私はふっと笑い、慎一の顔を両手で包み込むようにして、そっと唇にキスを落とした。「これでいい?」慎一は細めた目で私を見つめ、「まだ足りない」と囁く。私は素直に目を閉じて、もっと深くキスをしようとした。けれど、唇が触れたのは彼の柔らかな唇じゃなくて、頬だった。彼は顔をそらして私のキスをかわし、「お前、自分が何をしてるか分かってるのか?」私は戸惑いの表情を浮かべた。だって、私は彼の言う通りにしているはずなのに。「お前の瞳には、感情がない」慎一の瞳に一瞬、陰りが差した。そして私を隣の座席に押しやる。「これじゃ、媚びているとも言えない」どういう意味?誘ってもいらないって何、それ。慎一は私に背を向けて、頑なに横顔だけを見せている。奥歯を噛みしめ、彼の視線は鋭くなっていた。しばらく沈黙が流れる。私はぽつりと尋ねる。「もうキス、しないの?」慎一は何も言わず、ますます顔色を曇らせた。車内は、死んだような静けさに包まれた。その時、ちょうど車が誠和の前に停まった。私は、入口で待っている卓也の姿に気づき、急いで慎一に別れを告げようとした。ドアを開けようとしたその瞬間、突然腰に腕が回され、強く引き寄せられて、私はほとんど慎一の胸に倒れ込んでしまった。彼は視線を逸らしたまま、きれいな人差し指で自分の頬をトントンと叩く。一瞬で、肌がじんじんと痺れる。「何してんの?」「これからは、先に降りる方が、相手にキスをすること」慎一は真面目な顔で、まったく動じずに言った。「その方が、お前との愛を深めるのにいいと思う」愛、だって?笑い飛ばしたくなるけど、心の奥の苦さはどうしても誤魔化せない。私はそっと慎一の頬に口づけて、それから彼を押しのけた。この世に、キス一つで相手を愛する人なんているの?もしそんな人がいるなら、私は今すぐ逃げ出したい。車を降りて卓也の方へ歩いていくと、彼はにこやかに私に言った。「お嬢様、やっぱりお二人はお似合いですよ。あの方の目を見れば、お嬢様への想いが分かります」私は彼の視線を追って振り返ると、慎一が風の中で立ち尽くしている姿が見えた。その光景は、まるで絵画のように美しかった。ただ、それだけ。「見間違いよ」と私は返す。卓也は、「いえ、私は佐藤社長の見る目を信じています」と言う。
実のところ、私は慎一に説教する資格なんて、最初からなかったのだ。全てを捧げて、それでも後先なんて考えずに突き進む――そういうことなら、私の方がよく知っている。彼のことを何年も好きでい続けた間、まさか好きじゃなくなる日が来るなんて、一度も思ったことはなかった。鋭利な刃物を自分の首に当てたときだって、手が震えて動脈を切ってしまうかもって考えもしなかった。康平と一緒になると決めたときも、まさか本当に一緒になる前に、終わるなんて思ってなかった。人は、どんな決断をするにも、その瞬間にはせざるを得ない理由がある。ただ、その結果を背負う覚悟だけは必要なんだ。「うん、あなたの言うとおりだよ」私は適当に返事をしながら、ヨード液を彼の傷口に塗った。手際よく、表情は真剣そのもの。「お前のことだけは、どうしても我慢できなくなる」その言葉を、ふいに彼が呟いた。私は一瞬手を止めてしまった。正直、彼の手の傷なんて、もっと深くてもいいんじゃないかって思った。もし本当に痛かったら、こんなセリフ言えないはずだから。彼の傷は包帯で何とかなるけど、私の心の傷はもうどうしようもない。とっくに手遅れで、しかも慎一が私の治療薬になることもない。私は新しいガーゼを取り出して、再び彼の手当てを続けながら言った。「もう無駄なことはやめて」声が少し詰まってしまい、慌てて咳払いして立ち上がる。「包帯終わったから、水に気をつけて。もし家にいるなら田中さん呼んでおきなさい。私、これから忙しくなるから。昼も夜もここでご飯食べない」私はゆっくりと出口に向かった。ドアの前まで来たところで、慎一が私を呼び止めた。「佳奈、お前が欲しい」私は振り返って、ソファに座ったままの彼を見た。何を言いたいのか、全然わからなかった。さっき寝室では、むしろ彼の方が私を拒絶したのに。「いつでもいいよ、私はあなたのものだから」康平の件が片付いた以上、私たちの取引も有効になった。今も彼とは離婚状態のまま。こんなふうに飼われてる私を、彼は一体どう思っているのだろう。愛人?それとも、それ以外の何か?どうでもいい。私は肩にかけていた小さなバッグを見下ろして言った。「夜じゃダメ?ちょうど今、出かけるところだったの」慎一は首を振った。私はバッグのストラップを握る手
「じゃあ、どうすればいいの?」彼に唇を何度も奪われて、痺れるような感覚に耐えながら、私は皮肉げに笑った。「じゃなきゃ、私たちの間に何が残るの?」慎一は眉間にしわを寄せた。「当ててみろ。俺が今日、康成のところに行ったのは、何のためだと思う?」私は彼のシャツの裾を握る手にぐっと力を込めた。緊張で爪が彼の肩に食い込んでいることさえ気づかない。「はっきり言いなさい!」「やつはすぐに海外へ送られる。向こうに行けば、自由になる。そこで結婚して、子供も作って、父親が決めた人生を歩む。その未来に佳奈って女は存在しない。俺は前から分かってた、お前たちが一緒にいるはずないって」彼は私の頬を掴み、左右に揺らして私の苦しむ顔を見ようとする。その目は、康平が私の心にどれほどの影響を残しているのかを探っていた。でも、彼はきっと失望するだろう。もし康平が無事で、安定した未来を送れるのなら、私は誰よりも嬉しいのだ。私はもうごまかさない、もう抗わない。邪魔な服を脱ぎ捨て、両手で彼の腰を抱き寄せた。「いいよ」目を閉じて、彼の思うままに身を任せる。一秒、二秒、三秒……彼の呼吸さえ途絶えたかのよう。もしかして、私があまりにも冷静だったから、彼は興が冷めたのだろうか?「慎一?」私はそっと呼びかけた。「嫌なら、どいて」彼はそれでも動かない。「ドンッ!」目を開けると、次の瞬間、彼は拳を振り上げてベッドのヘッドボードを殴りつけた。その痛みが耳を突き抜け、血に溶けて、心まで貫いた。木のヘッドボードには大きなひびが入っている。どれだけの力を込めたのか、想像もつかない。慎一はベッドを降りると、何事もなかったかのような無表情で部屋を出て行った。私に向けて残したのは、軽蔑の眼差しと、血のついた壊れたベッドだけ。私は裸足で床に降り、クローゼットから服を引っ張り出して着替えた。胸の奥にあった重い石が、ようやく静かに降りた気がした。やっとこの新しい「家」を見回す心の余裕ができた。いったい、いつから彼はここを用意していたのだろう。いつから、私を自分のそばに留めようとしていたのだろう。私は首を振り、それ以上考えないことにした。誠和へ行かなきゃ。穎子がいない間、私が代わりにやらなきゃいけないことが山ほどある。階段を下りると、慎一がリビングのソファに座っ
彼が何を言っているのか、私にはよく分からなかった。でも一つだけ分かっていた。このまま慎一に連れて行かれたら、私がここまで来た意味がなくなる。大江夫人は一生懸命に私たちを中に招こうとした。私は必死でうなずいてみせたけれど、慎一に頭を押さえつけられてしまった。大江夫人はそれを見て、康成を押して助けを求めたけれど、康成は全身が石みたいに固まって、一歩も動けないでいた。私は慎一に腕の中でくるくると回され、お尻を持ち上げられて抱きかかえられた。まるで子供みたいに、彼は私をそのまま連れ去ろうとする。……「おろして……」私は小声で彼の耳元に囁いた。顔が真っ赤に火照って、こんな大勢の前で、この体勢は本当に恥ずかしすぎる。彼に高く持ち上げられた瞬間、世界がぐるぐる回るようで、いっそ気絶してしまいたいと思った。こんな恥はもう耐えられない。「パシッ」お尻に突然平手が飛んできて、思わず足をピンと伸ばして、彼の腰にぎゅっとしがみついた。その一連の動きが、昔の私たちみたいで……慎一は息を荒げて、「そんなにきつく締めるな」と低く言った。そんなタイミングで、大江夫人が小走りで追いかけてきた。「霍田社長……」周りの人にとって慎一はまるで金の成る木みたいに見えるんだろうけど、私からすれば、千年に一度花が咲く鉄の木――全身が熱くなって興奮している存在だった。私は彼の肩にもたれて、顔が熱くて血が滴りそうだった。もう誰にも顔を見せられない。慎一は大江夫人の呼びかけなんて無視して、車に乗り込むまで一度も足を止めなかった。車の中、彼の声はまだ少しかすれていて、私を見る目だけが冷たかった。「来るなって言っただろ?」車内はまるで巨大な冷蔵庫みたいに、空気が急激に冷え込む。私は身体の芯まで凍り付きそうだった。喧嘩したくなかったから、私は固く口を閉じて、窓の外だけを見つめた。私たちは、まるで舞台の上で共演する役者みたいに、外では仲睦まじく振る舞うけれど、中身は他人よりも他人だった。でも、どっちが演技なのか、もう分からない。帰宅して、私は水槽の前の机に突っ伏してぼーっとしていた。慎一はわざと水槽の前に立って、私の視界を遮る。私は彼の体を一度見てから、また水槽の向こうを見つめ直した。水槽は大きいから、全部隠せるはずがない。慎一もそれ
康成は妻を溺愛しているというのは、白核市では誰もが知る話だ。だが、子供を失って、二人はついに別居することになった。そんなことになって、康成が康平を許すはずもない。家庭を壊され、キャリアも傷つけられて、たとえ血の繋がった弟でも、康平が無事でいられるはずがない。ましてや、そこには大江家が絡んでいるのだから。康平のことを思い出すと、心の奥に棘が刺さったような痛みが広がる。消えそうな罪悪感が、胸を締め付けて離れない。大江夫人は目をくるくると動かして、もし来たのが佳奈の元夫だったら、きっと大喜びで玄関を開けて、慎一を家に招き入れ、何かと便宜を図っただろう。だが、来たのが佳奈だと知るや否や、大江夫人は口をとがらせて言い放つ。「聞こえなかった?さっさと出ていきなさい。あんたなんかがうちと取引できる立場じゃない」私は微笑んだ。「奥さんは、康平が兄を陥れたってことだけをご存じなんでしょう?でも、どうしてそうせざるを得なかったのか、聞いたことはあります?」奥さんは首を振る。「康成が言ってた、全部あなたのせいだって。だから、あなたの顔は見たくない。あなたを見るたびに、あの子を思い出してしまうから」大江夫人の目は、私に対して軽蔑の色を帯びていた。私はそれを無視して、奥さんに向き直る。「もし、私が康成に殺されかけていたとしたら?」大江夫人は鼻で笑った。「このご時世、人の命なんて安いもんね。死にたがる人までいるんだから」奥さんも言う。「佳奈、あなたと康平がどうして康成を目の敵にするのかわからないけど、あの人が人を傷つけるなんて絶対にないわ」例え今は別居していても、彼女はやはり鈴木家の奥様だ。その口調には、これまでにないほどの強い意志が感じられた。鈴木家を貶める言葉は決して許さない、という気迫だった。私は黙って、そっと襟元を引き下げる。そこには白く浮き出た傷跡、言葉よりも雄弁な証拠だ。本当は首の傷は、もうほとんど見えなくなっていた。だが今朝、家を出る前にアイブロウペンシルで影をつけて、わざと目立たせてきたのだ。うつむきながら、襟を整えて、これから全てのいきさつを話そうとした、その時だった。背後から轟くエンジン音。スポーツカーの咆哮が近づいてくる。康成が勢いよく駆け込んできて、私は腕を強く引かれ、思わずよろめいた。「お前、うちの妻
いいじゃない。黒川が気に入る女の子なんて、きっと家柄も悪くないはずだし。本当に康平とうまくやっていけるなら、それはそれで喜ばしいことだろう。「それは本当に素敵ですね。もう長いこと康平に会ってないので……おじさん、代わりにお祝いを伝えてください」そう言いながら、私はグラスを持ち上げた。これが今夜、私の最初の一杯だった。慎一は、康平が海外に行くつもりだと聞いて、ふっと興味を示した。この「兄貴」もまた、「弟」のことが気になるのだろう。私はもう、その話を聞く気も起きず、ちびちびと酒を口にした。気づけば、数杯はもう空けていた。このお酒、思ったより美味しい。もっと飲みたいと思ったその時、慎一が私のグラスを押さえた。二人が何を話しているのか、私はよく聞き取れなかった。気づけば彼に横抱きにされていて、私は彼の肩越しに黒川に手を振り、明日また会いに行くと伝えた。慎一は私を車に押し込んだ。その動きはどこか乱暴だった。酔ってはいなかったけれど、頭の中の感覚がやけに鋭敏になっている気がした。長い髪をぐしゃぐしゃに顔にかけて、彼にもたれかかり、酔ったふりをする。彼は私が酔いすぎたと思ったのか、静かな声で「明日はどこにも行くな」と囁いた。闇の中で目を開けていると、彼のその言葉が聞こえてきた。私は返事をしなかった。慎一は俯き、私の髪をそっとかき分けて、私が「ぐっすり眠っている」のを見つけた。彼の指先が、時折私の頭を優しく撫でていた。家について、寝室のベッドに私を横たえるまで、ずっとそのままだった。その後、彼は酔い覚ましのお茶を作って飲ませてくれ、顔を拭いて、パジャマに着替えさせてくれた……昨晩のように、また私の隣で眠るのかと思ったけれど、彼はそうしなかった。「よく寝ろ」彼は静かにベッドのそばに立ち、そう言った。一瞬だけ、私の演技が上手すぎたのかと思ったけれど、今やっと分かった。彼は私の芝居を見破っていながら、あえてそれを指摘しなかったのだ。でも、私たちの間にそんなものはもう要らないのに。目を開けて彼を見ようとした時には、彼はもう背を向けて去っていた。彼がいなくなった瞬間、それまで張り詰めていた神経がふっと緩んで、私はようやく眠りについた。翌朝、私は真思からの電話で目を覚ました。「出発前に、もう一度会いたい