Mag-log in「拓也さんは……お前に手を上げたことはあるのか」
誠一は娘をまっすぐ見つめた。
美月は少し驚いたように目を瞬かせ、それから首を横に振る。
「ううん」
「殴られたりしたことはないの」
その言葉に、誠一と美紀は小さく息をついた。
もちろん安心しきれるわけではない。
それでも、暴力まではなかったと知り、胸をなで下ろす。
「でも……」
美月は膝の上で手を握り締めた。
「怖かった」
その一言で、二人は再び表情を引き締める。
「離婚したいって何度言っても、全然聞いてくれなくて……」
「ホテルまで来て」
「居場所を探されて」
「どこへ逃げても見つかる気がして……」
思い出すだけで胸が苦しくなる。
「毎日、不安だったの」
数日後。 和江が掃除をしていると、拓也が廊下を何度も行き来していた。「さっきから何してるの?」「ちょっと片付けようと思って」「珍しいわね」 拓也は返事をせず、家の中を見回した。 美月が出ていってから、そのままになっているものも多い。 もちろん、美月が持っていったものもある。 けれど拓也には、それが一時的なことのように思えていた。「赤ちゃんが来るなら、物多いよな」 和江が振り返る。「赤ちゃん?」「うん」 拓也は当然のように答えた。「帰ってきた時に危ないものがあったら困るだろ」「……そうね」「この辺も片付けた方がいいかな」 拓也はリビングの棚を見る。 赤ちゃんが生まれて、すぐに歩き回るわけではない。 そんなことは考えていなかった。 ただ、美月と子どもが帰ってくる。 そのための準備をしておきたかった。「母さん、この棚使ってる?」「上の方は使ってるけど」「じゃあ下だけ空けてよ」「何を入れるの?」「赤ちゃんのもの」 まだ、ガーゼハンカチ一枚しかない。 それでも拓也の中では、そこはもう子どものための場所だった。「ベビーベッドって必要かな」「さあ。美月さんに聞かないと分からないんじゃない?」「今は聞けないから」 拓也はスマートフォンを取り出す。「調べればいいよ」 ベビーベッド。 ベビー布団。 哺乳瓶。 おむつ。 次々と検索する。「結構いろいろいるんだな」「生まれる前に全部買う必要はないでしょう」「でも、帰ってきて何もなかったら困るじゃん」 帰ってくる。 和江も、もうその言葉に何も言わなかった。 拓也は商品を眺めながら、楽しそうにしている。「これ、かわいいな」 小さなベビー服だった。 淡い色のロンパース。「サイズ分かんないけど」「生まれてからでいいんじゃない?」「そうかな」 拓也は少し迷って、画面を閉じた。「じゃあ、今は場所だけ作っとく」 その日の午後。 拓也は棚の下段を空にした。 中に入っていたものを別の場所へ移し、きれいに拭く。 そして、一枚だけ持っているガーゼハンカチを置いた。「……よし」 何もない棚。 その真ん中に、小さなハンカチだけが置かれている。 拓也は満足そうに眺めた。 一方。 美月はサービスアパートメントで、藤崎と電話をしていた。『次回も
それから数日。 美月はサービスアパートメントで、穏やかな時間を過ごしていた。 拓也からの電話もない。 実家に手紙が届くこともない。 藤崎からも、新たな接触についての連絡はなかった。「最近、静かですね」 昼食を終えたあと、美月が呟く。「ご主人のことですか?」「はい」 蒼真に聞かれ、美月は頷いた。「何もない方がいいのに、何もないと逆に気になっちゃって」「また何かあるのではないかと?」「……たぶん」 電話に出なければ、別の番号から掛けてきた。 会うことを拒めば、実家へ手紙を届けてきた。 何度もそんなことが続いたせいで、静かな時間にも身構えるようになっていた。「でも、ずっと気にしてても仕方ないですよね」 美月は苦笑する。「次の調停もあるし、今は自分のことを考えます」「それがいいと思います」 蒼真はそれ以上、拓也の話を続けなかった。 そのことに、美月は少しほっとした。 一方。 拓也はスマートフォンのカレンダーを眺めていた。 次の健診だと予想した日まで、まだしばらくある。「長いな……」 待っていればいい。 そう決めたはずなのに。 数日経つと、もう美月の様子が気になっていた。 あの日見た美月。 以前より丸くなった腹。 隣を歩く九条。 思い出すたび、胸の奥がざわつく。「俺の子なのに」 何度目か分からない言葉を呟く。 その時、ふと思った。 病院へ行く時しか、美月は外に出ないのだろうか。 買い物。 食事。 散歩。 普通に生活しているなら、ほかにも外へ出るはずだ。「……どこに住んでるんだろ」 以前から気になっていた。 九条が用意したサービスアパートメント。 それ以上は分かっていない。 調べようとしても、九条が経営する会社の情報ばかり出てきて、美月の居場所にはたどり着けなかった。「まあ、いいか」 拓也はスマートフォンを置いた。 無理に探す必要はない。 病院なら分かっている。 また会える。 そう自分に言い聞かせた。 けれど翌日。 拓也は、また病院の最寄り駅にいた。「……近くまで来ただけ」 もちろん、今日は健診ではないだろう。 それでも、もしかしたら。 そんな気持ちがあった。 前回と同じように、病院から少し離れた場所を歩く。 正面玄関が見える場所まで来て、拓也は足を止めた。
美月が病院へ入ったあとも、拓也はその場を離れなかった。 どれくらい待てば出てくるのかは分からない。 けれど、帰るという考えはもうなくなっていた。 近くの店に入り、窓際の席へ座る。 そこからなら、病院の正面が見えた。「別に待ってるわけじゃない」 拓也はコーヒーを飲みながら呟いた。 少し休んでいるだけ。 美月が出てきても、話しかけるつもりはない。 ただ元気そうか確認する。 それだけだ。 一時間ほど経った頃。 病院から、美月と蒼真が出てきた。 拓也はすぐに身体を起こした。「出てきた」 美月は手に小さな紙袋を持っている。 蒼真と何か話しながら歩いていた。 その表情は明るい。 拓也の胸がざわつく。 自分と暮らしていた頃、美月はあんなふうに笑っていただろうか。「……九条がいるからって」 拓也は唇を噛んだ。 けれど、すぐに別のことへ気付く。 美月がお腹へ手を添えた。 ほんの一瞬だった。 それだけで、拓也の視線はそこへ釘付けになる。「俺の子……」 あそこにいる。 見えないだけで、確かに自分の子どもがいる。 なのに、自分だけが何も知らない。 今日の健診で何を言われたのか。 順調なのか。 予定日はいつなのか。「なんで九条は知ってるんだよ」 拓也の中で、苛立ちが膨らんだ。 夫である自分が知らないことを、九条は知っている。 それはおかしい。 順番が逆だ。 そう思った。 美月たちが車に乗り、走り去る。 拓也はその車を追わなかった。 今日は、それで満足だった。 美月を見ら
数日後。 拓也は自宅のソファでスマートフォンを眺めていた。 画面には、以前保存した病院周辺の地図が表示されている。 あれから何度も開いていた。 行くつもりはない。 ただ見ているだけ。 そう思っていたはずだった。「……今日、暇だな」 拓也は呟いた。 仕事はまだ決まっていない。 応募しようと思って求人情報はいくつか見たものの、実際に応募したのは二社だけだった。 一社からはすでに不採用の連絡が来ている。 もう一社からは返事がない。 拓也は地図へ視線を戻した。 病院へ行くわけではない。 近くへ行くだけなら、何も問題はない。「別に病院に用があるわけじゃないし」 誰に聞かれたわけでもないのに、口に出していた。 美月が今日、健診だという保証もない。 そもそも、今も同じ病院へ通っているかさえ分からない。 なら、会う可能性などほとんどない。 それでも――もし会ったなら。 それは偶然だ。 拓也は立ち上がった。「ちょっと出てくる」 リビングにいた和江が振り返る。「どこ行くの?」「その辺」「仕事探し?」「まあ、そんな感じ」 嘘ではない。 帰りに求人でも見ればいい。 拓也は家を出た。 病院の最寄り駅に着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。 改札を出たところで、足が止まる。「……本当に来ちゃった」 一瞬だけ、帰ろうかと思った。 だが、ここまで来たのだから少しくらい歩いてもいい。 病院とは反対方向へ行く理由もない。 拓也は地図を確認しながら歩き始めた。 やがて、見覚えのある建物が見えてくる。 以前、美月を見つけた病院だった。 正面玄関から少し離れた場所で足を止める。 病院へは入らなかった。「これなら何もしてないよな」 ただ道に立っているだけだ。 誰かを待っているわけでもない。 そう考えながら、出入りする人たちを眺める。 十分。 二十分。 三十分。 美月は現れない。「そりゃそうか」 拓也は苦笑した。 健診の日なんて知らないのだから、当然だ。 帰ろう。 そう思った時だった。 病院の前に、一台の車が停まった。 拓也の表情が消える。 見覚えがあった。「……九条」 運転席から蒼真が降りてくる。 そして助手席へ回り、ドアを開けた。 そこから降りてきた女性を見た瞬間。 拓也は息を止
翌朝。 拓也はいつもより機嫌よく朝食を食べていた。 昨日までの焦りが嘘のようだった。 離婚しなければいい。 子どもが生まれれば、必ず美月とつながる理由ができる。 そう思えば、何も急ぐ必要はない。「母さん」「何?」「赤ちゃんって、今どれくらいなんだろ」「さあ。美月さん、何か月だった?」「……分かんない」 拓也は箸を止めた。 考えてみれば、知らないことばかりだった。 今、妊娠何か月なのか。 予定日はいつなのか。 どこの病院へ通っているのか。 性別は分かったのか。「俺、父親なのに何も知らないじゃん」「美月さんが教えてくれないんだから、仕方ないでしょう」「そうだけど……」 拓也はスマートフォンを手に取った。 以前、美月を見かけた病院。 名前は覚えている。 検索すれば、すぐに病院のサイトが出てきた。「ここだ」 診療科の案内。 診察時間。 アクセス方法。 画面を次々と開いていく。「何してるの?」「病院調べてる」「行くの?」「行かないよ」 拓也は笑った。「警察にも言われてるし」 今はまだ。 わざわざ問題を起こす必要はない。 ただ、知っておくだけだ。「次の健診、いつなんだろ」「そんなの分からないわよ」「でも、妊婦って定期的に病院行くんだろ?」「そうでしょうね」 拓也は検索欄へ指を伸ばす。『妊婦健診 頻度』 表示された情報を読みながら、小さく頷いた。「なるほど……」 何週
その夜。 拓也はベッドの上で、何度もスマートフォンをスクロールしていた。 離婚調停。 離婚拒否。 復縁。 検索する言葉を変えるたびに、さまざまな情報が出てくる。 けれど、拓也が欲しい答えはなかなか見つからなかった。「……違うんだよな」 離婚の条件が知りたいわけではない。 財産の話がしたいわけでもない。 自分はただ、美月と元に戻りたいだけなのだ。 画面を閉じる。 頭に浮かんだのは、今日の調停だった。 美月は同じ建物にいた。 ほんの少し離れた場所に。 それなのに、一度も会わなかった。 拓也は直接話したいと伝えた。 だが、美月は拒否した。「……なんで会わないんだ?」 本当に自分のことが嫌いなら。 もう絶対に戻る気がないのなら。 直接顔を見て、そう言えばいい。 それができないということは――。 拓也の指が止まった。「もしかして……」 一つの考えが浮かぶ。 美月は、自分に会いたくないのではない。 会えないのではないか。 拓也はゆっくり身体を起こした。「俺に会ったら、迷うから……?」 口にすると、不思議なくらい納得できた。 美月は昔から押しに弱かった。 喧嘩をしても、拓也が謝れば最後には許してくれた。 困った顔をしながらも、結局は自分のそばにいた。 今だって同じなのかもしれない。 弁護士や九条に離婚した方がいいと言われている。 だから離婚しようとしている。 けれど、自分と直接会ってしまったら。「戻りたくなるんだ」 拓也の口元が、ゆっくりと緩んだ。







