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夫がゲイで親友と恋仲だった件

夫がゲイで親友と恋仲だった件

By:  小躍Completed
Language: Japanese
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流産の手術を受けたその日、夫の福山京介(ふくやま きょうすけ)は「親友」の個展のために、プライベートジェットでパリへと発った。 翌日、ネット上を席巻したのは、セーヌ川のほとりで唇を重ねる二人の写真。 さらにその「親友」は、薬指にペアリングが光る手の写真をSNSに投稿し、気取った一文を添えていた。 【真実の愛に、言葉はいらない】 抜け目なく、京介のアカウントがタグ付けされている。 私は乾いた笑みを漏らした。名門・矢代家の跡取り娘であるこの私、福山蘭(ふくやまらん)が、まさか男の恋人のカモフラージュにされていたとは。 上等だわ。けれど、この私を欺いた代償――払いきれると思わないことね。

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Chapter 1

第1話

流産の手術を受けたその日、夫の福山京介(ふくやま きょうすけ)は「親友」の個展のために、プライベートジェットでパリへと発った。

翌日、ネット上を席巻したのは、セーヌ川のほとりで唇を重ねる二人の写真。

さらにその「親友」は、薬指にペアリングが光る手の写真をSNSに投稿し、気取った一文を添えていた。

【真実の愛に、言葉はいらない】

抜け目なく、京介のアカウントがタグ付けされている。

私は乾いた笑みを漏らした。名門・矢代(やしろ)家の跡取り娘であるこの私、福山蘭(ふくやまらん)が、まさか男の恋人のカモフラージュにされていたとは。

上等だわ。けれど、この私を欺いた代償――払いきれると思わないことね。

……

ネットでの炎上騒ぎが三日続き、ようやく京介がパリから帰国した。

その傍らには、例の写真に写っていた張本人、立花晴人(たちばな はると)の姿もあった。

玄関を入るなり、晴人は糸が切れたように京介の胸へと崩れ落ちる。

「京介……めまいが……」

京介はすぐさまその細い体を抱き留め、私を見上げると眉間に深い皺を寄せた。

「蘭、ネットの件は本当に悪かったが、晴人は重度の鬱なんだ。今回の騒動で自殺未遂まで起こして……連れて帰るしかなかった」

まるで今夜の献立でも読み上げるような、淡々とした口調だった。

そこには一片の弁解もなければ、私への労わりもない。

京介に抱きかかえられた「繊細な」男を見つめ、口元だけで笑った。

「福山家と立花グループのAI医療プロジェクト、株価が三日で三十ポイント暴落したわ。時価総額にして数十億が吹き飛んだ」

私は冷ややかに告げる。

「それなのに、あなたの口から出るのは、彼の鬱の話?」

京介の表情に苛立ちが滲んだ。

「金で済む話なら、大した問題じゃない。晴人の命の方が大事だ」

彼は晴人を支えたまま、噂でしか知らない存在である晴人を、堂々と我が家へ連れ込んだ。

「会社のダメージは俺がなんとかする。だから彼を追いつめるような真似はするな」

私はその場に立ち尽くし、密着した二人の背中を見送りながら、全身の震えを抑えられずにいた。

流産手術による身体の消耗など、この瞬間に胸へ広がった冷たさに比べれば、あまりに些細なものだった。

深夜、喉の渇きを覚えて階下へ降りた。

キッチンから微かな物音がする。

そこには、京介の白シャツを纏った晴人の姿があった。ゆったりした裾から覗く、華奢な脚。

不慣れな手つきでミルクを温めている彼は、私に気づいて大仰に後ずさった。

「蘭……さん」

震える手からこぼれたミルクが、手の甲を濡らす。

「あっ!」小さな悲鳴があがった。

次の瞬間、京介がゲストルームから飛び出してきて晴人の手首を掴み、痛ましげな眼差しを向けた。

「何やってんだ!」

慌てた様子で晴人の手を冷水に晒し、振り返った京介の目には非難の色があった。

「何の用だ?驚かせただろう」

私はドア枠に背を預け、冷めきった瞳でその茶番を冷ややかに眺めていた。

晴人は京介の背に隠れるように身を寄せ、潤んだ瞳で私を見上げながら、か細い声を絞り出す。

「蘭さん、ごめんなさい……わざとじゃ……ただ京介にミルクを温めてあげたくて……僕、何もちゃんとできなくて」

私は笑みを深め、ゆっくりと歩み寄った。

手を伸ばし、ミルクで濡れたシャツの生地を指先でなぞる。

「京介のシャツはイタリア製のオーダーシルクよ。熱に弱いの」

視線を上げ、動揺に揺れる晴人の瞳を射抜いて、あからさまな嘲笑を浮かべた。

「立花さん、次に『当てつけ』をするなら、もう少し安い小道具を選んだら?」

晴人の顔色が見る間に蒼白になる。

京介が素早く彼を庇い、失望を滲ませた目で私を見た。

「どうしてそこまで意地悪を言うんだ?」

……

翌朝、眩い陽光に包まれて目を覚ました。

階下へ降りると、いつもは冷え冷えとしたこの家に、初めて生活の温もりが漂っていた。

京介と晴人がサンルームにいた。

一人はパレットを、もう一人は筆を手に、未完成の油絵について語り合っている。

まるで一枚の絵画のような、調和の取れた光景。

そこに私は、紛れ込んだ異物に過ぎない。

近づいてようやく、キャンバスに描かれたものが見えた。

寝室の窓から望む景色は、私が何より愛した、薔薇の生垣だ。

胸の奥が締め付けられ、喉元まで苦しさが這い上がってくる。

私が足を踏み入れた途端、その調和は脆くも崩れ去った。

京介は筆を置き、何事もなかったような顔で言った。「起きたのか」

「流産の診断書、もらってきたわ」

私は診断書を彼の前に置き、抑揚のない声で告げた。

「医師から絶対安静を指示されたの。でも、家が騒がしくて……」

京介の視線が一瞬だけ診断書に留まり、すぐに逸れた。

顔を上げた彼の目には、私が最も嫌う光――有無を言わせぬ、一切の反論を許さない強引さが宿っていた。

「晴人の精神状態がやっと落ち着いたんだ。今出て行かせるのは、死ねと言うのと同じだぞ」

私の胸の中で、どす黒い苛立ちが膨れ上がった。

「じゃあ彼の精神状態のために、私の体はどうでもいいわけ?法律上の妻は私なのよ、京介!」

私が声を荒げると、彼はますます不機嫌そうになった。

そんな彼に思わず詰問した。「結局、あなたが欲しいのは私?それとも……彼?」
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第1話
流産の手術を受けたその日、夫の福山京介(ふくやま きょうすけ)は「親友」の個展のために、プライベートジェットでパリへと発った。翌日、ネット上を席巻したのは、セーヌ川のほとりで唇を重ねる二人の写真。さらにその「親友」は、薬指にペアリングが光る手の写真をSNSに投稿し、気取った一文を添えていた。【真実の愛に、言葉はいらない】抜け目なく、京介のアカウントがタグ付けされている。私は乾いた笑みを漏らした。名門・矢代(やしろ)家の跡取り娘であるこの私、福山蘭(ふくやまらん)が、まさか男の恋人のカモフラージュにされていたとは。上等だわ。けれど、この私を欺いた代償――払いきれると思わないことね。……ネットでの炎上騒ぎが三日続き、ようやく京介がパリから帰国した。その傍らには、例の写真に写っていた張本人、立花晴人(たちばな はると)の姿もあった。玄関を入るなり、晴人は糸が切れたように京介の胸へと崩れ落ちる。「京介……めまいが……」京介はすぐさまその細い体を抱き留め、私を見上げると眉間に深い皺を寄せた。「蘭、ネットの件は本当に悪かったが、晴人は重度の鬱なんだ。今回の騒動で自殺未遂まで起こして……連れて帰るしかなかった」まるで今夜の献立でも読み上げるような、淡々とした口調だった。そこには一片の弁解もなければ、私への労わりもない。京介に抱きかかえられた「繊細な」男を見つめ、口元だけで笑った。「福山家と立花グループのAI医療プロジェクト、株価が三日で三十ポイント暴落したわ。時価総額にして数十億が吹き飛んだ」私は冷ややかに告げる。「それなのに、あなたの口から出るのは、彼の鬱の話?」京介の表情に苛立ちが滲んだ。「金で済む話なら、大した問題じゃない。晴人の命の方が大事だ」彼は晴人を支えたまま、噂でしか知らない存在である晴人を、堂々と我が家へ連れ込んだ。「会社のダメージは俺がなんとかする。だから彼を追いつめるような真似はするな」私はその場に立ち尽くし、密着した二人の背中を見送りながら、全身の震えを抑えられずにいた。流産手術による身体の消耗など、この瞬間に胸へ広がった冷たさに比べれば、あまりに些細なものだった。深夜、喉の渇きを覚えて階下へ降りた。キッチンから微かな物音がする。そこには、京介の白
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第2話
「蘭!」京介が低い声で私の言葉を遮った。「言葉を慎め。晴人はただの友人だ!」その言葉が終わるか終わらないかのうちに、傍らの晴人は私の剣幕に怯えたように手を震わせ、持っていた瓶を取り落とした。ガシャン、と硬質な音が響き、テレピン油の瓶が床で砕け散る。刺激臭が、一気に部屋を満たした。手術明けの弱った身体にはあまりに酷な匂いだった。胃が裏返るような吐き気に襲われ、私は激しく咳き込んだ。京介の顔色が一変する。だが、彼は私に一瞥もくれず、真っ先に倒れかけた晴人に駆け寄り、慌てて窓を開け放った。「大丈夫か?気分はどうだ?」晴人を落ち着かせると、ようやく京介は振り返った。私に向けられたのは、かつて見たこともないほど凍てついた眼差しだった。「お前!彼の精神状態が不安定だと分かっていながら、どうしてそこまで刺激するんだ?彼が死なないと気が済まないのか!」私は彼を見据えたまま、一言も返せなかった。結局、私の体も、私の心も、彼の「親友」の前ではゴミに等しいのだ。私は完璧で、品格があり、決して感情を乱さぬ福山夫人でなければならない。……夕方、福山家の本邸で一族の食事会が開かれた。政財界の名士たちが集う場に、京介の妻として私は出席せねばならなかった。喧騒を避け、私は独り会場の隅に腰を下ろしていた。そこへ、長年の友人であり白井家の当主でもある白井一生(しらい いっせい)が、温かいお茶を持ってきてくれた。「顔色が悪いな。京介の奴、ちゃんと気遣ってるのか?」彼がカイロを私の手の中に押し込む。礼を言おうとした瞬間、手首を万力のような力で掴み上げられた。京介だった。彼は険しい表情で私を無理やり立たせ、一生を睨みつけた。同格の男同士が放つ火花に、周囲の空気が一気に張り詰める。「帰るぞ」京介はそれだけ言い捨て、有無を言わさず私を連れ出した。車内に入った途端、京介がパーティションを上げる。私が訝しむ間もなく、彼が覆い被さってきた。唇に走る鋭い痛みで、一気に現実に引き戻される。力任せに彼を突き飛ばすと、怒りで胸が激しく波打った。一生とは、ほんの少し言葉を交わしたに過ぎない。晴人を堂々と家に招き入れておきながら、どの口で独占欲を示すというのか。「どういうつもり?」私は氷の刃のような声で
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第3話
……立花さんは、外科医だったのか。窓の外を流れる夜景を眺めながら、胸の奥に言いようのない苦さが込み上げてきた。では、私は彼に感謝すべきなのだろうか。この「完璧な」夫と引き換えに。その時、携帯の画面が光った。見知らぬ番号からの画像付きメッセージ。【蘭さん、ごめんなさい。僕は存在してはいけない人間です。でも京介への依存を止められなくて……】添付されていたのは、あのお揃いの指輪だった。寝室のサイドテーブルに静かに並べられた二つの輪。その横には、乱れたシーツが写り込んでいる。手口はあまりに稚拙だが、効果的だった。私は携帯を京介に投げ渡し、凍えるような声で告げた。「どうやら、あなたたちの間の部外者は私みたいね」京介が一瞬硬直し、視線を落として画面を見た。だが、それでも反射的に口をついて出たのは、晴人を庇う言葉だった。「彼は精神的に不安定で、思い込みが激しいんだ。真に受けるな」私は乾いた笑い声を漏らした。怒りを含んだ嘲笑だ。「わざと鈍感なフリをしてるの?それとも本気で分からないの?私が現場を押さえるまで認めないつもり!?」京介が低い声で、警告を込めて言った。「俺と彼の間に後ろめたいことは何もない」私は冷たく笑い、涙声で言った。「じゃあ教えて。どこまでいったら後ろめたいことになるの!」車内が静まり返った。京介の瞳には、見たこともない冷たさが宿っていた。「蘭!お前は矢代家の跡取りだろう。もう少し度量を持てないのか!男相手にそこまでムキになって、いったい何と張り合ってるんだ!」この瞬間の感情を、どう表現すればいいのか分からなかった。ただ、心の中の何かが、一瞬にして枯れ果てた気がした。胸の痛みを堪え、目頭が熱くなる。「私に度量がない?は……もし本当に私に度量がないなら、あなたがパリ行きの飛行機をチャーターしたその日に、矢代家は彼を社会的に抹殺していたわ!彼の写真がネットで炎上するまで放置なんてしない!もし本当に度量がないなら、彼が家に入り込んだその夜に、叩き出していたわ!寝室の写真を突きつけられて挑発されるまで我慢なんてしない」言葉にするたび、事実は棘となって私自身を刺し貫いた。京介が言葉を失い、私の赤くなった目を見つめた。「俺は……」私は顔を背け、窓を開けた。冷たい夜風が頬
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第4話
突然の怒声に、晴人は戸惑いを隠せない。視線を落として画面を確認すると、その目に一瞬、嫉妬の色がよぎった。京介は傍らで冷淡な表情を浮かべる私を見て、苛立ちを募らせた。「蘭は俺の妻だ。今後、誤解を招くようなものは送るな」京介のこれほど厳しい姿を初めて見たのだろう、晴人の目が一気に潤んだ。彼は私に向き直り、涙声で、しかし微かな悔しさを滲ませながら言った。「蘭さん、ごめんなさい。許してください」私は顔を上げ、氷のような視線を向けた。歩み寄り、片手で彼の顎を持ち上げ、そのまま冷然と彼を見下ろした。「私の前でその小細工は通用しないわ。さもなければ、矢代家の地下室に、身の程知らずな人間が何人埋まっているか、教えてあげることになるわよ」突き放された晴人の顔が蒼白になり、今にも倒れそうに揺らいだ。京介が眉をひそめて割って入ったが、それでも彼は晴人を庇う。「もういい。晴人、外に別の住まいを用意する。荷物をまとめてくれ」晴人は信じられないという顔で彼を見つめ、大粒の涙を溢れさせながら、逃げるようにゲストルームへと戻っていった。この三文芝居もようやく幕を下ろすと思っていた。ところが翌晩、京介から電話がかかってきた。声は今までにない動揺に満ちていた。「蘭!晴人がいなくなったんだ!しかも遺書を残して!今、川辺を探してるから、すぐに来てくれ!」川辺に着くと、パトカーの赤色灯が闇を切り裂くように回転していた。京介が一人、規制線の内側に立っていた。頼りなげな背中だった。私を見つけると、血走った目で駆け寄り、骨がきしむほど強く、私の腕を掴んだ。「お前、彼に何を言ったんだ!?どうしてここまで追い詰めた!」怒鳴られて、私は少し呆然とした。その時、警官が証拠品の袋を手に近づいてきた。「福山さん、立花さんのアトリエでこれを見つけました」袋の中には、薬局の処方箋。京介がひったくるように受け取った。内容と署名を確認すると、顔を上げて私を見た。その目には、驚愕と激情があった。「白井家の診療所……蘭、お前が……」彼は私を見つめた。まるで親の仇を見るように、一言一言が私を断罪する。「お前が一生に頼んで、抑鬱を悪化させる薬を処方させて、カルテを偽造させたのか……最初から彼に死んでほしかったんだろう?」私
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第5話
「法務部に連絡。福山京介との離婚協議書を準備しろ、と」少しの間を置き、再び目を開けた時、そこには冷ややかな決意だけが残っていた。「それと、白井一生に連絡してちょうだい。福山グループが持つAI医療特許をすべて譲渡させて。猶予は三日しか与えないわ」一分と経たずに、一生から電話がかかってきた。受話器越しの一生の声には、隠しきれない歓喜が滲んでいた。「ようやく、決心がついたか?」私は目を伏せ、胸の奥で燻る痛みを隠すように答える。「ええ。だから、協力してくれる?」彼は低く喉を鳴らして笑った。あからさまな甘やかしを含んだ声で。「福山夫人ではなく、矢代の令嬢の命令とあらば、断る理由がないだろう?」通話を終え、窓の外に広がる灰色の空を仰ぐ。京介と晴人によって押し潰されていた心の重荷が、軽くなった気がした。サインを済ませた離婚協議書と離婚届を、束縛の象徴だった結婚指輪と共に金庫の奥へと封印する。三年を過ごしたこの別荘も、いざ去るとなれば、さほど未練はなかった。薬指に残った薄い日焼け跡が、あの頃の自分の愚かさを嘲笑っているようだった。「私ならできる」という驕り……その代償はあまりに高すぎた。今の苦しみは全て、無謀と知りながら突き進んだ報いなのだ。実家の本邸に戻ると、両親がリビングで私を待っていた。「蘭、白井家の坊やと組んで、福山グループを攻撃しているというのは本当か?」父が私の肩に手を置き、心配と慈しみに満ちた瞳で見つめてきた。その時初めて気づいた。京介と結婚してから、ずっと実家に帰っていなかったことに。そして私の両親は、叱責するどころか、ただ私が傷ついていないかを案じている。「ええ。離婚することにしたの」私は何でもないことのように告げた。「お父さん、お母さん、心配しないで。一生とはただのビジネスパートナーよ。それ以上の関係はないわ」父が深い溜息をついた。「何があったんだ?」私は視線を伏せた。あんな汚らわしい話を、両親の耳に入れたくはなかった。「何でもないの。ただの、結婚生活がうまくいかなかっただけ」両親が視線を交わし、母がそっと私の手を握りしめる。私は苦笑を浮かべたが、不覚にも目頭が熱くなった。その日から、矢代家と白井家は前例のない猛攻で、福山グループへの全面攻勢を
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第6話
翌朝目を覚ますと、全身がバラバラになりそうな鈍い痛みがあった。「最低……」小声で悪態をつく。「ん?誰が俺を罵ってるんだ?」一生の茶化すような声が浴室から響いた。彼が下半身にバスタオル一枚を巻いて現れる。広い肩と引き締まった腰、濡れた肌を流麗な筋肉の線に沿って水滴が滑り落ちていく。「帰ってなかったの?」少し気まずさを感じて尋ねる。一生が軽やかに笑い、近づいて私の髪をくしゃくしゃに撫でた。「福山グループはもう持ちこたえられない。海外の合弁企業もスイスの財閥に買収された。すぐに破産再編が発表されるだろう」私の顔から笑みが消える。「そう」その時、携帯が鳴った。京介からだった。一瞬迷ったが、結局通話ボタンを押した。「蘭、話をしないか?」京介の声はひどく嗄れていて、かつての冷静で気品ある響きは見る影もなかった。「俺たちの間には……誤解がある」口元に嘲笑が浮かぶ。誤解?だが、確かに話をつけておく必要はある。夕方、京介の車が矢代家の門前に時間通りに停まった。車に乗り込むと、濃いタバコの臭いに眉をひそめた。京介が慌てて窓を開け、臭いを散らそうとする。彼の目は充血し、全身から重い疲労感が滲み出ていた。「離婚したいのか?」私は頷いた。「離婚届にはもうサインしたわ。あなたも早くして。長引かせたくないし、裁判にもしたくない」京介の指先が震えているのが見えた。しばらくして、ようやく苦しそうに口を開く。「俺が間違っていた。晴人のことは……お前は関係ないんだ」私は冷笑した。もう心にさざ波すら立たない。「あの時は、そうは言わなかったわね。でも……もうどうでもいいの」京介の顔が強張り、後悔の色に染まる。「すまなかった……」私は窓の外に目をやった。また雨が降っていた。雨は私と仲がいいみたいね。憂鬱な時、いつも私の代わりに涙を流してくれる。「真相が分かったなら、サインして。私への償いだと思って」京介の顔から血の気が引く。ペンを握ったまま、いつまでもサインできない。私は堪えきれなくなった。「サインしたら弁護士に送って。これで私たちは終わりよ」ドアノブに手をかけると、京介が慌てて私の手首を掴んだ。懇願するような、縋るような声で。「……離婚はしたくない」私は深く
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第7話
二ヶ月が過ぎたが、婚姻関係はいつまでも解消されないままだった。弁護士によれば、京介が頑なに離婚届へのサインを拒んでいるという。理解できなかった。あの時、あれほどはっきりと伝えたはずなのに。こんな無意味な執着を続けて、一体何になるというのか。翌日、福山家の先代当主の祝宴が開かれた。若輩の身として、こんな状況でも出席せねばならなかった。両家の体面は、やはり保たなければならない。しかし予想外だったのは、その場で再び晴人に遭遇したことだった。彼は血色も良く、高級なオーダースーツを身に纏い、京介に親しげに寄り添って、まるでホスト気取りで客をもてなしていた。私は皮肉な視線を、遠くの京介へ投げた。「蘭」京介は私の視線に気づき、慌てた様子で、晴人が腕に絡めた手を振り払った。「おじいさんが……晴人が可哀想だからと、俺に……」私は眉を上げ、奇妙な笑みを浮かベた。「私には関係ないわ。あなたは自由の身なんだから、誰と親しくしようと説明は不要よ」私は真っ直ぐ彼を見据え、一言一言、言い聞かせるように告げた。「それに、私、妊娠したの」京介が凍りついた。驚愕と疑念が瞳の中で交錯する。「妊娠?そんなはずが……」私たちが最後に肌を重ねたのは、半年も前のことだ。「俺への当てつけで嘘をついてるんだろう?」彼は必死に私の否定を待っていた。まるでそれが、自分に残された最後の救いであるかのように。私は冷ややかに彼を見下ろし、その姿を滑稽に感じた。「こんな下手な嘘をつく必要はないわ。京介、もう私に纏わりつかないで」「せ……せめて今日が終わるまで、待ってくれないか?」彼の声は懇願と媚びにまみれ、震えていた。私は周囲の好奇の視線を感じ、今は騒ぎ立てる時ではないと判断した。京介は安堵の息を漏らした。そして彼の背後で、振り払われた晴人が、歯を食いしばり、握りしめた拳に爪を食い込ませているのが見えた。祝宴が始まり、会場は着飾った客たちで賑わいを見せる。光と影の狭間で、かつて畏怖を抱かせるほど気品に満ちていた男の姿が、ふと重なる気がした。ただ、以前と決定的に違うのは。今の京介は、まるで叱られるのを恐れる子供のように、私から一歩も離れようとしない。そして晴人は、そんな彼から一歩も離れようとしない。
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第8話
私はそう告げると、血の気の引いた晴人の頬を指先で軽く叩き、踵を返した。屈辱に縫い止められた晴人の視線は、迷うことなく私の後を追う京介の背中に注がれ、嫉妬の炎に焼かれていた。彼は何度も深く息を吸い込み、ようやくその取り乱した呼吸を仮面の下に押し込めたようだった。人間とは、利を追い害を避ける打算の生き物だ。「福山夫人」たる私が明確な拒絶を示せば、風見鶏のような招待客たちは、喜んで石を投げるだろう。晴人を包む「恥辱」という名の炎を、より一層高く燃え上がらせるために。ホールの中央で立ち尽くす彼を、周囲の嘲笑と軽蔑の囁きが包囲する。やがて鋭い刃となって、彼の纏う偽りのプライドを一枚ずつ剥ぎ取っていく。視界の端でその様を捉え、私は心の中で冷ややかに笑った。塀の向こう側、名家の内にある醜悪さと打算に、庶民が耐えられるはずもない。私は彼に骨の髄まで思い知らせてやりたかったのだ。あなたには、ここに立つ資格などないのだと。化粧室へ向かった隙を狙い、堪えきれなくなった晴人が入口で私の行く手を遮った。その血走った両目が、男の激情を雄弁に物語っていた。「どうして、こんな酷い仕打ちができるの!」彼は目を見開き、悔しさを滲ませて叫ぶ。「あんたの何が偉いの?もし僕と同じ境遇なら、あんただって僕に勝てやしない!」金切り声が、化粧室の前の廊下に響き渡る。しかし、彼の非難は、私の目には無力な敗者の遠吠えにしか映らなかった。「残念だったわね。私は名家に生まれ、あなたが一生かかっても手に入らない財産と地位を持っている。それが私の『偉さ』よ。何か不満?」そう言って、ふとあることを思いつき、嘲りの笑みを深めた。「ああ、一つだけあなたに勝てないものがあったわ」晴人が訝しげに眉を寄せる中、私は身を屈めて彼の耳元で囁いた。「非情さにおいては、あなたの万分の一にも及ばない。少なくとも私は、自分のプライドを捨てて、男にすがりつく道具になんかしないもの」晴人の顔から、一気に血の気が引いた。荒い息を吐き、胸が激しく上下している。その無様な姿に、私はもう彼を弄ぶ気さえ失せ、氷のような冷たさで見下ろした。「京介が欲しいなら、止めないわ。好きになさい。でも、もう一度私の前に現れたら、あなたを跡形もなく消してあげる」そう言い捨て、私は
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第9話
時は早く過ぎ、あっという間に子供が一ヶ月を迎えた。彼に「幸希(こうき)」と名付けた。いつでも、幸せに満ちた時を過ごしてほしいという願いを込めて。お食い初めの日、福山家の先代当主、京介の祖父と京介が訪ねてきた。純白の産着に包まれた愛らしい赤子を見て、祖父の目が潤み、私の手を握って謝罪の言葉を繰り返した。京介が私に近づいてきた。彼はまた、あの見慣れた気品ある姿に戻っていた。ただ眉間には、消えない憂いが深く刻まれている。「立花さんを送り出したって聞いたわ」私は彼を見つめたが、もう以前のような激情は湧いてこなかった。京介が視線を落として頷く。「ああ、海外に送った。彼の手は……昔、俺が悪かったからな。生活費は渡すが、それ以上は、俺にはできない」彼の意図が少し分かった気がした。晴人にはあの性根の悪さと、天性の演技力がある。国内に放置すれば、また何を仕出かすか分からない。京介なりの最後のけじめなのだろう。短い沈黙の後、背を向けて立ち去ろうとした。「蘭」京介が呼び止め、精巧な刺繍の施されたお守りを差し出した。「神社で祈祷してもらったものだ。精神を安定させ、安眠効果があり、身体にも良いそうだ」反射的に受け取り、彼に微笑んだ。「ありがとう」私の顔に浮かんだ、一点の曇りもない晴れやかな表情を見て、京介の胸に鋭い痛みが走ったようだった。立っていられないほどの衝撃に、彼はふらりとその場に崩れ落ちそうになった。帰り道、空から細かい雨が降り始めた。けれど私の心は、どこまでも晴れやかだった。……一年後。白井家と矢代家が合併し、国内最大の科学技術医療グループが誕生した。一生との結婚式は、秋に決まった。パリ、セーヌ川のほとり。私は一生の腕を取り、取引先と笑顔で談笑していた。ふと視線を向けると、遠くのイーゼルの傍らで、一人の男が観光客のためにスケッチを描いていた。色褪せたシャツ、痩せこけた体躯、伸び放題の髪、そして風雨に晒され続けたような顔。京介だった。彼も私に気づいたようで、走らせていた筆が止まり、顔を上げた。視線が交錯する。彼の瞳には驚愕、苦痛、後悔が渦巻き、最後には絶望と羞恥の色に染まった。私は静かに視線を逸らした。まるで、取るに足らない他人とすれ違った時
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