LOGIN慎也は、私の部屋の真下を借りてくれた。彼は大きな犬みたいに、毎日私の後をついてきて、講義にも一緒に出た。アトリエでうとうとしたり、制作中には絵の具を手渡してくれたりした。慎也は昔のことを話さなかったし、私もこれからのことは聞かなかった。ある日の午後、私がデザイン画を描いていると、慶がドアをノックした。彼はなんだか痩せて、やつれていた。目の下には、ひどいクマができていた。「結衣、あの日は俺がカッとなったんだ。ずっと後悔してる」私は首を横に振った。「もう気にしてないから」慶は一歩近づいて、言葉を続けた。「杏奈が俺に、兄妹以上の気持ちを抱いてるって、やっと気づいたんだ。結婚を先延ばしにしてたのは、俺がどうかしてたんだ。俺と国内に帰ってほしい。すぐにでも、最高の結婚式をしよう。結婚したら、二人だけで暮らすんだ。ねぇ、いいだろ?」私は小さく笑った。「もういいの。私たち、別れたでしょ?」ドアを閉めようとすると、慶がぐっとドアノブを押さえてきた。ちょうどそのとき、廊下に慎也が現れて、私をかばうように前に立った。慶の表情が、苦しげなものから驚きへと変わった。「結衣、気持ちは遊びじゃないんだぞ。俺への当てつけで、適当に他の男と付き合うな」慎也が慶を突き放した。「お前は、ちょっとおかしいんじゃないか?結衣さんの7年間を無駄にしたくせに、今さら何がしたいんだ?彼女を守れないなら、もう二度と関わらないでくれ」「慶」私はやっと口を開いた。声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。「私が誰と付き合おうと、あなたには関係ない。私の人生は、私自身のものだから」慶は、がっくりと肩を落として帰国した。まるで魂が抜けてしまったみたいだった。会社には書類が山積みになっていたけど、彼は仕事にまったく手がつかなかった。杏奈は、前にも増して慶にまとわりついた。昔みたいに甘やかしてほしかったんだ。でも慶は、何度も彼女を突き放すだけだった。そして長谷川家から出ていくように言った。一生お金に困らないよう、面倒は見ると約束した。杏奈の心は、だんだんと壊れていった。ある日、彼女は果物ナイフを自分の首に突きつけて、慶を脅した。「お兄ちゃん。もし私のことがいらないなら、ここで死んであげる」慶は、首筋ににじむ血を見ても、まっ
その頃、杏奈の体の傷について、世間のうわさはどんどん広がっていた。正人は、しかたなく声明を発表した。声明では、彼と杏奈は友人以上の関係ではないこと、そして暴力も一切なかったことがはっきりと書かれていた。慶は杏奈にたずねた。「その傷、いったいどうしたんだ?」杏奈の体がびくっと震えた。「自分でやったの」「どうしてだ?」慶は怒りを必死におさえていた。「だって、つらいんだもん!」杏奈は自分の傷を指さした。「ここが痛くたって、心の痛みの百分の一にもならない!あなたが私を捨てて、他の女の人といるって考えただけで、心がナイフで切り裂かれるみたい!もう耐えられないの!」彼女はヒステリックに叫んだ。ほとんど狂ったような杏奈の姿を見て、慶は呆然と立ちつくした。「スカイテラスの日、どうして結衣を陥れようとしたんだ?」「してないよ。私、そんなこと一言も言ってないもん」慶の頭にガンと衝撃が走った。彼はあの日のことを思い出す。杏奈の傷を見て、自分は無意識に結衣のしわざだと決めつけてしまった。結衣に弁解のチャンスさえ、与えなかった。心臓を見えない手でわしづかみにされたみたいだった。慶は、苦しくて息もできない。「でも、お兄ちゃん、あなたは間違ってないよ。この傷は、彼女が直接つけたわけじゃない。でも、彼女のせいなのは確かなんだから」杏奈の声に、慶ははっと我に返った。「もしあの女があなたを奪おうとしなければ、私もこんなに苦しまなかった。だから、彼女を罰するのは当然だよ」慶は思わず一歩あとずさった。冷たいものが頭のてっぺんまで駆けのぼる。今まで、杏奈はただ自分に依存しているだけだと思っていた。それは妹として、兄を独り占めしたいだけなんだと。でも今は、長年目をそむけてきた事実と向き合わなければならない。この感情は、とっくにゆがんでしまっていたのだ。慶は、どうやってあの家を出たのか覚えていない。彼はまるで幽霊のように、深夜の街をあてもなくさまよった。薄っぺらい服のえり元から冷たい風が吹きこむ。でも、慶は寒さを感じなかった。ふと我に返ると、いつの間にか、あの記者会見があったホテルの前に立っていた。この角度から見上げると、いわゆる「屋上のヘリ」は、ただの広いスカイテラスだった。もし杏奈が本当に落ち
それから、1ヶ月が過ぎた。慶は書類を片付けながらも、ついスマホの画面に目をやってしまう。でも、通知が光るたび、そこに表示されるのは自分が見たい名前ではなかった。彼はイライラして、ペンを机に投げ出した。あいつも、よく平気でいられるもんだ。スカイテラスでのあの日のこと。たしかに、みんなの前でとった自分の態度は、ひどすぎた。結衣には、悪いことをした。でも、あのときの杏奈の様子を見たら、どうしようもなかったんだ。慶は、結衣がF国で気が済んだら、きっと帰ってくるだろうと考えていた。そのときが来たら、ちゃんと話し合って、何か埋め合わせをしてやればいい、と。自分たちの長年の付き合いだ。そんなに簡単に切れるはずがない。また、さらに1週間が経った。オフィスで、慶はスマホの画面をにらみつけ、もうじっとしていられなかった。まったく連絡がとれないこの感じ。心にぽっかり穴が空いたようで、知らないうちに不安がどんどん大きくなっていく。慶は結衣とのトーク画面を開いた。やりとりは、記者会見の日のままで止まっている。彼は何気ないふりをしながら、メッセージを打ち込んだ。【F国は楽しい?いつ帰ってくる?迎えに行くよ】しばらくしても、メッセージに既読がつかない。慶の指が止まった。一瞬、頭が真っ白になる。結衣にブロックされた?ありえない。今までで一番ひどい喧嘩をしたときでさえ、彼女は電話に出ないだけだったのに。慶は、すぐさま結衣に電話をかけた。「おかけになった電話番号は、現在使われておりません」スマホを握ったまま、慶の腕が宙で固まった。今まで感じたことのない恐怖が、彼の心臓をわしづかみにした。オフィスのドアがノックされた。秘書が書類の束を抱えて入ってきて、そっと机の上に置いた。「社長、こちら山本さんが残された株式譲渡の契約書です。法務での手続きが完了しましたので、ご確認の上サインをお願いします」慶がそれを手に取ると、指先がかすかに震えていた。これはつまり、法律上、二人で立ち上げたこの会社が、もう結衣とは何の関係もなくなったことを意味していた。彼女はすべてをきれいに清算して、すっぱりと消えてしまったんだ。慶の頭の中は、ぐちゃぐちゃだった。この会社は、二人の血と汗の結晶だ。特に、結衣に
旅立ちの前に身辺整理をしたけど、慶との間で清算すべきなのは、彼の会社の私の株だけだった。会社は大学のときに二人で立ち上げた。私は情熱も貯金も、すべてを注ぎ込んでいた。スカイテラスでのあの出来事以来、慶から連絡はなかった。出発の前日、私は彼のオフィスへ向かった。私を見た慶は、ほんのわずかに笑みを浮かべた。「やっとわかったか?この数日、お前を放っておいたのは、よく反省させるためだからな」彼は、この数日私を無視すれば、私が根を上げるとでも思ったんだろう。「反省することなんて何もないわ。それに、今日は仲直りに来たんじゃない。けじめをつけに来たの」私は前もって準備していた株式譲渡の契約書を机に置くと、慶の前にそっと押し出した。慶はいら立った様子で言った。「杏奈はお前の責任を追及する気なんてないんだ。この数日、お前の悪口ひとつ言わなかった。なのに、お前はまだ何が不満なんだ?」私は静かに彼に言った。「杏奈はあなたの大切な女でしょ。私のじゃない。だから、彼女のことなんてどうでもいいの。それに、私たちもう別れたんだから」「別れた?」慶はとんでもない冗談でも聞いたかのように言った。「俺が同意したか?」私はため息をついた。もうこれ以上、彼とごたつきたくなかった。「慶、私、しばらくF国へ行くの。この株を、現金にしたいの」それこそが、今日ここに来た私の目的だった。「外で気分転換するのもいいだろう。ちょうど頭を冷やして、よく考えるいい機会だ」慶はまだ怒っているのか、そっけない口調で窓の外に目を向けた。「株を売る必要はない。いくら必要か言え。俺がやる」彼はスマホをいじり終えると、机にぽいと投げ返した。数分後、私のスマホに送金通知が届いた。画面に並ぶゼロの数を見て、私はもう一度、株の話を切り出そうとした。口を開こうとしたそのとき、慶のスマホが鳴った。電話の向こうからは、杏奈の泣きそうな声が聞こえてきた。「お兄ちゃん、事故を見ちゃったの。道路の向かい側で、車が二台、ぶつかって……お兄ちゃん、こわいよ」慶の顔色はさっと変わった。電話の向こうの杏奈をなだめながら、ジャケットをつかんで外へ向かう。ドアのところまで来ると、彼は一度だけ私を振り返った。「杏奈の両親は、交通事故で亡くなっているんだ。
そう言うと、慶は人ごみをかき分け、狂ったように会場を飛び出していった。あそこは屋上じゃなくて、ホテルのスカイテラスなのって言いたかった。地面からの高さも2メートルちょっとしかないのに。とっくに警備員も手配して、万全の態勢だった。でも、慶は説明するチャンスをくれなかった。さっきまで羨ましそうに見ていた招待客たちが、ひそひそと噂話を始めた。「さっきの長谷川社長の目つき、まるで彼女を食い殺しそうな勢いだったじゃない!二人の仲が順調?よく言うわ!」「自業自得よ!どう見ても腹黒い女じゃない。長谷川社長の妹さんを追い出して自分がのし上がろうなんて、玉の輿に目がくらんだのね?」「兄妹?長年一緒に暮らして、情が移っちゃったんじゃないの?山本さんが可哀想ね」その一言一言が胸に突き刺さり、私は深い奈落の底に落ちていくようだった。記者会見の総責任者として、私も人々の後を追ってスカイテラスへ向かった。スカイテラスにはすでに大勢の人が集まっていて、みんな同じ方向に向けてスマホを構えていた。慶が、杏奈の前にひざまずいて、少しずつにじり寄っていた。「杏奈、下りてきてくれ。お願いだ」彼の声は震えていて、今までにないほどの恐怖がこもっていた。「お兄ちゃん、私があなたにとって一番大事な人?」「そうだ!もちろんだよ!」慶は必死に答えた。その声はうわずっていた。「杏奈、俺が一番大切に思っているのはずっと君だ。君を超える人なんてどこにもいない。今までも、これからも!」杏奈はようやく慶に視線を戻した。彼女は無邪気な子供のように、こてんと首をかしげた。「じゃあ……あの女は?」そう問いかけながら、杏奈はまた少し身を乗り出した。慶は恐怖で顔面蒼白になった。「結衣は……ただの仕事のパートナーだ!杏奈、君こそが俺の命なんだ!」その言葉を聞いて、私の心臓をえぐられたようだった。苦しくて、息もできない。もう手放そうと決めていたけど、それでも7年間も付き合ってきたんだ。さっきは二人の仲は順調だって言ったのに。ふん、順調なパートナー関係ってわけね。杏奈はついに泣き止んで笑顔を見せると、慶に両腕を広げた。慶は駆け寄って彼女を抱きしめ、長いため息をついた。杏奈は慶の首筋に顔をうずめ、ほっとしたように、でも辛さをこらえ
次の日、長谷川家と山本家の合同記者会見があった。このプロジェクトには、丸一年分の私の想いがつまってる。二日酔いの頭痛をおさえながら、痛み止めをのんで、赤いセットアップの服を選んだ。会見の会場は招待客でいっぱいで、マスコミのフラッシュがまぶしくて目がくらみそう。杏奈が来ていないのを見て、私は少しほっとした。記者会見は順調に進んで、最後に新作が発表されると、会場からはわあっと感嘆の声があがった。マスコミからの質疑応答の時間になって、ある記者が質問してきた。「山本さん、長谷川さんとはもう7年のお付き合いだそうですが、どうしてまだご結婚されないんですか?」その言葉に、胸がちくっと痛んだ。私はその場で固まってしまって、なんて答えたらいいか分からなくなった。今の私と慶の関係って、まだ恋人って言えるのかな……会場が、ひそひそとざわつきはじめた。「7年も付き合って結婚しないなんてね。やっぱりお金持ちの家に入るのは大変なんだよ」「ずっと彼女の方から追いかけてるって話だよ。長谷川社長は、本当は結婚する気ないんじゃないの」「ほんとそれ。彼女の実家の会社が長谷川社長のとこと取引がなかったら、とっくに捨てられてるでしょ」私はマイクをぎゅっと握りしめた。張りついた笑顔が、今にも引きつりそうだった。そのとき、慶が一歩前に出て、私の手からマイクを取った。「俺と山本さんとの仲は順調です。年内に結婚する予定でいます」私は何も言えないまま、彼の腕の中に引きよせられた。心の中は、嬉しいのか悲しいのか、ぐちゃぐちゃだった。会場は一瞬静まったかと思うと、羨望の嘆声が沸き起こった。私の両親は、もう満面の笑みで、まわりの人たちににこやかに会釈していた。ガシャーンッ――シャンパンタワーが崩れて、ガラスの割れる音がした。会場にいた全員が、そっちに目を向けた。入り口には、いつのまにか杏奈が立っていた。彼女は真っ青な顔で、くるっと向きを変えると、会場を飛び出していった。たぶん、慶の「年内に結婚する」っていう言葉を聞いちゃったんだ。慶は、考えるよりも先に彼女を追いかけようとした。私は彼の腕をつかんだ。「今日はマスコミが多すぎるわ。変な記事が出たら、杏奈のためにならない」それから秘書に目くばせした。「彼女の様子を見てき