LOGINウェディングドレスの試着の日。長谷川慶(はせがわ けい)はまた、結婚式を延期した。 理由は、彼の義理の妹・長谷川杏奈(はせがわ あんな)が彼氏と別れたから。 「杏奈は別れたばっかりで、一番なぐさめが必要なときなんだ。俺たちが結婚したら、あの子をもっと悲しませることになる」 私はうなずいて、だまってウェディングドレスを脱いだ。 あの女のため、慶は、これまでも何度も結婚を先延ばしにしてきた。 1度目は、杏奈が目に涙をいっぱいためてこう聞いた。「お兄ちゃん、あの人と結婚したら、私のこと、もういらないの?」 慶はそれにほだされて、彼女が大学を卒業するまで結婚は待つと誓った。 2度目は、杏奈が大学を卒業したとき。家出をする前に【お兄ちゃん、離れたくないよ】と手紙を残していった。 そして慶は、彼女にちゃんとした相手が見つかるまで、自分は結婚しないと約束した。 待ち続けて、年が経つうちに、私はすっかり周りの笑いものになっていた。 でも今回はもう待ちたくない。私は慶にメッセージを送った。【別れよう。あなたは杏奈と、お幸せにね】
View More慎也は、私の部屋の真下を借りてくれた。彼は大きな犬みたいに、毎日私の後をついてきて、講義にも一緒に出た。アトリエでうとうとしたり、制作中には絵の具を手渡してくれたりした。慎也は昔のことを話さなかったし、私もこれからのことは聞かなかった。ある日の午後、私がデザイン画を描いていると、慶がドアをノックした。彼はなんだか痩せて、やつれていた。目の下には、ひどいクマができていた。「結衣、あの日は俺がカッとなったんだ。ずっと後悔してる」私は首を横に振った。「もう気にしてないから」慶は一歩近づいて、言葉を続けた。「杏奈が俺に、兄妹以上の気持ちを抱いてるって、やっと気づいたんだ。結婚を先延ばしにしてたのは、俺がどうかしてたんだ。俺と国内に帰ってほしい。すぐにでも、最高の結婚式をしよう。結婚したら、二人だけで暮らすんだ。ねぇ、いいだろ?」私は小さく笑った。「もういいの。私たち、別れたでしょ?」ドアを閉めようとすると、慶がぐっとドアノブを押さえてきた。ちょうどそのとき、廊下に慎也が現れて、私をかばうように前に立った。慶の表情が、苦しげなものから驚きへと変わった。「結衣、気持ちは遊びじゃないんだぞ。俺への当てつけで、適当に他の男と付き合うな」慎也が慶を突き放した。「お前は、ちょっとおかしいんじゃないか?結衣さんの7年間を無駄にしたくせに、今さら何がしたいんだ?彼女を守れないなら、もう二度と関わらないでくれ」「慶」私はやっと口を開いた。声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。「私が誰と付き合おうと、あなたには関係ない。私の人生は、私自身のものだから」慶は、がっくりと肩を落として帰国した。まるで魂が抜けてしまったみたいだった。会社には書類が山積みになっていたけど、彼は仕事にまったく手がつかなかった。杏奈は、前にも増して慶にまとわりついた。昔みたいに甘やかしてほしかったんだ。でも慶は、何度も彼女を突き放すだけだった。そして長谷川家から出ていくように言った。一生お金に困らないよう、面倒は見ると約束した。杏奈の心は、だんだんと壊れていった。ある日、彼女は果物ナイフを自分の首に突きつけて、慶を脅した。「お兄ちゃん。もし私のことがいらないなら、ここで死んであげる」慶は、首筋ににじむ血を見ても、まっ
その頃、杏奈の体の傷について、世間のうわさはどんどん広がっていた。正人は、しかたなく声明を発表した。声明では、彼と杏奈は友人以上の関係ではないこと、そして暴力も一切なかったことがはっきりと書かれていた。慶は杏奈にたずねた。「その傷、いったいどうしたんだ?」杏奈の体がびくっと震えた。「自分でやったの」「どうしてだ?」慶は怒りを必死におさえていた。「だって、つらいんだもん!」杏奈は自分の傷を指さした。「ここが痛くたって、心の痛みの百分の一にもならない!あなたが私を捨てて、他の女の人といるって考えただけで、心がナイフで切り裂かれるみたい!もう耐えられないの!」彼女はヒステリックに叫んだ。ほとんど狂ったような杏奈の姿を見て、慶は呆然と立ちつくした。「スカイテラスの日、どうして結衣を陥れようとしたんだ?」「してないよ。私、そんなこと一言も言ってないもん」慶の頭にガンと衝撃が走った。彼はあの日のことを思い出す。杏奈の傷を見て、自分は無意識に結衣のしわざだと決めつけてしまった。結衣に弁解のチャンスさえ、与えなかった。心臓を見えない手でわしづかみにされたみたいだった。慶は、苦しくて息もできない。「でも、お兄ちゃん、あなたは間違ってないよ。この傷は、彼女が直接つけたわけじゃない。でも、彼女のせいなのは確かなんだから」杏奈の声に、慶ははっと我に返った。「もしあの女があなたを奪おうとしなければ、私もこんなに苦しまなかった。だから、彼女を罰するのは当然だよ」慶は思わず一歩あとずさった。冷たいものが頭のてっぺんまで駆けのぼる。今まで、杏奈はただ自分に依存しているだけだと思っていた。それは妹として、兄を独り占めしたいだけなんだと。でも今は、長年目をそむけてきた事実と向き合わなければならない。この感情は、とっくにゆがんでしまっていたのだ。慶は、どうやってあの家を出たのか覚えていない。彼はまるで幽霊のように、深夜の街をあてもなくさまよった。薄っぺらい服のえり元から冷たい風が吹きこむ。でも、慶は寒さを感じなかった。ふと我に返ると、いつの間にか、あの記者会見があったホテルの前に立っていた。この角度から見上げると、いわゆる「屋上のヘリ」は、ただの広いスカイテラスだった。もし杏奈が本当に落ち
それから、1ヶ月が過ぎた。慶は書類を片付けながらも、ついスマホの画面に目をやってしまう。でも、通知が光るたび、そこに表示されるのは自分が見たい名前ではなかった。彼はイライラして、ペンを机に投げ出した。あいつも、よく平気でいられるもんだ。スカイテラスでのあの日のこと。たしかに、みんなの前でとった自分の態度は、ひどすぎた。結衣には、悪いことをした。でも、あのときの杏奈の様子を見たら、どうしようもなかったんだ。慶は、結衣がF国で気が済んだら、きっと帰ってくるだろうと考えていた。そのときが来たら、ちゃんと話し合って、何か埋め合わせをしてやればいい、と。自分たちの長年の付き合いだ。そんなに簡単に切れるはずがない。また、さらに1週間が経った。オフィスで、慶はスマホの画面をにらみつけ、もうじっとしていられなかった。まったく連絡がとれないこの感じ。心にぽっかり穴が空いたようで、知らないうちに不安がどんどん大きくなっていく。慶は結衣とのトーク画面を開いた。やりとりは、記者会見の日のままで止まっている。彼は何気ないふりをしながら、メッセージを打ち込んだ。【F国は楽しい?いつ帰ってくる?迎えに行くよ】しばらくしても、メッセージに既読がつかない。慶の指が止まった。一瞬、頭が真っ白になる。結衣にブロックされた?ありえない。今までで一番ひどい喧嘩をしたときでさえ、彼女は電話に出ないだけだったのに。慶は、すぐさま結衣に電話をかけた。「おかけになった電話番号は、現在使われておりません」スマホを握ったまま、慶の腕が宙で固まった。今まで感じたことのない恐怖が、彼の心臓をわしづかみにした。オフィスのドアがノックされた。秘書が書類の束を抱えて入ってきて、そっと机の上に置いた。「社長、こちら山本さんが残された株式譲渡の契約書です。法務での手続きが完了しましたので、ご確認の上サインをお願いします」慶がそれを手に取ると、指先がかすかに震えていた。これはつまり、法律上、二人で立ち上げたこの会社が、もう結衣とは何の関係もなくなったことを意味していた。彼女はすべてをきれいに清算して、すっぱりと消えてしまったんだ。慶の頭の中は、ぐちゃぐちゃだった。この会社は、二人の血と汗の結晶だ。特に、結衣に
旅立ちの前に身辺整理をしたけど、慶との間で清算すべきなのは、彼の会社の私の株だけだった。会社は大学のときに二人で立ち上げた。私は情熱も貯金も、すべてを注ぎ込んでいた。スカイテラスでのあの出来事以来、慶から連絡はなかった。出発の前日、私は彼のオフィスへ向かった。私を見た慶は、ほんのわずかに笑みを浮かべた。「やっとわかったか?この数日、お前を放っておいたのは、よく反省させるためだからな」彼は、この数日私を無視すれば、私が根を上げるとでも思ったんだろう。「反省することなんて何もないわ。それに、今日は仲直りに来たんじゃない。けじめをつけに来たの」私は前もって準備していた株式譲渡の契約書を机に置くと、慶の前にそっと押し出した。慶はいら立った様子で言った。「杏奈はお前の責任を追及する気なんてないんだ。この数日、お前の悪口ひとつ言わなかった。なのに、お前はまだ何が不満なんだ?」私は静かに彼に言った。「杏奈はあなたの大切な女でしょ。私のじゃない。だから、彼女のことなんてどうでもいいの。それに、私たちもう別れたんだから」「別れた?」慶はとんでもない冗談でも聞いたかのように言った。「俺が同意したか?」私はため息をついた。もうこれ以上、彼とごたつきたくなかった。「慶、私、しばらくF国へ行くの。この株を、現金にしたいの」それこそが、今日ここに来た私の目的だった。「外で気分転換するのもいいだろう。ちょうど頭を冷やして、よく考えるいい機会だ」慶はまだ怒っているのか、そっけない口調で窓の外に目を向けた。「株を売る必要はない。いくら必要か言え。俺がやる」彼はスマホをいじり終えると、机にぽいと投げ返した。数分後、私のスマホに送金通知が届いた。画面に並ぶゼロの数を見て、私はもう一度、株の話を切り出そうとした。口を開こうとしたそのとき、慶のスマホが鳴った。電話の向こうからは、杏奈の泣きそうな声が聞こえてきた。「お兄ちゃん、事故を見ちゃったの。道路の向かい側で、車が二台、ぶつかって……お兄ちゃん、こわいよ」慶の顔色はさっと変わった。電話の向こうの杏奈をなだめながら、ジャケットをつかんで外へ向かう。ドアのところまで来ると、彼は一度だけ私を振り返った。「杏奈の両親は、交通事故で亡くなっているんだ。