共有

第 10 話

作者: 水原信
海咲は、自分が彼に道を譲り、望む自由を与えようとしているのだから――彼は喜ぶはずだと、そう思っていた。

それなのに、彼は怒っている。

たぶん、離婚を切り出されたことでプライドが傷ついたのだろう。

彼のためを思っているのに。どうして喜ばないの?それとも、私が提案したことで、男のプライドが邪魔をしてるの?

州平は海咲から視線を外し、冷たい声で言った。「時間だ。仕事に戻れ」

海咲が時計を見ると、ちょうど九時。

始業の時刻だった。

思わず苦笑が漏れる。

まるで精密機械みたいに、時間に正確。

――一秒も気を抜くなってことね。ほんと、休ませてくれない人。

去っていく州平の背中を見送りながら、全身を包むような冷たい空気を感じた。

今の二人の間にあるのは、上司と部下という関係だけ。

海咲はそれ以上何も言わず、静かにオフィスを出た。

すると、清が待っていた。「温井さん、こちら、社長からの処理依頼です」

渡されたのは、山のような書類の束。

古い紙から舞い上がる埃に顔をしかめ、思わず咳き込む。

「……もう埃だらけ。いったい、いつの書類なの?」

清は困ったように答えた。「わかりません。社長のご指示です」

周囲の社員たちは、同情めいた視線を海咲に向けていた。

社長の怒りを買って、こんな雑務を押し付けられたんだろう――

誰もが、そう思っていた。

「社長に冷遇されてるんじゃない?」なんて、陰で囁く声まで聞こえてくる。

海咲自身も、州平の意図がまったく読めなかった。

ただ一つ言えるのは、いつもと違って、どう見ても嫌がらせのような仕事を次々と押し付けてくることだった。

その時、助手の田中佳奈が現れた。

シワだらけのA4用紙の束をドンと机に置く。

「温井秘書、こちらの重要書類を五十部、印刷お願いします。社長が必要とされています。丁寧に扱ってくださいね」

佳奈の目には、あからさまな軽蔑と嘲りが浮かんでいた。

彼女は海咲が落ちぶれたと思い、自分が昇進する好機だと感じていた。

海咲は書類の山を見て、絶句した。

――これを全部?一晩で?冗談じゃない。

佳奈が冷笑を浮かべる。「温井秘書の能力なら、これくらい朝飯前ですよね?」

二人の間には、昔から見えない火花が散っていた。

佳奈はずっと海咲をライバル視していた。

州平と長年一緒に働いてきた海咲への信頼関係――それが羨ましくてたまらなかったのだ。

彼女だって能力は高いはずなのに、どうしても海咲には敵わない。

今回の件で海咲が失脚したと知って、内心ほくそ笑んでいた。

あの人は顔がいいだけ。今度こそ思い知らせてやる。

海咲は佳奈の敵意を知っていた。

それでも、これまでは州平のために、耐え続けてきた。

無駄な争いを避けるために、何も言わずに。

――けれど、もう我慢はやめよう。

我慢すればするほど、相手はつけあがるだけ。

海咲は書類を見つめ、冷ややかに言った。「それ、本当に重要書類なの?もしそうなら、もっと丁寧に扱うべきじゃない? 私は他にもやることがあるの。時間が足りないわ」

佳奈は一瞬、言葉を失い、すぐに顔をしかめて怒鳴った。「社長の指示に逆らうつもり?」

「私は、自分ができる範囲の仕事しか引き受けません」

「……大胆なことを言うわね、温井海咲。クビになりたいの?」

佳奈の声は完全に怒りに染まっていた。

海咲はゆっくり立ち上がり、手にしていた書類を机の上に放り出した。

そして佳奈を見上げ、静かに言った。

「じゃあ、クビにしてもらえばいいわ。社長に伝えて。今日は欠勤するって。私がいなければ会社が潰れるかどうか、試してみれば?」

そのままバッグを手に取り、迷いなく会社を出て行った。

佳奈は怒りに震えながらも、口元を歪めた。「ふふ……面白いわね。今すぐ社長に報告してやる」

彼女は勝ち誇ったように社長室へ向かう。

――誰も社長に逆らったことはない。

だからこそ、海咲は終わりだと信じていた。

ドアをノックし、「社長」と呼ぶ。

「何か用か?」州平は顔を上げず、低く冷たい声を返す。

佳奈は少し緊張した様子で報告を始めた。「社長、温井が勤務時間中に無断で会社を出て行きました。それだけでなく、社長が監視しないと会社が潰れる、なんて暴言まで……。これは社員全員が見ていました。彼女は最近、本当に目に余ります。社長を軽んじて――この際、解雇すべきかと……」

「……出て行け」

その一言だけだった。

佳奈は凍りついた。

どうして?怒らないの?

返ってきたのは、氷のように冷たい沈黙だけ。

怒りは、彼女自身にまで及んでいると気づいた時、佳奈の背中に冷たい汗が流れた。

無言のまま社長室を出るしかなかった。

会社を出た海咲がエレベーター前に立つと、ちょうどドアが開いた。

白衣を着た長身の男性が、医療バッグを手に現れる。

「お義姉さん、どこ行くの? 兄さんが俺を呼んだんだ。怪我してるんだろ、ちゃんと治療しないと」

彼が州平の頼みで動くなんて、滅多にないことだった。

それだけ、州平が彼女を心配していたということだ。

海咲は彼を一瞥し、薄く笑った。

「私のことより、州平の体を診てあげた方がいいわ」

周囲の人々の視線など気にも留めず、海咲はエレベーターに乗り込んだ。
この本を無料で読み続ける
コードをスキャンしてアプリをダウンロード

最新チャプター

  • 奥様が去った後、妊娠報告書を見つけた葉野社長は泣き狂った   第 1705 話

    少女の死因は体育のランニングだった。彼女はちょうど生理中で、教師に見学の許可を求めた。だが、教師はそれを認めなかった。彼女は無理をして走り続け、結果として大量出血を起こし、救助が間に合わず亡くなった。それでも学校側は主張した。これは学校だけの責任ではなく、少女本人、さらには家庭にも大きな原因があるのだ、と。「他の生徒は誰も問題なく走っていたのに、なぜ彼女だけがこうなったのか?」今日花は資料を見ているだけで、怒りがこみ上げてきた。「こんな卑劣な学校が、本当にあるなんて!」尚年は静かに彼女をなだめた。「落ち着いて」今日花は深く息を吸い、しばらくしてから、またため息をついた。

  • 奥様が去った後、妊娠報告書を見つけた葉野社長は泣き狂った   第 1704 話

    「これらの弁護士資料は、誰のものですか?」と警察が尋ねた。今日花は答えた。「私のです。最近、ある大会に参加していまして」事情を説明すると、職員は資料を今日花に返し、最後に一言だけ注意した。「会社内に、こうした弁護士関連の資料を置くのは控えてください」そう言い残して、彼らは去っていった。男は信じられない様子で、思わず彼らを呼び止めた。「ちゃんと調べたんですか?あいつは弁護士ですよ?弁護士が社長をやるなんて、許されないはずでしょう?」男が指差した方向を見て、警察たちは尚年に目を向けた。すると、不思議そうな表情を浮かべた。まるで、理解しがたい質問をされたかのようだった。「彼の弁護士

  • 奥様が去った後、妊娠報告書を見つけた葉野社長は泣き狂った   第 1703 話

    だが、尚年は彼女に自分のために突っ走らせたりはしなかった。彼は今日花を背後にかばい、冷たい顔で相手たちに向かって言った。「そういうことなら、警察に調べてもらおう」今日花は驚いたように彼を見つめた。彼女も「身にやましいことがなければ何も怖くない」という理屈はわかっている。尚年が後ろめたくないなら、恐れる必要はない。だが、彼らはどう見ても因縁をつけに来た連中で、しかもこんな時期だ。もしかすると、負けた相手陣営が仕掛けてきたのかもしれない。たとえ最終的に何も出てこなくても、きっと世間の世論を利用して大々的に攻撃してくるだろう。尚年は――彼女のために、自分をまるで顧みていなかった。

  • 奥様が去った後、妊娠報告書を見つけた葉野社長は泣き狂った   第 1702 話

    「それに、ここには監視カメラもある」尚年は冷然と言い放った。「お前が小林雪菜のために鬱憤を晴らしたい気持ちは分かるが、はっきり言っておく。浅川家と小林家の問題に、お前のような部外者が口を出す資格はない。さっきの一杯は警告だ。俺の一線を踏むな。調子に乗って、挑んでくるな」今日花――それが、彼の譲れない一線だった。誰にも傷つけさせない。誰にも、泣かせない。彼は、誰であろうと今日花を傷つけ、侮辱することを許さない。「皆さん、聞きました?」麗華は声を張り上げた。「酒を使って私を脅すですって。たった数言話しただけで、こんな仕打ちを受けるなんて、誰だっておかしいと思うでしょう?」「浅川、あんたみ

  • 奥様が去った後、妊娠報告書を見つけた葉野社長は泣き狂った   第 1701 話

    彼女と尚年――二人は、他人の視線など気にする必要はなかった。「あんたたいが長く続くと思ってるの?忘れないで。あんたたちの身分は、最初から対等じゃない。もし本当に気にしていないなら、どうして浅川社長はこんな社交の場に頻繁にあんたを連れ出すの?結局のところ……気にしてるってことよ」今日花は、目の前の女が挑発的な視線を向けているのに気づいた。同時に、その女の持つ優雅さと気品にも目がいった。確かに、美しい女性だった。だが、その心はあまりにも醜い。今日花は低く、皮肉を込めて言った。「たとえ尚年が気にしていたとしても、それは尚年自身の問題でしょう。あなたに、何の関係があるの?それに、そう

  • 奥様が去った後、妊娠報告書を見つけた葉野社長は泣き狂った   第 1700 話

    「今日は州平たちと集まってたんだ。今日花、明日はお前を連れて社交界のパーティーに出る。欲しいものがあれば、何でも言って」上流のパーティーなど、今日花にとってはまったく重要ではなかった。彼女が大切にしているのは、ただ尚年のそばにいられること、それだけだった。だが尚年は彼女に世の中を見せ、皆に紹介し、あらゆる人脈を使って、彼女をもっと高い場所へ連れて行こうとしていた。一方で今日花が望んでいたのは、この小さな世界で穏やかに暮らすことだった。「あなたが与えてくれる友だちも、あなたがくれるものも、もう十分すぎるほど。私……こういうパーティーには、正直あまり興味がないの。行かなくてもいい?」颯楽

  • 奥様が去った後、妊娠報告書を見つけた葉野社長は泣き狂った   第 467 話

    「今すぐ!今すぐ会いたいわ!」淑子の返信を見て、美音は口元にうっすらと笑みを浮かべた。――やっぱり来ると思った。彼女はただここで待っていればいい。そう思いながら、ふと主寝室が気になって、ドアをそっと開けた。中は、しばらく使われていないようだった。だが、それでも彼女にとっては特別な空間。クローゼットを開けてみると、中には女性物のパジャマが何着も掛かっていた。タグの付いたままのものもあれば、すでに着用された形跡のあるものもある。中には、セクシーなキャミソールタイプのランジェリーまであった。彼女は一枚取り出して、自分の体に当てて鏡の前でくるりと回ってみた。――もし、この姿で州平

  • 奥様が去った後、妊娠報告書を見つけた葉野社長は泣き狂った   第 511 話

    これらはすべて、英理が事前に相手側に伝えて了承を得ていたことだった。英理は、海咲が葉野家でどんな日々を過ごしていたかをよく知っていた。お金持ちと結婚したからといって、幸せになれるわけじゃない。いくらお金があっても、結局は人の顔色を伺って暮らす毎日。そんな人生を、娘にはもう味あわせたくなかった。結婚を選ぶ上で、相手の両親の態度はとても重要だ。その点、相手の家とは長年の付き合いがあり、海外に移住してからも忘れずに連絡を取り続けていた。これこそが「誠意」だと、英理は信じていた。そして、彼らは海咲のことを大切にしてくれる。海咲がもし国外へ行けば、州平と会うこともなくなる。ふたりの最

  • 奥様が去った後、妊娠報告書を見つけた葉野社長は泣き狂った   第 518 話

    海咲は驚きのあまり、声を上げそうになった。けれど、完全に水の中に沈んだわけではなかった。州平は片手で彼女の腰を、もう片手で背中をしっかり支え、彼女の顔が水に浸からないようにしていた。おかげで水を飲むことはなかったが、服はすっかり濡れてしまった。プールの水は温かく、寒さは感じなかった。だが、海咲の心には怒りがこみ上げていた。濡れた睫毛の奥の大きな瞳が、じっと彼を睨みつけていた。水の中に落ちそうになるのを防ぐため、彼女は無意識のうちに彼の肩に手を回していた。「何をしてるの!」海咲の声には怒気が込められていた。州平は彼女の身体をプールの縁に押し付けたまま、腰を両手でしっかりと支え、視線

  • 奥様が去った後、妊娠報告書を見つけた葉野社長は泣き狂った   第 494 話

    州平は何の苦もなく海咲を抱き上げ、低く言った。「言うことを聞かないから、こうするしかない」海咲は少し怒りをにじませた。「あなた、強盗なの?無理やりすぎるわ!」「感情だけで突っ走るよりマシだ」「私のどこが感情的なのよ?」海咲は反発するように問い返した。州平の瞳は深く沈んだまま、淡々と言った。「前回のこと、もう忘れた?疲れすぎて、流産しかけた。それに今日も美音のことで相当動いてたろう」その言葉に、海咲は目を伏せ、昂ぶっていた感情を抑えた。「……それがタクシーで帰ることと、何の関係があるの?」州平は、すでに彼女を車のそばまで運んでいた。そしてそっと地面に下ろしながら、じっと目を見

続きを読む
無料で面白い小説を探して読んでみましょう
GoodNovel アプリで人気小説に無料で!お好きな本をダウンロードして、いつでもどこでも読みましょう!
アプリで無料で本を読む
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status