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第4話

藤崎 美咲
「……なんだって?」

悠真は一瞬自分の耳を疑った。

しかし星乃は、先ほどの言葉を変わらず淡々と、はっきりと繰り返した。けれど、悠真はまだ信じられずにいた。「星乃……今度は、どんな芝居を打つつもりなんだ?」

「悠真、私は本気よ」

「あなたと結衣のためにも、もう終わりにしましょう。弁護士にはもう連絡してあるわ。私は今、病棟の上の階にいるの。もし時間があるなら、一度来て。離婚について、ちゃんと話をしたいの」

星乃が言い終えるより早く、悠真は冷たい笑みを浮かべた。

その表情は、何かに気づいたようでもあった。「悪いが、そんな暇はない」

そう言い放つと、電話を一方的に切った。

鼻で笑いながらスマホを放り投げた。

――やっぱり、全部、俺を引き戻すための芝居だったんだろ。

「離婚」を餌に、自分を呼び出すつもりだったのだろう。

まんまと騙されかけた自分が、滑稽でならない。

これまで何度も、星乃には離婚を申し出てきた。

財産の半分を渡すとまで言った。与えられるものは、すべて差し出すつもりだった。けれど、彼女は、一度たりとも頷かなかった。

それならと、悠真は彼女を突き放すことにした。わざと目の前で他の女と親しげにふるまい、家族の前では彼女を軽んじ、友人たちの前では平然と冷たく接した。

普通の女なら、とっくに諦めて出て行ったはずだ。だが、星乃は違った。

最初は彼女のことを欲張りだと思っていた。もっと多くを手に入れたくて、必死にしがみついているのだと。でも、ようやく気づいた。彼女が本当に欲しかったのは――金でも地位でもなく、自分自身だったのだ。

皮肉交じりに笑みを漏らす。

――彼女には何でも与えられる。しかし、それだけは絶対に与えられない。

【俺も結衣も、お前には会いたくない。自分の立場をわきまえろ】

それだけ送ると、まるで何事もなかったかのように、結衣の病室へ戻っていった。

星乃が少しでも現実を受け止めてくれればいい。

それでもまだ分からないというのなら――力づくで追い出すだけだ。

一方、星乃はその短いメッセージをじっと見つめていた。そして、微かに笑った。

わかっていた。覚悟もしていた。けれど、それでも胸の奥が冷えた。

まさか彼が自分をここまで信じられなくなっているなんて。

五年の結婚生活――これが彼の答えだった。

失望?いや、それすら感じなかった。悲しみも悔しさも湧いてこない。ただ静かだった。

ようやく本当に目が覚めたのかもしれない。

数分後には、星乃は気持ちを切り替え、黙って身体を休めることに専念していた。

だが、午後になって病室を訪れた看護師が、こう伝えてきた。

「怜司先生が仰るには、あなたにはもっと静かな環境が必要だそうです。すでに、他の病院への転院手配が済んでいます。ご意見があれば、先生に直接ご相談くださいとのことです」

怜司――その名を聞いた瞬間、星乃はすべてを察した。

この病院の院長は怜司の父。彼自身はまだ研修医とはいえ、ここでは十分すぎるほど影響力がある。

これはまぎれもない「追い出し」だった。

看護師たちを困らせたくなかった星乃は、静かにうなずいた。

そんな彼女の様子を見て、看護師のひとりが耐えきれず声をかけた。

「患者さんが同意しない限り、病院側が勝手に転院を決めることはできません」

「この件、もしご希望でしたら正式に病院へ苦情を――」

「大丈夫です」

星乃は小さく微笑み、首を振った。

看護師たちの善意は痛いほど伝わっていた。けれどこれは怜司の独断ではない。悠真の黙認がなければ、こんなことは起きなかった。

訴えたところで、どうにもならないのだ。

悠真が自分に会いたくないのなら、自分を遠ざける方法なんていくらでもある。

軽く頭を下げて礼を述べると、星乃はその場をあとにした。

痛みを堪えながら、足を引きずるようにして出口へと向かった。

……

SVIP病室。

「悠真、何を考えてるの?」

窓辺に立つ悠真の姿を見ながら、結衣が声をかけた。

戻ってきてからずっと黙ったまま、何かを思案しているようだった。

「……いや、別に」

ようやく返事をした悠真は、ゆっくりと足を動かし、結衣のベッドのそばへと歩み寄った。

その視線は偶然にも、下の階から出ていく星乃のほっそりした姿を捉えることはなかった。

ベッドの脇に腰を下ろし、布団の端を整えた。

シルクの感触に、結衣はふっと微笑む。

掛け布団は、悠真が急ぎでデパートに頼んで買わせた特別なシルク製だった。病院で蒸れてしまわないかと気を遣い、病床には彼の手配でテレビも設置されていた。

その優しさに、胸がじんわりと温かくなる。

けれどふと、脳裏によぎったのは数時間前に見た星乃の姿だった。あの青ざめた顔、やつれた体。

その記憶に、水を差されたように、結衣の笑みが薄れる。そっと手を伸ばし、悠真の頬に触れようとしたその時――

悠真はその気配を察し、さっと身を引いた。

宙に浮いた手が、止まる。

……少しの気まずさが漂った。

それでも悠真は何事もなかったように自然な声で尋ねた。「今回の帰国、どれくらいいるつもりなんだ?」

その問いに、結衣の表情はほんのわずか曇った。

なぜなのか彼女には理解できなかった。悠真はあらゆることに気を配り、生理の周期さえも正確に覚えているのに、それでもどこかで意識的に、あるいは無意識に彼女の距離を置いているようだった。

彼女は不快な気持ちを無理に抑え込み、笑顔でからかった。

「いつ帰ってほしいの?」

悠真は何も言わなかった。

その沈黙を答えだと受け取り、結衣は微笑んだまま言った。「……今回は、もう戻るつもりはないよ」

「だって、私の好きな人がここにいるんだもん」

まっすぐに悠真を見つめる。

その視線から逃れるように、彼は立ち上がって窓の外に目を向けた。「やめろ。俺は結婚してる」

「でも……彼女を愛してはいないんでしょう?」

結衣は彼の答えを待たず、深く息を吐いて真剣な表情で言った。「悠真、本当に星乃を想っていないのなら……離婚、考えたことある?」

その問いに悠真の瞳が鋭くなった。

頭の奥が妙な苛立ちでざわめく。

そして――星乃の「離婚」という言葉が、ふいに蘇る。

笑みを浮かべながら、彼は低く呟いた。

「いずれは別れるさ。でも、今じゃない」

今終わらせるには、あまりにも簡単すぎる。

この数年、自分の人生を好き勝手にかき乱しておいて――あっさりと離婚だなんて。

そんな甘い話、認められるはずがない。

……星乃から離婚を言い出すなんて、ありえない。

事故でも起きて、頭でも打たない限りは。

――事故。

その言葉が脳裏をよぎった瞬間、悠真の表情が凍りついた。

よく思い返せば、さっきの星乃は確かにいつもと様子が違っていた。

まさか……本当に、頭を?

胸に広がる不安を振り払えず、悠真は何か言い訳をして病室を飛び出した。

エレベーターに乗り込み、上の階へ急ぐ。星乃が言っていた病室を探す。けれど、そこに彼女の姿はなかった。

病室は空っぽで、看護師が荷物を片付けているだけだった。

「ここに入院してた患者は?」

問いかけると、看護師が少し不思議そうな顔で答えた。「もう退院されたようですよ」

退院?

やはり、それほど大きなケガではなかったのか。

……バカバカしい。

わざわざ心配して駆けつけた自分が、滑稽だ。

踵を返そうとしたそのとき、隣にいた看護師がぽつりと漏らした。

「この患者さん……本当に可哀そうでした」

「事故で流産して、命まで危なかったのに……結局は、追い出されるように病院を出ていったんです」

悠真の足が止まった。ゆっくりと振り返り、黒い瞳で看護師をじっと見据えた。

「……なんだって?流産?」

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