登入最低な不倫夫を捨てたその日、花屋で働く和花(わか)は、雨が降る夜にゴミ捨て場で記憶喪失の美しい青年・理聖(りひと)を拾う。 濡れた服を脱がせると彼の背中には和彫りの刺青が! さらに鞄からは大量の札束と本物の拳銃まで見つかってしまう。もしかして、裏社会の人間……? そう分かっていたはずなのに、孤独と酔い、そして彼の色気に絆され、和花はその日のうちに彼と関係を持ってしまう。 危険な男と一夜の過ち――かと思いきや、理聖は家事を完璧にこなし、和花をどこまでも優しく甘やかしてくれる最高に過保護な同居人で!? どん底から一転、危険な彼との甘すぎる溺愛の日々が幕を開ける――!?
查看更多「うー、寒っ」
2月の冷たい風が頬を撫でる。吐く息は白く、冬の寒さはまだ厳しい。それでも、見上げる空は抜けるような青空だった。
ふんわりと編み込まれたミルクティーベージュの三つ編みが、歩くたびに背中で小さく揺れる。セージグリーンのエプロンワンピースの下には温かい素材のブラウスを着込んでいるものの、冷え性の体には少しこたえる寒さだった。
夫である芽流とは昨年入籍したばかりだった。
中学時代からの友人で、高校生の頃に交際をスタートさせた。同じ短大を卒業した後、和花は花屋の正社員として就職し、芽流はフリーターになった。バンドでいつか成功する。そう熱く語る彼を支えたい一心で、和花は懸命に働いてきた。
しかし、二人の生活基盤が整ってくると、芽流は全く働かない日が増えていった。「曲作りに集中したい」と言われると、優しく穏やかな性格の和花は争いを避け、ただ黙ってうなずくことしかできなかったのだ。自宅のアパートに到着し、ドアを開ける。
「ただいま……」
無人の玄関に向かって呟いた和花の視線は、三和土に脱ぎ捨てられた見慣れない派手なハイヒールに釘付けになった。
嫌な予感が脳裏をよぎる。和花は音を立てないように靴を脱ぎ、寝室へと向かった。 ドアの隙間から、女の甲高い笑い声と芽流の声が漏れ聞こえる。震える手でゆっくりとドアを開けた。「……芽流くん、これ、どういうことかな……?」
絞り出すような声が響く。
和花が必死に働いて買ったキングサイズのベッドには、芽流と、見知らぬ褐色肌のブロンドギャルが身を寄せ合っていた。「ちょっとヤダ〜! 芽流、奥さん帰り遅いって言ってたのに〜!」
女は苛立ったように毛布を引き寄せる。
「わ、和花、今日も遅くなるって言ってたよね……? バレンタイン前日で、繁忙期だって……」
血の気を失った芽流が見え透いた言い訳を口にする。
「えっ、今日は早朝シフトだから、お昼すぎには帰るって……伝えてたじゃん」
「そ、そうだっけ……?」 「これって……不倫?」 「…………」和花の問いに、二人は青ざめた顔で押し黙った。
和花が汗水流して働いている間、芽流はこの見知らぬ女と愛を育んでいたのだ。悲しみよりも先に、得体の知れない嫌悪感が込み上げてきた。 和花の瞳が、冷ややかに芽流を見据える。「……出てってよ」
「……えっ」 「出てってよ! 汚らわしい!」腹の底から湧き上がる怒りが言葉となって弾け飛んだ。
「は、はい……ほんと、ごめん」
そそくさと服を着て逃げ出そうとする芽流の背中に、和花は冷たく言い放つ。
「あ、待って。離婚届の記入だけ、していって」
「……!」和花はリビングの引き出しを開け、緑色の用紙を取り出して芽流の前に突きつけた。
以前、彼が生活費を勝手にバンドの機材代に使い込んで大喧嘩になったとき、半ば衝動的に役所でもらってきていた離婚届だ。 引き出しの奥に隠したまま、いつか笑い話にして破り捨てる日が来ると信じたかったが、まさかこんなに早く使う日が来るとは思わなかった。その日のうちに芽流に荷物をまとめさせ、追い出した。
慰謝料を請求する気すら起きない。もう、すべてが面倒だった。 ただ、この窮屈な結婚生活から解放されたかった。しかし、いつまでもゆっくり寝ているわけにはいかなかった。 今日は2月14日。世間は甘い空気に包まれるバレンタインデーの当日であり、和花が働く花屋にとっては一年で一番忙しい書き入れ時なのだ。当然ながら、今日も出勤日である。 静かな寝息を立てる理聖を起こさないよう、そっと布団から抜け出す。 冷たい空気に身震いしながらシャワーを浴びた。昨夜の記憶と肌に残る微かな熱を洗い流すように、念入りに身体を洗う。 離婚届を提出したばかりだというのに、まさかその日のうちに素性も知らない男と身体を重ねてしまうなんて。 ため息をつきながら手早く身支度を整え、和花はキッチンに立って朝ごはんを作り始めた。 しかし、和花は昔から料理がどうにも得意ではない。 せめて朝くらいは綺麗な卵焼きを作ってあげようと奮闘したものの、火加減を間違えて形はみるみる崩れ、最終的にはただの炒り卵――スクランブルエッグと化してしまった。 メインに据えようとした鮭のおにぎりも、握る力加減がわからずいびつな形となり、お皿の上で無惨にもほろほろと崩れかけている。 見栄えの悪いおかずたちを誤魔化そうと、お湯を注ぐだけのインスタントのお味噌汁を二つ添え、なんとか朝食の体裁を整えた。「理聖さん、朝ですよ……。起きられますか?」 リビングへ戻り、布団で丸くなっている理聖の肩を優しく揺さぶる。「ん……」 理聖は長いまつ毛を震わせ、ゆっくりと目を開けた。寝起きのぼんやりとした切れ長の瞳が和花を捉えると、ふわりと柔らかく細められる。 和花が促すと、彼は大人しく起き上がり、ダイニングテーブルへと向かった。「その……あまり料理が得意じゃなくて、お恥ずかしいのですが……」 崩れたおにぎりとスクランブルエッグを前に、和花は申し訳なさそうに眉を下げる。しかし理聖は嫌な顔一つせず、背筋を伸ばした。「いただきます」 両手を綺麗に合わせ、深く頭を下げる。そして、不格好なおにぎりを一口食べると、ふわりと花が綻ぶように微笑んだ。「とても美味しいです。朝から温かいご飯を用意していただいて、本当にありがとうございます」 「え……」 和花は思わず言葉を失い、目を丸くした。 元夫の芽流からは、ご飯を作っても感謝されることなどただの一度もなかったのだ。 当たり前のことをしただけなのに、真っ直ぐに〝あり
重なった唇は、最初はただ触れ合うだけの、小鳥が啄むような軽いものだった。 驚きに目を見開いていた理聖だったが、和花が逃げないとわかると、そっと目を閉じ、呼応するように顔の角度を変えてきた。 温かな息遣いが絡み合い、戸惑うような浅い口づけは、徐々に熱を帯びて深くなっていく。 背中に回された彼の手が、不器用ながらも力強く和花の身体を引き寄せた。 ほんの少しのアルコールと、冷え切った心を溶かすような彼の体温。 わずかに開いた唇の隙間から、彼がそっと舌先を這わせてくる。甘い痺れが脳髄を駆け抜け、和花の口から抑えきれない吐息がこぼれた。 息継ぎのためにゆっくりと唇が離れると、二人の間に艶やかな銀の糸が引いて、切れた。 和花の頬は火のように熱かった。 元夫である芽流とは、結婚してから1度も男女の関係になっていなかった。「疲れているから」と躱され続け、その理由がまさか別の女の存在だったとは思いもしなかったのだ。 女性として求められていないという事実が、ずっと心の奥で重いしこりとなっていた。 だからこそ、久しく忘れていた甘い刺激に、和花の身体は自分でも驚くほど正直な反応を示してしまっていた。 下腹部が甘く疼き、指先まで熱が巡っていく。 そのかすかな震えと吐息の熱さで、理聖は和花の変化に気づいたようだった。 切れ長な瞳が、熱を帯びたまま和花の顔をじっと見つめる。そして、視線を部屋の片隅や、先ほど和花が差し出した男物のスウェットへと向けた。 部屋には、まだ微かに別の男性が暮らしていた気配が残っている。新品のまま放置されていた男性用の衣類。そして、泣きはらしたような和花の目元。 理聖は何かを察したように、和花を抱き寄せていた腕の力を少しだけ緩めた。「……和花さん。念の為の確認ですが……大丈夫ですか?」 低くかすれた声が、耳元で優しく響く。 大丈夫。その言葉の意味するところは、和花にも痛いほどよくわかった。 このまま、行きずりの男と関係を持ってしまっても後悔しないか。誰かに責められるような状況ではないのか。 記憶を失っていても、彼の頭の回転の速さと他者を気遣う優しさは健在のようだった。 離婚届を出したその日のうちに、見知らぬ男とこんなことになるとは、夢にも思っていなかった。 明日になれば、冷静になって激しく後悔するかもしれない。警察に追われて
その沈黙を切り裂くように、遠くからけたたましいサイレンの音が近づいてきた。「……っ!」 和花は思わず肩を跳ねさせた。ウー、ウーという赤色灯の幻影が、雨の降る窓の外を駆け抜けていく錯覚に陥る。複数台のパトカーが、アパートの周辺を取り囲むように巡回している気配がした。 心臓が肋骨を突き破りそうなほど、激しい早鐘を打つ。背筋を冷や汗が伝い落ちた。 目の前にいるのは、拳銃と立派な刺青を持つ素性不明の男。 もしや事件を起こして逃走中なのでは。警察が踏み込んできたら、匿っている自分も捕まってしまうのではないか。 和花の頭の中で最悪の想像が膨らみ、恐怖で呼吸が浅くなる。 しかし当の理聖はといえば、きょとんとした顔でソファーにちょこんと座っていた。 まるで事態を理解していないような無防備な姿だ。それを見ていると、和花の方が過剰に怯えているだけのようにすら思えてくる。 息を殺して数分。やがてパトカーの気配は遠ざかり、外には再び雨の音だけが戻ってきた。「……はぁ」 和花は全身の力が抜け、その場にへたり込みそうになった。盛大に安堵の息を吐き出す。「あの、大丈夫ですか?」 理聖が不思議そうに小首を傾げた。その拍子に、彼が少し顔をしかめたのを見て、和花は思い出した。「そういえば、後頭部が腫れていたんでした! 見せてください」 救急箱を取り出し、理聖の背後に回る。濡れた深い色の髪をそっとかき分けると、透き通るような色白のうなじの上に、赤く腫れ上がった箇所があった。「少し痛みますよ」 消毒液を浸したガーゼを当てると、理聖の広い背中がビクッと揺れた。和花は痛みを散らすように、そっと周囲を撫でながら手当てを進めていく。「貴方が何者なのかは、今の私にはわかりません。でも……その荷物を見る限り、暫くはここにいた方がいいかもしれないですね」 記憶もなく、警察に追われているかもしれない危険な男。関わるべきではないと本能が警鐘を鳴らすが、冷たい雨の降る夜に、彼を一人で外へ追い出すことなどできなかった。「ええ……そうですね」 理聖は困ったように眉を下げた。「申し訳ありませんが、少しの間だけ、お世話になります」 手当てを終えた和花は、再びビジネスバッグに視線を落とした。拳銃が見つかって驚愕し後ずさってしまったが、よく見るとまだ底の方に何か入っている。 恐る恐る中
芽流たちが去った後、部屋にはきつい香水の匂いだけが残されていた。 和花は窓を全開にし、冬の冷たい風を部屋いっぱいに取り込んだ。 それから、二人が寝転がっていたベッドを冷ややかに見下ろす。少しでも彼らの痕跡を残しておきたくなかったのだ。 その日の午後、和花は役所の窓口に立っていた。 突き返されたらどうしようという不安をよそに、手続きはあっさりと終わった。 高橋和花は、この日をもって佐伯和花へと戻ったのだ。 書類を受理した職員の「お疲れさまでした」という優しい声に、小さく頭を下げる。 これで、本当に終わったのだ。 アパートの部屋に戻ると、張り詰めていた糸がふっつりと切れたように、目から大粒の涙が溢れ出した。 自分でも驚くほど、声を出して泣いた。 愛が残っていたわけではない。ただ、高校生の頃から一緒にいた彼に対する、断ち切れない情だけはあったのだろう。 そして何より、彼のために懸命に働いてきた自分の時間が、ひどく無価値なものに思えて悔しかった。「……とりあえず、このベッド捨てなきゃ」 手の甲で乱暴に涙を拭い、和花は顔を上げた。泣いている暇なんてない。 すぐに不用品回収業者へ連絡を入れると、運良くその日のうちに来てもらえることになった。 巨大なキングサイズのベッドが運び出され、がらんどうになった寝室を見渡す。 押し入れから来客用の布団を引っ張り出し、フローリングの上に敷いた。当分はこれで寝るしかない。 ぽつんと置かれた布団を見ていると、どうしようもない孤独感が押し寄せてきた。「……家にいたくないなぁ」 誰の温もりもない冷たい部屋から逃げ出すように、和花は傘を手に取った。 いつの間にか、外は冷たい雨が降り始めていた。 夕方。冷たい雨が打ち付ける中、和花は近所の赤提灯が下がる居酒屋にいた。 一人でこんな店に入るのは初めてだったが、とにかく誰かの声がする明るい場所にいたかった。 カウンター席の隅に陣取り、焼き鳥を頬張りながらビールを呷る。(ちょっと飲みすぎちゃったかな……) 何杯目かのジョッキを空にしたところで、和花は小さく息を吐いた。 明日も花屋の仕事があるというのに、足元が少しおぼつかない。 会計を済ませ、冷たい雨の降る外へと出る。傘に当たる雨音が、酔った頭に心地よく響いた。 フラフラとした足取りで家路に