ログイン「どうだ。止まったか?」
滝沢は首をふるふると横に振る。 公園のベンチに座らせて安静にして鼻を押さえさせているが、鼻血はまだ止まっていないようだ。 スマホですぐに応急処置を調べたけれど、果たしてこれで本当にあっているのだろうか。 少し心配だ。 「ご、ごべんだざい」 止血の為に鼻を摘んでいる滝沢は、滑舌悪く謝罪をしてきたが、それは俺に向けるためのものではない。 それを被害者である矢野さんが受け入れるとも思えないが。 「とりあえず止血することに集中してくれ。話はそれからだ」 滝沢はコクリと一つ頷いた。 チラリと横顔を見やると、とても残念だった。 入学当初、美人だと思っていたその横顔は、擦りむいてあちらこちらに傷ができてしまっているし、顔についた固まりかけの血液でベタベタになってしまい、見る影もない。 流れ落ちた紅血がカーキ色のコートまでをも汚してしまっていた。 クラスメイトになった当初、サラサラでキレイだなと思っていた亜麻色の長い髪も今はボサボサで見る影もない。 見ているのもなにか悪い気がしてきて、そのまま天を仰いだ。 俺は何してんだろうな。 吉岡と陽川に付き合ってマスドに行っていなければこんな事にはきっとならなかった。 矢野さんの事を気にして、こんな遠回りしてまで矢野さんの家の近くまでやって来なかっただろうし、滝沢と遭遇する事もなかっただろう。 そうすれば今頃は、涼しいベッドの上でゴロゴロしながらアニメでも観ていたかもしれない。 そんな事を考えていたら自然と、無意識にため息が溢れていた。 「は、本当に、ごめんなひゃい」 声のした方を見ると、滝沢は鼻から手を離していた。 「手、離しても大丈夫なのか?」 「と、と止まりました」 「それは良かった。っていうかさ、謝る相手が違うだろ。聞いたぞ。お前、矢野さんのストーカーしてるんだってな」 「えっ?す、す、ストーカー!?」 ストーカーと言う言葉にかなり驚いたようで、滝沢は教室でもときおりあげる奇声を上げた。 驚く要素あるかね?現につい先ほどもストーカーをしてたわけで。 「お前、変装して矢野さんの家の前に居たろ?矢野さんは迷惑してるってナイト様が言ってたぞ。ほどほどにしとけよ」 ナイト様ってのは陽川の蔑称だ。陽川に相手にされなかった男子生徒達が使っている陰口だ。 矢野さん程ではないが、なにせ陽川も美人の部類なのだ。なんか悔しいけど。 矢野エマに御執心で、陽川姫と言う名が災いして、あれじゃ姫じゃなくてエマ姫を守る『ナイト様』じゃねえかって誰かが言い出したのが始まりだったな。 今じゃすっかり定着している。 「しししし、してないよ。す、す、ストーカーなんてしてない!」 「だったら、なんで変装してあんなところに居たんだよ?」 「そ、それは……」 「それは、なんだよ」 「ご、誤解を解こうと思って……」 自信なさげに語尾は消え入りそうで、実際に風の音にかき消されてよく聞き取れなかった。 「誤解?新学期の朝っぱらから問題起こしておいて、そりゃないんじゃないか。あんなのただのイジメだろ。間接的に死ねって言っているのと変わらないんだからな」 滝沢は挙動不審に視線をアチラコチラを這わせながら、口元に手を当てて震える声を絞り出す。 「そ、それ、ど、どういう意味、かな?」 「本気で言ってんのか?よく創作のドラマなんかであるだろ。イジメられてる奴が登校したら机の上に花が飾られてましたって奴」 「ち、違う、わ、私は、そんな事をしたわけじゃない!キレイなお花だったから、共有できたら、少しは仲良くなれるかなって思って……」 「はあ?お前はイタズラでもイジメ目的でもなくあんな事をしたって言うのか?さすがにそれは無理がある言い訳なんじゃないのか」 聞いていて虫唾が走った。背中のあたりがゾワゾワとした。おそらくこういう奴の事をサイコパスって言うんだろうなと思った。 「で、でも、本に書いてあったの。仲良くするには何かプレゼントをあげれば良いって」 何が本だよ。この場を収めるための言い訳だろそんなの。自分の事でもないのにかなり頭にきていた。 気がついたら怒鳴りつけるように声を荒げてしまっていたんだ。 「それは苦しい言い訳だな。俺は知ってんだぞ。他にもいろいろやらかしてたみたいじゃないか。過度な付きまとい、謎の手紙を机に忍ばせたり、ちょっとした嫌がらせも繰り返していたんだろ!?」 「そ、そ、それは違うよ。矢野さんと仲良くなりたいから本に書いてあった通りにしていただけで!」 かなり必死な様子で、ぐちゃぐちゃになってしまった顔で訴えて来る。 「苦しいな。そんな言い訳が通用すると思っているのか?それに本、本って言っているがどんな本だよ。仲良くする為に嫌がらせを勧める本なんて見たことも聞いたこともないね」 滝沢はコートのポケットからスマホを取り出すと何やら操作をし始めた。 取り出したスマホは、さっき転んだ時の衝撃のせいなのか、画面はバリバリに割れていた。 相手にしているだけ時間の無駄だ。さっさと帰るか。もう二度とこいつと話す事はないだろう。早く席替えしてくれねえかな。 ピピピ。 ベンチから立ち上がった時、スマホの通知音が鳴った。 取り出して確認すると、お天気レーダーの通知だった。 どうやらこの辺りに間もなく雨が降るらしい。 立ち去るにはちょうどよいタイミングだな。 「こ、これ」 滝沢は立ち去ろうとする俺に、バリバリに割れた画面を向ける。 そこに映し出されていたのは、奇抜な色使いの表紙の本。どこかで見たことがあるような気もしたが、すぐに視線を外した。こいつに付き合うだけバカバカしい。 「俺は帰る。これから雨が降るらしいから、お前は反省の為に雨にでもうたれたほうが良いんじゃないのか?」 「まっ、待って、話を聞いて」 滝沢の言葉は無視して足を進めた。 公園を出ても滝沢が着いてくる事はなかった。 西側の空がピカピカと光っている。雨雲はすぐそこまで迫っているようだ。 矢野さんの家の前を通るのは避けて、少し早足で帰宅を急いだ。俺と凛が……? まったく身に覚えがなかった。 凛と平和台駅に行ったことは何度かあったかもしれない。 だけど、そんな疑われるような行為をしたことは絶対にないと言い切れる。 しかし、画面に映し出されている物がそれを全て否定している。「それだけじゃないわ。あなたが滝沢さんの家頻繁に出入りしているってことも私たちは知っているんだから!」「……ああ。でも、だいたいエマが一緒にいなかったか?」 半分本当で半分嘘。 ストリー事件以降は、エマが凛の家に遊びに来ることが増えているのは事実。 事件以前は俺一人で出入りをしていた。 だからといって、やましいことは一つもないことに変わりはないが。「ここ最近は、の話でしょ?私たち、全部知っているんだから」 竹田は自信満々にそう言いきった。 たいそう立派な胸を張るその立ち姿は、自信の揺るぎがないことを案に示していた。 竹田の様子からしても、他の二人の態度からも、俺と凛が親しくしていたことを熟知している。そう感じ取ることができた。 ここで変に嘘をついたり、誤魔化したりしたら、余計に面倒なことになりそうな気がした。 ……こんな時に使えそうな心理学はなかっただろうか。 背後にいる凛の方をちらりと見てみたが、役に立ちそうな様子ではなかった。 どうしたものかね。これ以上噂を広げられるのも本意じゃないし。「ちょっとあなたたち、まだ教室に残っていたの?早く帰りなさい」 さっそうと教室に現れたのは陽川だった。 陽川はそう言うと、自身の机の方へ歩いていき、横に下げられていた鞄を手に取る。 作業の報告をしに横島先生のところにでも行っていたのだろうか。 陽川はそのままツカツカと扉の方へ歩いて行くが、敷居と跨ぐか跨がないかのところで、こちらへ振り返る。「何しているのよ?凛。さっさと帰るわよ」「え、う、うん」 声をかけられたことで、凛はそちらへ向かおうとするが、竹田たちがそれを妨害する。「……陽川さん。悪いけど、私たちお話しをしていたの。一人で帰ってくれる?」 ギロリと陽川の視線が飛ぶ。 それを受けて竹田は怯んだように一歩後退りをした。「なんのお話かしら?お友達の凛がいるならわたしもご一緒したいのだけど」「……ほら、あれよ。まえ、陽川さんにも話したじゃない。桐生くんと滝沢さんの関係の話」「ああ。そんなこ
補習が終わった頃には、外はすっかり夕焼けに染まっていた。 教室を出ると、廊下は静まり返っていて、どこか取り残されたような気分になる。 この感じだと今日の学園祭の準備は終わってしまっているかもしれない。 補習中にずっと気になっていたエマの合図。 ポケットからスマホを取り出して、メッセージを立ち上げると、エマからメッセージが届いていた。『凛ちゃんと、桐生くん、なんか噂になっちゃってるみたい……』 噂と聞いて、ふとストリー事件の少し前のコトを思い出した。 たしかあの時、俺と凛が階段の踊り場で話していて、そこに陽川とエマがやってきたんだ。 慌てて隠れて話しを聞いていたら、俺と凛がキスをしていた、とかそんな話だったっけ。 噂話は立ち消えたと思っていたけれど、それは俺と凛が陽川とエマに近づいたから聞こえてこなかっただけで、まだくすぶっていたんだな。 あの時、陽川は噂話を流した女子生徒の名前を話していたような気がするが……思い出せないな。 どちらにせよ、俺がどうこうするような問題でもない。 聞かれれば否定する。 それだけでいいと思う。 人のうわさも七十五日。冬が来るころにはみんなきっと忘れているさ。 なんせ、そんな事実はないんだから。 とりあえず、今日のところは帰ろう。鞄は教室に置きっぱなしになっている。 鞄を取るために自クラスを目指し、歩き出す。 補習はしばらく続きそうだからそこを陽川にどう言い訳するかだな。 推しについて思いついていないから、俺的にはちょうどよかったとも言えるが。 とりあえず理科ちゃんが怖いから補習をサボるのは無理と伝えればしばらくは回避できそうだな。 なんて、今後の身の振り方を考えながら、比較的軽い足取りで歩いていき、自クラスが近づいてくると、女子生徒達の話し声が聞こえてきた。 ……どうも芳しくない感じだ。 1対複数、そんな感じの想定。 なんか気まずいのは嫌だな。 でもまあ、いいか。さっと鞄を取って帰るだけだ。 問題には目を向けないようにする。それで行こう。 近づいていくと、複数の女子が一人の女子を捕まえて何かをしているということがわかってきた。 なにせ、なにかを言われている一人は口答えすることなく、複数の女子生徒は罵声のようなものを浴びせ続けている。 はあ。さすがにこれを見過ごすわけにはい
陽川と別れ、俺は補習教室へと足を運んだ。 教室の扉を開けると、既に数人が席についていた。 みんな赤点を取った者らしくおしゃべりを楽しんでいる様子だった。 教卓に立つ理科ちゃんはそれをニコニコとした表情で眺めていたが、俺は知っている。 この人を怒らせたら怖いことを。「はい、それじゃあ始めますよー」 微笑んでそう言ったのに、声色は怒りを隠せていない。 みんなそれに気がついて、瞬時に教室内に静寂が訪れた。 このまま立ってたら俺に矛先が向きそうだから、いそいで一番後ろの端の席に座る。「桐生くん。あなたは補習にも遅れてくるのね。それも一番後ろの席で、うんうん。いいんじゃないかしらね」 かなり怒っていることだけは理解した。 すぐに席を立つと、理科ちゃんの正面の席に座り直した。 すると理科ちゃんは満足そうに頷き、こちらに背を向け、ホワイトボードと向き合った。 そして、テストの解説を始めるのだった。 1時間ほど過ぎた頃、ドアの隙間から覗く影があった。 ちらりと視線をやると、なんとそこにいたのは――吉岡。 なんでアイツがいるんだよ。 俺が気がついたのがよほど嬉しいのか、にやけ顔で手を振ってきた。 こいつ、煽るためだけにここに来やがったな。許せん。「桐生くん。気が散っているみたいだけど、何かあったのかしら?」 そりゃ一番前でよそ見をしていたら目立つよな。そうだ。ちょっとした仕返しをしてやろう。「すいません。バカが教室をのぞいていたもんで」 俺はそう言って、扉を指差した。 理科ちゃんは扉の方へツカツカと歩いていき、一気に開いた。 そこには固まって動けなくなっている吉岡の姿があった。「あら、吉岡くん。こんなところで何をしているのかしら?」「いや、えっとあの、なんでもないです」「なんでもないのに覗きをするなんて、良くないわね」「……す、すいません」「あなた点数は取れているけど、普段、授業に参加する態度はあまり良くないわよね?……そうだ。せっかくだからあなたも受けていきなさい」「えっ、いや俺は……」 俺は知ってたよ。強気な女性に責められるのに弱いことを。 普段おちゃらけているくせに、何も言えなくなっている吉岡が滑稽で、笑うのを我慢するのが大変だった。「あっ、すいません。うちのけんちゃんが迷惑かけてしまったみたいで」 吉岡の
凛の部屋で、エマと共に推しについてを考えてから一週間がたった。 しかし、俺は推しについてまだ一文字も書けていない。 凛に推しについて考えておけよ、なんて偉そうに言っていたのが恥ずかしい。 結局、推しがプリンっていうのも陽川に認められていたし。『人が何を好きになろうと人それぞれ。凛のことをあなたが否定できるいわれはあるの?』 と、なぜか俺が陽川に咎められたくらいだ。 別に俺は否定なんてしていなかったし、凛が陽川に推しについての原稿を見せていたのを横から見ていただけなのに。 ちょっと酷いと思う。 プリンはないだろって心の中で思っていたのは事実だが。 でもまあ、凛がエマに固執することなかったのはいいことだと思うけど、 なんてことを考えていたら、前の席の吉岡がこちらに振り返った。「桐生、お前呼ばれてるぞ」「へ?」 完全に自分の世界に入り込んでいて授業中ということをすっかり忘れていた。 クラスメイトたちが俺の方を見ていた。「桐生くん。早くでてきなさい!いらないならホワイトボードに貼り付けてみんなにも見てもらうけど」「は、はい!」 慌てて立ち上がると、教卓の方へ向かう。 なにせ今は化学のテストを返しているところで、化学の教師である理科ちゃん(年配のおばちゃん)がカリカリとした様子で答案様子をホワイトボードに貼り出そうとしていたからだ。 俺が近づいていくのを見ると、理科ちゃんはテストを俺に手渡してくれた。 その時に一言だけ言った。「とっても残念です」 心をざわつかせるには十分な嫌な一言だった。 恐る恐る採点結果を確認すると、35点。 40点以下が赤点だと最初に発表していたからそれを下回っていることになる。 あーやっちまったなあ。 ここまでに返還されたテストはすべて、低空飛行ながらもギリギリ赤点は回避していたのに。 テストを貰って席に戻ると、ニヤニヤと笑みを浮かべた吉岡が待ち受けていた。「どうだったんだ?桐生」 この余裕な感じ、吉岡は余裕でクリアしたのだろう。 こいつにはバカにされたくないなと思って、すぐに机の中にしまってしまった。「余裕だよ」「ふーん。なんだ。つまんねーな」 横の席の凛は、答案用紙を誰かに見られてしまうのを気にする素振りもみせずに机の上で広げていた。 見たくもなかったけど点数が見えてしまった。
なにやら面倒なことになった。 俺も推しについて発表をしなければいけなくなってしまった。 以前、凛に推しを考えておくようにと偉そうに言ったことがあったが、そんな簡単なことではないと思い知らされた。 でも意外なことに、目の前で推しについて書き物をしている凛は、次々と方眼紙のマス目を埋めていく。 その横に座るエマも、たまに考えるような仕草をみせるが、少しづつ書き進めているようだ。 もちろん俺の前の方眼紙はまっさら。なにも書かれてはいない。「なあ凛。そんなにテキパキ書くって何について書いているんだ?」 そう聞いた直後に不意にエマと、目があった。そこでピンときた。 って、まさか……こいつ、エマについて書いているわけじゃあないよな? 推しなのはたしかだろうがそれはやめておいたいいと思う。「本当だ。凛ちゃん凄いねー。ちょっと見せてっ」 そう言うとエマは、凛の方眼紙を覗き込んだ。 凛はそれを振り払うような素振りはみせない。 絶対にこれはやばいやつだ。 そう思って俺は、咄嗟に凛の方眼紙を奪い取った。 当然、凛もエマも啞然とした様子だった。 でもさ、せっかくできた友達がいなくなるのは可哀想じゃないか。 距離は徐々につめていかないと。「ちょっと桐生くん、急にどうしたの?」 心底びっくりしたと言った感じで、エマはそう聞いてきた。 そんなのバカ正直に答えられる訳もない。「せっかくだったら俺が代読してやろうと思ってさ」 もちろん、ここに書かれているだろう、エマについてのことを読み上げるつもりはない。 かわりになにか適当なものをでっち上げて、読み上げている風にしてやろうと思ったのだ。 これも凛に対する親心みたいなものなのだろうか。 あまりに不器用すぎて不憫になるからな。こいつは。 俺のそんな気持ちは本人は知る由もなく、首を傾げてこちらを見ていた。「いいの?凛ちゃん」 そんな凛を心配してエマは声を掛けるが、凛は飄々とした態度で答えた。「う、うん。別にいいよ」 本当にいいのかよ。絶対に良くないよなあ。 はあ。心の中ででかいため息を吐いてから、凛に向き合った。「じゃあ、俺が何を言おうと文句はなしな?」 これは予防線ではない。あくまでも凛を守るための絶対防衛線なのだ。「うん」 本人はにこやかに微笑んでいるつもりなのだろうが、上手く
地獄の中間テストも終わり、下校をしようとしていた昼過ぎのことだ。 帰ったら勉強疲れの脳を労ってやろう。糖分を補給してやろうとウキウキしていた。 だけど、普段は俺相手に向けることはない柔和な笑みを浮かべ、陽川が俺の前に立ちはだかった。「えっと、陽川さん……?なんか、とっても不気味なんだけど、俺になんのようかなー?」 陽川は途端に表情を崩し、右手で自らの額をおさえた。頭痛が酷いのだろうか?「まったく、あなたには呆れるわ。エマと凛から話しは聞いていたはずじゃない」 エマと凛から……あっ。思い出した。 先週、凛の家に呼び出されて、何か約束事を取り付けられたような気がするがなんだったけな。 陽川も絡んでいたのは間違いないが。「……心の声みたいに語っているけど、全部口からダダ漏れなのよ。別にあなたがやりたくないのならそれでもいいわ。エマと凛は協力してくれるだろうから」「ちょ、ちょっと待って!」 背中から声をかけてきたのは凛だった。 凛は俺と陽川の間に入り、必死に言い訳をし始めた。「あの、きっと、陽葵も忙しくて、忘れていただけだと思うから、許してあげて。ね、陽葵?」「……」 陽川はそれをじっと見つめていたのだけれど、次の瞬間にはフッと一つため息を吐き出して、「凛がそう言うのなら、仕方ないわね」と諦めたような口調で言った。 ストーリー事件の件では凛に助けられたようなもんだからな。頭が上がらないらしい。 凛にオドオドとした不安げな瞳で見つめられていたら、こんな茶番なんてどうでもよくなってしまった。「ああ。そうだ。勉強疲れで忘れていたんだ。たしか……学園祭の準備の手伝いをすればいいんだったよな」「……あなた、最初からわかっていて、逃げようとしたわね」 実際のところそれは事実だ。手伝いをお願いされていたのをついさっきまで忘れていたのは事実。 陽川が立ちはだかった時にはすっかり思い出していたのだから。「鬼の前で嘘をつくわけがないだろう?」「鬼ってまさか……わたしのことを言っているんじゃないでしょうね?」 陽川の顔はみるみるうちに赤く染まっていく。軽口で言ったつもりだったのに、クリティカルヒットしてしまったらしい。「……言い間違えだ。鬼は嘘をつけないんだってさ」「つまり、あなたは鬼ってことで嘘はつけないのね。よーく、覚えておくわ」