LOGIN結婚して五年。北城陸(きたじょう・りく)の愛妻家ぶりは、いささかも揺らがない。 巨大財閥・北城グループの御曹司でありながら、彼はきっちりと門限を守って帰宅する。 毎朝の出勤は彼がハンドルを握って送り届けてくれるし、記念日ともなれば、趣向を凝らしたプレゼントを用意して私を喜ばせた。彼のSNSのタイムラインは、私への愛を綴った投稿で埋め尽くされている。 ネット上では「恋に狂った男」なんて揶揄されながらも、そんな彼に熱狂するファンが後を絶たない。「尊すぎる夫婦」と、誰もが信じて疑わなかった。 ……けれど。 寝室に残されたタブレットは、彼のアカウントにログインしたままだった。 そこへ見知らぬ女から、一本の動画が届く。
View Moreあの日を境に、陸はようやく酒を断った。そしてそのエネルギーのすべてを、愛菜を社会的に抹殺することに向けた。愛菜は何度か陸にすがりつこうとし、彼の友人たちにも泣きついたが、陸の意志は固かった。完全に追い詰められ、逆恨みを募らせた愛菜は、ついに捨て身の行動に出た。ライブ配信で陸の悪事をぶちまけ始めたのだ。「あの男は最低のクズです!社長という立場を利用して、社員に枕営業を強要しました。愛妻家なんて全部ウソ、不倫しまくりの裏切り者です!動画を撮って脅されたから、私は言うことを聞くしかなかったんです。彼は人間のクズです!」ネット上は一瞬で大炎上した。陸の会社側はすぐに名誉毀損で訴えたが、ネット民は面白いほうを信じたがる。たとえ裁判で勝ったとしても、「権力で揉み消した」と叩かれるだけだ。【スパダリだと思ってたのに幻滅だわ】【もう愛なんて信じられない】【あの社長、裏では変態だったんだな。流出してたコスプレ動画見たけどヤバいわ】【金持ちの遊びは汚いねぇ】炎上商法で注目を集めた愛菜は、ちゃっかりインフルエンサーへと転身していた。一方、陸の会社は不買運動の煽りを受けて株価が大暴落、倒産寸前まで追い込まれた。かつては誰もが羨み、蝶よ花よと持ち上げられていた御曹司の陸だが、今や周りから人が潮が引くように去り、完全に孤立していた。そんな彼と再会したのは、F国の街角だった。元の国にいられなくなり、残ったわずかな財産を持って海外へ逃げてきたのだろう。まさか彼もこの国に来ていたとは。その時、私は新しい恋人と腕を組んで買い物をしていた。彼は研究職で、名家の生まれでもなければ大富豪でもない。けれど、穏やかで誠実で、とても育ちが良い人。そして何より、責任感が強くて優しい。彼が母に贈るプレゼントのデザインを私が手がけたことがきっかけで、私たちは心を通わせるようになった。燃えるような激しい恋ではないけれど、彼と一緒にいると、心から安らげるのだ。背後から私の名を呼ぶ声がしたが、無視して歩き続けた。すると、息を切らせた陸が前に回り込んできた。彼は信じられないものを見る目で、私と彼の顔を交互に見つめた。何度か唇を震わせ、ようやく絞り出すように声を上げた。「まさか……君たちは……」私は恋人と固くつないだ手を持ち上げて見せ
陸はわざわざ海を渡り、海外に住む母のもとへも押しかけたようだ。けれど私はもう、新しい名前と身分を手に入れて、誰にも縛られない生活を始めている。その頃ちょうど、新しくできた友人と旅行に出ていて、家にはいなかった。陸は母の前で土下座をして、私の居場所を教えてくれと懇願したらしい。昔、彼と一緒になるために渡航を拒んだ私は、母と絶縁寸前まで揉めたことがあった。「あの時、あなたは言ったわよね。『必ず大切にする』『僕が美晴を守る』って。どの面下げて、娘を返せなんて言えるの?」母は有無を言わさず、人を呼んで陸を叩き出した。それでも陸は諦めず、ストーカーのように母の行く先々に姿を現したという。半月の間、しつこくつきまとっては母に追い払われ、最後にはボロボロになりながら、私が本当にそこにはいないと悟って去っていったそうだ。「本当に許さないつもり?あの子、まだあんたのこと愛してるみたいだけど」母は心配そうに私を覗き込んだ。かつて私がどれほど彼に惚れ込んでいたか知っているから、後悔するんじゃないかと案じているのだ。「愛してるのも本当でしょうね。でも、クズなのも本当。磨けば光る原石だと思って愛してたけど、ただの石ころ以下だった。ゴミなら当然、いらないわ」母は大きな溜め息をつくと、気を取り直したように笑った。「そうね、あんたの人生はこれからだもの。うちの娘に、そんなゴミはお断りよ」私は笑い返した。「その通り。楽しいことなんて山ほどあるわ。私が頭を下げてまで一緒にいてやる価値なんて、あいつにはない」「そうよそうよ。あんた、アトリエを開きたいって言ってたじゃない。資金ならお母さんが出してあげる」私は嬉しくなって、母に抱きついて甘えた。私は、誰にも愛されていないわけじゃない。かつて陸の世界のすべてが私だったから、私も同じだけの愛を返しただけ。でも彼が裏切って、その愛は腐ってしまった。だからこそ、未練なくすべてを捨てる勇気が持てたのだ。あの頃は、卒業したばかりだった。彼が広い世界を見たいと留学を決めたから、私も同じ大学のデザイン科を選んでついて行った。暮らしのことは何から何まで彼が面倒を見てくれた。海外の食事が合わなくて私が痩せてしまわないよう、料理まで勉強して振る舞ってくれたほどだ。言葉が通じなくて途方に暮れていた
控えめなノックの音に、陸はようやく床から身体を起こした。しわくちゃになったシャツを適当に引っ張り、重い足取りでドアを開ける。訪ねてきたのは陸の秘書だった。陸の淀んだ瞳と目が合うなり、彼は怯えたように書類を差し出す。「あの……社長。プロジェクトの契約書なんですが、どうしても社長の決裁が必要で……」秘書は冷や汗をかきながら、心の中で嘆いていた。正直、こんな最悪なタイミングで訪ねてきたくなんてなかった。仕事でなければ絶対に来ていない。社長が奥様の一件で怒り狂っているとは聞いていたから、自分がその怒りの捌け口にされるのではないかと、生きた心地がしなかったのだ。実際、陸は誰かに八つ当たりしたい気持ちでいっぱいだった。けれど何とかそれを押し殺し、受け取った書類を乱暴に放り投げた。さっさと出ていけと手を振る。だが、秘書は動かない。少し迷ったあと、彼はポケットから小さなヘアクリップを取り出し、恐る恐る差し出した。「あの、これ……奥様が先日、オフィスのゲームルームに忘れていかれたみたいで」陸は一瞬、きょとんとしてそれを見た。だが次の瞬間、信じられないものを見るように目を見開いた。数秒後、彼はひったくるようにそれを握りしめた。見間違えるはずがない、これは私のものだ。前髪を留めるための小さなクリップ。親指の爪ほどの大きさしかないが、ハート形のピンクダイヤが透き通るような輝きを放ち、その周りを同じ品質の小さなダイヤがぐるりと囲んでいる。これは私が自分の手で作ったもの。そしてこのピンクダイヤは、付き合い始めた頃に彼がくれた、愛の証だった。あの日、彼は私に想いを告げた。「僕の愛はこのダイヤモンドと同じ。一点の曇りもなく、この世にただひとつのものだ」私は嬉しくて、甘えるように微笑んだ。「ただひとつ、って約束よ?私にくれたこの愛を、他の誰かにあげちゃだめだからね」だから、私はこのクリップをとても大切にしていた。どこかに置き忘れるなんて、ありえないことなのだ。「美晴が会社に来ていた?いつの話だ」陸は眉をひそめ、鋭い声で問いただした。秘書のほうも困惑顔だ。「え……?ほら、ご友人の皆様がルビーを届けにいらした日ですよ。あの時、奥様もご一緒でしたよね……?」陸の瞳が激しく揺れた。まさか、という最悪の想像が頭をよぎり
陸はもう、なりふり構わず車を飛ばして、夜の道をひた走った。向かう先は、あの交流会の会場だ。いつもなら、あれほどスマートで隙のない彼が、車を降りた拍子に足をもつれさせ、無様に膝をついた。彼は血相を変えて人混みをかき分け、あろうことか大声で私の名前を叫び始めた。「美晴、美晴!」「出てきてくれ、美晴、どこだ!」顔面蒼白で今にも倒れそうな陸を、顔なじみの誰かが慌てて支えた。「北城さん!奥様なら……美晴さんなら、この会にはいらしてませんよ」「いや、来ているはずだ。あいつは怒って……僕を避けて隠れているだけなんだ!」充血した目で、陸はその人に食って掛かった。その相手は、私のデザイン業界での古い友人だった。例の暴露投稿も、当然目にしていたのだろう。彼は少し言い淀んでから、意を決したように告げた。「……お二人は、誰もが羨むおしどり夫婦でした。なのに、あんな酷い裏切りを知って……美晴さんが平気な顔で、この華やかな場所に来られるわけがないでしょう」「あんなことされて、まともな精神状態でいられるはずが……」その言葉が、陸の胸に深々と突き刺さった。彼はその場に凍りついたかと思うと、次の瞬間、更なる恐怖に顔を歪めた。取り返しのつかない結末を想像してしまったのだろう。陸は弾かれたように会場を飛び出し、狂ったようなスピードで家へと取って返した。自宅のドアを開けても、そこにはいつもと変わらない静寂があった。私が持ち出したのは、最低限の着替えだけ。それ以外は何もかも、残したままだったから。この家にあるすべての物は、彼という人間と同じ。私にはもう、一切必要のないゴミだった。陸の心臓が、ドクリと嫌な音を立てた。もつれる足で寝室に駆け込み、あちこちをひっくり返す。彼が贈ってくれたジュエリーはもちろん、私のために手配した希少な原石さえも、いつもの場所に鎮座したままだった。まるで私が、ふらりと出張にでも出かけたかのような光景。なのに、彼は本能で悟ってしまったのだ。今回ばかりは――この広い家に、本当に自分ひとりきり取り残されてしまったのだと。「嘘だ……美晴、どこだ?」糸が切れたように座り込んだ彼の視線が、ふとテーブルに吸い寄せられる。そこに置かれた『離婚協議書』の文字が、鋭い刃物のように目に突き刺さる。陸は突然叫び出し、テーブルを力