LOGIN芹奈は予約画面を開いたまま、十分近く迷っていた。
相談内容を書く欄には、まだ何も入力していない。
何と書けばいいのか分からなかった。
殺人。
共犯。
事故に見せかけた。
どの言葉も、入力した瞬間に自分のしたことが現実になるような気がした。
結局、芹奈は相談内容の欄に、
『刑事事件について相談したいことがあります』
とだけ入力した。
名前と連絡先を確認し、予約を送信する。
受付完了の画面が表示された。
「……送っちゃった」
声に出すと、急に怖くなった。
取り消そうかと思った。
けれどスマートフォンを伏せ、ベッドへ置いた。
◇
翌朝、彰人はいつも通りだった。
「おはよう」
「おはよう」
芹奈もいつも通りに返す。
彰人は何も知
芹奈から連絡が来なくなって、しばらく経った。 彰人からも、あれ以来何も聞かれていない。 千紘は二人がどうしているのか気にはなったが、自分から確かめようとは思わなかった。 二人の間にはすでに疑いが生まれている。 今は下手に触らない方がいい。 それより今日は、別のことで頭がいっぱいだった。 ◇「……早すぎた」 待ち合わせ場所に着いた千紘は、時計を見て呟いた。 約束の二十分前だった。 律を自分から食事に誘った日。 ただ食事をするだけなのに、家を出る前から妙に落ち着かなかった。 服も何度か着替えた。 髪も一度整え直した。 デートではない。 そう思おうとして、やめた。 水族館へ行ったときも、映画を見たときも、同じようなことを考えていた。 今さら名前をつけないふりをしても仕方がない。「雨宮さん」 声がして振り返る。 律がこちらへ歩いてきた。「早いですね」「律さんも」「俺は十分前です」「……私は二十分前」「負けました」「何の勝負ですか」 笑いながら並んで歩き始める。 それだけで、さっきまでの緊張が少し消えた。 ◇ 選んだ店は、小さなイタリアンだった。 席についてメニューを開く。「パスタって言ってましたよね」「言いました」「急に具体的だったやつ」「まだ覚えてるんですか?」「結構面白かったので」「忘れてください」 千紘はメニューで顔を隠した。 律が笑っている。 こうしていると、本当に普通だった。 復讐も、三か月という期限も、何もない人間になったような気がする。
翌朝、芹奈は目を覚ますとすぐに法律事務所の予約ページを開いた。 昨日は行けなかった。 それだけだ。 もう一度予約すればいい。 そう思いながら空いている日時を確認する。 今日の枠は埋まっている。明日なら夕方に一つ、その次の日にも空きがあった。 芹奈は明日の時間を選びかけて、手を止めた。 明日の仕事は何時に終わるだろう。 また急な仕事が入ったら、同じことになる。「……もう少し余裕ある日にしよう」 結局、予約しないまま画面を閉じた。 ◇ 会社へ着くと、彰人は昨日と変わらない様子だった。「昨日のやつ、ありがとう。助かった」「うん」「急に振って悪かったな」「本当に急だったね」「ごめんって」 彰人が苦笑する。 芹奈はその顔をじっと見た。「何?」「……何でもない」 やはり、何も知らないように見える。 昨日頼まれた仕事だって、本当に必要なものだった。 自分が弁護士へ相談しようとしていることは、誰にも話していない。 彰人が知る方法などないはずだ。 偶然だった。 そう考えると、昨日感じた不安の方が馬鹿らしく思えてくる。 ◇ 昼休みになり、芹奈は鞄の中に旧端末が入っていることを思い出した。 昨日、相談へ持っていくために家から持ち出したものだ。 今日は置いてくるつもりだったのに、朝は予約のことで頭がいっぱいで忘れていた。 取り出すことはせず、そのまま鞄を閉じる。 昨日は、これを弁護士に見せるつもりだった。 彰人に呼ばれて現場へ行ったこと。 当日の朝にも連絡を取っていたこと。 そして、メッセージには残っていない自分の言葉も、全部話すつもりだった。
相談を予約した日、芹奈は朝から落ち着かなかった。 旧端末は鞄に入れてある。 何をどこまで話すのか、昨夜も何度も考えた。 彰人に呼ばれて、あの場所へ行ったこと。 彰人が千紘を海へ落としたこと。 自分がそれを止めなかったこと。 それどころか、「早くして」と急かしたこと。 全部話せば、自分もただでは済まないかもしれない。 それでも今日は逃げないと決めていた。 ◇ 午後三時を過ぎた頃だった。「芹奈、ちょっといい?」 彰人に呼ばれ、芹奈は顔を上げた。「何?」「これ、今日中に確認してもらえる?」 渡された資料を見て、芹奈は眉を寄せた。 自分の担当に関係するものだった。確認を頼まれること自体はおかしくない。 ただ、量が多い。「今日中?」「悪い。明日の朝使いたいんだ」 時計を見る。 相談の予約までは、まだ時間がある。 けれどこれを全部確認していたら、定時には出られない。「明日の朝じゃ駄目?」「朝一で必要なんだよ」「……そう」 芹奈は資料を受け取った。 彰人がふと首を傾げる。「何か予定あった?」 心臓が跳ねた。「別に」「なら悪いけど、お願い」 彰人はそれだけ言って、自分の席へ戻っていった。 芹奈はその背中を見つめた。 偶然だ。 予約したことは誰にも話していない。 雨宮にも言っていない。 彰人が知っているはずがない。 そう思いながら作業を始めた。 だが、確認すべき箇所は予想以上に多かった。 時計の針だけが進んでいく。 このままでは間に合わない。 途中で切り上げることも考えたが、明日の
芹奈は予約画面を開いたまま、十分近く迷っていた。 相談内容を書く欄には、まだ何も入力していない。 何と書けばいいのか分からなかった。 殺人。 共犯。 事故に見せかけた。 どの言葉も、入力した瞬間に自分のしたことが現実になるような気がした。 結局、芹奈は相談内容の欄に、『刑事事件について相談したいことがあります』 とだけ入力した。 名前と連絡先を確認し、予約を送信する。 受付完了の画面が表示された。「……送っちゃった」 声に出すと、急に怖くなった。 取り消そうかと思った。 けれどスマートフォンを伏せ、ベッドへ置いた。 ◇ 翌朝、彰人はいつも通りだった。「おはよう」「おはよう」 芹奈もいつも通りに返す。 彰人は何も知らない。 自分が法律事務所へ相談の予約を入れたことも。 今度はあの日のことを話そうとしていることも。 そう思うと、彰人の顔を見ることができなかった。「芹奈?」「何?」「いや、ぼーっとしてたから」「寝不足なだけ」「ちゃんと寝ろよ」 それだけ言って、彰人は自分の席へ戻った。 以前なら、その言葉に少しは安心したかもしれない。 今はもう、何を言われてもそのまま受け取れなかった。 ◇ 昼休み。 芹奈は一人で外へ出た。 鞄の中に旧端末はない。 家に置いてある。 相談へ行く日には持っていくべきなのだろうか。 メッセージを見せれば、少なくとも彰人に呼ばれて現場へ行ったことは分かる。 けれど、そのあと自分が「早くして」と言ったことは、どこにも残っていない。 それは自分で話すしかない
芹奈が旧端末を家に置くようになって数日が過ぎた。 彰人は相変わらず、スマホについて何も言わなかった。 仕事中に話しかけてくることはある。 けれど内容は仕事か、当たり障りのないものばかりだった。「今日、忙しかったな」「そうだね」「最近ずっとこんな感じだな」「月末だからじゃない?」 そんな会話をしていると、一時はひどく拗れていたことが嘘のように思えてくる。 それでも芹奈は、完全には安心できなかった。 ◇ その日の夜、芹奈は帰宅すると旧端末の電源を入れた。 何度も見たメッセージが並んでいる。 以前は、これさえ残しておけば彰人にすべて押しつけられることはないと思っていた。 けれど、本当にそうなのだろうか。 メッセージには彰人が自分を呼んだ記録がある。 それでも、実際に何が起きたのかまでは書かれていない。 芹奈はしばらく画面を見つめたあと、今使っているスマートフォンを手に取った。 検索欄に文字を打ちかける。 やめた。 代わりに、以前相談した法律事務所のページを開いた。 あのときは怖くて、すべてを話せなかった。 もし、もう一度相談するとしたら。 今度はどこまで話せばいいのだろう。 ◇ 翌日の昼休み。 千紘のもとに、芹奈からメッセージが届いた。『雨宮さん、少し聞いていいですか?』『はい』『前に、証拠がないと警察に信じてもらえないのかなって話したの覚えてますよね』 また、その話だ。『覚えてます』『もし証拠っぽいものがあったら、どうします?』 千紘は画面を見つめた。 ここで「警察へ持っていけばいい」と簡単に答えるのは違う気がした。『何の証拠かによると思います』 しばらくして返事が来る。
昼休みになり、芹奈が同僚と一緒に席を立った。 彰人はパソコンに目を向けたまま、その姿を見送った。 今日の芹奈は、昨日までとは少し違う。 鞄を必要以上に気にする様子がない。 席を離れるときも、デスクの横に置いたままだった。 だからといって、旧端末を家に置いてきたとは限らない。 鞄の中にあるかもしれない。 彰人は視線を戻した。 確認する方法はない。 勝手に鞄を見るわけにもいかなかった。 ◇ 午後になって、彰人は芹奈に書類を渡した。「これ、確認お願い」「分かった」 芹奈が受け取る。 それだけのやり取りだった。 彰人は何も聞かなかった。 ここで余計なことを言えば、また警戒される。 焦らなくていい。 そう自分に言い聞かせた。 けれど、仕事をしながら何度も考えてしまう。 もし旧端末が家にあるのなら。 少なくとも、今ここで芹奈が持っているよりは、自分の目から遠いところにある。 だが、それがどこに置かれているのかも分からない。 そもそも本当に家にあるのかさえ分からない。 彰人は小さく息を吐き、画面へ意識を戻した。 ◇ 夕方、芹奈は定時を少し過ぎたところで帰った。 彰人は追わなかった。 メッセージも送らない。 それから三十分ほどして、自分も会社を出た。 帰り道でスマートフォンを取り出し、芹奈とのやり取りを開く。 最後の私的な会話は数日前だった。『スマホの件はもういい』 自分で送った言葉が残っている。 今さら、やはり見せてほしいとは言えない。 彰人は画面を閉じた。 ◇ 一方、芹奈は帰宅するとすぐに引き出しを開けた。 旧端末は朝と同じ場所にあっ