LOGIN夫婦喧嘩した翌朝、空から来た隼が突進して失神。気づくと中国王宮のベッドに寝ていた。皇帝の寵愛を受ける第二夫人としての生活が始まる。身の回りは女官や夫似の召使がしてくれる。その召使に唆され、皇帝の愛玩する隼の餌にと食用の鶏を庭に放つ。召使は皇帝に密告し、私は地下牢に投獄される。皇帝に謀反を企てた召使が皇帝を襲う寸前で、牢屋を出た私が知らせて事なきを得る。クーデターは失敗し、召使は磔で自害する。元の身分に戻され、皇帝の寵愛を受ける私。だが、皇帝は僻地へ遠征に出かける。長期不在で寂しく、若い兵士と浮気し、一夜の関係が深い仲に。帰った皇帝に咎められ、駆け落ち同然で王宮を出る。私の運命は? 恋の行方は?
View More悪い夫にはどこかで罰が下る。そう思う私は愚夫の妻。どこにでもいそうなありふれた女だ。
そして、夫も平凡を絵に描いたような、普通の会社員である。夫の性格は悪い。
「このクズ野郎!」
私は夫に怒りをぶつけた。
「なんだと。だれが稼いで飯が食えてると思ってる?」
夫は居直った。
「はあ? 何様のつもりなの? つまんねぇ昭和の台詞ね」
「つまらなくていい。こっちには仕事があるんだ。おまえを養う義務もな」
「思い上がっちゃって。そんなんで、よく浮気したわね」
「浮気はしてないよ」
夫は平然と否定し、首を振った。
「嘘つけ! 私には分かるわ。シャツにいつもと違う香りがしたのよ」
「だから言ってるだろ? 帰りの電車が混んで、知らない女の香水かなんだかがついたんだろって」
昨晩、夫の浮気でケンカになった。こんな風景は、我が家では日常茶飯事だ。
そして、ケンカが収まらず、二人とも相手を無視し、黙ったまま朝の支度をした。
そんな冬の朝のことだった。年も明けた一月八日。少し曇り、ときどき太陽が顔を覗かす。
夫はこちらを見向きもせず、バタバタと出て行った。
それを奥で確認し、私はIHコンロのボタンを押して加熱を止めようとした。
夫が出て行って、ゆっくりとリプトンの紅茶を飲もうとした。お湯は沸いていた。
「おーい。カオリ」
玄関で聞き慣れた声がした。
嫌な夫が戻って来た。
私はツカツカと歩き、玄関を覗いた。
玄関で夫は立ったまま、私に指示を出す。
「忘れ物をした。机の上のUSBメモリ、取ってきてくれ」
「知りません」
「こら! 急いでるんだ」
「自分でどうぞ」
「フン。分かったよ」
夫は玄関で靴を脱ぎ、ふてくされて上がり込んだ。
小さな机の上にノートパソコンが置いてある。そこに挿しっぱなしになったUSBメモリを、ピンと抜いた、
「バーカ」
夫の背中に悪口を浴びせた。
「行ってくるぞ」
じつに忌々しげな言い方だ。腹が立つ。
「うるさい。早く行け!」
私は顔を背け、玄関を指さした。
玄関でバカな夫が、まだぶつくさと文句を唱えている。
「なにさ。おまえが悪いんだろ?」
そんな風に毒づきたくなる。
「今晩も遅くなるぞ。飯はいらないからな」
夫は飯か仕事のことしか考えてない。USBメモリも仕事で使うのだろう。家にまで仕事を持ち込まないで、と私は思う。
でも、コロナのときはひどかった。家の中でリモート会議をし、四六時中家にずっといた。そんな風にして居座られるのが、嫌でたまらなかった。家事がはかどらなかった。息抜きすらできなかった。
夫がバタンとドアを閉め、私は指で口を引っ張った。
「いーだ!」
やっと、つまらぬ相棒がいなくなってくれた。
「おっと、私としたことが」
ガラス窓を光で照らす朝陽の中、ゆっくりと紅茶を飲もうとして、お湯を沸かしていたのを思い出した。
慌てて、IHコンロのボタンを押し、加熱を止めた。充満していた蒸気は収まった。
お湯をティーカップに注ぎ、リプトンのティーパックをそこに浸す。
しばらくして、ティーパックを三、四度上げ下げし、小さな皿にティーパックを寝かせた。
やっと熱い紅茶をいただける。
テーブルにティーカップを置き、ゆっくりと紅茶を啜った。
しばらくは、自由なひとときが楽しめる。
てっきりそう思った。いや、会社員の夫が出て行ったのなら、どんな妻でもくつろぎの時間を過ごすだろう。夫を見送れば、朝は落ち着く。
ちょうど、いい具合に洗濯機が終了の音を鳴らした。
一つ伸びをし、いつも聞くラジオをかけた。
パーソナリティの声が耳に心地よい。夫もこれくらいにいい声で、穏やかだったらなぁ。
ラジオをかけながら、洗濯機から洗濯物を出し、ベランダに向かった。
冬の朝は少し肌寒い。
冬の空に朝陽がまぶしい。
ベランダの物干し竿に、洗濯物を丁寧にかけてゆく。
ふいに、冬空を割って、何かが一閃した。黒い鳥のようなものが、私めがけて猛突進で飛来する。
「と、鳥!」
イヤー! 手で顔を覆った。
強い痛みが額に走る。
と同時に、気を失った。
私は失神してしまった。
気づくと私は伸びていた。そこはベランダの手前。床に仰向けになり、白い天井が見えた。床の先の掃き出し窓は開いていて、冷たい風が入り込む。風は乾いてとても冷たい。起き上がって、窓を閉めた。「こ、これって……」そこは前前世の私の家。梅本香里の住む家だった。その当時の記憶が今、つながった。前の晩、夫の浮気が原因で夫とケンカをした。翌朝、互いに無視したままで朝の支度をした。夫がUSBメモリを忘れ、そこでもひと悶着。嫌な夫が出社し、やれやれとラジオをかけ、紅茶を飲んでほっこりした。「そうよ。ラジオと洗濯物」ラジオの音がようやく耳に入った。「今朝、こんなニュースが飛び込んできましたね。一月八日の午前七時半。ついさっきです。都内のビル工事現場で強風が吹きました。強風によって看板が落ち、下を通る歩行者の体に当たりました。リスナーの皆さん、くれぐれも風の強い日は気を付けてくださいね。歩行者はケガをしましたが、警察によると軽傷とのことです。では、ここで音楽のリクエストをかけましょう──」そうよ。このDJの声。このラジオを聴きながらベランダに出た。洗濯物を干そうとして、鳥が額にぶつかった。今、たしかに元の体に戻っている。梅妃や女官ヒナとして生きた記憶も残っている。そして、始まりと終わりのきっかけを作ったのは鳥。鳥が額にぶつかって気絶した経緯もはっきりと覚えている。「どうして、気絶して昔の中国王朝なんかでロマンスを経験したのかしら?」ひとり呟いても、だれにも時空の旅を説明できる人はいないだろう。あちらの経験は膨大な量の事件や思い出に基づいていた。それは心に深く根を張っていた。「ま、いいわ。危ない目に遭ったけど、ちょっと得した気分ね」異世界に転移と転生したのは事実であり、その事実は夫には緒にしておこう。私はほくそ笑んだ。床に落ちている洗濯物を拾い上げ、物干しざおに丁寧にかけた。干しながら、しみじみとあの思い出や出会った人物たちを思い返した。あんな経験、お金を払っても、そうそうできやしない。中世あたりの中国王宮。その第二夫人に転移して、豪奢な暮らしを堪能した。皇帝に抱かれ、純粋なロマンスにうっとりした。悪い召使の計略にはまり、罪を犯した。そして、地下牢に投獄された。救出され、召使のクーデターは失敗。悪い奴らは死んだ。生活
女官ヒナとして、まだ生きていける。私は安堵した。幻の芙楽の助けで、女官として生かされた。その先、芙楽が私の前に現れる機会はなかった。前世で彼を裏切った形なのに、死んだ彼は私を咎めなかった。不思議なもので、「私を平気で裏切ったあなたには、最高の罰で償ってもらいますから」という呪縛の言葉も、二度と頭に浮かばなかった。引き続いて王宮の仕事を続けた。李妃の部屋で着替えを手伝っていたとき、李妃からこんな風に言われた。「ヒナ。いくつになったの?」「私ですか? 十八です」「そう。今が女としていちばんいい頃ね。魅力的よ」「ありがとうございます」「その着物、ヒナに上げるわ」「え?この緑の着物でございますか」「そうよ。それ、もう飽きてしまったわ」「本当によいのですか」「いいわよ。私からの贈り物よ。明日暇を上げるから、町にそれを着て行くといいわ」「承知しました。ありがとうございます」私は李皇貴妃の着替えを手伝いながら、心の中はうれしさで一杯だった。李妃からいただいた緑の着物を大事に畳んで小脇に抱え、仕事の合間に配房で袖を通してみた。青銅鏡を立てかけた。鏡の向こうに映る、着物を着たもう一人の私。とてもきれいだった。すごいわ。これが私のなのね。みすぼらしい普段の着物とは全然話にならない。まるで格が違う。豪華でいて上品な女性に見せてくれる着物。うれしくて涙ぐんだ。親に見せてあげたい。一生ものの衣装だ。「これを着て、明日町を歩くのね。うれしいわ。天に舞い上がりそう」有頂天になり、その場で軽く飛び跳ねた。着物を大事に畳んで配房のタンスの抽斗に丁寧にしまった。とてもうれしくて、気分のいい状態は長く続いた。頼んでおいた自分の洗濯物を取りに、ある部屋へ向かった。その部屋に着いた。部屋で自分の着物を受け取った。部屋を出た。洗濯物を手にして配房に帰る途中だった。廊下を歩いていた。向こうの角に皇帝がいた。年老いた皇帝は背中を丸め、何かを眺めている。庭に舞い降りたのは、先日の鳥だ。「皇帝は長らくペットとして、隼という名の鳥を飼われている。そんな風に聞いていたわ。じゃあ、あの鳥が隼なのね」皇帝は隼を腕に止まらせ、パッと腕を上げた。空に舞い上がった隼は空を一直線に切り裂き、あっという間に高みへ上昇して見えなくなった。私はな
意識がブラックアウトした。少したった。周囲が明るくなり、気が付いた。「あれ?私、生きてるわ」気づいて、生存を認識した。つまり意識が私の体に戻っていた。「こんなことって、あるのかしら?ちょっと信じられないわ」芙楽に刺されたからこそ、意識が肉体から飛び出したのではなかったか?そこに芙楽も、天馬も、槍もなかった。すべてが消えていた。あの走馬灯の主役たちは、何だったのだろう。私は屋敷の廊下に倒れていた。まだ起き上がれないが、体はわずかに動く。呼吸もできる。手で顔や体を触ってみた。顔。体。健康そのもので傷一つない。結果的に、私は命拾いをした。代わりに、私を殺そうとした郭貴妃が倒れていた。うつ伏せの状態で倒れていた。彼女の背中には大きな傷があった。その傷から、大量の血が流れていた。一方の竜光皇子は口から血を吐き、ゆっくりと膝をついた。目を見開いていた。郭貴妃に折り重なるようにして、竜光皇子も倒れた。私は殺されると思っていたけれど、私の代わりに二人の悪い親子が絶命した。もしや──。幻である透明な芙楽は私を刺さずに貫通し、向きを変えて郭貴妃と竜光皇子を槍で突き刺し、あの世へ送ったのか。そうかもしれない。そうとしか言いようがない。私は凶器を持ってない。私が二人を殺したわけでないのは明白だ。二人は「私の守護神」に殺されたのだ。そんな風に自分を納得させた。「芙楽様。ヒナを守ってくれて、本当
殺された。だれも助けてくれなかった。そう思った。しかし、そんな風に思うのはまだ早かった。寸前で助かった。死ぬと思った刹那に、走馬灯が見えた。走馬灯は死ぬ間際で見るもの。その走馬灯の世界で、空から何かがこちらに向かって来る。鳥、か。いや、もっと大きい。馬?空から来たのは、天馬だ。天馬に乗った人。その人は、芙楽王だった。「芙楽様」女官ヒナとして、なぜ彼の名前を、姿を知っているのだろう。我ながら不思議だ。ちゃんとした理由などない。ただ、なんとなく、前世に深い縁があった、と頭で分かった。芙楽は透明な体で馬に乗っていた。クラゲのように透き通り、輪郭だけがはっきりしていた。馬にはペガサスのように大きな翼が生えていた。そんな風な天馬だ。天馬に乗って駆けてきて、芙楽は手に槍を持っている。芙楽の乗った天馬は、地上に舞い降りた。芙楽は馬上で槍を構え、私に向かって叫んだ。「私を平気で裏切ったあなたには、最高の罰で償ってもらいますから」その台詞も聞き覚えがあった。台詞が頭の中でガーンと響いた。女官ヒナとしての記憶に前世の梅妃の記憶がかぶさる。もう何が何だか分からない。でも、思った。もはや、最高の罰を受ける運命から逃れられない、と。私は芙楽を平気で裏切ったんだわ。あの戦いで、芙楽は賀の王宮に突入した。芙楽は吊り天井の罠にはまった。天井に付いた杭により、八つ裂きになって死んだ。梅妃としての私には、どうしようもなかった。その後で、馬奈を見捨てて賀に寝返った。それが死んだ芙楽にとって無念であり、「平気で裏切った」ことになるのね──。その台詞を聞き終わるや、槍の刃先が私の心臓めがけて刺そうとする。槍が心臓を突き刺した。郭貴妃の短刀はどこへ行ったのか。短刀は視界から消えた。郭貴妃の姿も見えない。短刀が体に入るよりもかなり前に、芙楽の持つ長い槍が私の体を貫いた。ああ、これでいいのね。平気で裏切った私。そんな女にふさわしい、最高の罰。女官ヒナとして、だれかを愛したことはなかった。しかし、女同士で醜いケンカをし、相手を殴りつけた。竜光皇子にも暴力をふるった。私は女官として、イケナイ女だ。この槍の一突きをもって、この世から消える。短い生涯を終えるのね。私の父。私の母。ごめんなさい。親不孝な娘で、
「皇帝陛下、皇帝陛下。いずこに?」私は廊下を歩き、皇帝を捜していた。「皇帝陛下。梅皇貴妃が隼の餌を持ってきましたよ」しーんとしている。廊下をすたすたと歩く音と私の呼び声。それだけが響く。中国の王宮は静寂を好むのか。騒がしさとは無縁のようだ。「だれかおらぬか? 皇貴妃じゃ。梅妃が皇帝を捜しておる」中国の王宮で暮らす私の身分は皇貴妃。現世の主婦から貴族へと華麗に転身、異世界転移して第二夫人の体になった。姿は現生の私とほぼ変わらない。現世に夫を残して未練はないが、皇帝の愛がほしい。夫似の召使にそそのかされた。皇帝の寵愛を得たいなら、皇帝が愛玩する隼の喜ぶニワトリを園庭に放ちな
中国の王宮で暮らし、しばらくたった。 梅皇貴妃と呼ばれる私は、第二夫人として、宮中でそれらしく振る舞った。 その身分を受け入れ、貴婦人らしく振る舞いさえすれば、何不自由のない豪奢な生活を送れた。 現世ではただの主婦だったから、気持ちのいいことこの上ない。 本来はその世界の住人でなく、中国だの、宮中だの、何も知らない。 知らなくても、ここの人は皇貴妃だと言い、すり替わったことを疑わない。 元のままだと信じる人がいるなら、演じるだけだ。 お陰で中国の王宮生活にも慣れ、かなりいい気になっていた。 私は貴婦人である。皇貴妃という身分は、皇帝の愛を受け入れる二番目の夫人らし
どういうわけだか、中国の王宮のような場所で暮らすようになった私。しかも、都合のよいことに、皇貴妃という身分でいられる。とても嬉しい。中国の王宮の生活にもかなり慣れてきた。私は貴婦人である。相手として対象になる男性がいるなら、それは皇帝だろう。皇帝とは寝所で二人きりの時間を過ごした。とても感慨深い、特別な時間だった。皇后とは風呂でご一緒した。さすがに皇后だけあって気品にあふれ、息を呑むほどに美しかった。私もそうありたいものだと思った。何かしたければ、お付きの召使か女官を呼べばいい。どんなささいなことでもしてくれる人たちだ。彼らを使うことに抵抗がなくなった。それだけ、信頼を置いてい
どういうわけだか、中国の王宮のような場所で暮らすようになった私。しかも、都合よいことに、皇貴妃という身分にあるのだから、とても嬉しい。私は貴婦人である。相手として対象になる人がいるなら、それは皇帝をおいて他にいないだろう。何かしたければ、お付きの召使か女官を呼べばいい。実際、女官に服の着替えや、ベッドメイクをしてもらった。恥ずかしかったが、トイレを頼んだときもあった。彼らを使うのにも、すっかり慣れた。二十畳ほどの広い部屋に一人ぽつんといると、ちょっと寂しい。体に少しむずがゆさを感じ、入浴したくなった。召使を呼んだ。「風呂に入りたいのじゃ」「はい。準備して参ります。しばし