Masuk「――数年もすれば、世間に揉まれて嫌でも分かる。その頃には、もう少し現実を知るだろう」エレベーターの扉がゆっくりと開いた瞬間、星は中へ乗り込もうとして、勢いよく飛び出してきた人影にぶつかりそうになった。「......彩香?」息を切らせた彩香が顔を上げ、驚いたように星を見つめる。「星!無事だったのね!いったいどこに行ってたの?」そのすぐ後ろから、長身で細身の青年――仁志も現れた。「中村さんが何度電話しても繋がらなかったんです。それであなたの車を位置検索したら、ずっと同じ場所に止まっていて......何かあったんじゃないかと、ちょうど迎えに行くところだったんです」彩香はようやく息を整え、胸をなで下ろす。「ほんとに心配したのよ。あの絵の情報を見つけたから、すぐに伝えようと思ったのに――電話がまったく通じなくて。それに、あんな土砂降りの中だったから......もし事故でも起きていたらと思って」星はポケットから携帯を取り出し、画面を見て小さくため息をつく。電源が落ちていた。どうやら充電を忘れていたらしい。「ごめんなさい。車が途中で故障して、そこで足止めを食らってたの」仁志の視線が、彼女の肩に掛けられた上着に止まる。「......そのコート、どうしたんです?」星は特に隠すこともなく答えた。「帰る途中で雅臣と清子に会ってね。ちょうど通りかかって助けてもらったの」手短に経緯を話すと、彩香が小声でつぶやいた。「......なんて縁起の悪い」そしてすぐに表情を改め、「とにかく、星、早くお風呂に入って体を温めて。風邪ひいたら大変よ」「うん」スタジオに戻った星は、自分専用の休憩室に入り、新しい服を取り出してシャワーを浴びた。浴室から出てくると、テーブルの上には、湯気を立てる白湯が置かれていた。「......あったかい」胸の奥が、ふっとやわらかくなる。彩香はいつだって気が利く。星は湯呑みを手に取り、ひと息に飲み干した。白湯の熱が喉から胸に染みわたり、身体の芯まで温まっていく感じがした。休憩室を出ると、彩香が数枚の資料を手に、仁志と何か話し込んでいた。「彩香、さっきの白湯、ありがとう」彩香は顔を上げて笑った。「私じゃないの。
車内の空気が、一瞬、凍りついた。星の言葉はあまりにも大胆で、まるで清子など眼中にないと言わんばかりだった。本来なら、弟子同士の諍いなど見て見ぬふりをするはずのワーナー先生も、思わず眉をひそめる。彼はゆっくりと星に視線を向け、低い声で言った。「星野さん――才能や実力だけが、すべてではないよ。私もこれまで多くの天才音楽家を見てきたが、どんなに優れた者でも、時に運や状況に足を引かれ、力を発揮できぬまま敗れていくことがある。逆に、天賦の才に恵まれずとも、幸運や縁に導かれて頂点に立つ者もいる」彼は少し間を置き、「――運もまた、実力のうち」と締めくくった。その言葉の裏にある意図を、星はすぐに察した。清子はワーナー先生に出会った時点で運を掴んだ。星は確かに実力はあるが、運命の風向きでは劣る――そう言いたいのだ。だが星は、怒りもしなかった。ただ、微笑んで言う。「......ワーナー先生のお言葉、必ずしも賛同はできません」その場の空気が、かすかに震えた。ワーナー先生は、目を細めて星を見た。自分に正面から反論する若者など、久しくいなかった。「では、どういう考えかな?」星は濡れた髪の滴を指で払いながら、静かに言葉を紡ぐ。「もし客観的な理由で実力を出せないというなら、それはまだ本当の実力ではないと思います。本物の才能と力は、どんな状況でも自分を証明できるものです。確かに、運も実力の一部だと私も思います。でも――絶対的な実力の前では、どんな運も最後には膝をつきます。私はそう信じています」ワーナー先生の青い瞳がわずかに光を帯び、その目に冷ややかな鋭さが宿った。助手席の清子は、呆然としたまま息をのんでいた。――この女、何を言っているの?目の前の人物が誰なのか、わかっているの?ワーナー先生は、葛西家も雲井家も一目置く存在だ。そんな人に面と向かって意見するなんて、常識では考えられない。清子の心の奥で、冷たい笑いが弾けた。――いいわ、そのまま自滅すればいい。どんな後ろ盾があろうと、音楽の世界では、ワーナー先生の一言のほうが、よほど重いのだから。少しの沈黙ののち、ワーナー先生がようやく口を開く。「......いいだろう。では、君の言う天賦と実力というもの
「雅臣、まずは顔を拭いて」清子が差し出したタオルに、雅臣は首を振った。「俺は平気だ。それより、星に渡してやってくれ」清子の笑みが、ほんの一瞬だけ凍りつく。けれどすぐに取り繕い、星のほうへタオルを差し出した。「星野さん、どうぞ。風邪をひいたら大変よ」星は淡々と受け取り、「ありがとう」と短く言って、濡れた髪と頬を拭った。全身が雨で冷え切っている。タオルなど、ほんの気休めにしかならなかった。シートに身を沈めた瞬間、体の芯から寒気がこみ上げ、思わずくしゃみが出る。助手席の清子が、さも気遣うような声をかけた。「星野さん、よければ私の上着を貸しましょうか?」星はふと眉を動かした。――さっき彼女を見たとき、ワンピース姿だった。上着なんて着ていなかったはず。ということは、いま身に着けているのは......星の視線が静かに清子へと移る。彼女の肩には、見覚えのある男物のジャケットがかかっていた。星の唇がわずかに弧を描く。冷ややかで、ほとんど笑っていない笑みだった。出会ったときは突然の雨に混乱していて、なぜ雅臣がここにいるのか考える暇もなかった。だが――こうして見ると、彼は清子とワーナー先生を送迎していたのだろう。その程度のこと、いまさら詮索する気にもなれなかった。星は柔らかく言った。「......そうね。じゃあ、借りるわ」清子の瞳の奥に、一瞬、濁った光が走る。それでも表面上はにこやかに微笑み、雅臣に向き直った。「雅臣、星野さんが寒そうにしてるから......あなたの上着を貸したいの。いいかしら?」「構わない」彼の短い返答に、清子は作り笑いを浮かべながら上着を星へ差し出した。「星野さん、こんな大雨の中どうしてここに?ワーナー先生に会いに来たのかしら?もしそうなら、私に言ってくれれば良かったのに。私たち、一応顔見知りでしょう?ワーナー先生への伝言くらいなら喜んで――万が一、あなたに何かあったら、ワーナー先生にも私にも責任があるわ」その言葉に、ワーナー先生がちらりと星を見たが、すぐに視線を戻し、沈黙を守った。星は静かに口を開く。「......小林さん。私とワーナー先生が同じ場所にいるだけで、ワーナー先生に会いに来たって
「車、故障したのか?」運転席の窓から身を乗り出し、雅臣が声をかけた。星は視線も上げず、手を動かしたまま答える。「......ええ、ちょっとね」風と雨が入り乱れ、びしょ濡れの星は見るからに惨めなほどだった。「俺の車に乗れ。送っていく」「いいわ、友達を呼ぶから」「ここから市街地まで、車で一時間以上かかる。この雨じゃ、向こうに着くには二時間以上だろう」雅臣は空を見上げ、低く唸るように言った。「今日は日が落ちるのも早い。ここは郊外だ、ひとりでいるのは危ない」星は彼と関わりたくなくて、冷ややかに返す。「大丈夫。気をつけるから」それでも雅臣は言葉を引かず、突然ドアを開けて車を降りた。黒い傘を差し、星の方へと歩み寄る。星は思わず身構えたが、雅臣は何も言わず、ボンネットの前に立ってエンジンを覗き込み、雨の中、黙々と手を動かし始めた。二人の肩を覆う傘は、上半身を守るのがやっとだった。雅臣は片手で傘を持ち、片手でエンジンを確かめている。その不器用な様子に、星はわずかに眉を寄せ、ため息をつくようにして言った。「......貸して。私が持つわ」「......ああ」雅臣は短く応じ、傘を渡した。雨が傘を叩き、滴が細かく跳ねる。しずくが、男の端正な横顔を伝って落ちていった。ひととおり確認を終えると、雅臣はボンネットの奥を指さした。「完全にエンジンがやられてる。今俺たちにできることはない。整備に出さないと」星は眉をひそめた。「俺が送っていく。気温も下がってきた、ここでひとりで待ってたら風邪をひくぞ」一拍置いてから、雅臣は穏やかに続ける。「このところ、コンクールや音楽会の準備で忙しいだろう。体調を崩したら元も子もない」星は少し考え、うなずいた。「......じゃあ、お願い。市内まで送って。あとは友達に迎えに来てもらうわ」雅臣は彼女を見つめ、ふと低く言った。「星......俺たちには翔太がいる。これからも完全に縁を断つなんて、無理だろう。おまえはいつも、俺が償うべきだと言う。なら――これをその償いの一つだと思えばいい」星は無表情のまま言葉を返す。「神谷さんは優秀なビジネスマンね。あなたの償いも、すべて値札つき
「もし翔太が、また神谷家の手でいなくなるようなことがあれば――私は裁判を起こして、親権を取り戻すわ」そう言い切ると、星は雅臣の返事を待つこともなく、背を向けて去っていった。星は本当に忙しかった。音楽会の準備に追われる一方で、さまざまな演奏会やコンクールにも出場していた。その日、星はあるコンクールの会場で、清子の姿を見つけた。音楽業界で箔のつく大会といえば数えるほどしかない。そこで彼女と顔を合わせても、もはや驚きはしなかった。周囲の人々もすぐにざわめきはじめる。「えっ、あれって小林清子じゃない?彼女も出るの?」「聞いた話だと、ワーナー先生の推薦があるから、予選を受けなくていいらしい」「ワーナー先生の弟子ってこと?じゃあ、もう勝ち目ないじゃん......」「まったく、どうして毎年こういう化け物級の天才が出てくるのよ!」清子はそのワーナー先生の隣に立ち、大会責任者と話し込んでいた。星は一瞥しただけで、視線をそらす。この大会では、著名な音楽家から推薦を受けた者は、予選を免除されることがある。さらに運が良ければ、直接本戦に進める場合もあった。一見、不公平に思えるが、実際には師の側にとって大きな賭けだ。推薦した弟子があっさり敗退でもしたら、疑いの目はその師に向けられ、評判にも傷がつく。だからこそ、本当に信頼できる弟子でなければ、どんなに有名な師でも軽々しく推薦はしない。予選が始まろうというこの時間に清子がようやく姿を見せたということは、どうやら締め切りに間に合わなかったらしい。だがワーナー先生の推薦さえあれば、彼女はそのまま本戦に進める。今回の大会は三年に一度の大舞台で、業界でもっとも権威あるもののひとつだ。名師の推薦といえども、せいぜい予選免除まで。決勝に直行できるほど甘くはない。なぜなら、決勝の上位入賞者は、海外の演奏家たちと国際親善コンサートで共演することになる。この国際大会は毎回、世界中の注目を集め、名を広める絶好の機会でもあるのだ。近年、Z国の音楽界は人材が乏しく、団体戦では奏が平均点を引き上げなければ、最下位に沈むところだった。川澄奏が名を上げたのも、この大会がきっかけだった。だが今年、奏はもう出場しない。音楽会が終われば、父との約束どおり
エンジンがかかると、雅臣がハンドルを握りながら星に尋ねた。「家に戻るか?それとも、スタジオへ?」星は短く答えた。「スタジオ」雅臣は小さく「わかった」と言い、ハンドルを切った。バックミラー越しに星の横顔を見て、ふと声を落とした。「......機嫌が悪いみたいだな」星の返事は冷たく、皮肉が滲んでいた。「あなたには関係ないわ。気にすべきなのは、私の気分じゃなくて――清子の病気でしょう?もし音楽会の前に発作でも起こしたら、あなたがあれほど尽くしたことが全部無駄になるわよ」雅臣は、言葉に潜む棘を感じ取ったが、表情を変えず前を見つめたまま言った。「昨日、また清子を精密検査させた」星は首を向ける。「結果は?悪化?それとも、回復?」「......葛西先生の薬が、よく効いている」星は薄く笑った。「つまり、良くなったってことね」「清子は毎週、定期検査を受けている。当初、俺も彼女の病気を信じていなかった。だから専門の医師やチームに依頼して検査させたが、どの結果も同じだった」星は静かに息を吐き、淡々と口を開いた。「じゃあつまり、葛西先生が私を助けようとして、あなたをだましたって言いたいの?」「......そういう意味じゃない」星は冷ややかに笑ったきり、もう口を閉ざした。――自分で目を背けている人は、他人がどんなに真実を見せようとしても意味がない。たとえ清子の本当の病状を突きつけたところで、雅臣はきっと反射的に彼女をかばうだろう。車内には、重い沈黙が落ちた。後部座席の翔太が、母と父を交互に見つめる。何か言いたげに唇を開いたが、結局、声にはならなかった。しばらくして、雅臣の低く沈んだ声が響いた。「......本物の病気だろうと偽物だろうと、音楽会が終われば、俺が彼女に負っているものは、すべて清算する」星は表情を変えず、何も言わなかった。車は静かに星の新しいスタジオへ向かって走る。途中、雅臣は何度か言葉を探すように口を開きかけたが、そのたびに飲み込み、また黙り込んだ。やがて、翔太が小さな声で言った。「ママ......ぼく、ママのところに、しばらく泊まっちゃだめ?」星が横を向く。「どうして急にそんなことを?」「パパ、いつも家にいない