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花散るころ

花散るころ

By:  ゆらりCompleted
Language: Japanese
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結婚して五年。北城陸(きたじょう・りく)の愛妻家ぶりは、いささかも揺らがない。 巨大財閥・北城グループの御曹司でありながら、彼はきっちりと門限を守って帰宅する。 毎朝の出勤は彼がハンドルを握って送り届けてくれるし、記念日ともなれば、趣向を凝らしたプレゼントを用意して私を喜ばせた。彼のSNSのタイムラインは、私への愛を綴った投稿で埋め尽くされている。 ネット上では「恋に狂った男」なんて揶揄されながらも、そんな彼に熱狂するファンが後を絶たない。「尊すぎる夫婦」と、誰もが信じて疑わなかった。 ……けれど。 寝室に残されたタブレットは、彼のアカウントにログインしたままだった。 そこへ見知らぬ女から、一本の動画が届く。

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Chapter 1

第1話

父の教え子と5年間付き合って、彼が浮気していたことが分かった。

友達が、「二股かけてて、鉢合わせしたらどうするの?」とからかうように言った。

鈴木健吾(すずき けんご)はふっと笑って、まったく気にも留めていないようだった。

「なあ、もう一人の女にもさ、ちゃんとしてやれよ。こっちには色々買い与えてるくせに、向こうはまだ安アパート住まいなんだろ?」

タバコの煙をくゆらせていた健吾が、ようやく口を開いた。

「大丈夫。あいつは苦労するのが好きで、そういう贅沢には興味ないから」

「はははは!」

個室に響く笑い声が、私の耳に突き刺さった。

5年間、二人で支え合ってきたのに、返ってきたのは、「苦労するのが好き」の一言だけだった。

私は涙をぐっとこらえて、父に電話した。

「お父さん、この前のお見合いの話、私は受けることにする」

でも、まさか。私がお見合い相手と式を挙げることになったホテルが、健吾の結婚式場とまったく同じだったなんて。

ウェディングドレス姿の私を見た健吾は、血相を変えて私を問い詰めてきた……

……

「梨花、前はお見合いなんて嫌だって言ってなかったか?」

「うん、考えが変わったの」

私が落ち込んでいたからか、父はなにかおかしいと感づいたようだ。

前は、彼がお見合いの話をするたびに、「考え方が古い」なんて言って、いつも突っぱねていた。

なのに今の私は、自らお見合いをするって言い出したのだから。

父は理由が分からなかったみたいだけど、深くは聞いてこなかった。

「そうか。じゃあ、お隣の中川先生が、君のことをたいそう気に入っててな。ちょうど孫がいるらしいんだ」

「わかった。お父さん、後で写真を送ってくれる?」

電話を切ると、健吾が帰ってきた。

「写真?なんの写真だ?」

私は涙を拭った。すると、彼はもう目の前に立っていた。

赤く腫れた私の目を見て、健吾は心配そうに聞いた。「梨花、どうして泣いてるんだ?」

「なんでもない。友達に写真の加工をお願いしたんだけど、ちょっと変だったから、やり直してもらってるの」

「どうりで、今日、個室でずっと待ってたのに来なかった。友達と喧嘩でもしたのか?」

そう言うと、健吾は私の目尻に残った涙をキスで拭い、そのまま私の唇に口づけようとした……

私は両手で彼の胸を押して、近づいてくるのを拒んだ。

でも健吾は、私が照れているのだと勘違いしたようだ。彼は私の腰を強く抱きしめ、少しも身動きが取れないようにした。

「梨花、君は俺の可愛い愛人なんだ。逆らっちゃダメだろ?」

……

18歳の時、左の目尻に急にほくろができた。占い師は、それは夫を不幸にする相だと言った。

健吾はそのほくろにキスをしながら、掠れた声で私の耳元で囁いた。「なあ、愛人にも同じ効果があるのかな?」

こんなふうに、私たちは愛し合っている時、いつもお互いを「愛人」と呼び合っていた。

まさか、その言葉が現実になるなんて。私は本当に彼の愛人になってしまった。しかも、辛い思いばかりする愛人に。

健吾の息遣いが荒くなる。欲に濡れたその瞳を見ていると、私は昔のことを思い出していた。

彼は父が受け持った6人目の学生で、私と一番年が近かった。

健吾に会ってからというもの、私はいつも彼の後をくっついて回っていた。

最初は鬱陶しがられて、いつも避けられていたけど、私がめげずにアタックし続けた結果、ようやく健吾は優しくしてくれるようになった。

父と一緒に出張へ行くたびに、お土産を買ってきてくれた。

健吾の男っぽいセンスはあまり好みじゃなかったけど、それでも良かった。だって彼はすごく格好よかったから。

面食いの私は、健吾にすっかり夢中だった。特に、彼の澄んだきれいな瞳が好きだ。

その後、ほくろのせいで自分はもうお嫁に行けないんだって感傷に浸っていたら、健吾は後ろから私を抱きしめて、目尻にキスをしてくれた。そして、そのまま全身にキスを落とした……

私は、それが私たちの関係を認めてくれた証だと思ったのに。結局、私たちの間には愛人関係しか存在しなかったんだ。

体がぐいっと引き寄せられたせいで思考が途切れると、彼は私を壁に押し付けた……

その時、ラインの通知が鳴った。女の子のアイコンからのメッセージだった。

健吾の目からさっきまでの熱がすっと引いていく。私の腰から手を離すと、スマホを手に取って、メッセージを打ち始めた……
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第1話
結婚して五年。北城陸(きたじょう・りく)の愛妻家ぶりは、いささかも揺らがない。巨大財閥・北城グループの御曹司でありながら、彼はきっちりと門限を守って帰宅する。毎朝の出勤は彼がハンドルを握って送り届けてくれるし、記念日ともなれば、趣向を凝らしたプレゼントを用意して私を喜ばせた。彼のSNSのタイムラインは、私への愛を綴った投稿で埋め尽くされている。ネット上では「恋に狂った男」なんて揶揄されながらも、そんな彼に熱狂するファンが後を絶たない。「尊すぎる夫婦」と、誰もが信じて疑わなかった。……けれど。寝室に残されたタブレットは、彼のアカウントにログインしたままだった。そこへ見知らぬ女から、一本の動画が届く。動画の中の女は、ポリス風のバニーガールのコスプレをしていた。とろんと潤んだ目つき。野卑に両足を開いてM字に座り込み、服のボタンに手をかけている。はだけた隙間から、雪のような白い肌が目に飛び込んでくる。【うさちゃん、陸さんに会いたいな。陸さんとチュッてしたい!】甘ったるく媚びるような声が、鼓膜を撫でる。最初は気にも留めなかった。陸ほどの人だ、好意を寄せてくる女の一人や二人あっても不思議じゃない。この五年間、彼は私に十分すぎるほどの安心を与えてくれていたから。だから、またいつもの一方的な誘惑だろう。そう高を括っていた私の目の前で――陸からの返信が表示された。【明日は一日中、ベッドから出してやらないからな】ドクン、と心臓が嫌な音を立てる。ドアが開く気配に、私は慌ててメッセージ画面を閉じ、何食わぬ顔でショート動画のアプリを開いた。ベッドに入ってきた陸が、背後から音もなく体を寄せてくる。シャワーを浴びたばかりなのだろう。微かにボディーソープの香りが鼻をついた。彼は愛しげに私の肩へ顎を乗せ、甘えるように頬を擦り付けてくる。振り向きざま、熱い唇がうなじを優しく掠めた。「美晴(みはる)、なにをそんなに熱心に見てるんだ?」陸の視線が手元のタブレットに落ちた瞬間、まとわりついていた体が、ふっと強張るのがわかった。「……なんで僕のタブレットを?あ、いや、動画を見るなら自分のスマホのほうが楽だろう?」喋りながら、彼の視線が無意識に泳ぐ。私はその動揺を見逃さなかった。整った横顔だ。ネットで「芸能界入り
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第2話
灯りを消すと、陸は私を抱き寄せ、首筋に顔を埋めてじゃれついてくる。「美晴、どこか具合でも悪い?なんだかボーッとしてるみたいだけど」私は寝返りを打ち、彼に背中を向けた。「……よく眠れてないのかもしれない」背中の向こうで、彼がくすりと笑うのが伝わってくる。「そっか。じゃあ、今夜は許してあげる。ゆっくり休もうね」ほどなくして、陸の寝息が規則正しく聞こえ始めた。深い眠りに落ちたようだ。私は月あかりを頼りに、彼の寝顔をじっと見つめた。せき止めていた涙が、もう抑えきれない。彼が片膝をついてプロポーズしてくれた日のことが、遠い記憶のように蘇る。「僕にチャンスをくれないか。君だけの騎士(ナイト)になりたいんだ。命ある限り、君を愛し、守り続けると誓うよ」あの瞬間のすべてが、今では滑稽な冗談にしか思えない。何度も寝返りを打ったけれど、どうしても眠れず、私はタブレットを持ってリビングへ出た。他のSNSアプリを開き、クラウドストレージまで確認してみたけれど、すべてログアウトされていた。陸……やましいことがある証拠だわ。寝室に戻ってベッドに滑り込むと、待っていたかのように陸の腕が伸びてきて、私を抱きしめた。「美晴……僕をずっと愛しててね……」耳元にかかる彼の吐息が熱い。彼は目を覚ましてはいなかった。うわ言のように呟き、また深い眠りへと沈んでいく。慣れ親しんだ彼の匂い。一番安心できる場所だと信じていた、あたたかなぬくもり。この腕の中に、いつから別の誰かが住み着いてしまったのだろう。翌朝、陸はネクタイを手にぶら下げて甘えてきた。「美晴に結んでほしいな」毎朝の日課であるジョギングを終え、シャワーを浴びたばかりなのだろう。彼の体からは、まだ湿った湯気の匂いがする。いつもはクールな瞳をわざとうるませて見つめられ、私はつい絆されてしまう。私がネクタイに手を伸ばすと、彼は嬉しそうに私を抱き寄せ、あごを私の頭にすりつけた。「そうだ。今夜、京雲(けいうん)ホテルのオークションに行かない?一番大きなルビーを落札して、美晴にプレゼントしようと思ってるんだけど」陸は、子供をあやすように優しく囁く。オークションの出品リストは、すでに私の手元に届いていた。目を見張るような宝飾品や希少な宝石の数々。どれでも好きなものを
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第3話
ソファに崩れ落ちたまま、動けない。頭の中で、さっきの陸の言葉が何度もリフレインする。彼はあの女を抱くのだろうか。キスをするのだろうか。彼のオフィスに駆けつけると、そこには普段見かけない若い秘書が一入るだけだった。彼女は私を見るなり、愛想よく声をかけてくる。「奥様、社長はいま会議中でして。よろしければ中でお待ちください。コーヒーでもお持ちしましょうか?」私は彼女の気遣いを丁重に断り、部屋へと足を踏み入れた。陸のオフィスは、いかにも彼らしく洗練され、満ち足りた空間だ。広々とした執務スペースの奥には、専用の休憩室とゲームルームまで完備されている。心をかき乱されたまま、私は迷わずゲームルームに向かった。何も考えずにゲームに没頭すれば、この胸騒ぎも紛れるかもしれないと思って。「見ちゃだめ。恥ずかしいもん」甘ったるい笑い声が聞こえ、私はとっさにヘッドホンを外した。「はいはい、わかったよ。着替えるまで見ないから」陸の声だ。姿は見えなくても、彼がとびきり甘やかした顔で言っているのが、手に取るようにわかる。ゲームルームのドアが少し開いていた。二人のじゃれあう声が、いやにはっきりと漏れてくる。私は吸い寄せられるように、隙間から中を覗き込んだ。背の高い彼が、やれやれと首を横に振りながら後ろを向く。小柄な女が黒いスーツを脱ぎ捨てると、下からポリス風のバニーガールの衣装が現れた。さらにバッグからウサギの耳を取り出し、頭につける。女は背後から陸に抱きついた。「動かないで!あなたを逮捕します。さあ、手を挙げて」陸はクックッと肩を揺らして笑い、降参だと言わんばかりに両手を挙げ、ゆっくりと振り返る。女は不満そうに彼の胸に飛び込み、地団駄を踏んで頬を擦り付けた。「もうっ、笑わないでよぉ」陸はたまらないといった様子で苦笑し、いとおしそうに彼女を包み込んだ。「ごめんごめん。可愛いよ、僕のウサギのポリスさん」勝ち誇ったような顔で、女の悪戯な手が彼のシャツの隙間へとするりと忍び込む。胸板から腹筋をなぞり、そのまま下へ、下へと。陸の息遣いが荒くなるのがわかった。瞳の色が暗い熱を帯びる。高く挙げていた両手が下りてきて、女の柔らかいお尻をしっかりと支え、そのまま軽々と抱き上げた。女はその体勢のまま彼の
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第4話
オフィスを出る際、陸の秘書が不思議そうに私をちらりと見た。夫たちと一緒に行かない私を、不審に思ったのだろうか。私は何も言わず、魂が抜けたようにふらふらと帰路についた。心が張り裂けそうだ。陸とあの女が絡み合うあの光景が、まるで呪いのように脳裏にこびりついて離れない。あの女のことは知っている。陸の会社に新しく入った秘書だ。タブレットにあの動画を送ってきたのも、彼女だった。名前は伊東愛菜(いとう あいな)。大学を出たばかりの新卒で、確かに果実のように若く瑞々しい。彼女が入社した時、陸は「昔のお前みたいだ」なんて冗談めかして言っていたっけ。そういえば、彼女の連絡先を持っていたはずだ。私は震える手で、彼女のタイムラインを開いた。最新の投稿は、あのウサギのコスプレをした自撮り写真だった。豊かな膨らみには、わざとらしくスタンプで隠し加工がしてある。【ウサギのポリスさん、今日はオオカミさんのハートを逮捕しちゃうぞ♡】その下に表示された陸の「いいね!」が、私の目を焼く。彼は堂々とコメントを残していた。【もちろん、このオオカミのハートはとっくに君のものだよ】私が彼女の投稿なんて見ないだろうと、高を括っているのかもしれない。確かに私は普段、タイムラインなんてほとんど見ないのだから。付き合い始めたころのことを思い出す。あの頃の私は、彼にとって自分はどんな存在なのか、何度も確かめようとしていた。可愛い女の子を見かけるたびに、彼に聞いたものだ。「ねえ、こういうタイプの子は好き?」すると彼は、あきれたように笑って私を強く抱きしめるのだ。「何言ってるんだい?どんなタイプだって関係ないよ。僕が好きなのは君一人だけ。世界にたった一人の美晴だけだ。君以外は、たとえ世界一の美女が現れたって、目もくれないと誓うよ」あの時どれほど舞い上がったことか。そのぶん、今の悲しみは計り知れない。五年もの間、私に尽くし、優しく包み込んでくれた夫は、ずっと私を欺いていたのだ。二時間ほどの間、私はただぼんやりと座り込んでいたけれど、やがて意を決して海外にいる母へ電話をかけた。「お母さん……私、そっちに行こうかと思うの。うん、向こうで新しい生活を始めようと思って」母はとても喜んだ。もともと母は私がそばに来ることを望んでいたのに、
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第5話
陸はもう、なりふり構わず車を飛ばして、夜の道をひた走った。向かう先は、あの交流会の会場だ。いつもなら、あれほどスマートで隙のない彼が、車を降りた拍子に足をもつれさせ、無様に膝をついた。彼は血相を変えて人混みをかき分け、あろうことか大声で私の名前を叫び始めた。「美晴、美晴!」「出てきてくれ、美晴、どこだ!」顔面蒼白で今にも倒れそうな陸を、顔なじみの誰かが慌てて支えた。「北城さん!奥様なら……美晴さんなら、この会にはいらしてませんよ」「いや、来ているはずだ。あいつは怒って……僕を避けて隠れているだけなんだ!」充血した目で、陸はその人に食って掛かった。その相手は、私のデザイン業界での古い友人だった。例の暴露投稿も、当然目にしていたのだろう。彼は少し言い淀んでから、意を決したように告げた。「……お二人は、誰もが羨むおしどり夫婦でした。なのに、あんな酷い裏切りを知って……美晴さんが平気な顔で、この華やかな場所に来られるわけがないでしょう」「あんなことされて、まともな精神状態でいられるはずが……」その言葉が、陸の胸に深々と突き刺さった。彼はその場に凍りついたかと思うと、次の瞬間、更なる恐怖に顔を歪めた。取り返しのつかない結末を想像してしまったのだろう。陸は弾かれたように会場を飛び出し、狂ったようなスピードで家へと取って返した。自宅のドアを開けても、そこにはいつもと変わらない静寂があった。私が持ち出したのは、最低限の着替えだけ。それ以外は何もかも、残したままだったから。この家にあるすべての物は、彼という人間と同じ。私にはもう、一切必要のないゴミだった。陸の心臓が、ドクリと嫌な音を立てた。もつれる足で寝室に駆け込み、あちこちをひっくり返す。彼が贈ってくれたジュエリーはもちろん、私のために手配した希少な原石さえも、いつもの場所に鎮座したままだった。まるで私が、ふらりと出張にでも出かけたかのような光景。なのに、彼は本能で悟ってしまったのだ。今回ばかりは――この広い家に、本当に自分ひとりきり取り残されてしまったのだと。「嘘だ……美晴、どこだ?」糸が切れたように座り込んだ彼の視線が、ふとテーブルに吸い寄せられる。そこに置かれた『離婚協議書』の文字が、鋭い刃物のように目に突き刺さる。陸は突然叫び出し、テーブルを力
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第6話
控えめなノックの音に、陸はようやく床から身体を起こした。しわくちゃになったシャツを適当に引っ張り、重い足取りでドアを開ける。訪ねてきたのは陸の秘書だった。陸の淀んだ瞳と目が合うなり、彼は怯えたように書類を差し出す。「あの……社長。プロジェクトの契約書なんですが、どうしても社長の決裁が必要で……」秘書は冷や汗をかきながら、心の中で嘆いていた。正直、こんな最悪なタイミングで訪ねてきたくなんてなかった。仕事でなければ絶対に来ていない。社長が奥様の一件で怒り狂っているとは聞いていたから、自分がその怒りの捌け口にされるのではないかと、生きた心地がしなかったのだ。実際、陸は誰かに八つ当たりしたい気持ちでいっぱいだった。けれど何とかそれを押し殺し、受け取った書類を乱暴に放り投げた。さっさと出ていけと手を振る。だが、秘書は動かない。少し迷ったあと、彼はポケットから小さなヘアクリップを取り出し、恐る恐る差し出した。「あの、これ……奥様が先日、オフィスのゲームルームに忘れていかれたみたいで」陸は一瞬、きょとんとしてそれを見た。だが次の瞬間、信じられないものを見るように目を見開いた。数秒後、彼はひったくるようにそれを握りしめた。見間違えるはずがない、これは私のものだ。前髪を留めるための小さなクリップ。親指の爪ほどの大きさしかないが、ハート形のピンクダイヤが透き通るような輝きを放ち、その周りを同じ品質の小さなダイヤがぐるりと囲んでいる。これは私が自分の手で作ったもの。そしてこのピンクダイヤは、付き合い始めた頃に彼がくれた、愛の証だった。あの日、彼は私に想いを告げた。「僕の愛はこのダイヤモンドと同じ。一点の曇りもなく、この世にただひとつのものだ」私は嬉しくて、甘えるように微笑んだ。「ただひとつ、って約束よ?私にくれたこの愛を、他の誰かにあげちゃだめだからね」だから、私はこのクリップをとても大切にしていた。どこかに置き忘れるなんて、ありえないことなのだ。「美晴が会社に来ていた?いつの話だ」陸は眉をひそめ、鋭い声で問いただした。秘書のほうも困惑顔だ。「え……?ほら、ご友人の皆様がルビーを届けにいらした日ですよ。あの時、奥様もご一緒でしたよね……?」陸の瞳が激しく揺れた。まさか、という最悪の想像が頭をよぎり
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第7話
陸はわざわざ海を渡り、海外に住む母のもとへも押しかけたようだ。けれど私はもう、新しい名前と身分を手に入れて、誰にも縛られない生活を始めている。その頃ちょうど、新しくできた友人と旅行に出ていて、家にはいなかった。陸は母の前で土下座をして、私の居場所を教えてくれと懇願したらしい。昔、彼と一緒になるために渡航を拒んだ私は、母と絶縁寸前まで揉めたことがあった。「あの時、あなたは言ったわよね。『必ず大切にする』『僕が美晴を守る』って。どの面下げて、娘を返せなんて言えるの?」母は有無を言わさず、人を呼んで陸を叩き出した。それでも陸は諦めず、ストーカーのように母の行く先々に姿を現したという。半月の間、しつこくつきまとっては母に追い払われ、最後にはボロボロになりながら、私が本当にそこにはいないと悟って去っていったそうだ。「本当に許さないつもり?あの子、まだあんたのこと愛してるみたいだけど」母は心配そうに私を覗き込んだ。かつて私がどれほど彼に惚れ込んでいたか知っているから、後悔するんじゃないかと案じているのだ。「愛してるのも本当でしょうね。でも、クズなのも本当。磨けば光る原石だと思って愛してたけど、ただの石ころ以下だった。ゴミなら当然、いらないわ」母は大きな溜め息をつくと、気を取り直したように笑った。「そうね、あんたの人生はこれからだもの。うちの娘に、そんなゴミはお断りよ」私は笑い返した。「その通り。楽しいことなんて山ほどあるわ。私が頭を下げてまで一緒にいてやる価値なんて、あいつにはない」「そうよそうよ。あんた、アトリエを開きたいって言ってたじゃない。資金ならお母さんが出してあげる」私は嬉しくなって、母に抱きついて甘えた。私は、誰にも愛されていないわけじゃない。かつて陸の世界のすべてが私だったから、私も同じだけの愛を返しただけ。でも彼が裏切って、その愛は腐ってしまった。だからこそ、未練なくすべてを捨てる勇気が持てたのだ。あの頃は、卒業したばかりだった。彼が広い世界を見たいと留学を決めたから、私も同じ大学のデザイン科を選んでついて行った。暮らしのことは何から何まで彼が面倒を見てくれた。海外の食事が合わなくて私が痩せてしまわないよう、料理まで勉強して振る舞ってくれたほどだ。言葉が通じなくて途方に暮れていた
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第8話
あの日を境に、陸はようやく酒を断った。そしてそのエネルギーのすべてを、愛菜を社会的に抹殺することに向けた。愛菜は何度か陸にすがりつこうとし、彼の友人たちにも泣きついたが、陸の意志は固かった。完全に追い詰められ、逆恨みを募らせた愛菜は、ついに捨て身の行動に出た。ライブ配信で陸の悪事をぶちまけ始めたのだ。「あの男は最低のクズです!社長という立場を利用して、社員に枕営業を強要しました。愛妻家なんて全部ウソ、不倫しまくりの裏切り者です!動画を撮って脅されたから、私は言うことを聞くしかなかったんです。彼は人間のクズです!」ネット上は一瞬で大炎上した。陸の会社側はすぐに名誉毀損で訴えたが、ネット民は面白いほうを信じたがる。たとえ裁判で勝ったとしても、「権力で揉み消した」と叩かれるだけだ。【スパダリだと思ってたのに幻滅だわ】【もう愛なんて信じられない】【あの社長、裏では変態だったんだな。流出してたコスプレ動画見たけどヤバいわ】【金持ちの遊びは汚いねぇ】炎上商法で注目を集めた愛菜は、ちゃっかりインフルエンサーへと転身していた。一方、陸の会社は不買運動の煽りを受けて株価が大暴落、倒産寸前まで追い込まれた。かつては誰もが羨み、蝶よ花よと持ち上げられていた御曹司の陸だが、今や周りから人が潮が引くように去り、完全に孤立していた。そんな彼と再会したのは、F国の街角だった。元の国にいられなくなり、残ったわずかな財産を持って海外へ逃げてきたのだろう。まさか彼もこの国に来ていたとは。その時、私は新しい恋人と腕を組んで買い物をしていた。彼は研究職で、名家の生まれでもなければ大富豪でもない。けれど、穏やかで誠実で、とても育ちが良い人。そして何より、責任感が強くて優しい。彼が母に贈るプレゼントのデザインを私が手がけたことがきっかけで、私たちは心を通わせるようになった。燃えるような激しい恋ではないけれど、彼と一緒にいると、心から安らげるのだ。背後から私の名を呼ぶ声がしたが、無視して歩き続けた。すると、息を切らせた陸が前に回り込んできた。彼は信じられないものを見る目で、私と彼の顔を交互に見つめた。何度か唇を震わせ、ようやく絞り出すように声を上げた。「まさか……君たちは……」私は恋人と固くつないだ手を持ち上げて見せ
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