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第2話

Auteur: 小躍
「蘭!」京介が低い声で私の言葉を遮った。「言葉を慎め。晴人はただの友人だ!」

その言葉が終わるか終わらないかのうちに、傍らの晴人は私の剣幕に怯えたように手を震わせ、持っていた瓶を取り落とした。

ガシャン、と硬質な音が響き、テレピン油の瓶が床で砕け散る。

刺激臭が、一気に部屋を満たした。

手術明けの弱った身体にはあまりに酷な匂いだった。胃が裏返るような吐き気に襲われ、私は激しく咳き込んだ。

京介の顔色が一変する。

だが、彼は私に一瞥もくれず、真っ先に倒れかけた晴人に駆け寄り、慌てて窓を開け放った。

「大丈夫か?気分はどうだ?」

晴人を落ち着かせると、ようやく京介は振り返った。私に向けられたのは、かつて見たこともないほど凍てついた眼差しだった。

「お前!彼の精神状態が不安定だと分かっていながら、どうしてそこまで刺激するんだ?彼が死なないと気が済まないのか!」

私は彼を見据えたまま、一言も返せなかった。

結局、私の体も、私の心も、彼の「親友」の前ではゴミに等しいのだ。

私は完璧で、品格があり、決して感情を乱さぬ福山夫人でなければならない。

……

夕方、福山家の本邸で一族の食事会が開かれた。

政財界の名士たちが集う場に、京介の妻として私は出席せねばならなかった。

喧騒を避け、私は独り会場の隅に腰を下ろしていた。

そこへ、長年の友人であり白井家の当主でもある白井一生(しらい いっせい)が、温かいお茶を持ってきてくれた。

「顔色が悪いな。京介の奴、ちゃんと気遣ってるのか?」

彼がカイロを私の手の中に押し込む。

礼を言おうとした瞬間、手首を万力のような力で掴み上げられた。

京介だった。

彼は険しい表情で私を無理やり立たせ、一生を睨みつけた。

同格の男同士が放つ火花に、周囲の空気が一気に張り詰める。

「帰るぞ」

京介はそれだけ言い捨て、有無を言わさず私を連れ出した。

車内に入った途端、京介がパーティションを上げる。

私が訝しむ間もなく、彼が覆い被さってきた。

唇に走る鋭い痛みで、一気に現実に引き戻される。

力任せに彼を突き飛ばすと、怒りで胸が激しく波打った。

一生とは、ほんの少し言葉を交わしたに過ぎない。

晴人を堂々と家に招き入れておきながら、どの口で独占欲を示すというのか。

「どういうつもり?」私は氷の刃のような声で言い放った。

京介が顔を上げる。その深く暗い瞳が、渦のように私を飲み込もうとしていた。

「お前は俺のものだからだ」

私は眉をひそめ、ただ滑稽で馬鹿馬鹿しいと思った。

「違うわ。それは立花さんの領分でしょ」

京介の口元が緩んだ。普段の冷徹な仮面の下から、珍しく柔らかな色が滲み出る。

「なんだ。嫉妬してるのか」

私は彼を押しのけ、自分でも軽蔑したくなるような我儘を口にした。

「じゃあ、立花さんを追い出して」

車内の空気が一瞬にして凍りついた。

京介から笑みが消え、先ほどまでの甘い雰囲気は幻のように霧散する。

彼はネクタイを緩め、小さくため息をついた。

「安心しろ。彼がお前の立場を脅かすことは絶対にない。ただ、俺は彼に借りがあるんだ。昔、俺を庇って利き手をダメにした。もうメスは握れないんだ」
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