LOGIN流産の手術を受けたその日、夫の福山京介(ふくやま きょうすけ)は「親友」の個展のために、プライベートジェットでパリへと発った。 翌日、ネット上を席巻したのは、セーヌ川のほとりで唇を重ねる二人の写真。 さらにその「親友」は、薬指にペアリングが光る手の写真をSNSに投稿し、気取った一文を添えていた。 【真実の愛に、言葉はいらない】 抜け目なく、京介のアカウントがタグ付けされている。 私は乾いた笑みを漏らした。名門・矢代家の跡取り娘であるこの私、福山蘭(ふくやまらん)が、まさか男の恋人のカモフラージュにされていたとは。 上等だわ。けれど、この私を欺いた代償――払いきれると思わないことね。
View More時は早く過ぎ、あっという間に子供が一ヶ月を迎えた。彼に「幸希(こうき)」と名付けた。いつでも、幸せに満ちた時を過ごしてほしいという願いを込めて。お食い初めの日、福山家の先代当主、京介の祖父と京介が訪ねてきた。純白の産着に包まれた愛らしい赤子を見て、祖父の目が潤み、私の手を握って謝罪の言葉を繰り返した。京介が私に近づいてきた。彼はまた、あの見慣れた気品ある姿に戻っていた。ただ眉間には、消えない憂いが深く刻まれている。「立花さんを送り出したって聞いたわ」私は彼を見つめたが、もう以前のような激情は湧いてこなかった。京介が視線を落として頷く。「ああ、海外に送った。彼の手は……昔、俺が悪かったからな。生活費は渡すが、それ以上は、俺にはできない」彼の意図が少し分かった気がした。晴人にはあの性根の悪さと、天性の演技力がある。国内に放置すれば、また何を仕出かすか分からない。京介なりの最後のけじめなのだろう。短い沈黙の後、背を向けて立ち去ろうとした。「蘭」京介が呼び止め、精巧な刺繍の施されたお守りを差し出した。「神社で祈祷してもらったものだ。精神を安定させ、安眠効果があり、身体にも良いそうだ」反射的に受け取り、彼に微笑んだ。「ありがとう」私の顔に浮かんだ、一点の曇りもない晴れやかな表情を見て、京介の胸に鋭い痛みが走ったようだった。立っていられないほどの衝撃に、彼はふらりとその場に崩れ落ちそうになった。帰り道、空から細かい雨が降り始めた。けれど私の心は、どこまでも晴れやかだった。……一年後。白井家と矢代家が合併し、国内最大の科学技術医療グループが誕生した。一生との結婚式は、秋に決まった。パリ、セーヌ川のほとり。私は一生の腕を取り、取引先と笑顔で談笑していた。ふと視線を向けると、遠くのイーゼルの傍らで、一人の男が観光客のためにスケッチを描いていた。色褪せたシャツ、痩せこけた体躯、伸び放題の髪、そして風雨に晒され続けたような顔。京介だった。彼も私に気づいたようで、走らせていた筆が止まり、顔を上げた。視線が交錯する。彼の瞳には驚愕、苦痛、後悔が渦巻き、最後には絶望と羞恥の色に染まった。私は静かに視線を逸らした。まるで、取るに足らない他人とすれ違った時
私はそう告げると、血の気の引いた晴人の頬を指先で軽く叩き、踵を返した。屈辱に縫い止められた晴人の視線は、迷うことなく私の後を追う京介の背中に注がれ、嫉妬の炎に焼かれていた。彼は何度も深く息を吸い込み、ようやくその取り乱した呼吸を仮面の下に押し込めたようだった。人間とは、利を追い害を避ける打算の生き物だ。「福山夫人」たる私が明確な拒絶を示せば、風見鶏のような招待客たちは、喜んで石を投げるだろう。晴人を包む「恥辱」という名の炎を、より一層高く燃え上がらせるために。ホールの中央で立ち尽くす彼を、周囲の嘲笑と軽蔑の囁きが包囲する。やがて鋭い刃となって、彼の纏う偽りのプライドを一枚ずつ剥ぎ取っていく。視界の端でその様を捉え、私は心の中で冷ややかに笑った。塀の向こう側、名家の内にある醜悪さと打算に、庶民が耐えられるはずもない。私は彼に骨の髄まで思い知らせてやりたかったのだ。あなたには、ここに立つ資格などないのだと。化粧室へ向かった隙を狙い、堪えきれなくなった晴人が入口で私の行く手を遮った。その血走った両目が、男の激情を雄弁に物語っていた。「どうして、こんな酷い仕打ちができるの!」彼は目を見開き、悔しさを滲ませて叫ぶ。「あんたの何が偉いの?もし僕と同じ境遇なら、あんただって僕に勝てやしない!」金切り声が、化粧室の前の廊下に響き渡る。しかし、彼の非難は、私の目には無力な敗者の遠吠えにしか映らなかった。「残念だったわね。私は名家に生まれ、あなたが一生かかっても手に入らない財産と地位を持っている。それが私の『偉さ』よ。何か不満?」そう言って、ふとあることを思いつき、嘲りの笑みを深めた。「ああ、一つだけあなたに勝てないものがあったわ」晴人が訝しげに眉を寄せる中、私は身を屈めて彼の耳元で囁いた。「非情さにおいては、あなたの万分の一にも及ばない。少なくとも私は、自分のプライドを捨てて、男にすがりつく道具になんかしないもの」晴人の顔から、一気に血の気が引いた。荒い息を吐き、胸が激しく上下している。その無様な姿に、私はもう彼を弄ぶ気さえ失せ、氷のような冷たさで見下ろした。「京介が欲しいなら、止めないわ。好きになさい。でも、もう一度私の前に現れたら、あなたを跡形もなく消してあげる」そう言い捨て、私は
二ヶ月が過ぎたが、婚姻関係はいつまでも解消されないままだった。弁護士によれば、京介が頑なに離婚届へのサインを拒んでいるという。理解できなかった。あの時、あれほどはっきりと伝えたはずなのに。こんな無意味な執着を続けて、一体何になるというのか。翌日、福山家の先代当主の祝宴が開かれた。若輩の身として、こんな状況でも出席せねばならなかった。両家の体面は、やはり保たなければならない。しかし予想外だったのは、その場で再び晴人に遭遇したことだった。彼は血色も良く、高級なオーダースーツを身に纏い、京介に親しげに寄り添って、まるでホスト気取りで客をもてなしていた。私は皮肉な視線を、遠くの京介へ投げた。「蘭」京介は私の視線に気づき、慌てた様子で、晴人が腕に絡めた手を振り払った。「おじいさんが……晴人が可哀想だからと、俺に……」私は眉を上げ、奇妙な笑みを浮かベた。「私には関係ないわ。あなたは自由の身なんだから、誰と親しくしようと説明は不要よ」私は真っ直ぐ彼を見据え、一言一言、言い聞かせるように告げた。「それに、私、妊娠したの」京介が凍りついた。驚愕と疑念が瞳の中で交錯する。「妊娠?そんなはずが……」私たちが最後に肌を重ねたのは、半年も前のことだ。「俺への当てつけで嘘をついてるんだろう?」彼は必死に私の否定を待っていた。まるでそれが、自分に残された最後の救いであるかのように。私は冷ややかに彼を見下ろし、その姿を滑稽に感じた。「こんな下手な嘘をつく必要はないわ。京介、もう私に纏わりつかないで」「せ……せめて今日が終わるまで、待ってくれないか?」彼の声は懇願と媚びにまみれ、震えていた。私は周囲の好奇の視線を感じ、今は騒ぎ立てる時ではないと判断した。京介は安堵の息を漏らした。そして彼の背後で、振り払われた晴人が、歯を食いしばり、握りしめた拳に爪を食い込ませているのが見えた。祝宴が始まり、会場は着飾った客たちで賑わいを見せる。光と影の狭間で、かつて畏怖を抱かせるほど気品に満ちていた男の姿が、ふと重なる気がした。ただ、以前と決定的に違うのは。今の京介は、まるで叱られるのを恐れる子供のように、私から一歩も離れようとしない。そして晴人は、そんな彼から一歩も離れようとしない。
翌朝目を覚ますと、全身がバラバラになりそうな鈍い痛みがあった。「最低……」小声で悪態をつく。「ん?誰が俺を罵ってるんだ?」一生の茶化すような声が浴室から響いた。彼が下半身にバスタオル一枚を巻いて現れる。広い肩と引き締まった腰、濡れた肌を流麗な筋肉の線に沿って水滴が滑り落ちていく。「帰ってなかったの?」少し気まずさを感じて尋ねる。一生が軽やかに笑い、近づいて私の髪をくしゃくしゃに撫でた。「福山グループはもう持ちこたえられない。海外の合弁企業もスイスの財閥に買収された。すぐに破産再編が発表されるだろう」私の顔から笑みが消える。「そう」その時、携帯が鳴った。京介からだった。一瞬迷ったが、結局通話ボタンを押した。「蘭、話をしないか?」京介の声はひどく嗄れていて、かつての冷静で気品ある響きは見る影もなかった。「俺たちの間には……誤解がある」口元に嘲笑が浮かぶ。誤解?だが、確かに話をつけておく必要はある。夕方、京介の車が矢代家の門前に時間通りに停まった。車に乗り込むと、濃いタバコの臭いに眉をひそめた。京介が慌てて窓を開け、臭いを散らそうとする。彼の目は充血し、全身から重い疲労感が滲み出ていた。「離婚したいのか?」私は頷いた。「離婚届にはもうサインしたわ。あなたも早くして。長引かせたくないし、裁判にもしたくない」京介の指先が震えているのが見えた。しばらくして、ようやく苦しそうに口を開く。「俺が間違っていた。晴人のことは……お前は関係ないんだ」私は冷笑した。もう心にさざ波すら立たない。「あの時は、そうは言わなかったわね。でも……もうどうでもいいの」京介の顔が強張り、後悔の色に染まる。「すまなかった……」私は窓の外に目をやった。また雨が降っていた。雨は私と仲がいいみたいね。憂鬱な時、いつも私の代わりに涙を流してくれる。「真相が分かったなら、サインして。私への償いだと思って」京介の顔から血の気が引く。ペンを握ったまま、いつまでもサインできない。私は堪えきれなくなった。「サインしたら弁護士に送って。これで私たちは終わりよ」ドアノブに手をかけると、京介が慌てて私の手首を掴んだ。懇願するような、縋るような声で。「……離婚はしたくない」私は深く