Masukこれまで律人は、冗談めかして「美女」とか「きれいな人」と呼ぶか、あるいは丁寧に「お嬢さん」「星乃さん」と呼ぶことはあっても、こんなふうに真剣な声音で名前を呼ぶことはほとんどなかった。星乃は一瞬、動きを止めた。律人は彼女の手を掌に包み込み、真っ直ぐな声で言った。「さっきの目薬のことは嘘だった。でも、篠宮家で言ったことは全部本当だ」好きなのも、本当だ。彼女が何ひとつ穢れてないと思ったのも、本当。星乃は律人の真剣な表情を見つめ、その言葉の意味を理解した瞬間、頬がほんのり熱くなった。「でも……どうして?」星乃はつい、そんな言葉を口にしてしまった。言ってから、自分でも違和感を覚える。「どうして」という言葉はあまりに曖昧で、いくらでも受け取りようがある。どうして彼は嘘をついたのか。どうしてさっき、あんなにも優しかったのか。どうして一緒にいようなんて言ったのか。……けれど、いざ考えようとしても、自分が本当は何を知りたかったのか、星乃自身にもわからなかった。そもそも彼との関係は、お互いの目的のために始まったもの。感情なんて、一番必要のないもののはずだった。けれど――悠真にあれほど強く追い詰められたせいか、今日の星乃は、ほんの少しだけ「心」というものを意識してしまったのだ。そのことに驚きながら、星乃は次第に落ち着きを取り戻していった。だが、律人はそんな彼女の心の動きを見透かしたように言った。「君が僕に疑問を持ってるのはわかってる。同じように、僕もそうだ」「だから、今夜、ひとつゲームをしようか」……悠真は篠宮家を出たあと、車に乗り込んだ。「悠真様、すでに手は打ってあります。幸三の田島グループは基盤が脆く、数字だけが見栄えのいい会社です。今週中に持たなくなるでしょう」運転席の誠司が報告した。「それに、どうやら白石家も動いているようです。たぶん我々を助けるつもりですかと。うまくいけば三日以内に田島グループは完全に破産、借金まみれになります」誠司は恭しくそう言いながらも、どこか腑に落ちない表情をしていた。白石家が冬川家を助けるなんて、今まで一度もなかった。むしろこれまでなら、冬川家が動くたび、わざわざ邪魔をしに来るような連中だった。それなのに、こんな小さな会社を潰すだけの件に、わざわざ首を突っ
「どうしたの?」星乃は彼の仕草に気づいて声をかけた。律人は何も言わなかった。痛みが少し落ち着くのを待ってから、ようやく首を横に振る。目の古傷が、ときどきこうして疼くのだ。もう慣れている。しばらくして彼は目をこすり、視界が再びはっきりすると、何事もなかったように振る舞った。「たぶん、目の使いすぎだな」律人は気にした様子もなく言う。星乃は彼の目の奥に赤い血管が浮かんでいるのをはっきりと見た。ふと、以前律人が目を傷めたことがあると笑いながら話していたのを思い出す。そのときは冗談だと思っていた。だが、今の様子を見る限り、ただの「使いすぎ」ではなさそうだ。その瞬間、星乃の脳裏に何かがひらめいた。「ちょっと待ってて」そう言うとシートベルトを外し、ドアを開けて車を降りた。篠宮家の近くには、小さな薬局がある。子どもの頃、木登りして落ちた拍子に目が充血したことがあった。そのとき母が、この薬局で薬をもらってきてくれた。一週間も経たずに、目はすっかり元通りになった。星乃は薬局に入り、店主から目薬を買って戻ってきた。律人は、どこか楽しげな様子で戻ってくる彼女を見て、口元をゆるめた。「どこ行ってたの?なんか怪しいな」星乃は手にした目薬の小瓶を振ってみせた。「これ、すごく効くの。少しは楽になると思う」そう言って再び助手席に座り、キャップを開け、律人の方へ少し身を寄せた。黄金色の夕陽が彼女の背後から差し込み、髪の先を柔らかく照らしている。その光の中で、整った顔立ちがいっそう際立ち、琥珀色の瞳がきらめいていた。律人はその横顔を見つめながら、胸の鼓動が一瞬止まったような気がした。二人の距離は、息が触れ合うほど近い。「ちょっと前かがみになって、顔を上に。そうそう、頭を少し後ろに倒して」星乃は目薬を持った手で、軽く彼の顎を上げた。律人は背が高い。脚が長いのはもちろん、上半身も長い。今の体勢では、目薬をさす角度がうまく合わなかった。言われた通りにしてみながら、律人は妙にくすぐったい気持ちになる。けれど、不思議と逆らう気にはなれなかった。星乃は慎重に目薬を落とし、指先で彼の目の周りをそっと押さえた。「どう?少しはマシ?」律人は隣のボックスからティッシュを取り出し、彼女の手を拭くために渡
星乃は、悠真がさっき律人を見たときの視線に、どこか複雑なものを感じた。けれど、それ以上考えようとはしなかった。悠真が去ってから間もなく、正隆が部屋の中から出てきた。手には一冊のアルバムを持っている。彼は今になって、ようやく後悔し始めていた。幸三の機嫌もまだ取れていないというのに、先ほどは危うく悠真と律人まで怒らせるところだった。冬川グループのプロジェクトでの損失だって、どう埋め合わせればいいか見当もつかない。正隆はアルバムを星乃に差し出しながら、弱々しく言った。「星乃、悠真に頼んでくれないか。どうかうちを完全に潰すようなことだけはやめてくれ。今は運が悪いだけで、いずれまた盛り返せるはずなんだ」星乃は静かに視線を上げた。正隆は、記憶の中の姿より少し老けて見えた。かつては黒々としていた髪も、こめかみのあたりには白いものが混じっている。――いいわね。こうしてゆっくり年を取れる。でも、篠宮家のために働きづめだった母は、もうこの世にいない。母を裏切ってまで浮気し、篠宮家の財産を食いつぶした男が、どうしてまだ平然と生きていられるの?星乃は長く息を吐き出し、冷たく彼を見つめた。「……正隆社長」呼びかけたのは「正隆社長」であって、「お父さん」ではなかった。正隆は一瞬、言葉を失った。星乃は続けた。「お忘れかもしれませんけど、私もじきに冬川グループの株主になります。私が口を出すとしたら、今回の件だけじゃなく、これまであなたが失ったプロジェクトの資金も全部、返してもらうことになりますけど」「お前……!」正隆の顔が見る見るうちに青ざめていく。「だから、私に頼っても無駄です。そういうことは、長年可愛がってきた『娘さん』にお願いしてみたらどうですか?」星乃はリビングのほうに目をやった。そこで、こっそり聞き耳を立てていた影が、慌てて引っ込む。星乃は気づかないふりをして、律人の手を取ると、そのまま背を向けた。正隆はその場に立ち尽くし、星乃のまっすぐな背中を見送りながら、息を荒くした。――なんてことだ!まったく、生意気な……!だが、怒りの奥で、彼はようやく気づいた。星乃はもう、昔みたいに言いなりにはならない。もう、自分の手の中でどうにでもできる娘じゃない。一人前になったつもりで、今じゃ人を
結婚して五年、星乃の体にはすっかり彼の痕跡が刻まれていた。他の男が、まるで何もなかったかのように、心の底から彼女を愛せるはずがない。悠真は、徐々に蒼白になっていく星乃の顔を見つめる。星乃もまた、同じく彼を見返していた。指先に力が入り、心臓が細い針で何度も刺されるように締めつけられる。痛いというより、息が詰まるように苦しい。たとえ悠真の言葉が真実だとわかっていても。たとえ彼が言わなくても、律人が心のどこかで自分を嫌っていたかもしれないことも。それでも、言葉にされると、羞恥と悲しみが一気に押し寄せた。あの頃の星乃は、全身全霊で悠真を愛していた。彼の冷たさも屈辱も耐えてきた。結衣と別れさせたこと以外、彼女が悠真を裏切った覚えはない。彼がかつて結衣を愛していたと知ったとき、彼女はきっぱりと離婚を選んだ。彼と結衣がやり直せるように。穏やかに別れるつもりだった。この間ずっと、彼の怒りにも耐えてきた。まさか、こんなふうに人前で侮辱されるとは思いもしなかった。あの愛が、いまは自分を傷つける刃になって返ってくるなんて。唇を噛みしめ、指にさらに力をこめたそのとき――温かく、それでいてしっかりとした手が彼女の拳を包み、ゆっくりと開かせた。律人が、彼女の手のひらに残った爪の跡を見つめ、小さく舌打ちをした。彼は彼女の手を握ったまま、確信のこもった声で言う。「どうして汚れてるなんて思うんだ?誰かを本気で愛せるってことは、それだけでも尊い事だ。身体も心も、何ひとつ穢れてなんかいない」そして、柔らかく続けた。「僕も、好きだよ」言い終えて、律人は顔を上げ、悠真に視線を向けた。「それに、誰かと一緒にいるときに浮気して、別れたあとにさらに蹴落とすようなことをする――そういうのが一番汚いと思いませんか、正隆社長」ずっと黙っていた正隆が名前を出され、びくりと体を震わせた。どうにも耳ざわりの悪い言葉だ。だが、律人が言っている相手が誰かはすぐにわかった。彼はちらりと悠真を見た。冷たく刺すような警告の目。さらに律人を見ると、そこにも負けないほどの圧があった。どちらにも逆らえない――そう悟った正隆は、乾いた笑いを漏らした。正隆は苦笑いし、星乃に向かって言った。「……アルバムを取りに行ってくる」そう言うと、彼はすぐ
もし他のプロジェクトから無理に資金を引き抜けば、篠宮家は完全に終わってしまう。だが、長年の商売の経験がまだ彼の足を支えていた。膝が崩れそうになるのをこらえ、乾いた笑いを浮かべながら悠真に向かって言った。「悠真さん、どうあっても、俺たちって義理の関係じゃないか……」「義理?」悠真はその言葉を遮り、鼻で笑った。「いや、確か星乃はもう篠宮家とは縁を切ったはずだ。どこに義理の関係なんてある?それに、どんな義父が、婿の妻を他の男に渡すもんかね」悠真の声が一段と冷たくなる。そう言いながら、悠真の視線は少し離れたところで、こっそり逃げ出そうとしている幸三に向けられた。幸三は誰にも気づかれないように抜け出そうとしていたが、悠真の一言でその場の視線が一斉に自分に集まる。足がすくみ、そのまま腰を抜かしそうになる。慌てて逃げ出した。前に星乃に手を出したとき、悠真に叩きのめされた傷はいまだに痛む。だから、こんな場所に居続ける勇気などない。誰も追いかけなかった。ただ悠真は幸三が去った方向に一度目をやり、誠司に軽く視線を送った。長年そばで補佐してきた誠司には、それがどういう意味かすぐにわかった。あの程度の中小企業なら、冬川グループが動けば一晩で潰れる。そのころ、律人も思わずスマホを取り出し、メッセージを送った。星乃はその横に立ち、彼の周囲に漂う空気の変化をはっきり感じ取った。見た目は相変わらず穏やかで上品なのに、その内側では確かに怒りが燃えている。しかも、それは幸三に関わることらしい。「そんな人の言葉、気にしなくていいよ。それに、私、あなたみたいなタイプが好き」星乃はできるだけ小さな声で言った。だがちょうどそのとき、悠真が誠司への指示を終えたところで、場が一瞬静まり返る。そのせいで、彼女の声ははっきりとみんなの耳に届いた。悠真の拳が、またぎゅっと握りしめられた。胸の奥に、説明のつかない苛立ちが広がる。結婚したばかりのころ、星乃が「好き」と言うときは、必ずその前に彼の名前があった。今はどうだ。離婚した途端、もう別の男を喜ばせようとしている。そう思うほど、怒りが込み上げてくる。悠真は皮肉っぽく笑い、吐き捨てた。「お前が好きって言ってどうなる?女遊びが好きな律人さんが、離婚歴のある女を好きになるかどう
数人が声のした方を振り向いた。悠真がゆったりと歩いてくる。表情はどこか気の抜けたようだが、全身から放たれる圧の強さは隠しようがなかった。その姿を見た瞬間、幸三の額を伝って冷や汗がつうっと落ちた。――あれ?彼と星乃はもう離婚したはずじゃ?どうしてまた篠宮家に?正隆はポケットからハンカチを取り出し、額の汗を拭きながら、頭が破裂しそうなほど混乱していた。幸三と律人の件すらまだ片づいていないのに、今度は悠真まで現れた。本来なら、星乃が悠真を篠宮家に連れてくることは、正隆にとって悪い話ではなかった。食事の席でうまく話を運べば、悠真にいくつかお願いをして篠宮家の利益に繋げることもできる。だが、篠宮家が冬川グループの案件を台無しにして以降、星乃と悠真の関係は日に日に悪化していった。正隆は次第に悠真を恐れるようになった。それでも、恐れはしても無礼にするわけにはいかない。慌てて前に出て声をかけた。「悠真……さん、今日はどうしたんだ?」「ちょっと顔を出しに来ただけだ」悠真は淡々と答えた。「その顔は何だ。歓迎されてないのか?」「い、いえ、そんなことは……」正隆は引きつった笑顔を浮かべる。正隆の言葉を、悠真は軽く聞き流し、視線をゆっくりずらして星乃を見た。ちょうど律人が彼女の手を握り、ふたりで何かを小声で話していた。星乃は手を振りほどく様子もない。悠真の黒い瞳が、わずかに沈んだ。無意識に拳を握りしめる。――いつの間に、あんなに男を惹きつけるようになった?先ほど、正隆と星乃の会話もすべて耳にしていた。幸三の姿を見て、もうすべてを悟った。つまり――離婚の噂がまだ広まっていない今、彼女は律人という恋人をつくったうえに、正隆はさらに彼女を別の男に差し出そうとしている。悠真は視線を外し、再び正隆の方を見た。相変わらず、腰を低くして立っている。悠真は鼻で小さく笑って言った。「歓迎されなくても構わないよ。どうせ、これから話す内容は、お前が聞きたくないことだから」そう言って、隣にいた誠司に視線を送った。誠司が一歩前に出て、穏やかに口を開く。「正隆社長、契約書にも明記されている通り、今回の協業には成果保証の条項がありました。もし篠宮家が黒字を出せば、冬川家は次回も無条件で出資します。ですが赤字の場合――損失の二倍