警報が出たから】午前1時42分。【救助隊に連絡した。なんとか車を止めてもらうように頼んだから】午前2時06分。【お願いだから一言返事して。無事に停車したことだけ確認させて】その下に、陸からの返信は一つもない。あの夜、必死に陸を引き止めようとしていたのは、結菜ではなく、紬だった。救助隊にも、地元の警察署にも電話をかけ、陸のチームで唯一紬の電話に出たドライバーにまで頼み込んでいた。「車の中に、言うことを聞かない人がいるかもしれないから、先回りして止めてください」と、相手に懇願したのだ。その