LOGINビュッフェから戻るエレベーターでもめまいのような感覚に襲われた。
薬が手元にないことが不安を強めたが、エレベータを降りたらそれは治まった。
廊下を歩く間に、ビジョンが小説のレイカでも直後の役場倒壊を免れる方法はないかを考えた。
Dなら抜け道をすぐ見付けてくれそうだが、それを聞けない状況になってしまっていた。
私とDは部屋に戻るとすぐバイトへ行く準備に取りかかった。バスの時間まで30分もなかったからだ。
お互いコロコロを広げて支度をしていたら、
「ヒッ!」
と窓際のDが小さく叫んだ。
「どうした?」
「これ」
Dは嫌なものを避けるように自分のコロコロを窓の下に蹴り出した。
窓際に行くとコロコロの側面に赤黒い手形が付いていた。
「これはミヤミユの」
地下道に置き去りにした時付いたものだろうか。
Dは近づくのも嫌なようで、
「タケルさん、それ拭いてくれませんか?」
と濡れティッシュのパックを投げてよこした。
私は中から2、3枚取ってコロコロを拭いたが、その赤黒い手形はしつこく、4枚、5枚と使ってようやく取れた。
手形を近くで見て分ったことが一つあった。
それは手形の指の先端がコロコロのパッキンのところで切れていたということだった。
つまり屍人のミヤミユはパッキンに指先を入れてDの荷物をこじ開けようとした。
ミヤミユが中を見たがったのかはわからない。
いずれにせよ今のDには刺激が強すぎるので言わないことにした。
押し返されたコロコロをDは、他に手形がついてないか見回してから手元に置いた。
自分のも確認してみたけれど、倒れた時のらしい傷はあったが、手形のような何かを匂わす痕跡は見当たらなかった。
私が上着を脱いで着替え始めると、Dはレストルームに入った。しばらくしてレストルームから出てきたDは、私とおそろで芋ジャーを着ていた。
私は青の上下、Dは緑の上下だ。
お互いの格好を見て
私の来し方を観た作左衛門さんは、刹那その本性を露わにしたけれど、すぐに普段の気のいいお兄さんに戻って、「不思議なこともあるな」 と言って奥に戻っていった。 それから私はDに、作左衛門さんの見立てはどうだったか聞いてみた。「一緒にビジョンを見た感じでした」 ただ自分が見ていたよりもずっと先まで見通す感じだったと言った。ベッド・イン・ビジョン、つまり私と一緒にベッドにいて先の自分を見るビジョンとも少し違ったのだそう。「タケルさんの時はビジョンを共有するっていうか、同じ風景を一緒に見てる。でも作左衛門さんは完全に観察者でした。ビジョンの外にいてあたしの側で見守ってその先を見せてくれた」 作左衛門さんが私を見たのはほんの一瞬だったので、その感覚はよくわからなかった。ただ、作左衛門さんがすぐ側にいるのは感じたような気がした。「それで、何が見えたの?」 その答えでミサさんが小説のレイカになってしまって、辻沢の時間軸が崩壊するかがはっきりする気がした。 Dは私の顔をじっと見ながら考えをまとめているふうで、そしておもむろに口を開くと、「言えません」 それ以上何も言うつもりがないようだった そこへ蘇芳ナナミがおにぎりが乗った大皿とやかんを持って現れた。「どうだった? 作左衛門さんの占いは当たるから怖いよ」 と軽い感じで聞いてきたけれど、私とDを見て様子が違うと悟ったらしく、「まあ、食べようか?」 とおにぎりの大皿を囲炉裏端において腰を下ろした。 おにぎりは辻沢名物の青山椒にぎりだった。白米に塩漬けにした青山椒のつぶを混ぜたもので、青山椒のつぶが見た目も清々しい。と小説には書いてきた。でも実は、私は一度も食べたことがなかった。 一つ手にして一口頬張る。辛みと爽やかさが口の中に広がってとても旨かった。なんかうれしい。「これ旨いですね」 とナナミに言うと、それには一つ肯いただけですぐに顔をDに向けた。それで私もDに視線をやったのだが、Dは青山椒にぎりの大皿を見つめたまま俯いて、泣いていたのだった。「何があった?」 ナナミがDに優しそうな声を掛ける。するとDは動くほうの左の袖で涙を拭い、「なんでもないです。おいしそう。青山椒にぎりだ。これ小説のラストでみんなが揃って食べるんですよね。あたしあのシーン読んで泣いちゃいました」
私とDは背負い籠を担いだまま山椒の木に取り付き、刺々しい枝から実を摘み取ろうとした。山椒の木の芽の香りが鼻をくすぐる。すると新人研修目的で側にいる蘇芳ナナミが、「籠は置いて。少しずつ収穫して片手に持てなくなったら籠に入れるんだよ」 その後すぐ、「レイカと知り合いとはね?」 と言ったのだった。私はDに、どういうこと? と目で訴えた。すると、「さっき奥の部屋でミサの写真を見てもらったんです。そうしたら」「辻沢の問題児、調(シラベ)レイカじゃないか」 Dが見せたのはコスプレ衣装のミサさんだったが、ナナミは有名人でも何でもない知人に変装するという事態が呑み込めず、ミサさんのことを調レイカだと思い込んだのだった。「あいつは卒業してから一度も辻沢に戻ってきていないはずだけど、来てたっていうんだろ?」 小説のレイカは、役場倒壊事故が起こる年の5月、4年ぶりに辻沢に戻ってくる。「レイカさんが辻女を卒業して何年ですか?」「3年だ」 ということは来年、倒壊事故は発生する。「房ごとむしるように。そう」「むしるのが難しいなら、ハサミ使いなね」 話しながらも山椒摘みの作業はちゃんと教えてくれる山椒農園主なナナミだった。 夢中で収穫しているうち段々慣れて来て、汗もかき出した。すると、「痛い」 枝の向こうのDが左手で頬を抑えていた。右腕が利かないから房を取る時、邪魔な枝を避けられなかったようだ。 ナナミがDに近づいて頬を見た。「血が出てるね。もしかして右手が使えない?」 Dが申し訳なさそうに頷いた。「じゃあ、山椒摘むのはやめて種分けに回って」 これまでは房を摘むと片手に持っていて、溜まると後ろに置いてある背負い籠に入れに行っていた。これからはそれをDが受け取って籠に入れて、種分けもすることになった。「連絡先教えてあげたいけど、電話番号知らないんだ」 Dは、「LINEは?」 と言ったが慌てて、「なんでもないです」 と口をつぐんだ。私の小説をよく読んでるDは、ナナミがSNS嫌いなことを思い出したようだった。 それからは私もDも黙々と山椒の実を摘み続けた。10時の休憩は皆さんのところへは行かず、その場に腰かけてレイカのことを話した。「青墓でやってるバトルゲームに参戦しに来たって?」 バトルゲームとはスレイヤー・Rのことだと思うが
蘇芳ナナミに渡された書類は契約書だった。「内容確認して必要事項記入して」 私とDが記入している間、ナナミはずっとDの前にいて、時々しゃがみ込んでは顔を覗き込んでその度に首を傾げていた。「苗字の違う双子とか?」「違います。他人です」 ナナミはDを見るといきなり「小宮ミユウ」とミヤミユの本名で呼んだのだった。「連絡取れないから心配してたんだぞ」とも。 小説のミヤミユは夏の初めにスオウ山椒園にバイトをしに来た。その時ナナミは、小宮ミユウが少女のヴァンパイアに付け狙われていることを知り、いろいろ便宜を計ってやっている。けれど、その後ミヤミユがそのヴァンパイアに殺されたことまでは知らない。 私とDが契約書にサインをしてナナミに渡すと、それを一瞥してから、「土間の出口の背負い籠を一つ取って。軍手は持ってる?」 辻沢の山椒は原種に近く棘がある。そのことは小説に書いて知っていたので、私はゴム付きの軍手を用意してきていた。それを見せると、「いいね。あなたは?」 Dが持っていたのは百均で売ってる普通の軍手だった。「それだと手が血だらけになるね。うちに余ったのがあるから貸してあげるよ。付いておいで」 ナナミはDを座敷の奥に連れて行った。土間に取り残された私は背負い籠を取りに立ち上がろうとした。その時ざわつく何かが目の端に入る。そのままやり過ごせばやり過ごせたけど、私はそのざわつきを板間の上に探した。それは座敷の縁が上り框に落ちる角にあった。よく見ないと板間の黒さに紛れて分かりにくかったけれど、赤黒い4本の指の跡がついていた。それはDのコロコロに着いていたものとよく似ていた。そしてそれはちょうどDが座敷に上がる時に右手を付いた場所なのだった。 私は咄嗟にそれを軍手の背で拭き取ろうとした。それはやはりなかなか取れなかったので濡れティッシュをメッセンジャーバッグから4、5枚出して拭き取った。「何してるんですか?」いつの間にかDが板間にゴム付き手袋をして立っていた。「書類のカーボンが床に付いちゃったから拭いたんだ」と誤魔化した。Dはそれを気にする様子もなく土間に降りると、入り口の背負い籠を一つ取った。そして、「タケルさん。山椒摘みですよ」と庭に出て行ったのだった。 私が後に続き籠を背負って庭に出ると、Dはすでに他の人と挨拶を
私とDが乗ったGoryGoryタクシーは大曲大橋を渡ったあと右折して、辻沢の南の山間部へ向かった。「運転手さん、スオウ山椒園まで何分くらいで着きますか?」「そうね。道は混んでなさげなので20分くらいかな」 蘇芳ナナミとの約束は8時半。間に合うかギリギリの時間だった。 バイパスを降りて南への道をしばらく走るとタクシーの天井でキラキラが揺れていた。D側の窓の外に木々に囲まれた池の水面が広がっていた。「雄蛇ガ池だ」 辻沢の南に広がる貯水池で、小説にはここでのエピソードがたくさんある。「ミヤミユ最後の地です」 Dは池を見ないようにして言った。小説のミヤミユは満月の次の朝、潮時明けの早朝にこの池の畔でヴァンパイアに襲われて命を落とす。そして今日はたまたま潮時明けの朝だった。Dが雄蛇ガ池を見たがらないのはそのせいなのだ。 それまで黙っていた運転手さんが、わたしたちが会話したのに反応して、、「お客さんらのその恰好、山椒摘みだろ?」 実は芋ジャーで働けるか心配してたけれど、一目で見抜かれたという事はどうやら正解だったらしい。「そうです」「山椒摘みのワークショップの参加者だ。当たりだろ」 運転手さんは推理好きのようだった。「バイトです」「ホントかい? スオウ山椒園はN市立大学と提携してるから、てっきり大学の先生と学生さんかと思ったよ」 鞠野フスキ教授とゼミ生のミヤミユ。辻沢では小説のキャラにならなきゃいけないルールでもあるのか?Dは運転手さんの言葉に、「全然違います!」 強めの拒絶を返したのだった。 右側が森林で左側の山の斜面に擁壁が続きいた山道が切れたところに、 ――スオウ山椒園。辻沢最大の山椒農園はこちら。 という大きな看板が立っていた。タクシーがその下の脇道に入ろうとしたので、「あ、ここでいいです」
ビュッフェから戻るエレベーターでもめまいのような感覚に襲われた。薬が手元にないことが不安を強めたが、エレベータを降りたらそれは治まった。廊下を歩く間に、ビジョンが小説のレイカでも直後の役場倒壊を免れる方法はないかを考えた。Dなら抜け道をすぐ見付けてくれそうだが、それを聞けない状況になってしまっていた。 私とDは部屋に戻るとすぐバイトへ行く準備に取りかかった。バスの時間まで30分もなかったからだ。 お互いコロコロを広げて支度をしていたら、「ヒッ!」 と窓際のDが小さく叫んだ。「どうした?」「これ」 Dは嫌なものを避けるように自分のコロコロを窓の下に蹴り出した。窓際に行くとコロコロの側面に赤黒い手形が付いていた。「これはミヤミユの」 地下道に置き去りにした時付いたものだろうか。 Dは近づくのも嫌なようで、「タケルさん、それ拭いてくれませんか?」 と濡れティッシュのパックを投げてよこした。私は中から2、3枚取ってコロコロを拭いたが、その赤黒い手形はしつこく、4枚、5枚と使ってようやく取れた。手形を近くで見て分ったことが一つあった。それは手形の指の先端がコロコロのパッキンのところで切れていたということだった。つまり屍人のミヤミユはパッキンに指先を入れてDの荷物をこじ開けようとした。ミヤミユが中を見たがったのかはわからない。いずれにせよ今のDには刺激が強すぎるので言わないことにした。 押し返されたコロコロをDは、他に手形がついてないか見回してから手元に置いた。 自分のも確認してみたけれど、倒れた時のらしい傷はあったが、手形のような何かを匂わす痕跡は見当たらなかった。 私が上着を脱いで着替え始めると、Dはレストルームに入った。しばらくしてレストルームから出てきたDは、私とおそろで芋ジャーを着ていた。私は青の上下、Dは緑の上下だ。お互いの格好を見て
私とDは無事コロコロを取り戻してヤオマンホテルに戻ることができた。ホテルの玄関でドアマンが私たちの荷物を見て近づいてきたけれど、それに手を振って必要ないと伝えると所定の位置に戻っていった。 ビュッフェ会場のロビーのカフェには、もうトレーを手に料理を物色している人たちの列が出来ていた。それを見て急にお腹が減っていることに気づく。「ビュッフェ行けそうかい?」 Dに、さっきの今なのでミヤミユとは呼ばずに話しかけると、「なんでですか? あたしだってお腹へりましたよ」 本当に大丈夫そうで安心した。 カフェの入り口でカードキーを見せてビュッフェ会場に入る。私たち以外はツアー客なのか一様に年配の人たちばかりだった。 Dは周りに人がいないボックスシートを選んだ。「料理取ってきたら、ビジョンの話しましょう」 というと、コロコロをテーブルの下に入れてビュッフェコーナーに向かった。私もそれについて行こうとしたけれど、コロコロが心配だったので、Dが戻って来るまで待つことにした。 しばらくしてDが戻ってきてテーブルの上に何も置かれてないのを見て、「食べないんですか?」「いや、待ってたんだ」 Dは私がコロコロを椅子の横に置いて取っ手を持っているを見て、「そんなに大事なもの入ってたんですか?」「いいや。でも次離したら無くなる気がしてさ」 そう言ってもDは全然納得してなさそうだった。実は私自身、なんでそんなことを突然思ったか不思議だったのだ。「行って来るよ。お勧めは?」「おろしもち」 Dのトレーを見るとおろしもちがいっぱいに盛られた皿が載っていた。それはあなたの好みではと思ったが、「じゃあ、私も取ってくるよ」 トレーを手にビュッフェコーナーを回った。洋食コーナーでトーストといちごバター、ベーコンとスクランブルエッグを取った。おろしもち