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第6話

Author: 墨香
「退職届はもう提出したはずよ」

「え?」人事部長は呆然とした。

しばらくして、ようやく言葉を続けた。「そ、それでは……」

明乃は知っていた。正式な退職手続きでは、退職届提出後も半月程度の引継ぎ期間が必要だということを。

彼女は物事を中途半端に投げ出すような人間ではない。

退職を決めた以上、必要な引継ぎはきちんと行い、他の人に迷惑をかけるような真似はしないつもりだ。

「すぐ会社に戻って引継ぎをするわ」

「わかりました。お待ちしております」

電話を切ると、明乃は思わず深く息を吸い込んだ。

家も売ってしまった今、引継ぎさえ終われば、彼女はここを離れられる。

ただ、腹部の傷跡がまだじんわりと疼く。

しばらく休んで、明乃はタクシーで法律事務所に向かった。

彼女が現れると、事務所全体の空気が一気に明るくなった。

「安藤さん……」

「安藤さん、来てくれたんですね……」

若いアシスタントたちが嬉しそうに、明乃を取り囲んで賑やかに話しかける。

彼女たちの目には純粋な喜びと信頼が溢れており、明乃の胸が温かくなった。

「引継ぎに来たの」明乃は笑いながらみんなの興奮を遮り、一人のアシスタントに向き直った。「佳代、私の仕事を一旦あなたに引き続く」

「安藤さん、本当に……辞めるんですか」一同は顔を見合わせた。

明乃は笑って頷く。「ええ」

……

その頃、明乃の出社を知った仁は、真っ先に岳のオフィスに駆け込んだ。

「明乃ちゃんが戻ってきた!」

彼は満面の笑みで言う。「あの子は君なしじゃダメなんだな。クビにすると聞いたら、すぐ戻ってきたじゃないか!」

岳は無表情で彼を一瞥する。「暇そうだな。俺の代理案件をいくつか回そうか」

仁は慌てて手を振った――冗談じゃない!

岳が手掛けるのは全てリスクの高い成功報酬型の案件だ。リスクが高ければ高いほど、事件は複雑になり、得られる報酬の割合も大きくなるが、それを手にする能力がなければ話にならない!

岳がオフィスを出ようとしたその時、突然岳が口を開く。「明乃を呼んでこい」

仁はニヤリと笑った。「わかった」

明乃は引継ぎ作業の真っ最中だった。周りの人が「高橋さん」と呼ぶ声を聞き、思わず目を上げると、仁の笑みを浮かべた目がちょうど視界に入った。

「明乃ちゃん、霧島が呼んでるよ!」

明乃は立ち上がった。

仁は肩を並べて歩きながら、声を潜めて言った。「明乃ちゃん、先輩から言っておくけど、岳みたいな無情な男には、思い切り強気でいかないと。何でもかんでも彼の言いなりになっちゃダメだ。今回は結婚式までサボるなんて!君が甘やかしすぎたよ!」

明乃はドアノブに手をかけながら、振り返って仁を見る。「先輩も一緒に入りますか?」

「いや、遠慮しとくよ」仁は慌てて手を振った。「あの方に八つ当たりされたくないから、君に任せるよ」

そう言うと、さっと自分のオフィスに戻っていった。

明乃は深く息を吸い、ドアを開けて中に入った。

岳のオフィスは相変わらず、整然として厳かな雰囲気だ濃い色の木製家具と壁一面の法律書が、重々しくも張り詰めた空気を作り出している。

彼は広いデスクの向こうで、書類に目を通している。

「霧島さん、お呼びでしょうか?」明乃はデスクの前に立ち、平静な声で尋ねた。

普段会社では必ず「霧島さん」と呼び、プライベートでだけ名前で呼ぶのが明乃の慣例だったので、これは至って普通の呼び方だった。

だが、岳はペンを握る手を止め、思わず彼女を見上げ、かすかに眉をひそめた。

一週間会わないうちに、目の前の女は随分痩せたように見える。

以前はふっくらしていた頬も一回り小さくなっている。

シンプルな白いシャツと黒のスラックス姿が、一層細身に見えた。

「体調を崩したのか?」岳は眉を寄せる。「どうしてそんなに痩せた?」

虫垂炎は簡単な手術とはいえ、体への負担はある。彼女は一週間も苦しんで、三キロも痩せてしまった。

「霧島さん、ご用件は?」明乃は質問には答えずし、事務的な態度を見せる。

岳は思わず眉をひそめた。どういうわけか、この「霧島さん」という呼び方に、彼はなんとなく胸が詰まるような気がした。

自分はちゃんと心配しているのに、彼女は素直に受け取ろうともしない。

確かに結婚式での件は自分が悪かったのかもしれないが、人の命に関わることだったではないか?

いつから彼女はこんなに冷血になったんだ?

「一週間も無断欠勤か?本当にクビにできないと思っているのか?」岳の声は冷ややかさを増した。

明乃の表情は淡々としており、相変わらず事務的な態度だ。「すでに退職届を提出しました」

「承認していない」

「労働法の規定では、雇用主は正当な理由なく従業員の退職申し出を拒否する権利はありません……」

「明乃!」岳の声が急に大きくなり、冷たく彼女の言葉を遮った。

明乃の長いまつげが微かに震え、薄紅色の唇を結ぶと、視線を外して、それ以上話さなかった。

オフィスは重苦しい沈黙に包まれる。

しばらくして、岳は唇を結び、声も幾分落ち着かせて言った。「午後に会議がある、君も一緒に来て……」

「岳、言ったでしょう……」明乃は一語一語、はっきりと告げる。「もう辞めたの」

岳の表情はたちまち険しくなった。

「いつまで駄々をこねるつもりだ?」

彼女に本当に辞める覚悟があるのか?

本当に自分から離れる覚悟があるのか?

出会ったあの日から、明乃はしつこくまとわりつく小煩い存在だった。冷たい態度で追い払おうが、低い声で叱りつけようが、彼女はいつも自分の後を追いかけていた。

振り返れば、彼女は必ずそこにいた。

岳は誰よりも、明乃が自分なしではいられないことを知っていた。

辞める?

そんなはずがない。

「いい加減にしろ!本当に君の退職届を受理しないと思うのか?」岳の声も低く沈んだ。

「許可は要りません」明乃は彼を見上げる。「手元の業務を引き継ぎ次第、すぐに出ます。ご安心ください、長くはかかりません。一日あれば全て引き継げますから」

岳の顔は今にも嵐が来そうなほど険悪だ。彼が口を開く前に、オフィスのドアがノックされ、仁が半分だけ頭を覗かせた。「霧島、これからは……」

しかし彼が言い終わる前に、岳は机の上の書類を掴んで力任せに投げつけた。「出て行け!」

ファイルが床に叩きつけられ、中の書類が散乱した。仁の頭は一瞬に消えた。

明乃は思わず眉をひそめた。

失感情症のため、彼女は岳の顔から大きな感情の起伏を見ることは滅多になかった。どんなに怒っても眉をひそめる程度で、このように物を投げつけるのは……

初めてのことだ。

明乃は視線を戻し、肌白い顔には静けさしかなかった。「それと、明岳の持ち株ですが、時価で現金化して……」

しかし彼女が言い終わらないうちに、岳は突然立ち上がり、数歩で明乃の面前に迫った。

すらりとした長身が圧倒的な威圧感をもたらし、漆黒の瞳には凛とした霜が宿っているようだ。

岳は噛みしめるように言う。「明乃、よく考えろ。辞めれば、二度と戻れると思うな!」

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