冷酷御曹司・天野司との契約結婚で、沙月は愛も尊厳も失った。子どもを望めない身体となり、夫からは冷たく突き放され、結婚式すら一人で迎えた彼女は、ついに離婚を決意して家を出る。だが、過去に封じた夢――記者としての人生を取り戻すため、沙月は再び立ち上がる。妨害、侮辱、嫉妬が渦巻く中、義妹・遥と司の元恋人・澪が仕掛ける罠にも、沙月は一歩も引かずに立ち向かう。誰にも媚びず、誰にも屈しないその姿は、周囲の視線を奪い、かつて彼女を見下していた者たちの心を揺るがせていく――
View More視界が、ぐらりと揺れた。
何かが砕ける音。誰かの叫び声。
身体が宙を舞い、叩きつけられた。
途端に身体を引き裂かれるような痛みが全身を走る。
耳鳴りが酷くて、周りの音が何も聞き取れない。
空気が薄くなったかのように、息が苦しく呼吸ができない。
頭がズキズキと割れるような痛み。
一体何が起きたのか分からない。その時、自分のスマホが転がっているのが目に留まった。
「う……」
朦朧とする意識の中で沙月は夫――天野司の電話番号を振るえる指先でタップした。
トゥルルルル……
耳元で聞こえる呼び出し音が続く。
(お……願い……出て……)
しかし……。
プツッ!
通話が切れた……いや、切られてしまった。
「フ……」
沙月は小さく笑った。
馬鹿な話だ。彼は一度だって、沙月の電話に出たことは無い。いつも無情に切られてしまうのは分かり切っていたはずなのに。
急激に自分の意識が遠くなっていく。
(ひょっとして……これが死ぬということなのかも……)
もしこのまま死んだら、自分の遺体を引き取ってくれる人は、いるのだろうか?
誰か、泣いてくれるだろうか?
それとも身元不明の遺体として荼毘に付されてしまうのだろうか……?
そんなことを考えながら、沙月の意識は闇に沈んでいった――
****
沙月が次に目覚めた場所はベッドの上だった。
辺りには消毒液の匂いが漂い、廊下は騒がしく看護師の声が聞こえてきた。
「交通事故です。数十人の負傷者が出ています」
看護師の声が飛び交い、ストレッチャーが廊下を走る音が聞こえている。
「また……病院……?」
天井の白さが眩しく思わず目を細めたとき、看護師が現れて急ぎ足でベッドに近づいてきた。
「天野さん? 目が覚めたのですね? 良かった……あなたは交通事故に遭って病院に運ばれてきました。事故のことは覚えていらっしゃいますか?」
「……はい」
沙月の脳裏に事故に遭った瞬間の出来事が蘇る。
「天野さんは事故で脳震盪を起したので経過観察が必要です。原則としてご家族の付き添いをお願いしているのですが、連絡の取れるご親族はいらっしゃいますか?」
「家族……」
沙月には付き添ってくれるような家族はいなかった。
2年前――
あの強引な契約結婚以来、彼女は天野家から「家族の体面を守るため」、外部との連絡を絶たれていたのだ。
友人に連絡することも、実家に頼ることも許されなかった。
今、頼れるのは天野家だけ。
けれど、そこでも彼女の立場は弱かった。
仕事もなく、社会からも孤立している。彼女は、ただ「妻」という肩書きだけで天野家に縛られていた。
「では……連絡を入れてみます……廊下で……電話しても……いいでしょうか……」
看護師の前では司に電話をかけたくはなかった。彼が電話に出ることも無く一方的に切ることは分かり切っていたからだ。その姿を見られたくなかった。
「……ですが、脳震盪を起しているのに起き上がるのは無理です。もし、私がいることで電話をかけにくいなら席を外しますから、こちらでかけてください」
看護師は沙月の枕元にスマホを置くと、病室から去って行った。
「……」
繋がるはずのないスマホを握りしめたとき、廊下から会話が聞こえてきた。
「聞いた? 13号室の患者さん、朝暮澪さんらしいよ!」
(朝霧……澪?)
その名前に沙月は反応した。視線を動かすと、2人の看護師が沙月の部屋の前で立ち話をしている。
「え? 朝霧–澪? 最近ネットで話題のニュースキャスターでしょ? どうして入院してるの?」
「多重事故で、腕を怪我したのよ。大した怪我でもないのだけど、顔で食べてる人だから、やっぱり普通の人よりデリケートね。それに若い男性もいたのよ! 以前財経雑誌で見た天野グループの超イケメン御曹司にそっくりだったの! 絶対あの雰囲気だと恋人同士に違いないわよ」
興奮しているのか、看護師の声が大きくなる。
「その話、本当なの? だって噂じゃ、数年前に極秘結婚したって騒がれていたじゃない。……もしかして朝暮さんが相手だったの?」
(結婚相手……)
沙月の心臓の鼓動がドクドクと早まる。
その時。
「あなたたち! こんなところで患者さんの噂話をしているんじゃないの! 早く持ち場に戻りなさい!」
突如、2人を叱責する声が聞こえた。
「は、はい!」
「すみません! 師長!」
慌てた様子で謝罪し、足音が遠ざかっていった。
「朝霧……澪」
天井を見つめていた沙月はポツリと呟いた。
朝暮澪――天野司の初恋の相手。
彼女は海外にいるはずではなかっただろうか? しかも……司が一緒にいる?
沙月は痛む身体を何とか起こし、ベッドから降りた。
壁に手をつき、ふらつきながら廊下を歩き……気づけば13号室の前に立っていた。
扉は少し開いており、隙間から見えたのは――
司が病床のそばに座り、澪の手をそっと握る姿。沙月が今まで見たことのない優しい笑みを浮かべていた。
「!」
その瞬間、沙月は息が詰まりそうになった。
胸の中の感情を必死に押さえようとするが、澪の声が耳に飛び込んできた。
「良かったわ……子供は無事で」
澪が自分のお腹にそっと手を当てる様子を見てしまう。
ドクンッ!
世界が一瞬静まり返った。
(子供……? まさか……もう2人に子供がいた……?)
沙月の全身から血の気が引いていった――
朝の病室は静かだった。風で揺れるカーテンの隙間からは、雲一つない澄み切った青空が見える。今日は沙月の退院の日。けれど、心は少しも晴れなかった。荷物をまとめながら、沙月はスマホを確認した。親友・真琴からのメッセージには『ごめんね、急な仕事で病院に迎えに行けなくなって』とある。『私のことは大丈夫。気にしないで仕事頑張ってね』メッセージを打ち込む指先は、どこか力なく震えていた。真琴に返信すると、沙月は病室を後にした。****「どうもありがとうございました」窓口で退院手続きを済ませて玄関へ向かう途中、聞き慣れた声が廊下の奥から聞こえてきた。「それにしても子供がいなくて良かったわよね。もし妊娠していたら、もっと面倒なことになっていたもの」その声に沙月の足が止まる。背筋が凍りそうになり、慌てて柱の陰に身を寄せると顔を覗かせた。すると澪が司の腕に触れながら笑っている姿が見えた。2人はこちらに向かって歩いてくる。そこで沙月は背を向けるように隠れた。すると、とんでもない会話を耳にした。「でもね、事故のとき、私見たのよ。沙月さんが現場にいたの。あの表情……忘れられない。……あれは、わざと彼女が起こした事故だったんじゃないかしら」「何だって? あいつが現場にいたっていうのか? それじゃ、本当に……沙月の仕業なのか?」澪の言葉を全く疑っていない司の言葉が、沙月の胸を締めつける。「ねぇ、そんなことよりも司。この子はあなたの子供なのだから……ちゃんと責任、取ってくれるわよね」司が何と答えたのか……沙月の耳には入ってこなかった。(もう……これ以上ここに居たくない!)沙月は荷物を抱えたまま、逃げるように裏口へと向かい病院を出た。陽射しが強く、目に染みた。けれど、それ以上に胸が痛かった。「……帰ろう」肩を落とし、沙月はトボトボとタクシー乗り場に向かった――****沙月が病院の裏口から外に出てすぐの出来事だった。正面玄関では、澪と司が記者たちに囲まれていた。「澪さん! 司さん! 少しだけお話を!」「この写真について説明をお願いします!」病院を出た二人を植え込みの陰から現れた記者たちは、一斉にスマホやマイクを突きつける。それは、まるで獲物を狙う獣のようだった。「病室でのこの写真、手を握っていたのは事実ですか?」一人の男性記者が司と沙月にス
その瞬間、脳内に爆弾が投げ込まれたような衝撃を受けた。澪の笑い声、そして「子供は元気です」という言葉。血の気が逆流するように全身が冷え、手足は氷のように冷たくなった。呼吸すら忘れそうになり、心臓がキリキリと締め付けられるような痛みを伴う。「2人は……いつの間に……また一緒になっていたの……?」声を震わせながら呟く沙月。2人の結婚生活の間、彼らは本当に一度も離れていなかったのだろうか……?この2年間、沙月は「妻」として天野司の傍にいた。けれど彼の心には一度も触れることは出来なかった。触れようとするたび、冷たく拒絶されてきた。本当は知っていた。自分が天野司の「妻」であっても、立場などないことを――****あの晩餐会の夜。薬を盛られた沙月は、司と一夜を共にしてしまった。それは互いが望んだわけではなかった。けれどその一夜が全てを決め、天野家の体面を守るために2人は結婚することになったのだった。司はこの結婚を露骨にイヤそうな態度で承諾したが、沙月は天にも昇るほど嬉しい気持ちで一杯だった。何故なら沙月は誰にも告げていなかったが、ずっと司に恋焦がれていたからだ。自分の手に届かない憧れの存在……それが司。その相手と結婚できるのだ。まるで夢のように幸せだった。今は自分に冷たい態度しか見せないが、誠心誠意をもって彼に尽くせば、いつかきっと2人は良い夫婦になれるだろう。沙月はそう信じて疑わなかった。けれど、その希望は結婚式の日に無残にも打ち砕かれることになる。結婚式当日、あろうことか司は式場に現れなかったのだ。結婚式場には多くの報道陣と参列者が出席していた。新郎のいない隣の席。彼女は独りで報道陣と参列者の好奇な視線に晒された。あの時の恥ずかしさと悲しみは今も心の傷として、決して忘れることが出来ない。悲しみに打ちひしがれていたその夜――宿泊先のホテルに司はフラリと現れた。冷たい眼差しで睨みつけてくる司に、沙月は「何故結婚式に現れなかったのか」と尋ねることは出来なかった。司は無表情で契約書を差し出し、告げた。『結婚は三年。子供は作らない。それが条件だ』感情を伴わない言葉に、沙月は何も言えなかった。第一、拒否する権利など最初からなかった。そして、この夜。司が沙月に触れてくることは無かった――2人の結婚生活は本当に冷え切っていた。触
視界が、ぐらりと揺れた。何かが砕ける音。誰かの叫び声。身体が宙を舞い、叩きつけられた。途端に身体を引き裂かれるような痛みが全身を走る。耳鳴りが酷くて、周りの音が何も聞き取れない。空気が薄くなったかのように、息が苦しく呼吸ができない。頭がズキズキと割れるような痛み。一体何が起きたのか分からない。その時、自分のスマホが転がっているのが目に留まった。「う……」朦朧とする意識の中で沙月は夫――天野司の電話番号を振るえる指先でタップした。トゥルルルル……耳元で聞こえる呼び出し音が続く。(お……願い……出て……)しかし……。プツッ!通話が切れた……いや、切られてしまった。「フ……」沙月は小さく笑った。馬鹿な話だ。彼は一度だって、沙月の電話に出たことは無い。いつも無情に切られてしまうのは分かり切っていたはずなのに。急激に自分の意識が遠くなっていく。(ひょっとして……これが死ぬということなのかも……)もしこのまま死んだら、自分の遺体を引き取ってくれる人は、いるのだろうか?誰か、泣いてくれるだろうか?それとも身元不明の遺体として荼毘に付されてしまうのだろうか……?そんなことを考えながら、沙月の意識は闇に沈んでいった――****沙月が次に目覚めた場所はベッドの上だった。辺りには消毒液の匂いが漂い、廊下は騒がしく看護師の声が聞こえてきた。「交通事故です。数十人の負傷者が出ています」看護師の声が飛び交い、ストレッチャーが廊下を走る音が聞こえている。「また……病院……?」天井の白さが眩しく思わず目を細めたとき、看護師が現れて急ぎ足でベッドに近づいてきた。「天野さん? 目が覚めたのですね? 良かった……あなたは交通事故に遭って病院に運ばれてきました。事故のことは覚えていらっしゃいますか?」「……はい」沙月の脳裏に事故に遭った瞬間の出来事が蘇る。「天野さんは事故で脳震盪を起したので経過観察が必要です。原則としてご家族の付き添いをお願いしているのですが、連絡の取れるご親族はいらっしゃいますか?」「家族……」沙月には付き添ってくれるような家族はいなかった。2年前――あの強引な契約結婚以来、彼女は天野家から「家族の体面を守るため」、外部との連絡を絶たれていたのだ。友人に連絡することも、実家に頼ることも許されなかった。今
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