Chapter: 3-111.死せる者と目覚める者と(1/3)「まるで屍蝋化した聖者のよう」 冬凪が言った。世界樹の光の中の十六夜は、薄く開けた目蓋の中の瞳に生気がなかった。鼻の穴は狭く、唇は乾いて銀牙にへばり付いている。頬はこけ顎は尖り傾いだ首に見たことのない皺ができていた。「鈴風さんこれはどういうことなの?」 冬凪が聞くと鈴風は声を振るわせながら、「初めての事なので」 とだけ答えた。残酷に聞こえるかもだけど、赤子がどうなったかなんて知らない。そもそもあれは志野婦なんたから。それよりも母体が損なわれたこと、十六夜が死んでしまったことの方が一大事だった。十六夜が志野婦を宿した時の心の内を思い出す。安心し切って新しい命への期待に溢れていた。腹の子が擬態した志野婦なんて考えていなかった。十六夜は我が子を抱く夢を見たまま逝ってしまったのだ。どんな気持ちだったろう。エニシを切った今となっては心の内を覗くことはできないけど辛いだろうのは分る。可哀想な十六夜。涙が出た。「十六夜が!」 冬凪が叫んだ。世界樹の十六夜が前のめりになり光の柱から抜け出し始めていた。頭を下に向けて後頭部をこちらに見せてくる。髪が巻き付いた首がぬるぬると出て来たあと幅広の肩が続き、さらに広大な背中が露わになった。「何が始まるんだろう」 その言葉が終わらないうちに十六夜の背骨に沿って光のスジが走った。そこから世界樹の光を圧する、さらに|眩《まばゆ》い光が放射される。「何か出てくる」 嫌な予感しかしなかった。あの映画で魔界衆に堕した宮本武蔵も背中を割って出て来たからだった。その予感は当たってしまった。すぐ後その光の放射から人の頭がにじり出て来たのだ。そしてその顔面が露わになった時、「志野婦様!」 鈴風の表情は分からなかったけれど、その声には明らかな動揺があった。あんたの幻術が完成したんだから喜
Last Updated: 2025-11-09
Chapter: 第110話 十六夜、だよね?(3/3) ただその十六夜は、何といえばいいのか分からないのだけれど、あたしが螺旋の中心に見た人ではなかった。 言えば、螺旋の中で見た十六夜は世界樹に|磔《はりつけ》にされて悲惨な様子をしていたけれど、あの十六夜はあたしと園芸部で10円アイスを食べたJKだった。でも今目の前に見えている十六夜は、同じように世界樹にまとわりつかれているけれど、あの十六夜とは違っていた。何が違うのか。よくは分からないけど聖母に見えたり、巨大すぎたりということとは関係ないような気がした。「「なんか違う」」 冬凪と同時だった。冬凪にもあたしと同じ違和感があったみたいだった。「十六夜、だよね?」 思わず口をついていた。 その違和感の正体が何なのか分からなかったけれど、ビジョンに異変が起こったのは分かった。つまり、あたしが螺旋の中に見た時と何かが変わったために、その中心である十六夜に違いができてしまったのだ。「産まれてしまったのかも」 志野婦がだ。そうだとするとここにいる十六夜は何者なんだろう。「鈴風には分かるの? 産まれたかどうか」 最後尾の鈴風がおずおずと答える。「本当ならわかります。私がかけた術ですので。でもこれまでとは感じが違う気がします」 十六夜に志野婦を植え付けたのはクチナシ衆だというのは宮木野線で聞いていた。でもそれが鈴風のしたことだということはここで初めて知った。いや、そうではない。エニシの切り替えの時、そして石舟のアクティベートの時、あたしは鈴風の全てを知った。だから鈴風がしたことが当たり前すぎて、取り沙汰しなかっただけだ。そんなこと気にする必要はないと思っていただけだった。トリマ、鬼子のエニシに聞けばわかることだけど、鈴風に言って欲しかった。「どういうこと?」 語気がつよくなってしまった。「ごめん。説明してくれる?」 鈴風の説明はこうだった。この幻術は志野婦が宿主と入れ替わることで劣化した体を再生するためのものだ。志野婦が身中にいる間は、母体から十分な養分を吸い取れるように赤子に擬態する。そして機が熟すと、つまり出産になると志野婦は再生された元の姿で出てくる。「母体は?」 語気なんて気にしていられなかった。十六夜の体はどうなる?「身体の中心線で二つに割れて、中から志野婦が出て来た後は、着物を脱いだように皮一枚になってしまい
Last Updated: 2025-11-08
Chapter: 第110話 十六夜、だよね?(2/3) 足元を見下ろすと、遥か下方に漆黒の空間が口を開いていた。そこを見ると目の焦点が合わせられない真の暗黒だった。見つめていると目が離せなくなって目玉から脳幹ごと吸い取られそうな感覚。深淵を覗けば深淵がとかいうセリフが生優しすぎることを知った。「これって、ブラックホールに吸い込まれてるんじゃ?」「ワンチャン、あるかも」(死語構文) この時ほど死語構文がクソだと思ったことはなかった。あたしたちがここで死んだら死語もクソもないからだ。 足元のブラックホールは巨大すぎる上に、暗黒の水晶玉が光をバグらせてそこに近づいているかどうかは分からなかった。けれどリング端末の赤いポイントはさらに点滅を激しくしカナメにますます近付いて来ているようだった。「あそこに何か見えます」 鈴風が下を指さして言った。足元のずっと下には光が溢れる銀河の中心に暗黒の巨大水晶玉が嵌っているのが見えた。そこに突き刺さった光の束がこちらに|迫《せ》り上がってあたしの視野を埋め尽くし光の世界樹になっているのだった。その幹にあたる部分にそこだけ光が歪んでいる場所がある。光の流れが何かを迂回するように外側に出っ張っている。世界樹が大きすぎて実際の距離は分からなかったけれど、それは手を伸ばせば届きそうだった。リング端末を見ると赤い点は点滅を止めカナメにベッタリくっついてしまって役に立たないくなっていた。「これ、スワイプ出来るっぽい」 後ろから冬凪が差し出して来たリング端末のマップの背景は白一色でなく濃淡があった。あたしも自分のリング端末のマップを指でスワイプしてみた。すると平板な画面に濃淡が出来て来て何かを表示し始めた。さらにスワイプする。どんどんその形がはっきりしてくる。「いざよい?」 そこに現れたのは光に包まれた十六夜の顔だった。光の流れが十六夜の髪を洗っている。額は艶やかで美しく、目を優しく瞑り、鼻筋がスッと通って、少し開けた口から牙がのぞいている。頬はピーリング後にニベアしたくらいツルツルだった。その十六夜は、まさに光輝くフードを被った聖母だった。「見て!」 冬凪が小さく叫んだ。光の世界樹を見た。そこにはリング端末で見たままの十六夜が存在していた。全身を世界樹の光の中に包まれれ、顔だけ外部に突き出している。ただ縮尺がバグっていた。その顔は8千
Last Updated: 2025-11-08
Chapter: 第110話 十六夜、だよね?(1/3) 冬凪、鈴風、あたしの乗る石舟は、銀河の中心から吹き出す広大にして|高大《こうだい》な世界樹という名の宇宙ジェットを目の前にしていた。極彩色の光が流れてゆく方向を上だと判断して、かろうじて天地を把握しているような状況で、完全にあたしたちは座標を見失っていた。 希望があるとすればリング端末のホロ画面に表示された3Dマップだった。それは扇型をしていてカナメの部分が石舟の位置を表し、その中に点滅する赤いポイントこそ、前園十六夜のいる場所だとあたしの直感は教えてくれていた。「行かなきゃ」「どうやって? また想うの?」「それしか方法ないから」 冬凪が言いたいことはわかった。もうクロエちゃんの「想う」は2回も使ってしまった。いや、母宮木野の墓所で使ったのが最初だから3回だ。3という数字はキリがいいからリミットな感じするし、こんなチート技、ゲームなら何回も使えないものだ。「試してダメだったら、他の方法考えない?」「それはいけど」と冬凪は渋々だ。ここまで来ての冬凪の思い切りの悪さは普通ならイラっとするところだけど、あたしはそうはならなかった。|閃《ひらめ》き先行のあたしと違って冬凪はじっくり考えてから行動する子だ。きっとあたしには分からない問題が見えていて、後ろでいつものポーズして考えを巡らしてるに違いない。あたしは冬凪の解決策を待った。そしてようやく冬凪が重々しい口を開いて言った。「チート技は3回までって言うし。言わないかな?」 は? あたしとおんなじこと考えてた。むしろどうした冬凪、なんだけど。 そこに鈴風の注意喚起が入る。「夏波さん、冬凪さん。この石舟落ちてませんか?」 冬凪がそれを受けて、「それは世界樹の光が上へと移動してるから自分たちが下がって感じるだけかも」「でも光の速さが」 世界樹を見ると極彩色の光が最初見た時よりもずっと速度を増して上へと移動していた。石舟の体勢はずっと同じだったし重力があるわけでもないから、あたしたちは石舟の動きを体感できてなかったらしい。 各自リング端末のマップを見た。赤いポイントが激しく点滅しながらカナメの中心に近づいて来ていた。「「「あーね」」」
Last Updated: 2025-11-08
Chapter: 3-109.世界の果て?(3/3) あたしが薬指の疼きと共に閃いたのが、「これって十六夜の居場所なんじゃ?」 ということだった。「そうだとすると、結構なご都合主義だけども」 ミユキ母さんの言葉を思い出いた。「ご都合主義は現実で使うと人を傷つける」 それは避けなければいけないことだ。でも、あたしが真球に向かってユウさんの薬指を差し上げた時、中の何かとシンクロして、ガチャ!と音をたてたことを忘れていない。だからこれは絶対に前園十六夜の居場所なんだ。「あたしを信じて」 鈴風がいつも以上に落ち着いた口調で、「六道園プロジェクトが始まってからいろんなことが起きました」 あたしはそれら一つ一つを思い描く。 クチナシの人の夢。瀉血にチブクロ騒動。遺跡調査。まゆまゆさんたちには20年前に飛ばしてもらった。千福みわさんや蘇芳ナナミさんに会った。鞠野フスキの案内で辻川ひまわりとともに四つの爆発事件に立ち会った。鬼子の発現も経験した。柱は全部ではないけどいくつかはぶっこ抜けた。豆蔵くんと定吉くんも一緒に闘ってくれた。蓑笠連中やエンピマン、そしてトラギクとの対決。さいごは十六夜の掠奪を許してしまった。そしてその時出来た真球に激突してなぜか宇宙へ。←今ココ(死語構文)。 鈴風が続ける。「それらは全て十六夜先輩に集約されている気がします。だから」 そう、あたしは自分の直感を信じたいと思ったのだった。「ワンチャン、ありくね?」(死語構文) 冬凪も賛成してくれた。 白地図にプロットされた赤い点滅で、計器はないけど石舟が動いていることが分かるはずだった。でも、赤いポイントの位置ってどれくらいの距離があるのだろう。地図をスワイプしたりタップしたりして設定を表示させようとしたけれどなにも起きなかった。せめて縮尺がわかれば。また何十万光
Last Updated: 2025-11-07
Chapter: 3-109.世界の果て?(2/3) 冬凪、鈴風、あたしはできうる限り想いの芯に迫るため鬼子のエニシで心を一つにする。さっきみたいな失敗は許されない。今度間違えたらブラックホールに呑み込まれてしまうからだ。それだけは絶対に避けなければいけない。「「「世界樹へ」」十六夜の元へ」 宇宙がそれに応えたのか、それまで見えていた銀河の星々が一斉に|眩《まばゆ》い光を発散しだした。視野に光が満ちて目から入った光が後頭部に届き思考を真っ白にする。光の爆風があたしのことを石舟から引き剥がしにかかる。必死にしがみつくけど圧力で上体が仰け反ってしまう。石舟に掛かる指先も光の|弄《まさぐ》りで一本一本外されてゆく。ついにユウさんの薬指だけになった時、真っ白だった視界に変化が起きた。光の爆発は変わらず溢れていたけれど、白一色でなく、ところどころ濃淡が感じられ、ものの形が分かるぐらいの光度に落ち着いたようだった。「光の壁」 冬凪の声がした。冬凪は壁と言ったけど、あたしは目の前にあるものをそう言っていいか分からなかった。上はのけぞっても光で、下は見下ろし尽くしても光だった。左も果てしなく光で、右も永遠に光だった。あたしの前方全てが光だった。それは壁というより、「世界の果て?」「認識の境界ってこと?」 と冬凪。鈴風が落ち着いた声で、「これが宇宙ジェットなんでは?」 言われてみると前方に溢れる極彩色の光はゆっくりと上へ上へと移動していたのだった。「これからどうすれば」「そんなの分かんないよお」 もうヌルい返事しかしない冬凪だった。「この石舟動いてんのかな?」 前方の光があまりに広大なせいで、石舟が動いているかどうかも分からなかった。舳先からこちらの何もない平面を見る。「計器とかあればいいのに」 ふと思いつく。そうか、想ったらなんでも叶うんだった。
Last Updated: 2025-11-07
Chapter: 47.青山椒にぎり 私の来し方を観た作左衛門さんは、刹那その本性を露わにしたけれど、すぐに普段の気のいいお兄さんに戻って、「不思議なこともあるな」 と言って奥に戻っていった。 それから私はDに、作左衛門さんの見立てはどうだったか聞いてみた。「一緒にビジョンを見た感じでした」 ただ自分が見ていたよりもずっと先まで見通す感じだったと言った。ベッド・イン・ビジョン、つまり私と一緒にベッドにいて先の自分を見るビジョンとも少し違ったのだそう。「タケルさんの時はビジョンを共有するっていうか、同じ風景を一緒に見てる。でも作左衛門さんは完全に観察者でした。ビジョンの外にいてあたしの側で見守ってその先を見せてくれた」 作左衛門さんが私を見たのはほんの一瞬だったので、その感覚はよくわからなかった。ただ、作左衛門さんがすぐ側にいるのは感じたような気がした。「それで、何が見えたの?」 その答えでミサさんが小説のレイカになってしまって、辻沢の時間軸が崩壊するかがはっきりする気がした。 Dは私の顔をじっと見ながら考えをまとめているふうで、そしておもむろに口を開くと、「言えません」 それ以上何も言うつもりがないようだった そこへ蘇芳ナナミがおにぎりが乗った大皿とやかんを持って現れた。「どうだった? 作左衛門さんの占いは当たるから怖いよ」 と軽い感じで聞いてきたけれど、私とDを見て様子が違うと悟ったらしく、「まあ、食べようか?」 とおにぎりの大皿を囲炉裏端において腰を下ろした。 おにぎりは辻沢名物の青山椒にぎりだった。白米に塩漬けにした青山椒のつぶを混ぜたもので、青山椒のつぶが見た目も清々しい。と小説には書いてきた。でも実は、私は一度も食べたことがなかった。 一つ手にして一口頬張る。辛みと爽やかさが口の中に広がってとても旨かった。なんかうれしい。「これ旨いですね」 とナナミに言うと、それには一つ肯いただけですぐに顔をDに向けた。それで私もDに視線をやったのだが、Dは青山椒にぎりの大皿を見つめたまま俯いて、泣いていたのだった。「何があった?」 ナナミがDに優しそうな声を掛ける。するとDは動くほうの左の袖で涙を拭い、「なんでもないです。おいしそう。青山椒にぎりだ。これ小説のラストでみんなが揃って食べるんですよね。あたしあのシーン読んで泣いちゃいました」
Last Updated: 2025-11-07
Chapter: 46.ミサの行方 私とDは背負い籠を担いだまま山椒の木に取り付き、刺々しい枝から実を摘み取ろうとした。山椒の木の芽の香りが鼻をくすぐる。すると新人研修目的で側にいる蘇芳ナナミが、「籠は置いて。少しずつ収穫して片手に持てなくなったら籠に入れるんだよ」 その後すぐ、「レイカと知り合いとはね?」 と言ったのだった。私はDに、どういうこと? と目で訴えた。すると、「さっき奥の部屋でミサの写真を見てもらったんです。そうしたら」「辻沢の問題児、調(シラベ)レイカじゃないか」 Dが見せたのはコスプレ衣装のミサさんだったが、ナナミは有名人でも何でもない知人に変装するという事態が呑み込めず、ミサさんのことを調レイカだと思い込んだのだった。「あいつは卒業してから一度も辻沢に戻ってきていないはずだけど、来てたっていうんだろ?」 小説のレイカは、役場倒壊事故が起こる年の5月、4年ぶりに辻沢に戻ってくる。「レイカさんが辻女を卒業して何年ですか?」「3年だ」 ということは来年、倒壊事故は発生する。「房ごとむしるように。そう」「むしるのが難しいなら、ハサミ使いなね」 話しながらも山椒摘みの作業はちゃんと教えてくれる山椒農園主なナナミだった。 夢中で収穫しているうち段々慣れて来て、汗もかき出した。すると、「痛い」 枝の向こうのDが左手で頬を抑えていた。右腕が利かないから房を取る時、邪魔な枝を避けられなかったようだ。 ナナミがDに近づいて頬を見た。「血が出てるね。もしかして右手が使えない?」 Dが申し訳なさそうに頷いた。「じゃあ、山椒摘むのはやめて種分けに回って」 これまでは房を摘むと片手に持っていて、溜まると後ろに置いてある背負い籠に入れに行っていた。これからはそれをDが受け取って籠に入れて、種分けもすることになった。「連絡先教えてあげたいけど、電話番号知らないんだ」 Dは、「LINEは?」 と言ったが慌てて、「なんでもないです」 と口をつぐんだ。私の小説をよく読んでるDは、ナナミがSNS嫌いなことを思い出したようだった。 それからは私もDも黙々と山椒の実を摘み続けた。10時の休憩は皆さんのところへは行かず、その場に腰かけてレイカのことを話した。「青墓でやってるバトルゲームに参戦しに来たって?」 バトルゲームとはスレイヤー・Rのことだと思うが
Last Updated: 2025-11-05
Chapter: 45.山椒摘み 蘇芳ナナミに渡された書類は契約書だった。「内容確認して必要事項記入して」 私とDが記入している間、ナナミはずっとDの前にいて、時々しゃがみ込んでは顔を覗き込んでその度に首を傾げていた。「苗字の違う双子とか?」「違います。他人です」 ナナミはDを見るといきなり「小宮ミユウ」とミヤミユの本名で呼んだのだった。「連絡取れないから心配してたんだぞ」とも。 小説のミヤミユは夏の初めにスオウ山椒園にバイトをしに来た。その時ナナミは、小宮ミユウが少女のヴァンパイアに付け狙われていることを知り、いろいろ便宜を計ってやっている。けれど、その後ミヤミユがそのヴァンパイアに殺されたことまでは知らない。 私とDが契約書にサインをしてナナミに渡すと、それを一瞥してから、「土間の出口の背負い籠を一つ取って。軍手は持ってる?」 辻沢の山椒は原種に近く棘がある。そのことは小説に書いて知っていたので、私はゴム付きの軍手を用意してきていた。それを見せると、「いいね。あなたは?」 Dが持っていたのは百均で売ってる普通の軍手だった。「それだと手が血だらけになるね。うちに余ったのがあるから貸してあげるよ。付いておいで」 ナナミはDを座敷の奥に連れて行った。土間に取り残された私は背負い籠を取りに立ち上がろうとした。その時ざわつく何かが目の端に入る。そのままやり過ごせばやり過ごせたけど、私はそのざわつきを板間の上に探した。それは座敷の縁が上り框に落ちる角にあった。よく見ないと板間の黒さに紛れて分かりにくかったけれど、赤黒い4本の指の跡がついていた。それはDのコロコロに着いていたものとよく似ていた。そしてそれはちょうどDが座敷に上がる時に右手を付いた場所なのだった。 私は咄嗟にそれを軍手の背で拭き取ろうとした。それはやはりなかなか取れなかったので濡れティッシュをメッセンジャーバッグから4、5枚出して拭き取った。「何してるんですか?」いつの間にかDが板間にゴム付き手袋をして立っていた。「書類のカーボンが床に付いちゃったから拭いたんだ」と誤魔化した。Dはそれを気にする様子もなく土間に降りると、入り口の背負い籠を一つ取った。そして、「タケルさん。山椒摘みですよ」と庭に出て行ったのだった。 私が後に続き籠を背負って庭に出ると、Dはすでに他の人と挨拶を
Last Updated: 2025-11-03
Chapter: 44.蘇芳ナナミに会う 私とDが乗ったGoryGoryタクシーは大曲大橋を渡ったあと右折して、辻沢の南の山間部へ向かった。「運転手さん、スオウ山椒園まで何分くらいで着きますか?」「そうね。道は混んでなさげなので20分くらいかな」 蘇芳ナナミとの約束は8時半。間に合うかギリギリの時間だった。 バイパスを降りて南への道をしばらく走るとタクシーの天井でキラキラが揺れていた。D側の窓の外に木々に囲まれた池の水面が広がっていた。「雄蛇ガ池だ」 辻沢の南に広がる貯水池で、小説にはここでのエピソードがたくさんある。「ミヤミユ最後の地です」 Dは池を見ないようにして言った。小説のミヤミユは満月の次の朝、潮時明けの早朝にこの池の畔でヴァンパイアに襲われて命を落とす。そして今日はたまたま潮時明けの朝だった。Dが雄蛇ガ池を見たがらないのはそのせいなのだ。 それまで黙っていた運転手さんが、わたしたちが会話したのに反応して、、「お客さんらのその恰好、山椒摘みだろ?」 実は芋ジャーで働けるか心配してたけれど、一目で見抜かれたという事はどうやら正解だったらしい。「そうです」「山椒摘みのワークショップの参加者だ。当たりだろ」 運転手さんは推理好きのようだった。「バイトです」「ホントかい? スオウ山椒園はN市立大学と提携してるから、てっきり大学の先生と学生さんかと思ったよ」 鞠野フスキ教授とゼミ生のミヤミユ。辻沢では小説のキャラにならなきゃいけないルールでもあるのか?Dは運転手さんの言葉に、「全然違います!」 強めの拒絶を返したのだった。 右側が森林で左側の山の斜面に擁壁が続きいた山道が切れたところに、 ――スオウ山椒園。辻沢最大の山椒農園はこちら。 という大きな看板が立っていた。タクシーがその下の脇道に入ろうとしたので、「あ、ここでいいです」
Last Updated: 2025-11-01
Chapter: 43.スオウ山椒園へ ビュッフェから戻るエレベーターでもめまいのような感覚に襲われた。薬が手元にないことが不安を強めたが、エレベータを降りたらそれは治まった。廊下を歩く間に、ビジョンが小説のレイカでも直後の役場倒壊を免れる方法はないかを考えた。Dなら抜け道をすぐ見付けてくれそうだが、それを聞けない状況になってしまっていた。 私とDは部屋に戻るとすぐバイトへ行く準備に取りかかった。バスの時間まで30分もなかったからだ。 お互いコロコロを広げて支度をしていたら、「ヒッ!」 と窓際のDが小さく叫んだ。「どうした?」「これ」 Dは嫌なものを避けるように自分のコロコロを窓の下に蹴り出した。窓際に行くとコロコロの側面に赤黒い手形が付いていた。「これはミヤミユの」 地下道に置き去りにした時付いたものだろうか。 Dは近づくのも嫌なようで、「タケルさん、それ拭いてくれませんか?」 と濡れティッシュのパックを投げてよこした。私は中から2、3枚取ってコロコロを拭いたが、その赤黒い手形はしつこく、4枚、5枚と使ってようやく取れた。手形を近くで見て分ったことが一つあった。それは手形の指の先端がコロコロのパッキンのところで切れていたということだった。つまり屍人のミヤミユはパッキンに指先を入れてDの荷物をこじ開けようとした。ミヤミユが中を見たがったのかはわからない。いずれにせよ今のDには刺激が強すぎるので言わないことにした。 押し返されたコロコロをDは、他に手形がついてないか見回してから手元に置いた。 自分のも確認してみたけれど、倒れた時のらしい傷はあったが、手形のような何かを匂わす痕跡は見当たらなかった。 私が上着を脱いで着替え始めると、Dはレストルームに入った。しばらくしてレストルームから出てきたDは、私とおそろで芋ジャーを着ていた。私は青の上下、Dは緑の上下だ。お互いの格好を見て
Last Updated: 2025-10-30
Chapter: 42.レイカのビジョン 私とDは無事コロコロを取り戻してヤオマンホテルに戻ることができた。ホテルの玄関でドアマンが私たちの荷物を見て近づいてきたけれど、それに手を振って必要ないと伝えると所定の位置に戻っていった。 ビュッフェ会場のロビーのカフェには、もうトレーを手に料理を物色している人たちの列が出来ていた。それを見て急にお腹が減っていることに気づく。「ビュッフェ行けそうかい?」 Dに、さっきの今なのでミヤミユとは呼ばずに話しかけると、「なんでですか? あたしだってお腹へりましたよ」 本当に大丈夫そうで安心した。 カフェの入り口でカードキーを見せてビュッフェ会場に入る。私たち以外はツアー客なのか一様に年配の人たちばかりだった。 Dは周りに人がいないボックスシートを選んだ。「料理取ってきたら、ビジョンの話しましょう」 というと、コロコロをテーブルの下に入れてビュッフェコーナーに向かった。私もそれについて行こうとしたけれど、コロコロが心配だったので、Dが戻って来るまで待つことにした。 しばらくしてDが戻ってきてテーブルの上に何も置かれてないのを見て、「食べないんですか?」「いや、待ってたんだ」 Dは私がコロコロを椅子の横に置いて取っ手を持っているを見て、「そんなに大事なもの入ってたんですか?」「いいや。でも次離したら無くなる気がしてさ」 そう言ってもDは全然納得してなさそうだった。実は私自身、なんでそんなことを突然思ったか不思議だったのだ。「行って来るよ。お勧めは?」「おろしもち」 Dのトレーを見るとおろしもちがいっぱいに盛られた皿が載っていた。それはあなたの好みではと思ったが、「じゃあ、私も取ってくるよ」 トレーを手にビュッフェコーナーを回った。洋食コーナーでトーストといちごバター、ベーコンとスクランブルエッグを取った。おろしもち
Last Updated: 2025-10-28
Chapter: 【あとがき】(設定、引用や参照、次回作について)「ザ・ラストゲーム・オブ・辻女ヴァンパイアーズ」を読んでいただきありがとうございました。心より御礼申し上げます。応援していただくことがどんなにありがたいことか、それを知りました。だから今、読んでくださった皆様に夜野たけりゅぬから一生分のお礼の言葉を送りたいと思います。本当にありがとうございました。◎設定〇辻沢のヴァンパイアについて。 まず最初にお断りしなければなりませんが、辻沢は架空の土地です。夜野たけりゅぬの脳内にしか存在しません。 辻沢はこの国では珍しいヴァンパイア伝承の残る土地です。女子の乳犬歯を折る風習(辻沢の割礼)があったりします。そこに巣くっているヴァンパイアたちは、いわゆる吸血鬼とは少し違います。・吸血行為だけではヴァンパイアにはならないが、吸血されすぎて死んでしまうとヴァンパイアの劣化版の吸血ゾンビになる。・女女や男男の双子の場合どちらかに、男女の双子の場合は双方にヴァンパイア因子が遺伝する。・因子を持つものが大量の血液成分を摂取、または浴びると覚醒しヴァンパイア化(V化)する。・ヴァンパイアが正体を現すと個体特有の匂いを発する。クチナシやニセアカシアの花の香り、牛乳の匂い、菜っ葉の腐ったような匂い、古本屋さんの匂いなどがある。屍人のココロは日向ぼっこしてきた猫の匂い、同じくシオネはお日様差し込む体育館の匂いなど特有の匂いを常時させている。・目の中を覗くことで相手の来し方行く末を観ることが出来る。・弱点は山椒(気持ちよくなるだけ)とスギコギの唄(迷信、実際は効果なし)。・覚醒したてのヴァンパイアは「蘊蓄げっぷ」をする。 「蘊蓄げっぷ」とは、おっさんのような声で勝手に余計なことをしゃべりだす困った症状のこと。 Wikiに書いてあるような誰でも知っていることを得々と話すので人から嫌がられる。 摂取した血液に内在する情報の余計なものを体外にはきだす目的があるとされる。 個体差はあるが、V化して3か月ぐらいは続く。・太陽に対する耐性を持つ者(ザ・デイ・ウオーカー)が普通にいる。〇六辻家について宮木野と志野婦の血を濃く受け継ぎ、辻の字
Last Updated: 2025-06-30
Chapter: 【キャラクター紹介】○響(ヒビキ)カリン 主人公 ヒビキパートの語り手 野良ネコにミルクをやるのだけが楽しみの社畜OL 遊佐セイラの影響でモバゲーにぶっこみ体験中。 無類の車好きだが、自分のは紫キャベツの軽自動車のため、 町長の愛車エクサスLFAが欲しくてたまらない。 辻沢のコングロマリット「ヤオマンHD」勤務。 ココロの親友。 元辻女バスケ部シューティングガード 6番○調(シラベ)レイカ 主人公 レイカパートの語り手 いつもぼけっとしている天然ギャル。 子どもっぽいところがあり、 辻沢出身なのに辻沢のことが全然分かっていない。 元はN市のブラック企業で働いていたが、 惨殺されたママの遺言に従って3年ぶりに辻沢に帰ってくる。 再就職先は役場の夜間窓口勤務。 元辻女のバスケ部マネージャー 13番希望○千福(センプク)ミワ レイカの幼なじみで役場の同僚。レイカにやたらと雑草スムージーを勧めてくる。 新米ママで女バス時代もみんなのおかーさんだった。 仕事でもレイカのお守り役。 元辻女バスケ部センター 8番 副キャプテン○遊佐(ユサ)セイラ モバゲーにぶっ込みまくってるガジェットオタ モバゲー開発会社YSSの広報担当者。 ヤオマン会長の愛人。 シオネの親友。 元辻女バスケ部サブ 11番○蘇芳(スオウ)ナナミ 上背があってガタイが良く ダッドキャップと白Tシャツ袖巻き上げ姿が似合いそうな、アニキ女子。 辻沢最大の山椒農園主。 考え方が保守的でSNSを一切使用しない。 オタク嫌いでもある。 レイカをボケだ、天然だ、pkし過ぎだと言いまくる遠慮を知らない人。 元辻女バスケ部パワーフォワード 5番●辻川(ツジカワ)ヒマワリ 口が悪く、時代劇と火サス好きのオヤジ女子だが、 クレバーな頭脳、シュッとした目鼻立ち、しなやか
Last Updated: 2025-06-29
Chapter: 【参考文献】以下に参考文献を掲げるが、本編に描かれた内容のすべての責任は作者夜野たけりゅぬにあることを明記しておく。 ○山椒 ・新特産シリーズ サンショウ 実・花・木ノ芽の安定多収栽培と加工利用 内藤和夫著 農文協 2015 第6刷発行 ・WEBフリー百科事典 ウィキペディア 「サンショウ」の項 2016/6~9 参照年月 ○バスケットボール ・基本から戦術までよくわかる 女子バスケットボール 村松敬三監修 実業の日本社 2014 初版4刷刊 ・わかりやすいバスケットのルール 伊東恒監修 成美堂出版 2014 発行 ○怪談・ヴァンパイア・怪物 ・江戸怪談集 上中下巻 高田衛 編・校注 岩波書店 1989 初版 ・モンスター図鑑 ~SF、ファンタジー、ホラー映画の愛すべき怪物たち~ ジョン・ランディス著 ネコ・パブリッシング 2013年 初版第一刷 ○浄瑠璃・義太夫節・文楽 ・浄瑠璃集 新編日本古典文学全集77 小学館 2002/10 第一版第一刷発行 ・邦楽決定版2000シリーズ 義太夫 キングレコード 1963年 ・実践「和楽器」入門 伝統音楽の知識と筝・三味線・尺八の演奏の基本 財団法人 音楽文化創造 伝統音楽委員会監修 株式会社トーオン 2001年/10/20 初版発行 ・文楽・義太夫節の伝承・稽古を探る その1~4 後藤静夫 日本伝統音楽研究(紀要)8~11号 京都市立芸術大学日本伝統文化センター刊 ○雑草 ・道ばたの食べられる山野草 村田信義 偕成社 1997/6 1刷発行
Last Updated: 2025-06-29
Chapter: 最終章―完結 辻女ヴァンパイアーズはホーケー仮面と決着をつける【ヒビキ】 セイラが窓の外を見ながらぼそっと言った。 「レイカって何なの? PKの自覚、なんもない。シオネやココロに会わせたのムダだった?」 PK、プレイヤー・キラー。自分のキルを稼ぐため敵味方見境なく殺すはぐれ者。ゲームでもっとも忌み嫌われる存在。 「辻沢に帰って来たくらいだし、実はちゃんと分かってるかもよ」 「ふつー分かるよね、そもそもレイカの髪型とか容姿、あの頃とまったく変わってない。ずるくない?」 確かに、レイカは高校入学当時からまったく変化ないよな。 「でしょ。宮木野さんが、レイカのことも『犬歯を牙とするもの』って言ったときレイカがうんうんって頷いてたの見て、『レイカあんた犬歯ないから』って突っ込みたかったもん」 あれはモチベを保つために宮木野さんが打ったレイカ向けの小芝居だけどね。 それに、あの時ホントのこと言ったら、それこそモチベ、ダダ下がりだったろうし。 だって、真実の父親殺しに行くんだから。 「歯並びのことだってそう。たちつてと言いにくそうとか」 「レイカの中学の時のあだ名、とっとこネズタローだったしね」 「レイカのボケはヤマハイ仕込みってレベルじゃないよ」 あれからスオウさんに色々聞いたけど、センプクさんの母乳でレイカをヴァンパイアにしたってのもホントーかよ、だし。 だったらヴァンパイアみんな赤ん坊の格好してるだろって。 だから今回のことは全部、レイカのママのギミックだったんじゃないかって思う。 レイカのママが作った時限爆弾、それがレイカだった。 けど、あたしがレイカのママのメッセージを間違えて送らなかったら、レイカは永遠に辻沢に帰って来なかったかもなんだよな。 そのせいでこの一連の出来事の意味を未だにあたしは見出だせていない。 本当はレイカのママはレイカ爆弾を起爆させるつもりはなかったともいえそうだけど、そこをさらに踏み込むと、 今回のことで一番目的を果たしたのはセンプクさんとツジカワさんたちだった。 いけ好かない養父を排除して、囚われの姉妹を助け出し、それを調家の娘に実行させた。 それはレイ
Last Updated: 2025-06-29
Chapter: 最終章-3 辻女ヴァンパイアーズはホーケー仮面と決着をつける【ヒビキ】 エクサスLFAの車内を静寂が支配している。 音と言えば、セイラのPCから聞こえてくるくぐもった声だけ。 それは普段とは違う薄気味悪い会長の声だった。 〈あ、気付いた? いっとくけど、このカメラ赤外線対応だから。 あんたらカメラに映らないらしいが、動きぐらいは分かるようになった。 バージョンアップってやつさ。 うちの技術陣は優秀でね。どこよりも短い工数が自慢。 わが社のモットーは「拙速を尊ぶ」。 ヤオマン・システム・ソフトウエアをよろしく。 ちょっと宣伝〉 〈あんた何者?〉 〈ヤッチャ場から人気ゲームアプリまで。 皆様の暮らしを微に入り細に入りサポートする、ヤオマン・ホールディングス会長、前園満太郎です。あ、名刺切らしちゃってる。 でも、これから死んでく人には不要だね〉 〈ヤッチャ場? あんたも町長の一味?〉 〈あいつは、僕の腰ぎんちゃく。ヤッチャ場のゴミ捨て場で野垂れ死にしそうになってたのを拾ってやったんだよ。小物だけど頭の回転は速かったんでね。 2か月前の役場の事故で死んだときはびっくりしたが、あとからヴァンパイアだったって聞いて、かえって清々したよ〉 〈みなさん見てらっしゃるんだろ。そんなことひけらかしていいのか?〉 〈心配ないよ。この実況中継は関係者しか見てないから。 今はテストフェーズなの。スレイヤー・R・リブートの〉 〈なら、なんで宣伝してんだよ〉 〈まずいところは“編集”(耳の横でチョキチョキ)して、後でゴリゴリ動画にアップ。まさに無駄のない経営術〉 〈なんだお前。何ポーズとってるんだ?〉 〈おしゃべりはこのくらいにしておこう。リスナーは移り気だから、すぐ他行っちゃうからね。 とっとと死んでください。 辻沢には、もうヴァンパイアは必要ないんで〉 〈ヴァンパイアいないと、『R』になんないだろが〉 〈あー、それ? ユーザーから要望があってね。 怪我するのは勘弁って。今度からキャスト雇ってやることにした。 「中の人なんていません」ってね〉
Last Updated: 2025-06-28
Chapter: 最終章-2 辻女ヴァンパイアーズはホーケー仮面と決着をつける【レイカ】 「こんばんは」 こんな夜更けに女子の部屋に土足でヘルメット? その上チェーン・ソー持参ってのはぶっそーすぎだよ、前園のオジサン。 「すまないね。窓が開いてたんで、屋根伝いにお邪魔しに来たよ」 「で、何の用? お茶しに来たわけじゃ、ないよね」 「あー、そうだね。そんな穏やかな用件じゃない。 君の命をいただきに来た」 「それはそれは、いらっしゃいませ。 そうやって、ママの命もいただいちゃったわけだ。 カスが!」 お葬式のあと、ママの命を奪ったやつがどこから侵入したのか考えてたら、ヘイちゃんが教えてくれたよ。 あんたが屋根伝って来たってね。 人嫌いのヘーちゃんをスルー出来るのあんた意外に誰がいる? 他の人間だったら食い殺されてるもん。「最近の子は目上に対する言葉遣いがなってないな。 それに君は女の子だろう。 もっと上品にしないといけないんじゃないかな。 そんなことじゃ、雄蛇ヶ池に捨てたママの首が悲しむよ」 首を捨てた? 雄蛇ヶ池に? 持って行っちゃったの? お葬式でママの顔を拝めなかったのは、お前のせいだったのか。 「ミワちゃんが手引きしたの?」 「ミワちゃん? あー、あの腹ぼて女か。いや、関係ないよ」 そうなんだ。よかった。 「可笑しんだ。チェーン・ソー見せてやったら、産気づいちゃってね。 帰るとき『病院に連絡してって』って腰にすがりついてきたな。 振り払ったけど」 それってツリだ。ミワちゃん、お葬式のあとの出産だったもん。 「さっさとかかってこいや! 皆様が待っていらっしゃるんだろ! ウチの血を!」 「ご名答。 それとヘイゾーのカタキ」 「え? ヘーちゃんは老衰じゃないの?」 「あ、そーだったかな。 まー、なんでもヴァンパイアのせいにするのが、辻っ子のいいところでね」ブウィ、ブウィ、ブウ
Last Updated: 2025-06-28
Chapter: 七の下、琥珀地獄判官(コハクノヂゴクハンガン) 溶岩帯は果てしなく続き、それにつれてクサビは自分の位置がわからなくなっていた。スハエの姿も見失っていまや溶岩の襞の中をはいずりまわる小動物の気分になっていた。両側は高々とそびえる溶岩の壁に迫られ、空は一筋の線のように見える。もうなん時も歩いているのに山へ登る感じがない。平坦な狭い場所をひたすら歩き続けている。世界から断絶してしまったかのようだった。 そんな中、溶岩壁が透けて見える時がある。幾重にもなった襞の中を戸惑いながら歩む衛士たちの姿が右手にも左手にも見える。大声をあげて呼んだが声は届かぬようだった。それに気を取られている間に足元がぬかるんで来ていた。底に溜まった蜜のようなものが絡みついて足を上げるのさえ億劫だ。蜜は溶岩壁の隙間からにじみ出ているようで、だんだんと嵩が増し、腰のあたりまで来て動けなくなった。蜜を手に取ってみる。刺激のある匂いがした。クサビはその時になってようやく気が付いた。関東最強の嬰嶽、|琥珀地獄判官《コハクノジゴクハンガン》に取り込まれたのだと。 蜜はクサビの喉元の高さまで達し、いよいよ息の根を止めに来たかのようだった。泳ごうにも蜜は濃厚で重く、手先すら動かすことがままならない。このまま蜜に埋もれて嬰嶽の中で息絶えるのか。 その時、上方からずっしりとした衝撃音が響いてきた。見上げると一筋の空から強い光が降り注いでいる。そして再び、衝撃音とともに地鳴りのような振動が溶岩壁を伝って、蜜溜りの表面をゆらした。何度となく繰り返されるそれは、まさしくスハエが琥珀地獄判官へ打槌を仕掛けているものだった。その振動は蜜溜りを揺らし、クサビの体を浮き上がらせる。数十回も繰り返したころには、クサビは腰まで蜜溜りの上に出ることができた。そのまま溶岩壁に手を伸ばし、自分の体を引き上げ蜜溜りを脱出すると、クサビは溶岩壁をよじ登り始めた。壁か
Last Updated: 2025-09-10
Chapter: 七の上、琥珀地獄判官(コハクノヂゴクハンガン) クサビは人の背に負ぶわれていた。負ぶっているのは母のようだった。クサビは身を固くした。負ぶった赤子がぐずると後ろ頭でド突いて黙らすような女だからだ。そんなはずはない。母はずっと昔に死んだのだ。押しつぶされるような頭の重さを感じつつ、クサビはそこで目を覚ました。 クサビは衛士に負ぶわれていた。ザワだった。「どうして」「轍を追って来たらお前が道中で倒れていたので連れてきた」「サヨ姫は、いやユウヅツはどうした」「わからぬ。轍は足柄からずっと続いているが、ユウヅツは見当たらない」「ここはどこだ」「横走りの関」 そこから西に不死の山がもうもうと噴煙を上げる姿が遠望できた。「すまぬ。降ろしてくれ」 クサビはすこしよろけたが立てた。「礼を言う。ここからは一人で行く」「人手はいくらあってもよかろう」 相手はユウヅツだけではなく関東最強の|嬰嶽《えいがく》、|琥珀地獄判官《コハクノジゴクハンガン》と一緒なのだった。しかし、この任は誰のものでもない。クサビ自身のものだ。それにザワを巻き込むわけにはいかなかった。「ありがたいが一人で行く」 思った通りだという表情でザワは言った。「そう意固地になるな。援軍も直に来る」 すると真上から声が降ってきた。「すでにここに居るぞ」 見上げるまでもなく声でスハエだと分かった。逃げたのではなかったか。「糞のためではない。積年の恨みをはらす」 判官様から一番恩恵を受けたのはスハエだったはず。思いはザワも同じらしく、大げさなあきれ顔をクサビに向けた。 クサビは少し気持ちがほぐれて、ザワたちと同行することにした。「他の者たちは」 とクサビが聞くと、クサビの背後を指
Last Updated: 2025-09-09
Chapter: 六、小夜姫(サヨヒメ) 館の西門からユウヅツたちの痕跡は続いていた。それは道幅いっぱいの轍と、真ん中のか弱げな足跡だ。轍も足跡も泥濘るんだ道にはっきりと残っていたので、暗い夜道でもよく分かった。クサビはそれを頼りにユウヅツを追うことにした。 途中、遊行の僧に行き会った。ユウヅツのことを聞くと国分寺の者だというその僧侶が笠の中から言った。「そなたの娘御は、巨大な泥の山を積んだ土車を一人で曳いておった。土車から荒縄が伸びて娘御の首に巻き付けられておった」 さらに続けて、「あまりに不憫であったので、拙僧が書にて『ひと引き引いたば千歳供養、ふた引き引いたば万歳供養』という札を泥の山に立てておいたので、奇特な御仁がおれば助けてくれよう」 クサビは僧侶にお辞儀すると不死山が噴煙を上げる西に向けて先を急いだ。 ユウヅツの曳く土車が速いのか、それともクサビの出立が遅すぎたのか、全力で駆けているはずなのにまったく土車に追いつかなかった。 出立してから夜通しクサビは駆け続け、時に暗闇に轍を見失っては道の上をはいずって探し、見出しては追いかけた。やがて当たる風が冷たくなり、あたりが明るくなってきた。振り返るとすでに東の空が白み始めていた。道の上に目を落とすと足跡とともに血痕が点々と残っている。クサビが遅れれば遅れるほどユウヅツの身が危うくなってゆく。 それからしばらく行くと前方に木々が鬱蒼と生い茂る山塊が迫って来た。|足柄《あしがら》山、関東の西端にたどり着いたのだった。山中は昼にもかかわらず暗く静謐に包まれていた。足柄の山道にもこれまで通りユウヅツの足跡と土車の轍は続いていたが、ここに来てクサビにはユウヅツに近づきつつあることが分かっていた。ところが山中に踏み入れてよりクサビは不思議な感覚にとらわれてなかなか歩が進まなくなってしまう。それはこの轍が今できたものなのか、ずっと以前にできたものなのかが分からないというものだった。さらにありえないことだが今よりもずっと先
Last Updated: 2025-09-08
Chapter: 五、天青鬼鹿毛(テンセイオニカゲ) 世話好きな刀自や采女たちが、紅潮した頬をクサビに向けて話しかけてくる。「またとない話じゃないか。なにを拒む理由があるのかい」 無論だ。関東最強の判官様がユウヅツの裳着の後見をしてくださると仰せになられたのだから。たかが走り隷の養女ごときを、この関東でおそらくもっとも権勢のある、これ以上望みようもない御方が介添えを申し出てくださるなど、僥倖以外のなにものでもない。だから拒んでいるわけではない。クサビは不安なのだ。ユウヅツの後見人になるということは、親になるのも同じこと。判官様のおわします御簾の向こうにユウヅツをやるということ、それは二度と会うことができなくなるということだった。ユウヅツのことを思えばその方がよいに決まっているが、同時にユウヅツと離れて暮らすなど今となっては考えられない、ユウヅツとの出会いは運命だとも思う。クサビはそれでずっと逡巡しているのだった。 ある日、大きな|地震《ない》があった。ユウヅツが早朝より外出して不在だったためクサビは無事を案じた。大きな揺れがおさまり隷長屋から中庭へ出ると、人々が慌てふためいて行き来していて、全ての視線が不死の頂に向けられていた。西の空では噴煙の勢いが増し、黒々とした叢雲が広がり出していた。 クサビが局室にもどり倒れた調度を片付けているとエツナが訪れて言った。「地獄様が御馬を曳けと仰せだ」 以前は天災、人災に関わらず事が起きた時は、御前に馬を曳く習わしとなっていたが最近では珍しいことだった。それでも、それは|御厩《おうまや》の役まわりだ。走り隷の任ではない。判官様の御馬を自分のような下郎に曳かせて良いものではあるまいとクサビは思ったが、それが仰せとあらば否応するべきことではないのだった。 判官様の御馬は|鬼鹿毛《おにかげ》という名で、庁の南に広がる牧のさらに奥、|茅《ちがや》の生い茂る野原の中で飼われている。噂では相当な気性の荒さだと聞いていた
Last Updated: 2025-09-07
Chapter: 四の下、厚木蛍宇津保(アツギホタルノウツボ) クサビたちは晴れ渡った空の下をザワの母の居所に向かう。厚木の集落を抜けた先に小高い山が見えてきた。麓から続く急勾配の石段を上ると、貞観の大噴火前からのものなのか蒼然とした杜に隠れて古びた祠があった。さらにその杜に分け入り斜面を北側に回ると岩屋があった。入り口周辺には割れた|土器《かわらけ》が散乱していてどれもが錆色に赤く染まっている。ザワの母はこの中に居ると言う。「三秋になる」 ザワが絞り出すように言った。クサビが身をかがめて中を覗くとすぐ手前で二方に分かれていてどちらの奥も見えないが、洞内の饐えた土気の匂いから推して嬰嶽の巣であることがすぐに分かった。クサビはザワに小袿を渡し、ユウヅツを下の祠まで連れて行って見張っているように頼むと一歩中に足を踏み入れた。天井は低く赤錆色の壁が奥に向かって続いている。左手はすぐに行き止まりで、土気の匂いは右手の奥からしているようだ。じめついた中に進むとすぐに光が届かなくなった。クサビは脂燭に火を灯し壁に頼って洞内を進む。濡れた壁は丸みを帯びた小さな突起物がいくつも連なっていて蝋のように滑らかだ。洞は奥まるにつれ傾斜していて滑りやすく、草鞋に付いた泥濘の重さを足指に感じながら転ばぬように慎重に進む。さらに洞内を行くと、前方に一点の紫の光が見えてきた。クサビはそれまでの咽返るほどの土気が晴れて息苦しさが少し和らいだ気がした。灯に導かれつつさらに進むと、段々と足もとが水に浸されてきて、気付けば腰のあたりまで水没していた。その水は温かくそのままそこで安らいでいたい気にさせる。クサビは脂燭を捨て、手で水を漕ぎながら灯りに向かって行く。近付いて見ると、池の中に苔生した小島があって、そこに尺高の燈台が置かれ紫に光る玉が乗っていた。 クサビが寄せると小島が小さな波音をたて上下し、小島の燈台も右に左に揺れる。まるで波間の小舟のようなそれはおそらく浮島なのだ。クサビは燈台を倒して紫玉を落とさぬように慎重に取りつい
Last Updated: 2025-09-06
Chapter: 四の上、厚木蛍宇津保(アツギホタルノウツボ) クサビらが関東検非違使所に帰ると、局室が西の離れの隷長屋に移されていた。|嬰嶽《えいがく》の一、|座間輝安彙《ザマキアンノタグイ》を解除したことによる物忌のためであるが、おそらくこれからここがクサビの局室になる。判官様の居所からは少し離れたが檻でもなく明るい局室でクサビは気に入った。それとクサビがユウヅツを連れ帰ったことに頓着する者はいなかったので、おのずとそこに同居することになった。与えられる食餌はこれまでと変わらないので、そこはクサビの分をユウヅツに分けねばならなかったが。 そのユウヅツといえば、もとは貴顕の姫なのだからこの局室は決して相応しいとは言えない。それなのに己が境遇を嘆かず、当たり前のように振る舞っている。忌が明けてからというもの、内住まいの|刀自《とじ》や|采女《うねめ》の子らに誘われて西の離れの中庭で駆けまわったりしているのを見ると、もともとここで育ったかのような気さえして来る。クサビとてもそれが違和感なく、むしろいついなくなるかと不安が募って、夜半にふと目覚めては隣で寝ているユウヅツの艶やかな髪に触れてみて安堵することがあるくらいなのだった。 意外だったのは、これまでクサビを恐れて近づこうともしなかった女たちが、ユウヅツが来た途端に親しげに局室を訪うようになったことだ。最初のうちはユウヅツに食べさせろと、山芋を干したものや赤米を盛ったのやらを持って来てすぐに帰って行ったのだが、そのうち何も用事がなくともクサビの局室へ来るようになって世間話というものをするようになった。それでも女たちは相変わらずクサビは怖いらしく、機嫌のよさそうな時しか話を交わそうとしなかったものの、おかげでこれまで全くといっていいほど情報のなかった検非違使所の外の様子が少し分かるようになった。厚木の市に現れるという嬰嶽を知ることにもなったのもここからである。 その時は、いつもより多くの女たちがクサビの局室に来て厚木の市の話で盛り上がっていた。それは先月の三の市が立った時のことだというから最近の事らしかった。
Last Updated: 2025-09-05