清墨はこの光景を遠くから見ていたが、その表情には何の変化もなかった。彼は充電器を手に持ちながら、その場に急いで向かうこともせずに静観していた。そのとき、彼の携帯電話が鳴り出した。画面に表示された発信者を確認すると、彼の瞳には冷淡な色が浮かんだ。電話に出ると、柔らかな女性の声が耳元に響いた。「お兄様、いつ帰ってくるの?」「しばらく戻らない」清墨の口調は冷たく、子どもたちや海咲と話すときの温和で紳士的な態度とはまるで別人のようだった。電話の向こうで一瞬の沈黙があり、その後、期待を含んだ声が続いた。「じゃあ、戻るときは教えてね。連絡をもらうか、誰かに知らせてもらえれば……」「分か
遠くから見えるのは、茶色のワンピースを着た肌の色が銅色に近い少女だった。彼女は軽蔑の眼差しを海咲に向け、少し離れた場所から立っていた。海咲は冷笑を浮かべながら言った。「脅かすつもり?」ネズミを投げてくるなんて、こんな幼稚な手段。少女は両腕を組み、目つきを鋭くして海咲の方へと歩いてきた。「違うわ。私は警告しているの。清墨先生から離れなさい。清墨先生を誘惑しようなんて、絶対に許さない!」少女は江国語で話していたが、その江国語は村の子供たちよりは多少マシな程度だった。海咲は思わず失笑しながら答えた。「それは完全な勘違いよ。私は清墨先生にそんなつもりはない」「誰がそんな話を信じるのよ
リンは言い返すこともできなかった。村人たちも状況を理解し、誰が悪いのかをすぐに察した。そしてリンを非難すると同時に、海咲に向かって謝罪の言葉を口にし始めた。「申し訳ない。私たちが状況をきちんと把握しないまま、あなたに危害を加えそうになった」「どうか気にしないで。安心して。今後、もうあなたを敵視するようなことはしまない。この村に留まりたいなら、どうぞご自由に」「リン、自分が間違えたなら素直に認めるべきだ。このお嬢さんに早く謝りなさい」……村人たちの言葉はイ族語だったが、海咲にはその半分ほどが理解できた。しかし、リンは納得がいかない様子だった。清墨先生のことが好きでも、自分では告白
海咲は軽く頷き、「分かった」と答えた。部屋に戻り、スマホを手にしたまま、彼女の頭にはさまざまな顔が浮かんでいた。次々と押し寄せる思い出に心が乱され、最初は眠れずにいたが、いつの間にか眠りに落ちていた。目を覚ますと、すでに朝になっていた。彼女は清墨との約束を思い出し、今日は学校で子供たちに授業を教える日だということを思い出した。朝食には、男主人の母親が作ったトウモロコシの粥が出された。海咲はそれを半分ほど飲んでから、男主人と一緒に学校へ向かった。授業では、前回子供たちが読み間違えたことを思い出し、子供たちに清音と濁音を教えることに決めた。教室はとても簡素で、黒板と呼べるものは黒い
海咲は鍵を使って清墨の学校の部屋を開けた。小さな部屋だったが、きちんと整理されていた。彼女の視線は窓辺に置かれた消腫薬の瓶に向かった。彼女は慎重にその薬を取り、小さな女の子の背中にできた赤い跡にそっと塗った。「学校では薬を塗ってあげるけど、放課後になったらこの薬を家に持ち帰りなさい。そして大人にちゃんと伝えるのよ。それから、次にこんなことがあったら先生や家の人に言うの。泣くだけじゃだめ。ヤマのことを怖がらないで、分かった?」海咲は涙をいっぱいに溜めた目で自分を見上げる女の子に、心から同情を覚えた。しかし、女の子は首を横に振って答えた。「ヤマがまた私を殴るかもしれないから……怖い……
「状況発生!」「迅速に防御体制を取れ!」「村民を守れ!」現場は大混乱に陥り、戦闘が始まるや否や、血の匂いと恐怖に満ちた世界へと変わっていった。銃声が鳴り響き、爆発音が次々と起こる中、激しい銃撃戦が展開された。逃げ遅れた村民たちは、銃弾が飛び交う中で混乱し、頭を抱えながら必死に避難していた。しかし、無情にも弾丸が容赦なく村民たちに降り注ぎ、多くの人々が命を落としていった。倒れた人々の血が地面を赤く染め、濃い煙と火薬の匂いが辺り一面を覆っていた。「わあああ!」2~3歳の幼い子供が、母親を探しながらその場に立ち尽くし、大声で泣いていた。「子供を守れ!」特戦部隊の兵士たちは、泣き
視界が鮮明になってきた。周囲にある毛布やコップなどの道具には、ある国旗が描かれている。まさか……「先生!やっと目が覚めた!」ヤマが興奮した様子で海咲の胸に飛び込んできた。海咲は一瞬戸惑いながらも、抱きしめられる小さな頭を見下ろし、自然に彼の頭を撫でた。「目が覚めたんですね!」その声に顔を上げると、軍服を着た兵士がテントの入り口のカーテンを開けて入ってきた。「こちらのお嬢さん、体調はどうですか?」兵士は海咲の目の前に立ちながら尋ねた。その声に、聞き覚えのある江国語を感じ取った海咲は、まるで家に帰ったかのような安心感を覚え、一気に気持ちが緩んだ。「大したことはありません。あな
目光が交わったその瞬間、まるで永遠の時間が流れたかのように感じられた。かつての日々、共に過ごした時間は確かにあったが、こうして再び目にする一瞬の価値には到底及ばないように思えた。海咲の目は赤く潤んでいた。彼が無事であること、それだけが何よりも大切だった。言葉など必要なく、ただその事実だけが胸を満たしていた。彼女は一歩も前に進まず、懸命に感情を抑えていた。この場面を何度も頭の中で想像していたが、本当に彼と再び会えるとは思っていなかった。たとえ遠くからでも会えただけで十分だと自分に言い聞かせた。彼女が抱えていた彼へのわだかまりも、彼の生命の尊さの前ではあまりにも些細なものに思えた。二
これは清墨にとって、最も真心からの、そして最も無力な祝福だった。彼は最初、リンの毒について父であるファラオが解決策を持っていると信じていた。しかし、ファラオには手立てがなく、最終的に清墨はただリンが命を落とすのを見届けることしかできなかった。清墨はリンのそばで一晩を過ごし、最後は彼自身の手で彼女を埋葬した。恵美はその間、清墨を探しに行かなかった。彼が今、深い悲しみに包まれていることを理解していたし、彼の心が落ち着くまで待つことができたからだ。人生とはそもそも、こうした悲しみや後悔に満ちたものなのだろう。恵美は何も言わず、ただ彼をそっと抱きしめた。時に言葉以上に、無言の行動が心を癒すこ
「分かってるわ。だからこそ、自分にあまりプレッシャーをかけすぎないで」海咲は恵美をそっと労わりながら言った。恵美はその言葉に励まされ、すぐに心の中の陰りを吹き飛ばした。清墨は、自分たちの結婚式を利用して、リンに毒を盛った一味を炙り出した。彼は彼らに対して猶予を与えたが、条件はただ一つだった。「助かりたければ、アリンに盛った毒の解毒薬を差し出せ」恵美との結婚式は盛大に行われ、あえて幸福に酔いしれる様子を見せることで、敵の油断と慢心を誘い出した。そして、彼らが動いた瞬間、すかさず包囲した。「これだけ時間が経ったんだ。おまけに、おまえのそばには毒のスペシャリストであるファラオがいる。…
ファラオの表情は、先ほどから変わらず厳しかった。海咲は、このような知らせを耳にすることになるとは思ってもみなかった。どう言葉をかけて慰めればいいのか、何を言えばいいのか――彼女には分からなかった。そして今は、何を言うべき時でもなかった。清墨もまた、このような結果になるとは予想していなかった。リンに命を救うと約束していたのに、その約束を守れなかったのだ。深い自責の念に苛まれた清墨は、ゆっくりとリンのもとに歩み寄った。「ごめん。君が命がけで大事な情報を届けてくれたのに、命を救うことができなかった」リンはベッドの上で横たわり、薬の苦しみによって顔立ちは大きく変わり果てていた。それでも、清
海咲は思わず笑いながら冗談を言った。「二人が結婚したら、子どもは早めに作らないとね。生まれたら、私にも遊ばせてちょうだい」すると、清墨が即座に返してきた言葉は、彼女の冗談を飲み込むようなものだった。「君はイ族にいないし、父さんも京城に行っちまった。いっそのこと、こっちに来てくれないか?俺が高給で雇うからさ」その一言に海咲は言葉を詰まらせた。確かに、距離の問題は事実だった。海咲が京城に留まるのは彼女自身の選択だったが、清墨としては海咲がイ族に戻ってきてくれることを心から望んでいた。イ族は彼らの「根」でもあり「魂」でもある場所。そして、兄として海咲に何かしら補償をしたいという気持ちもあ
「ありがとう」健太はそう言ったものの、実際はこの言葉を口にすること自体に抵抗があった。彼は海咲に「ありがとう」と伝えたくなかったし、彼女から「幸せでいて」と祝福されることも望んでいなかった。だが、どうしようもなかった。これが二人の間に訪れる最良の結末だったのだから。「これから予定があってね……また帰国した時、もし仕事のことで何かあれば、その時にまた会いましょう」海咲は微笑みながら、一言一言、完璧なタイミングで言葉を紡いだ。「わかった」健太は彼女が去っていく姿をじっと見つめていたが、その間、心臓が締め付けられるような痛みが徐々に増し、最後には大きな怪物に飲み込まれるような激痛に襲
当初、一緒に京城に戻った後、健太は藤田家に戻った。海咲は、健太が自分に寄せる想いや、彼がかつて自分に尽くしてくれたことを知っていた。だが、京城に戻ってからというもの、海咲は彼にメッセージを送る以外、直接会うことはなかった。それに、彼女が送ったメッセージにも健太は一度も返信をしてこなかった。海咲の「元気にしてた?」というたった一言は、まるで鋭い刃のように健太の胸を貫いた。――どうやって元気でいられるというのか? 健太が藤田家に戻った途端、彼の自由は奪われ、スマホも取り上げられた。イ族での長い過酷な生活の中で、彼の身体はすでにボロボロだったが、家族は彼の自由を制限し、無理やり療養さ
清墨がそう言い終えると、彼は恵美に深く真剣な眼差しを向けた。その瞬間、恵美はすべてを悟った。恵美は微笑みを浮かべながら言った。「大丈夫よ。あなたの力になれるなら、結婚式なんてただの形式に過ぎないわ」清墨は彼女の頭を優しく撫でると、続けて彼女の眉間にそっと一吻落とした。恵美の心はまるで静かな湖に小さな波紋が広がるように揺れ動いた。二人はその場で結婚式の日取りを一週間後と決めた。まず、イ族全土にその報せが発表され、次に親しい友人や家族に招待が送られた。これを聞いたファラオは、清墨の今回の迅速な動きに驚きつつ、彼に軽く小言を言った。「前に海咲と一緒に話した時、お前は『好きじゃない』
リンが同じ方法で清墨を彼女から奪い取ったように感じた。もしリンがもっと策略を駆使していたのなら、恵美も納得したかもしれない。だが、この状況で…… 恵美の心は言いようのない苦しさで満ちていた。彼女はその場でじっと見つめていた。清墨がどれほど丁寧にリンの世話をし、優しく薬を飲ませているのか。そして、清墨がリンのそばに付き添い、彼女が眠るのを確認してからようやく立ち上がり部屋を出てきたその瞬間、清墨は恵美と目が合った。清墨は唇を引き結び、低い声で尋ねた。「どうしてここに?」恵美は彼の背後、ベッドに横たわるリンを一瞥した。「彼女の存在なんて、今や秘密でも何でもないわ」現在、イ族中
清墨は状況を察し、ジョーカーを呼び出した。「リンを研究所に連れて行け」目的のために手段を選ばない者たちがいる。そのことを清墨はよく理解していた。リンは自分にこの情報を伝えるために命を懸けたのだ。リンは苦しそうに息をつきながら言った。「清墨先生、私のことは放っておいてください。治療なんて必要ありません」「相手がどう出るかはともかく、今最優先すべきは君の安全だ」清墨は厳しい口調で言い切った。その言葉にリンは心が温かくなるのを感じた。清墨が人道的な立場から彼女の命を気遣っていることはわかっていたが、それでも、彼の関心を自分に向けてもらえたことが嬉しかった。こうしてリンはジョーカーによ