ログインバレエ団のプリマに選ばれたその日、中川杏奈(なかがわ あんな)は身に覚えのない罪を着せられた。そして久保家の実の娘の身代わりとして刑務所に送られ、地獄のような三ヶ月を過ごしたのだ。 さらに、やっと釈放されたときには、世界を目指せたはずの杏奈の脚は、もう二度と踊れないほどに怪我させられていた。 そのうえ、精密な手術を得意とした彼女の手も、腱を断ち切られていた。 そんな中、杏奈を命がけで愛してくれていた夫は、「必ず犯人におんなじ苦しみを与える」と彼女に誓った。 いつもは大人びている三歳の息子も、そんな彼女のために初めて声をあげて泣いた。 しかしある日、息子がこう話すのを杏奈は聞いてしまった。「ねぇパパ、真奈美おばさんの身代わりをさせるために、わざとママに罪を着せたでしょ。それでママの脚も治らないようにしたのは、ひどくない?」 そう聞かれて夫は答えた。「それは君のママがしないといけない償いだからな」 すべてを知った杏奈は、絶望の淵に陥った。そして彼女は国際電話をかけた。「私、本当の家族の元へ帰ろうと思います」 一年後。 杏奈は、超名家に戻り、四人の兄たちから可愛がられる生活を送っていたころ、彼女のもとに、久保家の夫婦とその実の娘を連れて頼み込んできたのだ。「これまで育ててやった恩があるだろう。どうかもう私たちを見逃してくれよ!」 クズ男だった元夫も、目を真っ赤にしながら懇願した。「足を傷つけた償いはするから。頼む、どうか許してくれ」 恩知らずな息子も、母親の足に泣きついて離れようとしない。「ママ、僕が悪かったよ!」 だが、杏奈は、彼らに冷たく言い放った。「絶対に、許さないから!」
もっと見るいよいよ翔平の誕生日当日、ついに竜也と浩が杏奈に電話をしてくることはなかった。しかも、彼女のほうからかけてみても、すぐに切られてしまっていた。杏奈はしばらく呆然としていたが、仕方なくプレゼントを持ってタクシーで久保家へ向かった。家のドアを開けた途端、母親の久保椿(くぼ つばき)の嫌味な声が聞こえてきた。「あら、これはどなた様かしら?もう来ないのかと思ったよ。こんな時間にやっとのお出ましなんて、自分が主役だとでも思ってるの?」そう言いながら、杏奈の手足に残る傷を見て、椿は少し気まずそうな顔をした。「真奈美からは、あなたの怪我はもうほとんど治ったって聞いたけど。そんな格好して、わざと心配させようとしてるの?」杏奈は唇を引き結び、胸がズキズキと痛んだ。母はもともと、自分にとても優しかった。でも、真奈美が帰ってきたあの日から、全てが変わってしまった。母は、自分が実の娘の幸せを奪ったと憎んでいた。でも、家の評判を気にして、自分をここに置くしかなかったのだ。久保家での生活は、息が詰まるようだった。そんな自分を救ってくれたのが、竜也だった。あの頃は、それが救いだと信じていた。でも、実際はもっと深い地獄に落ちただけだった。「でも後遺症で……もうメスは握れないし、ダンスもできなくなったの」杏奈の声はかすかに震えていた。彼女は、椿の顔色をじっとうかがった。椿は一瞬、気まずそうな表情を見せた。でもすぐに、「どうせあなたの踊りなんて、真奈美に比べたらたいしたことないじゃない。うちにダンサーは一人だけで十分よ」と言い放った。椿の気まずそうな表情を見て、杏奈の心はすうっと冷たくなっていった。ふと、杏奈は思った。自分が真奈美の身代わりになったこと、両親はどこまで知っているんだろう?そして、どこまで関わっていたんだろう?杏奈は唇を引き結んだまま、何も言わなかった。その顔は青白く、とても弱々しく見えた。「口がきけなくなったの?」そんな杏奈を見て、椿は気まずさを紛れようと怒鳴りつけた。「私が何年も育ててやった恩も忘れて、ちょっと叱っただけでそんな不機嫌な態度をとるわけ?」「もういい!」そう言うと翔平が、厳めしい顔で階段を降りてきた。そして椿の言葉を遮った。「やかましいぞ、みっともない」翔平はソファに腰掛けると、杏奈に目をや
そう思って、杏奈は目を伏せ、返事もせずに電話を切った。一方で、中川家。ツー、ツー、という音を聞きながら、竜也は胸にぽっかりと穴が空いたような気持ちになった。彼は眉をひそめ、思わずかけ直そうとした。しかし、その手は真奈美に止められた。「女の扱いなら私に任せて。ああいう態度の時こそ、優しくしちゃダメ。じゃないと、どんどんつけあがってくるから」真奈美はニヤリと笑った。「女のことは、女が一番よくわかってるものよ。お姉さんみたいなタイプは、少し放っておくくらいがいいの。そうすれば、あなたに夢中になるから」その言葉を聞き、竜也も納得をしたかのようにスマホの画面を消してポケットにしまった。真奈美の言うことにも、たしかに一理あると彼は思ったのだ。これまで杏奈に優しくしすぎたせいで、甘やかしてしまったのかもしれない。甘やかしすぎたせいで、彼女は世間知らずになってしまった。だから離婚なんて言葉も平気で口にするんだ。自分から離れて、一人で生きていけるとでも思っているのだろうか?今は、しばらく彼女を放っておくのがいいだろう。世間の厳しさを思い知らせてやる必要がある。あの二人と話したせいで、杏奈はすっかり気力を使い果たしていた。足と手の傷も、ズキズキと痛んだ。彼女はソファに座り、スマホを見ていた。すると、ある絵画展の情報が目に留まった。その瞬間、ふと心が動いた。ダンスを始める前、自分も実は絵を描くのが好きだった。足はもう治らないかもしれない。でも、この手でまだ筆は握れる。ソファに座っていた杏奈は、ふと笑みをこぼした。その瞳は、新たな目標を見出しことに確かな輝きが宿った。生きている限り、夢も好きなことも絶対に諦めない。だから、ただ困難に囚われているだけじゃなくて、新しい人生を始めるんだ。...次の日、また健吾が杏奈の部屋のドアをノックした。彼は相変わらず口元に笑みを浮かべ、何かを手にぶら下げていた。そして、また彼女の部屋に入ってきた。「はい、お見舞いに来たよ」そのさりげない口調には相変わらず、なぜか逆らえない雰囲気があった。テーブルに並べられた色とりどりの料理を前にして、杏奈の胸はまた温かいもので満たされた。彼女は声を詰まらせながら目を伏せた。頬にかかった髪をそのままに、言った。「本当に
スマホから聞こえるツーツーという音を聞きながら、杏奈はしばらく呆然としていた。父はずっと自分のことが好きではなかった。そして真奈美が実家に戻ってきてからは、ますます自分のことを目の敵にするようになった。父は心の底から、自分は竜也にふさわしくないと思っているのだろう。多分本当は実の娘である真奈美に嫁がせたかったはずだ。しかし、中川家に取り入るためには、自分を利用するしかなかった。しばらくためらったが、杏奈は意を決して竜也に電話をかけた。コールが2回鳴っただけで電話はつながった。竜也の声は少し冷たかった。「また何の用だ?」杏奈はその氷のような声に一瞬たじろいだが、すぐに言った。「明後日はお父さんの誕生日パーティーなの。あなたも……浩を連れてきてくれない?」竜也は眉をひそめた。その瞳の奥に、ある感情が一瞬だけきらめいた。やはり耐えきれなくなって、自分から電話をかけてきたか。しかし、その手口はあまりに姑息だ。こんな風に騒ぎ立てるのも、自分と離婚したくないからだろう。それで、自分の気を引きたいだけなのだ。まっ、自分の機嫌を取ろうとする心遣いがあるなら、少し姑息でも目をつぶってやれなくもない。だが、その口ぶりが、どうにも気に障った。「お前から離婚を切り出したんだ。俺がお前の夫としての役目を果たす義理はないだろう」竜也は冷たく言い放った。「それが、復縁を願う人間の態度なのか?」「復縁したいわけじゃない」杏奈はぐっとこらえ、深く息を吸い込んで言った。「お父さんが、浩に会いたがっているの」そう言いながら、彼女は心の中で自嘲した。自分が刑務所に入るまでは、あんなに良い夫を演じていたのに。今になってようやく本性を現したというわけね。竜也は眉をひそめた。その瞳は冷たく、心にじりじりとした苛立ちが広がっていく。ただ、彼女が父親に浩を会わせたいだけだと?理由は自分でもよく分からないが、彼のイライラは更に募っていった。杏奈はいつも、こういう手口を使う。こんなのは、どうせ自分に会うための口実にすぎない。結局、自分から離れられないくせに。「ずいぶんと下手な言い訳だな」竜也は声を押し殺し、顔に苛立ちをにじませた。「どこでそんな三文芝居を覚えてきた?」そう言われ、杏奈の胸はその一言一言に深く突き刺されるよう
一方で、日が暮れて部屋の中が次第に暗くなるにつれ、杏奈は電気をつけた。久しぶりの静けさを、彼女はゆっくりと味わっていた。中川家にいた頃は、家の中がいつも騒がしかった。浩はわがままで遊び好きだったから、宿題をさせようとしても、何かにつけては、いつも大声で騒ぎ立てるのだ。竜也は、自分が家で子供の面倒を見ているのは、楽なことだと思っていた。でも、実際のところ杏奈にとって家では片時も心が休まる時間なんてなかったのだ。杏奈は壁の時計が時を刻む音を聞きながら、複雑な感情が込み上げてきて、そしてただ泣きたいほど切ない気持ちになった。ピリリリーン――けたたましい着信音が、彼女の思考を中断させた。スマホを手に取って見ると、相手は竜也だった。すると杏奈は迷うことなく、通話を切った。それでも竜也は懲りずに何度もかけてきた。その音で頭が痛くなり、仕方なく電話に出た。男の冷たい声が聞こえる。「杏奈、こんなに遅いのに帰ってこないのか?どこにいる?」彼の声にはまだ抑えきれない怒りがにじんでいたが、なんとか平静を保とうとしているようだった。杏奈は呆れて鼻で笑うと、心に皮肉がよぎった。昔から、二人が喧嘩するといつもこうだった。竜也は二日ほど自分を無視した後、何事もなかったかのように振る舞って、問題をうやむやにするのだ。「竜也、私、離婚するって言ったの。忘れた?」彼女の声は静かで、どこか冷たかった。それを聞いて竜也の表情が、とたんに険しくなり、スマホを握る指が白くなるほど力がこもるようになっていった。「杏奈、また癇癪を起こしているのか。そんなことを言ってなんの意味があるんだ?」「癇癪?」杏奈は冷たく笑った。「はっきり言わないとわからない?離婚したいの。本気よ、離婚届をだすから、あなたもちゃんと役所に来てよね!」すると、電話の向こうから、浩のあどけない子供の声が聞こえてきた。「なんで機嫌なんてとるの?パパ、ママは今ただすねてるだけだよ。パパが優しくすればするほど、ママはわがままばっかり言うから!いっそ帰ってこなきゃいいのに」浩の声は憤りに満ちていた。「僕だって、ママなんかいらないもん!」その言葉に杏奈の心は、何かがチクリと刺さったようだった。彼女は指先をきゅっと丸め、目を伏せた。「もう帰らないから。ここ何日かで離