LOGIN桜田正義、34歳警部補。 官僚である男の死体遺棄事件の捜査を担当することになるが、被疑者である永田霞のことを不審がる。 実は、霞は現法務大臣の隠し子で──!? 弁護士、検事、警部補の織りなす人間ドラマ。
View Moreどうにも奇妙な事件だ。それが俺の、一番最初の印象だった。
法務省官僚の遺体。握りしめた手には、犯人のものであるはずの衣類の欠片。
犯人の特定は容易だった。証拠は衣類の他にも、携帯の通話履歴など一式揃っていたから。正直、捜査する必要は大してなかった。犯人の名前は、永田霞。二十四歳の法科大学院生。どうして彼が犯罪を起こすのに至ったのかわからなかったが、奇妙なのはここからだ。
「永田霞が無実?」
「調査ミスがあったらしい」 それなりに長い年数、警視庁で刑事をやっているとわかる。相手の言葉の何が本当で、何が嘘なのか。そして、これは間違いなく嘘だった。上司は俺に何か隠している。証拠こそないが、明白だった。 「桜田くん、わかっているとは思うが……この件にはこれ以上深入りしないように」 「承知しました」 言葉だけ従うことにしたが、やはり納得はいかない。証拠は揃っていた。調査ミスなんて、しようがない。裏があるのは明白だった。だからこそ、何がなんでも真実を暴きたい。永田霞が無罪なわけ、ないのだから。 だが、上から言われてしまってはこれ以上捜査が出来ない。俺の階級は警部補。強硬手段をとれない。……表では。
逆に言えば、裏からは捜査がまだ出来る。しかし、それは奥の手すぎるので極力使いたくない。裏の世界との繋がりなんて、ないに越したことはない。しかし、俺は裏に精通している人物をよく知っている。新川虎太郎、二十八歳の弁護士。過去に冤罪事件で対立して、今でも仲が良いとは言えない。しかも、彼には黒い噂がある。裏社会に通じているのだとか、情報屋から情報を買っているだとか。それが本当なのであれば、逮捕案件なのだが……肝心の証拠は抹消されていて踏み切れない。俺の勘では、確実に黒なのだ。それでも、証拠がないのに逮捕することは出来ない。しかも、そいつに今から俺が頼ろうとしているのも情けない。
だが、永田霞の件は気になる。だから、俺は新川を居酒屋に呼び出した。「桜田サンが、俺に用事なんて珍しいじゃん」
十九時半、仕事終わり。スーツ姿の新川は開口一番がそれだった。いつも整っている顔立ちは、居酒屋で女性の目を奪うだろう。こいつ、その場にいるだけで目立つタイプだからな。本人がそれに無頓着なのが、尚更腹が立つというか。 「お前にしか頼めないことがある」 あまりこいつと関わっているところを見られたくない。手短に用件を話そう。 「実は、釈放された被疑者を調べている」 「そうかよ」 新川の興味は引けない。俺の話術で、こいつは興味を持つのだろうか。 「実はそれが奇妙でな」 俺は、永田霞の話を聞かせた。守秘義務に反するが、どうせ調査は打ち切られている。問題になっても、俺の意思は堅い。どうせ打ち切られるなら、もう少し探りを入れたいところだ。話し終えると、新川は少し黙っていた。そして、ビールを口に運び飲み干した。
「なるほどな。つまり、俺を使って調査したいのか」 聡明な新川のことだ、話が早い。 「けどま、俺を使うってことは……わかってんだろうな」 「覚悟はしてる。今回は、お前だけが頼りだ」 これがどういうことなのか、わからないほどお互い馬鹿ではない。新川の鋭い目が、俺を突き刺す。 「正義、と名前のつくお前がね……高くつくぞ」 人の名前で遊ぶなよ。その名前、気にしてるんだから。正義、なんて不釣り合いな名前なのはわかっている。 裏社会のルートなんて、高くて当然だ。それでも、今回はこいつだけが頼り。機嫌を損ねては、永田霞を逃してしまう。 「うるさい。……わかってる、いくらだ」 「それは……情報の内容と難易度、次第だな。また連絡する」 用件以外で、こいつと飲む趣味はない。どこまでも相入れない男だ。深入りすればするほど、こちらが呑まれてしまうような。そんな気がする。 「用はそれだけか?」 飲食代を置いて、席を立つ新川。もう、引き留めて話すこともない。そもそも、依頼を引き受けるとこいつは言っていない。全て、まだ動いていないのだ。 「ああ。じゃ、頼んだ」 新川は、返事をせずこの場を去っていった。1人残された俺も、サワーを一気飲みし居酒屋を後にした。普段より、味がしない酒だった。それにしても、どうしたものか。酒のせいか思考がまとまらないので、今は家に帰るべきだろう。
警視庁から程近いマンションに帰ると、一気に体の力が抜けた。自分の家というだけで、安心する。新川の連絡が来るまで、出来ることはない。シャワーにでも入って、寝よう。
こいつが、自分から非を認めるとは。それほど心に響いたのか、元から実は素直なやつなのか。 それはわからないが、大きな進展であることは事実だ。「じゃあ……協力してくれるのか。永田霞の一件に」 しかし、侑の表情は曇った。完全に心を許したわけではないようだ。「……僕には立場がある。それ以前に、生活があります。簡単に、協力するなんて言えませんよ」 紅茶をまた一口飲み、彼は続ける。「僕には愛する人がいる。彼女を危険に晒すわけには、いかないんですよ」 なるほど、守るべき人がいるわけだ。彼の事情も考えると、無理強いはできない。 俺だって、彼女がまだ隣にいたなら──そんな無茶はできなかっただろう。「わかった、ありがとう。日比谷検事、無理にとは言わない。できる範囲で、やれることをやってくれないか」「努力はしましょう。ですが……上層部は今、永田霞の事件で神経質になっている。期待はしないでください」 永田霞の件で、侑は恐らくまだ何かを握っている。それを話さないのは、ここでは話せない話だからなのか。それとも、俺たちにまだ信用がないのか。どちらにせよ、いずれ話してくれるのを待つしかない。 侑と解散し、新川と二人で歩く。「……桜田」「何だよ」 新川が、話しかけてきた。声のトーンが高くないので、明るい話題ではなさそうだ。「日比谷のこと、どう思った?」 どう思った、か。少しだけ考えて、答える。「……そうだな。まだ底の読めない男、といったところか」 日比谷侑。絶対に、まだ何かある。それを引き出すまで、俺は彼の全部を信用しない。「あいつはそういう奴さ。昔から、な」「新川、お前……何か知ってるな?」 新川は、確か侑とは大学の同期だったはず。俺の知らない何かを知っていても、不思議ではない。「どうだかな、俺とあいつは仲が悪いから。あいつは昔から、ああ
新川がやっと、口を開いた。「でも、円香嬢が事件を追ってるなんて知ってるやつ何人いるんだよ」 言われてみれば、もっともな疑問だ。あの子は、独自に事件を追っていた。こんな大事なことを、易々と人に口外するわけがない。「俺だって、お前が言うまで知らなかったし」 新川ですら知らないのか。あの事件で、裏と取引しているであろうお前でも……。「なるほど、僕以外の人間がそれを知っているのはおかしい。と」 それでも、侑は驚くほど冷静だ。今のは決定打だと思ったのに、違うのか?「でも、僕は言ったはずだ。あの子は、何でも話す。何でも話すと言うことは、顔にも出やすい。鋭い人なら、そもそも言わずに察せる。違うかい?」「……円香さん本人に聞いても?」「どうぞ。でも、彼女の知らないところで察されている可能性をお忘れなく」 これでは、負けてしまう。日比谷侑、本当に化け物のような論理の持ち主だ。 この歳で検事十五号なのは、伊達ではないらしい。「それでも、円香嬢がこの事件を追ってることはお前知ってるんだろ? 日比谷よぉ」 新川も、加勢してはくれている。この状況を何とか活かしたい。 侑はといえば、穏やかに紅茶を飲んでいる。その余裕は、本当に崩せるのだろうか。「知ってるさ。彼女は僕の従兄妹なのだから」 埒があかない。このままでは逃げられてしまう。 いや、そもそも今の目的は彼を折ることではない。上層部に、円香の左遷を取り消させることだ。 だとしたら、彼を追い詰めるのは避けた方がいいかもしれない。 「……日比谷検事、どうしてそこまで上層部に何か言うのを避けるんだ?」 仮にも従兄なのであれば、もう少し情があっても良さそうだが。それが通じないのも法の世界、か。「……僕が言ったところで、止まるとでも?」 確かに。彼が何かを言ったところで、左遷の取り消しにはならないだろう。「……円香さ
家に帰って、一人で考える。 俺なんかが、人を守ってもいいのだろうか。あんなに愛していた妻からは、仕事の多忙を理由に離婚された。親権も妻に渡った。 それでいい、そうあるべきだ。自分の感情を押し殺すことにも慣れている。 それでも、あの子を守ってあげたい。気がつけば、そう考えてしまっている。 メッセージの着信があったのは、その時だった。『何故、貴方が僕の連絡先を知っているのですか』 その疑問はもっともだった。侑からすれば、一度会っただけの人間から来た連絡だ。疑うのも、当然と言える。『それも含めて、もう一度話がしたい』 そう返すと、連絡は止んだ。恐らく、考え込んでいるのだろう。 十分ほどあって、もう一度連絡が来た。『わかりました。次の日曜日を空けておきます。銀座駅に集合でお願いします』 淡々とした、侑らしい返事。それでも、少しは手応えがありそうだ。 侑には悪いが、新川にも同席してもらうことにする。彼の感情を揺さぶれるのは、俺ではなく新川の方だ。今回のキーパーソンと言えるだろう。 新川からも了承してもらい、次の日曜日になった。「よっ」 銀座駅に先に着いたのは、意外にも新川だった。休日の格好は初めて見たが、ブランドのシャツとパンツは彼の容姿を一層際立たせている。 こいつ、自分の見せ方がわかってるな。 俺も、それなりにはきちんとした服装なのに。新川がこれでは庶民的に見える。「あ、日比谷まだ来てねーの? 珍しいな、あいつ遅刻とかしないのに」「まだ集合時間にはなっていないしな。待とう」 他愛のない話で時間を潰していると、新川の目線が移動した。その方角を見ると、見知った人影があった。「……何で君までいるんですか?」 それが侑の第一声だった。察してはいたが、やはり犬猿の仲らしい。「俺がいたら悪いのかよ」「悪いですね。これは、僕と桜田さんの約束だ。君が入る余地はない」 何だか痴話喧嘩みたいになってきた。周りの視線も気になってくるし、移動した方が良さそうだ。「とりあえず、落ち着いて座れるところに行こう」 銀座のカフェは、どこも混んでいる。それに高い。気後れするような場所なのに、侑はやけに落ち着いていた。 新川も落ち着いてはいるので、俺だけ気張っているのかもしれない。「それで? 新川まで引き連れて僕に話って何なんですか? あと、連絡
円香からメッセージが来たのは、退勤後すぐのことだった。『桜田さん、話せる? あんまり職場から近いところでは話せないから、ちょっと離れたカフェで』 添付された地図は、渋谷のものだった。確かに、若い子が好きそうなエリアだ。 了解、と返事をし向かう。もうすぐアラフォーにもなろうという男が入るには、いささか気後れする内装だ。 一面ピンク色だし。何だかわからないが、キャラクターのグッズも置かれている。 こう言うのが好きなのだろうか。「桜田さん! こっちだよ! こっち!」 元気な声で、俺を誘導する円香。聞かれたらマズいと言いながら目立とうとするのは、天然なのか。そうなのだろう。「それで、話ってなんだ?」 席に着いたので、本題を切り出す。「ああ、うん……実はね……」 しかし、円香は急にどもり始めた。そんなに言いづらいことなのだろうか。 数分過ぎた後、彼女は小さな声で呟いた。「桜田さんとは、もう会えないかもしれないんです」「どういうことだ?」 理解ができなかったので、問い返す。もう会えない? 何かあったのは間違いない。「実は……青森地検に異動になっちゃって」「異動?」 随分と急な辞令だな。そんなこと、あり得るのか? あり得なくはないのが、この事件か。俺が転勤になっていないのは、今や奇跡と言える。「今日、出勤したらいきなりそう言われて……」「昨日、あの後に何かあったか?」 昨日の今日で、いきなりそうなるとは考えづらい。何か理由があるはずだ。「昨日は、あの後侑くん……あ、日比谷侑検事とお話したんです」「彼と……?」 そういえば、説得するとか言ってたな。この様子では、結果を察せるが。「結果は?」 それでも、一応聞いておく。「私は甘いって……痛い目を見るって言われちゃいました」「それが、青森地検への異動?」「……そう、なのかも。わからないですけど」 それがわからないほど、この子は馬鹿じゃないだろう。 わかっていても、認めたくないだけだ。「じゃあ、これからどうするんだ?」「青森に行かなかったら、クビですよ。行くしかないです」 二回しか会っていないが、今にも泣きそうな彼女は初めて見た。 どんな時でも明るいイメージだったから、意外な一面だ。「でもね……最後に仕掛けようと思うんです」「仕掛ける?」 どうやら、本題は