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第6話

Author: 蘭村 優夜
実也は、しばし呆然としていた。

——まさか、私の口からそんな言葉が出てくるとは、思いもしなかったのだろう。

結婚して十数年。私がどれだけ彼を想い、尽くしてきたか、彼自身がいちばん理解していたはずだ。

だからこそ、彼は怒りと動揺を隠しきれず、顔を引きつらせたまま私を睨みつけた。

「清乃、君、何をふざけたことを言ってる!

俺がちょっと美慧を庇ったくらいで、ここまでやるなんて大人気ないにもほどがある。

まさか、君……他の男にでも気があるのか?

本気で思ってるのか?安栄ホールディングスの会長が、君なんかを本気で愛するとでも?」

彼の口調から滲むのは、見当違いな嫉妬と、浅はかな自信。

まだこれは駆け引きの一環で、私が本気で離れるはずがない——そう信じて疑っていないのだ。

だが、私は、もう十分すぎるほどに目が覚めていた。

「おじいさんは、私を三十年育ててくれた。あなたと出会ってからは……まだ十五年も経っていないわ。そんなおじいさんの命を、あなたとの駆け引きに使うと思う?」

その静かな一言に、彼は言葉を失い、唇をわななかせた。

病室の空気が、ぴたりと凍りつく。

もう何を言っても無駄だ。会話が成立する余地すら感じなかった。

私は迷いなく、病院の警備に連絡を入れた。

やがて警備員たちが駆けつけ、実也は美慧の肩を抱きながら、苛立ちを隠さずに病室を後にした。

「証拠なんて、どうせ持ってないんだろ?法廷に出たって、意味なんかないさ。

せいぜい後悔して、俺のところに泣きついてくるんだな!」

美慧は、振り返りざまに私へと鋭い視線を投げつけた。あざけるような、挑発するような目つきだった。

ふたりが去ると同時に、部屋には深い静けさが戻った。

祖父が小さく咳き込み、私ははっと我に返った。

頭には包帯、身体には検査用のコードがいくつも貼りついている。

私の記憶の中では、いつも背筋がしゃんと伸び、どんなときも頼れる存在だった祖父が、今はまるで風に揺れる蝋燭のようにか細く見えた。

私はそっとその手を取り、じんわりと熱を感じながら、目に涙を浮かべた。

幼い頃、両親を亡くし、人との関わり方もわからなかった私を、無償の愛で包み、導いてくれた人。

今の私があるのは、すべて祖父のおかげだった。

祖父は、すべてを悟っているようだった。

何も語らず、ただ静かに私の
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