冷酷御曹司は逃げた妻を愛してやまない

冷酷御曹司は逃げた妻を愛してやまない

last updateLast Updated : 2025-12-12
By:  結城 芙由奈Updated just now
Language: Japanese
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冷酷御曹司・天野司との契約結婚で、沙月は愛も尊厳も失った。子どもを望めない身体となり、夫からは冷たく突き放され、結婚式すら一人で迎えた彼女は、ついに離婚を決意して家を出る。だが、過去に封じた夢――記者としての人生を取り戻すため、沙月は再び立ち上がる。妨害、侮辱、嫉妬が渦巻く中、義妹・遥と司の元恋人・澪が仕掛ける罠にも、沙月は一歩も引かずに立ち向かう。誰にも媚びず、誰にも屈しないその姿は、周囲の視線を奪い、かつて彼女を見下していた者たちの心を揺るがせていく――

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Chapter 1

1-1 もし私が死んだら

1

視界が、ぐらりと揺れた。

何かが砕ける音。誰かの叫び声。

身体が宙を舞い、叩きつけられた。

途端に身体を引き裂かれるような痛みが全身を走る。

耳鳴りが酷くて、周りの音が何も聞き取れない。

空気が薄くなったかのように、息が苦しく呼吸ができない。

頭がズキズキと割れるような痛み。

一体何が起きたのか分からない。その時、自分のスマホが転がっているのが目に留まった。

「う……」

朦朧とする意識の中で沙月は夫――天野司の電話番号を振るえる指先でタップした。

トゥルルルル……

耳元で聞こえる呼び出し音が続く。

(お……願い……出て……)

しかし……。

プツッ!

通話が切れた……いや、切られてしまった。

「フ……」

沙月は小さく笑った。

馬鹿な話だ。彼は一度だって、沙月の電話に出たことは無い。いつも無情に切られてしまうのは分かり切っていたはずなのに。

急激に自分の意識が遠くなっていく。

(ひょっとして……これが死ぬということなのかも……)

もしこのまま死んだら、自分の遺体を引き取ってくれる人は、いるのだろうか?

誰か、泣いてくれるだろうか?

それとも身元不明の遺体として荼毘に付されてしまうのだろうか……?

そんなことを考えながら、沙月の意識は闇に沈んでいった――

****

沙月が次に目覚めた場所はベッドの上だった。

辺りには消毒液の匂いが漂い、廊下は騒がしく看護師の声が聞こえてきた。

「交通事故です。数十人の負傷者が出ています」

看護師の声が飛び交い、ストレッチャーが廊下を走る音が聞こえている。

「また……病院……?」

天井の白さが眩しく思わず目を細めたとき、看護師が現れて急ぎ足でベッドに近づいてきた。

「天野さん? 目が覚めたのですね? 良かった……あなたは交通事故に遭って病院に運ばれてきました。事故のことは覚えていらっしゃいますか?」

「……はい」

沙月の脳裏に事故に遭った瞬間の出来事が蘇る。

「天野さんは事故で脳震盪を起したので経過観察が必要です。原則としてご家族の付き添いをお願いしているのですが、連絡の取れるご親族はいらっしゃいますか?」

沙月はうつむき、口元に乾いた笑みが浮かぶ。その笑みは苦笑なのか哀しみなのか、自分でも分からなかった。

家族?

自分を政略結婚の駒として扱い、物みたいに天野家に差し出した実家のこと?

それとも結婚をただの契約としか見ず、ずっと自分から距離を置き続けた夫のこと?

スマホを握りしめたまま、迷っていたその時――

「聞いた? 13号室の患者さん、朝霧澪さんらしいよ!」

(朝霧……澪?)

その名前に沙月は反応した。

視線を動かすと、2人の看護師が沙月の部屋の前で立ち話をしている。

「え? 朝霧澪? 最近ネットで話題のニュースキャスターでしょ? どうして入院してるの?」

「多重事故で、腕を怪我したのよ。大した怪我でもないのだけど、顔で食べてる人だから、やっぱり普通の人よりデリケートね。それに若い男性もいたのよ! 以前財経雑誌で見た天野グループの超イケメン御曹司にそっくりだったの! 絶対あの雰囲気だと恋人同士に違いないわよ」

興奮しているのか、看護師の声が大きくなる。

「その話、本当なの? だって噂じゃ、数年前に極秘結婚したって騒がれていたじゃない。……もしかして朝霧さんが相手だったの?」

(結婚相手……)

沙月の心臓の鼓動がドクドクと早まる。

その時。

「あなたたち! こんなところで患者さんの噂話をしているんじゃないの! 早く持ち場に戻りなさい!」

突如、2人を叱責する声が聞こえた。

「は、はい!」

「すみません! 師長!」

慌てた様子で謝罪し、足音が遠ざかっていった。

「朝霧……澪」

天井を見つめていた沙月はポツリと呟いた――

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過去自分が沙月を妊娠させたにもかかわらず プライドとクズの思考で無理矢理中絶手術させたDV男 誤解無実溺愛の流れだったら残念 弱音を吐かないひたむきな沙月に涙でる
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1-1 もし私が死んだら
1視界が、ぐらりと揺れた。何かが砕ける音。誰かの叫び声。身体が宙を舞い、叩きつけられた。途端に身体を引き裂かれるような痛みが全身を走る。耳鳴りが酷くて、周りの音が何も聞き取れない。空気が薄くなったかのように、息が苦しく呼吸ができない。頭がズキズキと割れるような痛み。一体何が起きたのか分からない。その時、自分のスマホが転がっているのが目に留まった。「う……」朦朧とする意識の中で沙月は夫――天野司の電話番号を振るえる指先でタップした。トゥルルルル……耳元で聞こえる呼び出し音が続く。(お……願い……出て……)しかし……。プツッ!通話が切れた……いや、切られてしまった。「フ……」沙月は小さく笑った。馬鹿な話だ。彼は一度だって、沙月の電話に出たことは無い。いつも無情に切られてしまうのは分かり切っていたはずなのに。急激に自分の意識が遠くなっていく。(ひょっとして……これが死ぬということなのかも……)もしこのまま死んだら、自分の遺体を引き取ってくれる人は、いるのだろうか?誰か、泣いてくれるだろうか?それとも身元不明の遺体として荼毘に付されてしまうのだろうか……?そんなことを考えながら、沙月の意識は闇に沈んでいった――****沙月が次に目覚めた場所はベッドの上だった。辺りには消毒液の匂いが漂い、廊下は騒がしく看護師の声が聞こえてきた。「交通事故です。数十人の負傷者が出ています」看護師の声が飛び交い、ストレッチャーが廊下を走る音が聞こえている。「また……病院……?」天井の白さが眩しく思わず目を細めたとき、看護師が現れて急ぎ足でベッドに近づいてきた。「天野さん? 目が覚めたのですね? 良かった……あなたは交通事故に遭って病院に運ばれてきました。事故のことは覚えていらっしゃいますか?」「……はい」沙月の脳裏に事故に遭った瞬間の出来事が蘇る。「天野さんは事故で脳震盪を起したので経過観察が必要です。原則としてご家族の付き添いをお願いしているのですが、連絡の取れるご親族はいらっしゃいますか?」沙月はうつむき、口元に乾いた笑みが浮かぶ。その笑みは苦笑なのか哀しみなのか、自分でも分からなかった。家族?自分を政略結婚の駒として扱い、物みたいに天野家に差し出した実家のこと?それとも結婚をただの契約としか見ず、ずっと自分から
last updateLast Updated : 2025-09-15
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1-2 彼女は妊娠していた
朝霧澪――天野司の元恋人。かつて朝霧澪が突然国外へ消えたせいで、天野司は結婚式場に現れなかった――説明の一言すらなかったのだ。沙月はずっと思っていた。澪はもうこの国を離れ、司の世界から消えたのだと。それなのに司が、彼女と一緒にいる?しかもこのタイミングで病院に……?沙月は痛む身体を何とか起こし、ベッドから降りた。壁に手をつき、ふらつきながら廊下を歩き……気づけば13号室の前に立っていた。扉は少し開いており、隙間から見えたのは――司が病床のそばに座り、澪の手をそっと握る姿。沙月が今まで見たことのない優しい笑みを浮かべていた。「!」その瞬間、沙月は息が詰まりそうになった。胸の中の感情を必死に押さえようとするが、澪の声が耳に飛び込んできた。「良かったわ……子供は無事で」澪が自分のお腹にそっと手を当てる様子を見てしまう。ドクンッ!世界が一瞬静まり返った。(子供……? まさか……もう2人の間には子供がいたの……?)その瞬間、脳内に爆弾が投げ込まれたような衝撃を受けた。澪の笑い声、そして「子供は無事」という言葉。血の気が引くように全身が冷え、手足は氷のように冷たくなった。呼吸すら忘れそうになり、心臓がキリキリと締め付けられるような痛みを伴う。「2人は……いつの間に……よりを戻していたの……?」声を震わせながら呟く沙月。けれど……。2人の結婚生活の間、彼らは本当に一度も離れていなかったのだろうか?この2年間、沙月は「妻」として天野司の傍にいた。けれど彼の心に近づくことは一度もできなかった。近づこうとするたび、冷たく突き放されてきた。本当は分かっていた。天野司の「妻」であっても、自分には立場などないことを――****――あの晩餐会の夜薬を盛られた沙月は、司と一夜を共にしてしまった。それは互いが望んだわけではなかった。けれどその一夜が全てを決め、天野家の体面を守るために2人は結婚することになったのだった。司はこの結婚を露骨にイヤそうな態度で承諾したが、沙月は天にも昇るほど嬉しい気持ちで一杯だった。何故なら沙月は誰にも告げていなかったが、ずっと司に恋焦がれていたからだ。自分の手に届かない憧れの存在……それが司。その相手と結婚できるのだ。まるで夢のように幸せだった。今は自分に冷たい態度しか見せないが、誠心誠意をもっ
last updateLast Updated : 2025-09-15
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1-3 離婚しましょう
――それは昨年の雨の夜の出来事だった。その日、沙月はこの病院にいた。涙を流し、声を震わせながら手術台の上で必死に子供を守りたいと懇願した。『お願い……どうか……お腹の子供を奪わないで……お願いします……』すすり泣く沙月。けれど、司は冷たい目で言い放ったのだ。『俺のベッドに計略で上がってきた女に、子供を産む資格はない。大体……本当に俺の子供かどうかも怪しいものだ』『!』司の言葉が沙月の全てを打ち砕いた。絶望のまま手術を受け……麻酔で目覚めた時、医師から残酷な言葉を告げられた。『もう二度と妊娠することはできません』『――っ!』その瞬間。心臓を鷲掴みにされたような衝撃が走り、呼吸が止まりそうになる。嗚咽は喉で凍りつき、言葉にならない。 沙月の世界は、音を立てて崩れ落ちた。最初で最後の妊娠だった。(……どうして? 私には母親になる資格さえないというの……?)****病室の幸せそうな恋人同士……。沙月は自分の平らなお腹を、そっと撫でてみた。――もしもあの時、子供が生まれていれば「ママ」と呼んでくれたのに。もう二度と命が宿ることは無い。心の奥から深い悲しみが湧き上がる。病床で澪の手を握る司を見て、沙月はようやく理解した。自分のすべての執着は、決して手に入ることはない。幻想に過ぎなかったのだと。二年間の結婚生活も、新しい一つの命も、司にとってはどうでも良いことだったのだ。結局全て白紙に戻っただけ。なんて皮肉なことなのだろう。涙は流れなかった。もう流す力すら残っていなかった。ただ沙月の心の奥で……何かが静かに終わりを告げた――沙月は深いため息をつき、踵を返して去ろうとした。そのとき。背後から驚きと、どこか焦りの混じった声が響いた。「奥様、どうしてこちらに……?」振り返ると秘書の佐野が驚いた顔で沙月を見下ろしていた。病室の入口の空気が、一気に張りつめる。次の瞬間、部屋の中から聞き慣れた低い声が漏れた。「……奥様?」天野司と朝霧澪が、同時に扉の方へ顔を向ける。沙月はその場に硬直した。気のせいかもしれないが、朝霧澪の視線に一瞬鋭い悪意が走り、すぐに無害そうな柔らかい笑みに変わった。一方、司の表情は――まず驚愕、そしてすぐに読み取れないほど暗い影が落ちる。同じく扉の外にいた佐野は、自分が余計なことを言っ
last updateLast Updated : 2025-09-15
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1-4 邪魔な存在は
「ここに何しに来た?」天野司は眉をひそめて沙月を見た。その声には、罪悪感など一欠片もない。一方の朝霧澪は、まるで長年連れ添った恋人のように、自然に司の腕へとそっと手を添えた。そして何気ないふりをしながら沙月を上目遣いに一瞥する。その視線には、値踏み、侮蔑。そして隠そうともしない嘲りが混ざっていた。澪は、まるで何かを思い出したように柔らかい物腰で……しかし、悪意を含んだ笑みを浮かべる。「まあ……じゃあこの方が、噂の……」わざとらしく言葉を区切る。「司が無理やり結婚させられたという奥様、で合ってる?」口調は明るいのに、まるで針のように沙月の胸を刺す。沙月の指先が冷たくなり、気持ちが沈んでいく。「司……どうして電話に出てくれなかったの?」冷静さを保とうとするも、それでも震えが混ざる。すると司はさらに眉を寄せた。「お前の電話に出なきゃいけない義務は、俺にはない」「……そう」司の言葉に沙月は失望した。「妻の電話に出る義務はないのに……他の女性と一緒に病院にはいるのね?」その場の空気が一気に凍り付く。「何だと?」司の目が、僅かに揺れる。張りつめた空気の中、澪がふと「あっ」と声を漏らし、思い出したように口を開いた。「さっき……事故現場で奥さまらしき姿を見た気がします」澪は沙月の腕にある青あざと擦り傷に視線を向け、繊細な眉を寄せる。「……なんだと? それは本当か?」司の問いかけに澪は視線を伏せ、怯えたように言う。「誤解しないで? ……別に奥様を責めるつもりはないの。ただ……警察の方が言っていたのよ。前方の車が急ブレーキをかけた原因は、路肩で誰かが電話しながら歩いていて、ドライバーが驚いて反応が遅れたって……。それで私、その時、遠くに見えた女性が……奥さまに少し似ていたような気がして。もちろん、ただの見間違いだとは思うけど……」司の顔が一気に険しくなる。「沙月。お前、事故現場に何をしに行った?」その声音は冷たく、まるで彼女を疑っているかのようだった。息を飲む沙月。胸が締め付けられるように痛んだ。「ひょっとして……私を疑ってるの……?」司が反応する前に、澪が先に司へ飛びつく。そして震える声で泣き出した。「ごめんなさい……奥さまを責めるつもりじゃないの……!私、ただ……怖くて……だって……」澪は自分のまだ平坦な下腹
last updateLast Updated : 2025-09-16
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1-5 心無い言葉
沙月が病院の裏口から外に出てすぐの出来事だった。正面玄関では、澪と司が記者たちに囲まれていた。「朝霧さん!  天野さん!  少しだけお話を!」「この写真について説明をお願いします!」病院を出た二人を植え込みの陰から現れた記者たちが、一斉にスマホやマイクを突きつける。それは、まるで獲物を狙う獣のようだった。「病室でのこの写真、手を握っていたのは事実ですか?」一人の男性記者が司と澪にスマホの画面を向けた。そこには澪が司の手を握り、涙ぐむ姿が映っている。カーテンの隙間から盗撮されたその写真は、恋人同士の密会のように見えた。「な、何だ!?  この写真は!」司は画面を見て、目を見開いた。「SNSで流れてきた画像ですよ!」「奥様が入院中だったと聞いていますが、どう説明されますか?」「黙っていないで、何か答えてください!」「つ、司……」怯えて司の後ろに隠れる澪。「どいてくれ!  何て失礼な記者たちだ!  あまりしつこいと警察を呼ぶぞ!  俺が誰か分かっていて、そんな真似をするつもりか!」警察という言葉を聞いて、一歩引く記者たち。その隙に司は澪の手を引くと、強引な記者たちを振り切るようにその場を離れた。二人の写真が出回ったのは、あまりにも出来すぎていた。記者たちが張り込んでいたのも、あまりにも的確すぎた。タイミングもまるで誰かが狙って仕組んだかのように、完璧だった。奥歯を噛みしめる司。(沙月……。間違いない、あいつの仕業だ)胸の奥で、怒りが炎のように燃え上がった。****22時――沙月はリビングのソファに座り、じっと司が帰って来るのを待っていた。きちんと説明したかったし、はっきり問いただしたかった。三年前のあの事故のことも、今朝の出来事も。これ以上、この結婚が沈黙と誤解の中で腐っていくのを、もう黙っていられなくなっていた。テーブルの上には手つかずの冷めた料理が乗っている。バンッ!すると玄関の扉が乱暴に開く音が響き渡った。ドスドスと司の足音が廊下を踏み鳴らして近づいてくると、リビングに司の姿が現れた。その顔は激しい怒りに満ちている。「あの写真、さてはお前の仕業か……?  俺を潰すために仕組んだな!?」帰ってくるなり司の怒声が響く。しかし、写真のことなど一切知らない沙月は困惑して首を傾げる。「写真……て、何の話? そ
last updateLast Updated : 2025-09-17
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1-6 諦めと決意
「あ、あなたは……私のことを……そんなふうに見ていた……の?」「ああ、そうだ! お前は最初から、薬で俺を罠にかけた姑息な女だ!  天野家の権力を利用するために、俺に近づいたんだろう!?  いいか?  最初から言っていたはずだ。俺の妻の役目をきちんと演じて、おとなしくしていろと! まさかお前の心がここまで邪悪だったとは思いもしなかった!」「!」沙月は息を呑んだ。胸の奥が、鋭く裂かれるような痛みに襲われる。「……ち、違うわ……あれは、私も罠に……」しかし、司は最後まで言わせない。乱暴に手を振ると、吐き捨てるように言った。「もういい! お前にはどうせ何を言っても無駄だ! 今後は死んだように息をひそめて残りの契約結婚を過ごせ。それで俺たちは完全に終わりだ」短い沈黙の後、沙月はゆっくりと立ち上がった。気にかける気持ちがなければ、努力しても意味がない。憎しみが極限まで達しているなら、多少増えても意味はない沙月は悟った。司が真実を知ろうとしないのなら……自分も、もう彼の答えを気にする必要はないのだと。「……私の言うことを何も信じないのなら、最後の一カ月も待つ必要はないわ」司が眉をひそめる。「……何?」沙月は、司をまっすぐに見つめた。「離婚しましょう」その瞬間、部屋の空気が凍りついた。「な……?」司は言葉を失い沙月を見つめると、その瞳には強い決意が宿っている。沙月の言葉に、少しの間司は驚いて目を見開いていたが……。「はっ!  離婚?  今度はまた何を企んでいるんだ!」沙月はため息をつくと首を振り、静かに答えた。「別に他意はないの。ただ疲れただけよ。でもこれで私と離婚したいという、あなたの望みも叶うでしょう?」「離婚だと……?」冷たく笑う司。その瞳には露骨な嘲りが浮かんでいた。「俺と別れて、お前のような世間知らずが一人で生きていけると思っているのか?」司は一歩、鋭く間合いを詰める。「それともあれか? 白石家は、またお前に次の婿をあてがうつもりか? なにしろ、あの家が一番得意なのは、権力にすり寄るためなら何だってすることだからな」吐き捨てるような言葉の一つ一つが沙月の心を抉っていく。「他の家が、お前たち白石家の腹黒さを知らないとでも思っているのか? 可哀想な女を演じ、政略結婚に向く娘という外面を必死に保っているのだろう?」
last updateLast Updated : 2025-09-18
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1-7 友人との会話
「ふ~ん。なるほど、それで……」向かいで藤井蓮がグラスをゆっくり揺らしながら、半ば呆れた表情で言った。「奥さんが離婚だって言ったから、ムカついてカード全部止めた?  天野……お前って、ほんっと器ちっちゃいな」藤井蓮は高校からの腐れ縁で、実家は大学病院の院長家系。本人も今は内科医をしている。軽薄な男だが、女に関してだけは妙に鋭い洞察力を持っているタイプだ。「渡してあるカードを使おうとする女が離婚を言い出すなんて笑わせる」司は眉間に深い影を落とし、不機嫌そのものの声音で言い捨てた。「俺から離れたら一日だって生きていけない。三日もすれば泣きついて謝りに来るさ」自信満々の口調だった。だが、蓮は珍しくすぐには返さず、逆に眉をひそめた。「……司、それって……変だと思わないか?」「どこがだ?」司が苛立ち紛れに尋ねる。「その沙月さんて……」蓮はコツ、コツ、とグラスの縁を指で叩いた。「お前の話を聞く限り、トラブルを起こすようなタイプじゃないんだろ。おとなしくて、社交的でもなくて。だったら、今回の事故が彼女のせいってのは考えにくい。それに……例の朝霧澪が急に帰国して、しかも妊娠してるだなんて……。本当に、お前の子なのか?」司の眉がピクリと動く。彼は酒をひと口含みむと硬い表情で答えた。「澪は……海外で付き合っていた男に捨てられたんだ。妊娠したのに責任も取られず……見捨てられて……放っておけるわけないだろ?」蓮は「ふーん」とわざとらしく眉を上げ、意味深な笑みを浮かべた。「へえ〜? そういうこと? じゃあ今のお前って、『他人の子の父親役』を買って出ているわけだ?」ソファにもたれた蓮は、軽いノリで茶化してくる。「何だと……?」カチャンッ!司は乱暴にグラスを置くと、蓮を睨みつけた。「……ふざけるな」「いやいや、だって事実だろ?」蓮は肩をすくめる。「他人の子を妊娠してる女の味方をして、妻に誤解させて離婚までしようとしてる。間違ってないだろ?」司の顔色はさらに暗くなっていく。「司……ますます怪しいぞ、この件」蓮はそんな友人の表情を前に、笑いながら……しかし、わずかに真剣味を帯びた声で言った。「……」押し黙る司。胸がぎゅっと締め付けられ、息が詰まるようだった。これが彼にとって、初めて心の底から慌てふためく感覚だった。司は初めて沙
last updateLast Updated : 2025-09-19
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1-8 最悪のタイミング
沙月は宝石店の前に立っていた。深く息を吸い込んだのち、中へと足を踏み入れると、笑顔で店員が近づいてきた。「いらっしゃいませ。ご用件をお伺いします」「……あの、この店では指輪の買取って、できますか?」「はい、出来ますよ」そこで沙月はそっとリングケースを取り出し、店員に差し出す。「これ……査定していただけますか」店員はうなずいた。「はい。ただ少々お時間をいただきますが」「今日中に処分したいんです」沙月の声は焦りが滲んでいた。何故なら手元で今、お金に替えられるものは、この結婚指輪しかないからだ。「かしこまりました。それではお預かりいたします」店員が指輪を持って鑑定に行こうとしたその時。背後から、沙月の背筋が凍りつくような声が響いた。「この指輪、とても綺麗ね。……私に売ったらどう?」沙月の身体がびくりと固まり、恐る恐る振り返った瞬間……顔が青ざめる。何故なら朝霧澪が、店の入口に立っていたからだ。高そうなワンピース、煌めくダイヤのピアス、ブランド物の香水の香り。その存在そのものがこう言っているようだった。「ほらね、ここにふさわしいのは私」と――澪はサングラスを外し、沙月を切り裂く刃のような完璧な笑みを浮かべる。「やだ、誰かと思えば……あなた沙月さん? びっくりしたわ。そんな格好してるから、てっきりお金を借りに来た人かと思っちゃった」沙月は指先で皮膚が破れそうなほど力を込めて掌を握りしめる。(どうして……このタイミングで……現れるの……?)澪の視線が指輪に落ちた瞬間、その目が冷たく、毒のような光を帯びる。「これ、あなたの結婚指輪? 売るくらいなら……」獲物を前にした捕食者のように、澪は一歩近づいた。「私に売れば?」その声音は、まるで「食べ物代を恵んであげる」と言わんばかりだった。沙月の身体が震える。けれど……。「……売りません」澪の笑みが強張る。「は? 私の申し出を断るの? 家も金もなくて追い出される寸前なのに、何様のつもり?」沙月はゆっくり顔を上げた。声は弱くとも、その芯は揺らがない。「指輪は売ってもいい……でも、あなたには売らない」「……っ!」澪の顔がみるみる歪む。「馬鹿なじゃないの!? 司が愛してるのは最初から私! 奪ったのは、あんたのほうでしょ!」「……そうよ」沙月の声は静かだった。「だか
last updateLast Updated : 2025-09-20
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2-1 沙月の決意と、司の喪失感
 広々とした2LDKのタワーマンションの一室に、朝の光が明るく差し込んでいた。ダイニングルームに沙月の姿があり、湯気の立つ紅茶をじっと見つめていた。その向かい側に座るのは沙月の親友――中野真琴。この部屋は彼女が暮らすマンションで、現在沙月は彼女の世話になっていたのだ。「……沙月。本当に、あの人たちが夫婦みたいに振る舞ってたの?」尋ねる真琴の声は、驚きと怒りを含んでいた。沙月は頷きながら、唇を噛みしめる。「うん……。ジュエリーショップで……澪さんが司の腕に絡んで、店員から『ご夫婦ですか?』って聞かれていたの。司は否定しなかったわ」「最低ね。まだ離婚してないのに、堂々と不倫するなんて……絶対に許せないわ」悔しそうに拳を握りしめる真琴。その仕草は正義感が滲み出ていた。真琴は都内でも名の知れた弁護士で、企業案件から刑事事件まで幅広く扱っている。真琴に弁護を依頼したいと願う人々は数多くいて、忙しい日々を送っているのだ。その彼女が、今はただ親友として、正義感に燃えている。「カードも凍結されてたの。だから、指輪を売りに出すしかなかったのに……。まさか偶然会うなんて思わなかったわ。でもこれではっきり分かった。あの人にとって、私はもう完全に邪魔者なのよ」「……」真琴はしばらく黙っていたが、やがて立ち上がり、書類の束を持ってくると沙月の前に置いた。「これ、テレビ局の記者職の応募書類。応募してみたら?」沙月は驚いたように目を見開いた。「私が……記者に?」「忘れたの? 沙月はX大学を首席で卒業してるじゃない。学生時代は教授たちが“将来の報道界の星”って言ってたでしょう? あなたには、あの人たちに負けない力がある」「でも……今の私は何も持ってないのに……」「持ってるじゃない。知識も、分析力も、言葉の力も。沙月の卒業論文は本当に素晴らしかったのを今でも忘れないわ。弁護士の私が言ってるんだから信じなさいよ」沙月は封筒を受け取り、応募要項を読んだ。光り輝いていた過去の自分が、今はもう遠い幻のように思えた。けれど真琴の言葉で勇気を貰えた。「……ありがとう。私……やってみる。応募してみるね」「良かった。沙月ならきっとそう言うと思ってた。私も全力で応援するから、頑張ってね」真琴は沙月の両手を握りしめた――****――同日、19時過ぎ。司が仕事から帰
last updateLast Updated : 2025-09-21
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2-2 固い決意
 沙月が真琴のマンションで暮らし始めて、早いもので1週間が経過していた。――午前8時。「それじゃ仕事に行ってくるわね。マンションの合鍵は自由に使ってちょうだい」朝食後のコーヒーを飲み終えた真琴が椅子から立ち上がった。真琴はキャリア弁護士らしく、スーツ姿が決まっている。「うん、行ってらっしゃい。……ごめんね。真琴、お世話になっちゃって」沙月が目を伏せて謝ると、真琴は笑った。「何言ってるのよ。私たち、親友でしょう? それに正直助かっているのよ? だって豪華な夕食に栄養バランスが取れた朝食、それに掃除洗濯まで沙月にしてもらってるんだから」「でも、それは居候として当然……」「居候じゃなくて、同居人でしょ?」「え……?」「沙月は私の大切な同居人。だから迷惑なんて考えないことよ。それじゃ、行ってくるわね」「……うん、行ってらっしゃい」真琴は笑顔で手を振ると、さっそうとマンションを出て行った。――バタン扉が閉じられ、沙月は一人になった。「私も真琴を見習って頑張らないと。それに……今日は大事な面接の日だし」テーブルに置かれた自分の履歴書を手に取ったとき。――トゥルルルルル……突然スマホに電話がかかってきた。着信相手は節子――天野家に出入りしている家政婦だ。イヤな予感がしたが、沙月は電話に出ることにした。「……もしもし?」『あ、奥様。おはようございます。家政婦の節子です。あの……本日司様は投資家向け説明会で壇上に立たれてお話をされるのですが……そのような場面で着用されるスーツを探しています。ですが私ではどこに置いてあるのか、分かりかねるので教えていただけないでしょうか?』節子の態度が何処かぎこちないとは思いつつ、沙月は答えた。「ダークスーツなら、彼の寝室の一番左側のクローゼットにかけてあります。そちらを探してみてください」『それが、先ほど探してみたのですが私では無理でした。あ、あの……奥様。もうしわけございませんが、御自宅に戻ってきて場所を教えていただけないでしょうか?』その態度に沙月はピンときた。(これは……きっと、司の指示ね。長年家政婦をしている節子さんがスーツの場所を知らないはずないし。恐らく近くにいるに違いないわ)それはあまりに白々しいセリフに聞こえた。「司さんを電話に出して」冷静な声で言う。『はい、かしこまりまし
last updateLast Updated : 2025-09-22
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