Se connecter「もういいわ。結衣があなたの帰りを待ってる。こういう時の女はもろいの。あまり待たせないであげて」佳代は笑いながらそう言うと、電話を切った。悠真はその場でしばらく動けなかった。そのとき、誠司が近づいてきて、悠真の表情を見ておそるおそる声をかける。「悠真様、私たちは、どうします……」悠真は何も言わなかった。周囲は夜なのに昼のように明るく、忙しなく動き回る人々の中で、彼の存在だけが浮いているようだった。やがて、軽く手を上げる。「戻ろう」その一言に、誠司はほっと息をついた。結衣と佳代も、誠司に悠真を連れ戻すよう急かしていた。二人とも、悠真が何か取り返しのつかないことをしないかと心配していたのだ。けれど、さっき見た彼の苦しげな表情を思い出すと、誠司は一瞬、本気でここに残るつもりなのかと思った。それでも、そうしなかったのは救いだった。けれど、誠司の胸の奥には複雑な思いが残った。悠真は本来、ここに残るべきだったのではないかと思う。なんだかんだ言っても、星乃とは夫婦だったのだから。けれど誠司はそれを口にできなかった。水野家も白石家も、彼らがここにとどまることを望んでいない。反対される中で居続けても、何の意味もないだろう。複雑な気持ちを抱えたまま、誠司は言った。「車、回してきます」山頂の反対側。遥生は、悠真が少しずつ遠ざかっていく背中を見つめていたが、特に驚いた様子はなかった。「見ればわかるけど、あの人、星乃にまったく情がないわけじゃないのよね」隣から美琴の声がした。その声に振り向くと、美琴がいつの間にか隣に立っていた。彼女は救助服を脱ぎ、薄いブルーのスポーツウェアに着替えている。さっきまできゅっとまとめていた髪がほどけ、肩にふわりとかかる。ゆるく波打つ毛先が、彼女にほんのりと艶めいた雰囲気を添えていた。美琴は整った眉を少し上げ、悠真の背中を見送りながら小さく舌打ちした。「でも、愛が足りないのよね。よくもまあ、星乃はあんな人と五年も続いたわね」美琴はそこだけは素直に感心していた。あのわずかな希望だけを頼りに、五年も耐え続けるなんて、自分なら到底無理だと思う。もしその五年を、男なんか追わずに他のことに使っていたら、星乃はきっと何でも成功していたはずだ。遥生は彼女をちらりと見たが、
「結衣は妊娠初期で、一番手が必要な時期なのよ。あなた、自分の怪我もあるのに放っておいて、どこに行ってたの?」電話がつながるなり、悠真の耳に佳代の少し呆れたような、けれどどこか笑みを含んだ声が届いた。さっき星乃のスマホで見たメッセージには、母と星乃のやり取りも残っていた。そこには佳代が星乃を咎めるような言葉もあった。これまでは特に気にも留めなかった。ただ、年長者が若者に求める「当然のしつけ」のようなものだと、そう思っていたからだ。けれど今、その声を聞いていると、なぜだか胸の奥がざわついた。「星乃が……大変なことになった」できるだけ平静を装って、悠真は答えた。佳代も、少し前にその話を耳にしていた。残念だとは思ったものの、それ以上ではなかった。結衣の妊娠という明るい知らせが、その悲しみをすぐに塗り替えてしまったのだ。「その話は聞いたわ。でも全部があなたの責任ってわけじゃない。できる限りのことはしたんでしょ?運が悪かったのよ、あの子は。でもね、亡くなった人はもう戻らない。生きている人は前に進まなきゃ。結衣との婚約も近いんだし、早く戻って準備を始めなさい……」佳代の淡々とした、まるで他人事のような口調に、悠真は思わず言葉を失った。「お母さん……それはひとつの命だよ。星乃なんだよ」――かつて、自分の妻だった人なんだよ。「彼女がこんな目に遭ったのは、俺のせいなんだ。どうして『運が悪い』なんて言える?俺が見捨てられるわけがないだろ!」震える声に感情が滲む。佳代は一瞬だけ黙り、息子の様子に気づいたのか、少しだけ柔らかい声で言った。「冬川家の嫁になる時点で、敵を作る覚悟は必要だったのよ。それくらい、彼女も分かっていたはず。とはいえ、いちおう彼女は元妻だったんだから、私があなたのお父さんに頼んで人を探させるわ。あなたはもう関わらなくていいの。だいたい、星乃とはもう離婚してるじゃない。今さら関係ないでしょう?それに、あの時のこと忘れたの?あの子は人前であなたとの離婚を宣言して、他の男と一緒にいたのよ」悠真は黙り込んだ。胸の奥に重く沈むものが、言葉を押し殺した。しばらくして、低くかすれた声で言う。「……同じことを、俺も星乃に何度もしてきた」微かに震えるその声に、佳代は眉をひそめた。――今日の息子は、い
その写真は加工されたものだった。けれどこの五年間、星乃は一度もそれを変えなかった。ときどき悠真は、星乃がそのロック画面をぼんやりと見つめているのを目にしたことがある。悠真が画面をスワイプして開くと、ちょうどSNSの通知がポップアップで表示された。「悠真、もうすぐ婚約するんでしょ? それなのにデートなんてしてる余裕あるの?」見覚えのあるアカウント名だった。どうやら知り合いの誰かのようだ。不思議に思いながらタップすると、それは星乃が数日前に投稿した「デートコーデ」の写真だった。ほんのささいな日常投稿だったのに、コメント欄には数百件もの書き込みが殺到していた。【この投稿、どう見ても悠真に見せたいだけでしょ。もう諦めなよ、チャンスなんてないんだから】【正直、このワンピースはすごく可愛いけど、あなたが着るとなんかもったいない感じ】【画面越しでもあざとい女の匂いがぷんぷんする。でも俺、そういうの嫌いじゃないよ? 俺のとこ来なよ、ちゃんと気持ちよくさせてあげるから】【……】コメントだけじゃない。メッセージの受信箱にも、目を覆いたくなるようなメッセージが届いていた。目を通すうちに、男の自分ですら吐き気がするような内容ばかりだった。しかも、その多くが彼の友人たちだった。彼のために理不尽を正す、といった名目で動いていたところだ。悠真の呼吸が荒くなり、全身が震えた。こんなこと、まったく知らなかった。さらにスクロールするにつれ、胸の奥がどんどん沈んでいく。怜司を筆頭に、彼の周りの友人たちはずっと星乃に「離婚したほうがいい」と吹き込み続けていた。そのために、彼と結衣の親しげな写真を送りつけたり、「お前なんか悠真には釣り合わない」と見下す言葉を浴びせたり、星乃の変な顔の写真まで撮って、結衣と並べて笑っていた。画面いっぱいに広がる、隠そうともしない悪意。悠真の心に、言いようのない恐怖が広がっていく。――だから星乃は離婚を望んだのか。だから何度も、自分と距離を取ろうとしたのか。けれど、なぜ言ってくれなかったんだ?その疑問が浮かんだ瞬間、悠真ははっとした。星乃は確かに、あのとき自分に訴えようとしていた。けれど自分は彼女が仕組んだ芝居、だと思い込み、結衣との仲を壊そうとしているのだと決めつけていた。だが
悠真の気迫が、ふっと弱まった。唇を引き結びながら言う。「それは……ただの事故だったんだ」だが言い終える前に、遥生が冷たく笑った。「へえ?じゃあ、君の手下の中に『二度目の事故』は起こさないって、保証できる?」その言葉に悠真は一瞬、動きを止めた。「どういう意味だ、それは?」まるで自分の周りが地雷原か何かみたいな言い方だった。警戒を隠そうともしない遥生の視線が、妙に居心地悪い。数秒の沈黙のあと、悠真はようやく意味を悟り、驚いたように遥生を見つめた。「まさか……俺が星乃を殺そうとしたって疑ってるのか?」「違うのか?」遥生は逆に問い返した。冷たい眼差しで悠真を見つめる。「星乃と律人が死んで、一番得するのは誰だと思ってる?」星乃は悠真の元妻で、彼女が手掛けていたプロジェクトの最大の競合相手は悠真だった。そして律人は白石家の人間で、悠真のライバルだ。動機も経緯も抜きに考えれば、どう見ても二人の死で一番得をするのは悠真だ。悠真の顔が怒りに染まる。「何を言ってる!俺が星乃を殺すわけないだろ!」遥生も引かない。「じゃあ説明してみろよ。律人が星乃を掴んだとき、もうすぐ助かるはずだったのに、君が時間を無駄にしたせいで、こんな結末になったんだろ?」悠真は声を荒げた。「ロープの長さが足りなかったんだ。結衣のロープは固結びだった!」「ありえない!」遥生が即座に否定する。「もし結衣のが固結びだったなら、星乃はどうやって、律人を犠牲にしないために自分のロープを解いたっていうんだ?」空気が一瞬で張りつめた。悠真は目を赤くし、拳を握りしめる。ふだんは言葉で誰にも負けない彼も、今は遥生の追及に言い返すことができない。涼真は、どちらもほどける結び目だと言っていた。けれど実際に見たとき、結衣のロープは明らかに固結びだった。もしどちらも自分で解ける結び目なら、結衣が嘘をついたということになる。喉が詰まり、悠真は急に力が抜けるのを感じた。そのとき、言い争う声が響いたせいで周囲がざわつき、美琴がこちらに歩いてきた。悠真の姿を見るなり、彼女の顔色もあまり良くなかったが、それでもはっきりと言った。「彼じゃないわ」その言葉に、遥生が眉をひそめる。悠真は安堵の息を吐きかけたが、続いた一言に凍りつく。「犯人は彼の婚約者、結
正直なところ、星乃はもう悠真の腹筋の感触なんて忘れてしまっていた。二人は離婚してからずいぶん経っている。最後に親密に触れ合ったのは、もう何か月も前のことだ。しかも、そんなときはほとんどいつも悠真の一方的な発散で、彼女の手が彼に触れられるかどうかは、その日の彼の気分次第だった。機嫌がいいときは触らせてくれるが、不機嫌なときには彼女の手を縛って、近づけもさせなかった。だから今となっては、悠真に腹筋があるのかどうかさえも、よくわからない。けれど、あの体つきを見れば、たぶんあるのだろう。星乃の答えを聞いた律人は、満足そうに口角を上げた。「見る目あるじゃん」そう言ってから、ふと思いついたように彼女の隣に腰を下ろし、小声で囁く。「じゃあさ、ついでに聞くけど……」最後まで言わなくても、星乃には何を聞こうとしているのかがわかった。彼のいたずらっぽい目を見た瞬間、顔が一気に熱くなり、慌てて彼の口を手でふさぐ。焚き火の明かりが、彼女の頬を真っ赤に照らしていた。それが火のせいなのか、彼女自身が赤くなっているのか、もうわからない。律人は片眉を上げて、これ以上からかえば本気で怒られそうだと察し、すぐに両手を上げて降参のポーズを取った。「わかった、もう聞かないって」彼はもごもごと言った。星乃はじっと彼を見つめ、「約束だからね」と念を押す。律人がうなずくのを確認して、ようやく手を離した。薄い服のせいで、火にあたっていたとはいえ体の芯まで冷えていたはずなのに、今の星乃の手のひらは、火よりも熱かった。服がすっかり乾くと、律人はまた外へ出て枝を拾い集めた。救助はまだ来ない。空はもう薄暗く、夜が迫っている。この辺りに獣が出ないとも限らない。律人は洞窟の入り口に大きな石を転がして、簡易的な塞ぎを作った。星乃はまだ不安そうだったが、手際よく動く律人を見ているうちに、少しだけ安心して息をついた。一方その頃。山頂のテント群は灯りに包まれ、昼のように明るい。遥生は前線からの報告を聞いていたが、その途中で、山頂の入り口付近がざわついた。そちらを振り向くと、水野家のボディーガードたちが悠真の後ろを慌ただしく追いかけながら、何かを必死に訴えているのが見えた。だが悠真は一切聞く耳を持たず、真っすぐ遥生のもとへ向かってくる。「す
一瞬、恐怖がまた胸を突き上げ、星乃は足早に洞窟の出口へ向かった。顔を上げた瞬間、少し離れた木の枝の方に律人が立っていて、そこから果実を摘んでいるのが見えた。摘んだ果実を運ぶため、律人はシャツを脱ぎ、上半身は裸になっていた。転んだときについた傷がいくつも見えたが、それでもその整った体つきの美しさを損ねることはなく、星乃の視線は自然と彼の引き締まった筋肉と、腹にくっきり浮かぶシックスパックに吸い寄せられた。頬が少し熱くなる。初めて見るわけではない。けれど前は空気が張り詰めていて、律人の体のことなんて考える余裕もなかった。それに、律人は顔立ちがあまりに整っていて中性的だから、つい体つきのほうをつい忘れてしまうのだ。見惚れていたそのとき、律人が彼女に気づいた。彼は軽く笑って、シャツに果実を包むと、重心を落としながらゆっくり木を下り、最後に太めの枝をつかんで軽やかに飛び降りる。足元は安定していて、無駄のない動きだった。「もうすぐ暗くなりそうだし、みんながいつ来られるかも分からない。体力を残しておくのも大事だから、食べられそうな果実を摘んできた」そう言いながら、律人は星乃を連れて洞窟の中へ戻っていった。星乃は話を聞きながらも、どこか上の空だった。気づけば視線が、律人の腰のあたりに落ちている。そして、気づかないうちに、手が伸びていた。指先に触れたのは、しっかりとした感触。「……?」律人が足を止め、きょとんとした顔を向ける。その瞬間、星乃は我に返った。さっき自分が何をしたのか、ハッと気づいて、顔が一瞬で真っ赤になる。律人の驚いた表情に、慌てて言い訳が口から転げ出た。「えっと、あの、筋肉に土が……あ、違う、土の上に…………その、ちょっと汚れてたから……」言葉を詰まらせながら、ようやく舌が動いた。顔はさらに熱くなり、心の中では「終わった」と叫んでいた。終わった。一生の面目が潰れた。けれど律人は特に気にした様子もなく、彼女の狼狽など興味がないかのように、洞窟の中へ入って果実をきれいに拭き、星乃に差し出した。星乃は気まずさを抱えながら受け取る。律人がシャツを手に外へ出ようとしたとき、彼女は反射的にそれを奪い取った。「私が洗う。あなたはその間に服、乾かしてて」律人には少し潔癖なところがある