若子はうつむいたまま、とても悲しそうな顔をしていた。その不安な気持ちに気づいた千景は、そっと彼女の肩を抱き寄せる。「暁に会いたいか?本当に我慢できなかったら、俺が連れて行ってあげるよ」若子は首を振る。「ううん。会いたいけど、今はもう寝てるし、今行ったら起こしちゃうでしょ。修の家にいるなら、ちゃんと世話してもらえるってわかってる。ただ、ただね―」「どうしたの?」若子は涙をためた目で彼を見上げる。「なんだか、私がいなくても、暁は平気なんじゃないかって思っちゃって......ちゃんとご飯も食べて、よく眠って、私がいなくても大丈夫そうで。そんな風に考える私、ひどい母親かな。できれば、私がいなくなっても子どもが泣かない方がいいって思ってたのに、本当に泣かないと、今度はなんだか寂しいの」千景は彼女の背中を優しく撫でて慰める。「若子、それは普通のことだよ。母親が子どもを愛するのは当たり前なんだから。こういうのは、みんなが通る道だよ。すぐ慣れるから、大丈夫」「本当に......?私、子どもがそばにいなくても平気になれるのかな?」「子どもはちゃんとそこにいるし、またすぐ会えるよ。三ヶ月したらまた一緒に暮らせるし、今だけ我慢すればいい。完全に失ったわけじゃないから」「若子、これが君の選んだ道だろ?最初は辛いけど、俺がちゃんとそばにいる。だから乗り越えよう」若子は小さくうなずいて、「ありがとう、本当にありがとう」と何度もお礼を言った。千景は彼女の涙をそっと拭い、「もう、泣かないでくれる?若子」その言葉に、若子はちょっと恥ずかしそうに「うん」と小さな声で答える。「もう泣かない。寝よう?」二人は布団に入って、お互いに向かい合った。千景はもう一度、若子の涙を指で拭ってやる。二人は静かに見つめ合ったまま、しばらく沈黙が続く。千景は、若子がまだ子どものことを気にしているのがわかるから、無理に先を急ごうとはしなかった。ただ、こうして寄り添い続ける。「冴島さん......」若子は彼の顔にそっと手を伸ばし、「ねえ、続き......したいなら、私は大丈夫だから。拒まないよ」千景は彼女の手をそっと握り、手のひらにキスをした。「俺は、君が本当にリラックスして、幸せなときに......そのときにもらいたい。今はまだ悲
夜もすっかり遅くなり、若子と千景は手をつないで家へ帰った。けれど、家に戻ると若子の心はどこかぽっかり空いたような寂しさに包まれる。―暁がいない。どうしても子どもを抱きしめたくてたまらなかった。「若子、お風呂入って寝ようか?」「うん......」二人で目を合わせるけれど、なぜか言葉が続かずに沈黙してしまう。千景は、若子のためらいに気づいたのか、「俺、隣の部屋で寝ようか?」と提案する。若子は少し勇気を出して、「一緒に寝ようよ。もう隣の部屋で寝ることないよ」と、彼の袖をそっと引っ張った。―だって、二人の気持ちはもう決まっている。今さら別々のベッドなんて意味がない。「じゃあ、私が先にお風呂入るから、あなたもそのあと入ってね」この家には二つバスルームがあって、一つは若子の部屋に、もう一つは外にある。「わかった」千景は彼女の頭を優しく撫でて、部屋を出ていった。若子はパジャマを手にしてバスルームへ向かう。あたたかなシャワーを浴びながら、顔も体も丁寧に洗う。ふと下を向くと、お腹の妊娠線が目に入った。少し硬くて、ザラザラしているのを、なんとなく指でなぞってみる。思わず、くすっと微笑んでお腹を軽く叩いた。修以外の男性と一緒になるのは初めて。こんなに間が空いたのも初めてで、どうしても少し緊張してしまう。もう一度、妊娠線に触れてみる。千景はきっと気にしないだろう。彼女自身も気にするべきじゃないってわかってる。でも、彼と迎える初めての夜だから、できるだけ綺麗な姿でいたい―彼女はついそう思ってしまう。でも、世界に完璧な人なんていない。自分の体を心配してばかりいるのは、相手の愛まで疑うことになる。それは違う。千景は、そんなつまらない男じゃない。ゆっくり時間をかけてお風呂から出ると、清潔なパジャマに着替えて寝室へ戻った。千景はもうベッドに横になっていて、すでにお風呂も済ませていた。少し緊張しながら若子はベッドへ行き、そっと布団をめくって千景の隣に腰かける。千景は、そっと肩を抱き寄せ、キスをしようと顔を近づける。けれど若子は、ふと思い出して体を起こした。「どうした?体調悪い?」千景が心配そうに聞く。「修に電話して子どもの様子を聞いてもいい?暁に会いたくて......」別に彼を拒絶し
夕食を終えたあと、若子と千景はソファで並んで座っていた。若子は彼の腕の中に身を預け、二人で一本の映画を観た。映画が終わるころには、外はすっかり夜になっていた。ふと若子が顔を上げて、千景の横顔をじっと見つめる。指先でそっと彼の顎をつついてみた。「どうした?」千景が少し顔を傾けて尋ねる。この子、ほんとにやんちゃだな―そんな優しい表情だった。「ちょっと外にお散歩行かない?」「いいよ」映画も見終わったし、と千景はパソコンを閉じて脇に置き、彼女をしっかりと腕に抱く。「お姫様だっこがいい?それともおんぶがいい?」「おんぶがいい」若子は甘えた声で答える。「はいはい」千景が腰をかがめると、若子は嬉しそうに彼の背中に飛び乗った。そのままエレベーターに乗って下まで降り、二人はマンションの近くの公園を歩いた。夜の公園は、散歩する人や犬連れの家族で静かににぎわっている。若子は千景の腕にしっかりしがみつき、手をつないだまま、花壇沿いにゆっくり歩く。夜風が心地よくて、いつもより世界が穏やかに思えた。「ね、ちょっと聞いてもいい?」「何?」「あなた、子ども欲しいと思う?」千景は不意に立ち止まる。若子は不思議そうに彼を見上げる。「どうした?」「今まで、こんなこと考えたことなかった。大切な女の人ができて、その人と結婚して、子どもを持つ―そんな未来、俺には縁のない話だと思ってた。だから、今聞かれても、すぐには答えが出ないんだ」ずっと、そんな未来は自分には似合わないと思ってきた。もし想像したら、それが自分の弱点になりそうで―弱くなるのが怖かった。若子はそっと彼の胸に頭をもたせかける。「もし、あなたが父親になったら、どんなふうになるんだろう?」千景は彼女の顔を両手で包み、じっと見つめる。「今の俺は、もう十分幸せだ。もし父親になれたら......きっと、今の何倍も幸せになれると思う」かつて命がけの世界で生きてきた千景。今はこんなにも愛してくれる若子がそばにいて、もしかしたら、これから自分の子どももできるかもしれない―「パパ」って呼ばれる日が来るかもしれない。ただ想像するだけで、胸が熱くなる。こういう普通で、地味で、どこにでもある幸せを、昔はバカにしていたこともあった。
夕食ができあがると、千景はすべての料理をテーブルに並べた。「若子、ごはんできたよ。何ぼーっとしてる?」若子はハッと我に返り、ソファから飛び起きて千景のもとへ駆け寄る。「ほんと、あなた料理うますぎ」そう言いながら、彼の腰に腕を回し、背伸びしてほっぺにキスをした。千景も、そっと彼女の額にキスを返す。「どうした?食べないのか?」「違うの、なんか急にぎゅっとしたくなって」若子はそう言って彼を離れ、テーブルにつく。料理の香りを胸いっぱい吸い込んで、幸せな気持ちがあふれてくる。千景も席に着き、若子の茶碗にどんどんおかずをよそってあげる。「たくさん食べなよ」「冴島さん」若子は潤んだ目で彼を見上げ、ちょっと甘えた声で呼ぶ。「なに?」「結婚の日取り、決めようよ」千景は箸を置き、優しく微笑む。「どんな日がいいと思う?」「カレンダー見てみるから、ちょっと待って」若子はポケットからスマホを取り出して、日付を確認する。どうやら、二ヶ月後に一日だけ、とても良い日があるらしい。千景は静かに彼女を待ち、若子はスマホをテーブルに置く。「すぐに結婚する?それとも良い日を待つ?カレンダーだと、二ヶ月後が一番いい日なんだって」千景は優しく頭を撫で、「そういう伝統、大事にしてるんだね」と微笑む。若子は彼の手を握りしめ、「やっぱり特別な日にしたいの」と笑う。実際、どんな日でも二人でいられるなら構わないはずなのに、こうして目の前にその日が近づいてくると、やっぱり幸先のいい日を選びたくなる。それが人の気持ちというものなのだ。二ヶ月後のその日は、夫婦円満になるって言われている。たとえ迷信でも、やっぱり良い兆しが欲しい―それが今の正直な気持ち。「バカだな、俺は外国人なんだぞ。結婚するには、先にいろいろ書類が必要なんだ。アメリカに婚姻歴がないって証明もしなくちゃ」「そっか、そうだよね......どうしよう」「心配しないで。アメリカにも知り合いがいるから、書類のことは任せて。全部揃うまでに、一、二ヶ月はかかると思うけど、ちょうどその頃がいい日だろ?」「うん、それが一番いいね。もし間に合わなくても、その日に式だけ先にやって、書類はあとででもいいよ」結婚ってただの紙切れかもしれない。でも、ちゃんと夫婦に
再びこの家に戻ってきて、若子は思いがけないほど懐かしさを感じた。最初はもう戻ってきたくないと思っていたのに、今は千景がそばにいるから、もう怖くなかった。ふと、かつて暁と一緒にここで暮らしていたことを思い出す。今、暁はもういない―修のもとにいる。そのことを考えると、胸が締めつけられるほど寂しくなり、思わず泣きそうになる。同じ街にいるのに、会いたいときにすぐ会いに行けるのに、それでも身近にいないと心にぽっかり穴が開いた気持ちになる。自分の身体の一部みたいな存在―母親として、そう思うのは当たり前だ。そんな若子の気持ちを察して、千景がそっと抱きしめてくれる。「どうした?元気ない?」「違うの。ちょっと暁のこと思い出しただけ。前は一緒にここで住んでたから、部屋にあるベビーベッドを見るたび、彼のこと思い出しちゃう」「ベビーベッド、片づけようか?また暁が戻ってきたときに出せばいい。毎回見るたびに悲しくなるのは、かわいそうだよ」「うん......お願い」千景はベビーベッドを部屋から運び出して、別の部屋に片づけてくれた。戻ってくると、「今夜、何が食べたい?俺が作るよ」と優しく声をかける。若子はふと、初めて千景と出会ったころを思い出す。「覚えてる?昔は、あなたが私にご飯作ってって言ってたよね」「もう昔の話さ」千景は肩を抱き、「これからは俺が君に作ってあげる。ヒモ男でもなんでも、君のためなら喜んでやるよ」「ヒモ男は楽して暮らすものじゃない?」と若子が冗談めかして言うと、千景は少し考えて、「じゃあ、君の旦那さんになろうかな」と小声でささやき、優しく彼女の耳たぶに噛みついた。若子の顔は耳まで真っ赤になる。どうしてだろう、そんな言葉を聞くと、妙に照れてしまう。彼の声や仕草には、隠れた意味がありそうで、ドキドキが止まらなかった。千景からは、ほんのりと煙草の匂いがして、それがまた心地よかった。「さて、お姫様。冗談はこのくらいにして、本当に食べたいものを教えてよ。何でも作るから」「あなたが作ってくれるものなら、なんでも大好き。私は好き嫌いないし」カップ麺だって、千景が作ってくれたらおいしいと思える。「子豚ちゃんは、育てやすいな」千景が頭を優しく撫でる。若子はむくれて、「私、子豚ちゃんじゃないもん
若子の仕事が終わる前、千景は車で会社まで迎えに行く準備をしていた。今の千景は、自分の安全にとても気を使っていて、運転も慎重そのものだった。もう絶対に自分が危ない目に遭うわけにはいかない―そう強く思っている。ふと、バックミラーに映る一台の車が気になった。曲がるたびに、その車も同じようについてくる。スピードを落とせば、相手もゆっくりになる。千景の全身が一気に緊張し、眉をひそめてハンドルを握る手に力が入った。けれど、その車は突然別の道へ曲がり、交通の波に紛れて消えてしまった。ホッと肩の力が抜ける。きっと考えすぎだ、と自分に言い聞かせる。誰かに追われている気がしてしまうのは、きっと昔の職業病のせい。カフェでも、車を運転している時でも、つい周りを警戒してしまう。でも、今はB国で、若子と一緒にいる。もう昔みたいな暮らしはしない。普通の男として、普通に生きていこうと決めているのだから。仕事が終わり、若子が会社のビルから出てくると、千景は少し離れた階段にしゃがんで、煙草をふかしていた。その背中を見つけた瞬間、若子はホッと胸をなで下ろす。仕事帰りにこうして彼がいてくれる―それだけで幸せを感じた。千景に近づくと、こっそり後ろから驚かそうと駆け足になり、そっと歩みをゆるめて、いきなり背後から抱きついた。その瞬間、千景の体が条件反射で動く。思わず立ち上がって、若子を投げ飛ばしそうになった―けれど、彼女のほのかな香りに気づき、若子が叫ぶと同時に、慌てて抱きとめ直した。危うく地面に叩きつけるところだった。顔面蒼白の若子が「冴島さん......」と小さくつぶやく。千景は動揺しながらも、すぐに彼女をしっかり抱きしめて、背中を優しく撫でた。「ごめん、今の本当にびっくりさせたよね?」千景の手からは、煙草がすっかり地面に落ちていた。火はまだ消えず、煙が風に乗って遠ざかっていく。若子は怖かったけれど、千景の過去を思えば、こういう反応も仕方ないとわかっていた。自分が軽率だったと、ちょっぴり反省する。「私は大丈夫だよ。驚かそうとした私が悪かったの、ごめんね。今度から気をつける」「違う、若子。俺が悪いんだ」千景は、顔を彼女の首元にうずめる。「俺の反応が大きすぎて、危うく君を傷つけるところだった。本当にごめん。これからは、ちゃんと