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第292話

Author: 浮島
蒼空は荒く息を吐き、手のひらで床を支えながらゆっくり上体を起こし、めくれ上がっていた上着を下ろして、見えそうになっていた細い腰を隠した。

そのあと床を押さえながら慎重に身体を起こし、立ち上がろうとする。

瑛司はただ黙って見ているだけだったが、その瞳の奥の鋭さに押され、岡村の頭はさらに低くなる。

岡村はもう一度振り返り、せかすように言った。

「何ぼさっとしてる。さっさと支えてやれ」

女は来た男の整った顔立ちと、高級そうなスーツや腕時計をちらちら見て、自分の息子の手を握り直した。

心臓がじわじわと速くなり、頬もさらに赤く染まる。

彼女は数年前に前夫と離婚し、それからは息子と二人きりで暮らしていた。

再婚相手を探していなかったわけではないが、言い寄ってくる男たちはどれも気に入らず、相手にしてこなかった。

目の前のこの男──

顔も体格も申し分なく、どう見ても経済力もある。

彼女の胸に淡い下心が芽生える。

隣にいる女も目立ってはいるが、それは関係ない。

重要なのは、まずこの男の目に留まることだ。

岡村の言葉を聞くと、女は腰を揺らしながら蒼空のもとへ歩み寄り、彼女を抱え起こして車椅子へ戻した。

女が近づいた瞬間、蒼空の身体はピクリと強張ったが、やがてその力に合わせてゆっくりと車椅子へ腰を下ろす。

きちんと座り直したあとで、蒼空はゆっくり瑛司と瑠々の方へ視線を向けた。

目を上げたとき、瑛司がずっと自分を見ていたことに気づく。

瞳は深く沈み、感情は読み取れない。

瑠々はその隣で彼の腕に親しげに手を添え、柔らかな目つきを向けながらも、どこか見下したような気配をまとっている。

蒼空は心の中で思う。

ここ数日で起きたことすべてが、瑠々に「もう勝負はついた」と思わせ、自分を脅威ではないと判断させたのだろう。

彼女は視線を逸らし、無表情に戻る。

隣の女がまたも奇妙な行動をしながら、腕を強くつねりつつ車椅子へ押し込み、耳元で「余計なこと言わないでよ」と囁く。

岡村は心の中で呟いた。

――こんな夜中に、瑛司は何の用で病院に?

彼は瑛司の表情を慎重にうかがい、口を開こうとする。

「松木社長、これは――」

女が急に口を挟み、作ったような優しい声を出した。

「お嬢さん、あなたが熱湯をうちの子にかけたんだから、責任を取るべきじゃないですか?うちの
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