断頭台前夜に転生した侯爵令嬢セレーネは、生存と家族救済のため“氷公爵”レオンに一年契約の偽装婚を提案。 「王位継承戦であなたを勝たせます」。 嘘に痛む誓環、感情だけを示す未来日記。 宮廷は彼の失脚を望み、噂が刃となる。 北境の武、財・法・仁・信の五儀で共闘し、黒幕の商会を暴くうち、契約は静かな独占と信頼に変わる。 満期、誓環は白く溶ける。 それは契約の終わりか、始まりか——。
View More蝋の火は、小さな心臓みたいに揺れていた。
冷えた石の壁は夜を抱え込み、息をするたび白くほどける。 机の上の薄い紙に、丸い染みがひとつ、またひとつ。 涙か、蝋か、血か。もう、どれでもよかった。 ——やり直せるなんて、思ってなかった。 でも、もしもう一度だけ“選べる”なら。 筆が静かに止まったとき、廊下の向こうで鉄が鳴った。 重たい扉が、きぃ……と、眠れない夜の背中を裂く。 黒が滲み、風が流れ込む。 そこに立つ輪郭は、冬を連れてきたみたいに、空気を澄ませた。 氷の色の瞳。無駄のない所作。息の音まで静かに整っている。 「……君が、最後に会いたい相手がいると聞いた」 低く、温度の決められた声。 蝋燭の炎がぱち、と跳ね、影が壁を登る。 「ええ。……あなた、です」 唇の端だけを、ほんの少し上げる。 笑ったのか、挑んだのか。自分でも判じきれない。 「……公爵閣下」 沈黙が、深く沈んだ水みたいに広がる。 彼の視線が机の端へ降り、手首の鎖をなぞった。鉄は冷たい。皮膚は慣れている。 「処刑前に……そんな冗談を言う気分か」 「冗談を言うほど、もう元気じゃありません」 小さく息を吸い、喉の奥で熱を飲む。 「でも、取引なら——まだ、できる」 紙の擦れる音が、夜の底を少しだけ明るくした。 机に一冊、薄い小さな本を置く。灰薔薇色。端が焦げたみたいに黒ずんで、ひんやり掌に馴染む。 「これが、わたしの唯一の力です」 ページをそっと開く。 「……未来の“感情”だけが、先に滲む本」 「感情?」 彼の眉がかすかに動く。氷に触れた指先みたいな変化。 「言葉じゃないの。 誰かの胸の温度とか、息の速さとか……そういう『残り香』だけが、先に浮くの」 紙の上に、薄い文字が灯る。 〈安堵〉 〈光〉。 二つの語の脇に、名前がうっすら結ばれている。彼と、わたし。 蝋の炎が細くなり、影が長く伸びた。 外では風が石壁に沿って巡り、遠くで木の足場が軋む音がする。明日の朝のための音。 「……何が言いたい」 彼の声は、静かに落ちる。水面の重さで、音が小さく沈む。 「王位継承戦」 指が紙に影を落とす。 「あなたは——裏切られる」 息が少し詰まって、胸が痛む。 「でも……勝てる方法を、知っている」 「どうやって」 「わたしと、結婚すれば」 音が消える。 夜鳥が一声、冗談みたいに鳴いて、すぐ黙った。 息を吸えば冷たさが肺に刺さり、吐けば白がほどけて灯に溶けた。 一歩、近づいてくる。 革靴の底が石を撫でるささやかな音。 氷の匂い。金具の擦れる音。 影が炎を覆い、世界が彼の輪郭で塗り替わる。 「……君は、何を望む」 「一年だけの契約婚」 喉の乾きを舌で整える。 「あなたを勝たせるかわりに、わたしを——生かして」 言葉の端が震えるのに、目だけは静かだった。 恐い。けど、逃げない。 その二つが、胸の同じ場所で脈を打っている。 「死にたくないのか」 「……終わりたくないだけです」 短い沈黙が、ひとつ。 彼は懐へ指を入れ、小さな銀の印章を取り出した。 冷えた光が蝋燭の縁に触れて、白い輪郭を作る。 その印が、私の手首にそっと触れた瞬間—— 薄いきしみ音。 氷の膜が、水面に花を咲かせるみたいに広がって、輪になった。 誓環。 冷たさが、うすく、締まる。逃げ場のない、透明の束縛。 「……痛い」 思わず漏れた声は、自分のものじゃないみたいだった。 「嘘をついた方が、痛むらしい」 感情のない言い方。なのに、どこか、尖りを研いで鞘に戻す手つきのように、優しい。 息を吸う。胸が小さく跳ねる。 視線が落ち、指が氷の輪を確かめる。透きとおって、脈に合わせてわずかに光る。 「……信じて、くれるの?」 「取引には興味がある」 そこでほんのわずか、口角が揺れた。 「君という“嘘”にも、な」 嘘という言葉に、誓環がひやりと光を深め、すぐ静まる。 ——痛みは来ない。私は、いま嘘をついていない。 胸の奥の何かが、知らないリズムで鳴いた。 鍵が回る。鎖が外れる。 鉄が床を撫でる音が、夜の底を滑っていく。 残った痕は、白く。冷たい指で触れたみたいに薄い。 「立てるか」 「ええ」 椅子が石を引っかく音を、そっと抑える。 足元が少し揺れて、支えるように机の端をつかむ。 彼が手を差し出した。白い手袋。 迷ってから、触れる。 誓環が、微かに点いた。 ちいさく、温度があがった。彼の方が。 一段目の石は冷たく、二段目は少し湿っていて、三段目で蝋燭の匂いが薄くなった。 階段は長い。 上へ、上へ。 それでも私は、今日の昼の自分より、少しだけ軽かった。 途中、息が揺れて、彼がわずかに振り返る。 「無理はするな」 「……してません」 言い切れないまま笑って、頬をこすった。指先が冷たい。 誓環の微光が、暗がりで心許ない灯りになった。 「生き延びたって……どこへ行けばいいのかしら」 自分でも驚くほど小さな声が、石の壁に吸われる。 「北境だ」 短い答え。 「寒いが、静かだ」 「……あなたみたい」 口にしてから、少し遅れて熱が頬にのぼる。 彼の肩が、気づかないふりの角度で、ほんのわずか動いた。 階段の上、扉の隙間から白が滲む。 夜の縁がうすく剥がれ、朝が覗いている。 外気はさらに冷たく、でも、匂いは新しい。 「契約を、後悔するなよ」 言葉は低く、石を踏む靴音に紛れる。 脅しにも聞こえるはずなのに、私には、守る約束みたいに響いた。 「後悔できるほど……生きてみたいの」 息が白い。白がすぐ消えて、空へ混ざる。 その速さに、少しだけ焦って、少しだけ笑う。 地上へ出る扉が開くと、光がひとつの生き物みたいにこちらへ流れ込んできた。 目が霞んで、涙か朝か、判断が追いつかない。 誓環が、光を飲んで、白く透けた。 広場の向こうで、木の足場がまだ濡れて光っている。 朝露。 死のための道具が、朝日に呼吸を教わっている。 滑稽で、残酷で、きれい。 この国はいつも、そうだ。 「寒い」 思わず両腕を抱いたら、彼の外套がふわりと肩に落ちた。 重さより、匂いが先に来る。 革、冬、鉄、そして——眠れない夜の気配。 「……ありがとう」 言えば、誓環が柔らかく灯る。 嘘ではない。だから痛まない。 こんなふうに確かめられることに、一瞬、救われた気がした。 「……行こう」 彼は短く言って、歩き出す合図だけを置いた。 私はうなずく。足並みを合わせる。 靴の音が、二つでひとつのリズムになっていく。 灰薔薇の日録を抱き直し、指でページの角を撫でた。 そこには、薄い矢印がいくつも交差していて、〈嫉妬〉と〈安堵〉が、互いの方へゆっくり滲んでいた。 ——嫉妬、なんて。誰の。 ——安堵、なんて。誰の。 答えは、きっとすぐには来ない。 でも、来ない方がいいこともある。 焦らせないことが、救いのかたちになる夜もある。 広場の片隅、風にめくられた瓦版が、ぱたぱたと弱い音を立てた。 風聞計の掲示はまだ早い時間で、誰も立ち止まっていない。 そこに貼られるはずの文字たち——噂の温度——を、私は指先の記憶で読んだ気がした。 〈断罪〉〈流言〉〈善〉〈祈り〉。 どれも私を切り裂く刃になり得るし、包帯にもなり得る。 使い方次第。 私の仕事は、選ぶこと。 石畳の角でふと立ち止まり、振り返る。 暗い階段の口に、まだ夜が溜まっていた。 そこからここまでの距離は短いのに、世界の温度が、はっきり変わっている。 「……公爵閣下」 呼べば、彼は足を止めず、顔だけこちらへ傾けた。 氷の瞳。朝の光で、すこしだけ薄い青に見える。 「契約の条文は……上で、決めましょう」 彼は短くうなずいた。 それ以上、言葉は要らなかった。 歩みが静かにほどけた。 王都の朝は、まだ人がまばらで、運河の水だけが先に目を覚ましている。 白い吐息と、石の冷えと、遠くの鐘。 全部がやさしくて、全部が痛い。 私の世界は、そうやってできている。 角を一つ曲がるたび、誓環が衣擦れの音と一緒に小さく鳴った。 契約という名前の鎖。 でも、鎖は必ずしも縛るためだけのものじゃない。 落ちていかないように、繋ぎ止めるための形だって、ある。 「北境は」 彼が不意に口を開いた。 「風がよく通る。……夜は、寝付きが悪い」 「じゃあ、厚い毛布と、温かい飲み物と」 少し考える。 「少しの——手」 言い終える前に、頬が熱くなる。 誓環が、ひときわ柔らかく灯る。 彼は何も言わない。 何も言わないのに、沈黙の温度が、少しだけ上がった。 生きたい。 はっきり思った。 後悔できるほど、生きたい。 その後悔を、笑って話せる夜が来るなら、なおいい。 運河沿いの小さな桟橋に、朝の色が差す。 水面が金と青の境目をつくって、波は新しい日付を刻んでいる。 彼の外套が肩から滑り落ちかけて、慌てて手を添えた。 手袋ごしに、彼の指先が一瞬触れて、誓環が淡く点火する。 唇に近い距離ではない。 それでも、三つ息を合わせれば、契約は呼吸で答えを返した。 「……大丈夫か」 「ええ」 呼吸を整え、彼の横顔を盗み見る。 寒さに強い顔をしているのに、目の下に薄い影。 眠れない夜を、いくつも並べてきた人の影。 聞かない。今は、まだ。 岸辺の石に、朝がゆっくりと降りてくる。 私は灰薔薇の日録を胸に抱き、ページをそっと押さえた。 〈安堵〉の語は、さっきより濃く、 〈光〉の語は、さっきより近く。 矢印は、まだ、誰に向いているのかわからない。 彼か、私か、世界か。 それは、明日の朝に尋ねればいい。 「行こう」 彼が言い、私はうなずいた。 朝が上がる。 氷の誓環が、白い光を抱いて脈をうつ。 冷たいのに、温かい。 終わりの夜に灯った、それは——たぶん、始まりの形をしていた。雪は降らない朝だった。白は残っているのに、庭の輪郭が少しだけ近い。灰薔薇の日録をひらくと、紙の上にひと文字だけ浮かぶ。〈沈黙〉指先で角をなぞって、閉じる。誓環はおとなしい。温度だけ、かすかに。扉の外で、弾む足音。ためらい一拍、ノック。「入るよ、お嬢」「どうしたの」「王都から……人。えっと、えらい感じの」ニナの声に、誓環がうすく灯る。拒むみたいに。深呼吸をひとつ。立ち上がる。*応接の空気は冷たく整っていて、硝子に薄い光が走っていた。若い男が立っている。灰の外套、真新しい手袋、腰の印章。「王都直属、調査の任にございます」言葉は丁寧。目だけ、探る音をしていた。レオンは椅子の背へ指先をかけ、座る気配を作る。私はその斜め隣。「先日の件、負傷者の傷に刻まれていた印を拝見したく」「記録は渡す。だが現物は消えた」「消える性質は、禁じられた術式に似ております」「似ている、ではなく同じだろう」短く切られて、男のまつ毛が一度揺れた。「その判断は、我々の権限で」「“痛み”を、見たんです」自分でも驚いた。言葉が先に出た。男の視線がこちらへ滑る。「痛み……と仰るのは」「印から、声がしました。あの朝」沈黙。レオンが、ゆっくり私を見る。誓環が指一本ぶん、明るくなる。「声、とは——」「彼女の言葉を、軽く聞くな」「いえ、ただ……記述のために」男のペン先が、空気を掴み損ねたみたいに小さく震えた。誓環の光が、テーブルの木目にひと拍強く落ちる。「……干渉反応、ですか。この光は」「質問の権利を失ったな」レオンの声は低く平らで、刃の背の温度。場が、すこし凍る。私は窓の硝子に目をやる。遠い白の上、赤い影が一瞬だけ浮かんで、消えた。残滓。誰かの呼気みたいな、薄い記憶。使者は紙をまとめ、礼を置いて下がる。扉が閉まる音が静かすぎて、心臓の音が少し大きくなる。*廊下に出ると、誰もいない朝の匂い。硝子越しに日が動く。「……怒った?」隣を歩く背に、問いだけ置く。返るまでの間が、長すぎず、短すぎず。「怒ってはいない」「でも、声が少し……冷たく」「冷やさないと、崩れる」「崩れても、いいのに」足音がそろって、ずれて、またそろう。誓環が一度、ふたりの間で明滅。「……君は、そうやって平気な顔をする」「平気じゃないよ。
世界は息をひそめて、窓の白だけがゆっくり動いていた。灰薔薇の日録には、今朝は何も浮かばない。ページは冷たく、手首の誓環はおとなしい。静けさは楽なのに、少しだけ、こわい。扉の向こうで、慌ただしい歩幅。ためらいが一拍、それからノック。「入るよ、お嬢」ニナの頬は風色で、目元だけ濡れていた。盆の上の湯気がゆらいで、言葉が落ちる。「門の外で……血が」体のどこかが、先に縮む。誓環が、遅れて、うすく灯った。*雪はひかりを細かく砕いて、庭じゅうに撒いていた。白い真ん中に、ひとつだけ赤。倒れた兵の肩口が染まっていて、手袋が濡れる前に、誓環が先に脈を打つ。「……知らない人なのに、どうして」自分に向けた声が外へこぼれる。足元の雪が、きゅ、と鳴る。「契約の範囲が広がっている」背後でレオンの息が白くほどける。膝をついた彼の指が、傷の縁に触れずに周りだけを見る。血の下に、黒い印。細い針で縫ったみたいな線が、肌のうえでほどけずに絡んでいる。「封じてある。……だれかの手が、近い」彼の声は低いのに、刃の背みたいに平ら。怒っている、というより、怒りを冷やして鞘に戻した温度。兵はうめいて、眉をよせる。誓環がさらに熱を足す。私の痛みじゃないのに、胸の内側が小さく引かれる。ニナが布を押さえ、兵の呼吸が浅く整っていく。雪の上に、赤い花がひとひら。冷たさに縁取られて、きれいで、いやだ。*夜が深くなる前、部屋の灯は低く、言葉は控えめになっていく。窓をかすめる風の音。机に置いた手の下で、誓環がまだ、薄く。「王都へ知らせる。印の出処がわかれば——」レオンが上着を取る。背中の布が鳴って、立ち上がる気配。「待って」袖口を指でつまむ。布越しの体温が、少しだけ高い。言い切る前に、言葉の色だけを渡す。「……まだ、だめ。あの印、あなたのと同じ匂いがした」「俺の?」ゆるく、視線が落ちてくる。「冷たいのに、焼ける。……そういう匂い」沈黙。誓環が、ほそく震えた。「俺が見てくる」「一人で行かないで」袖口の布が、指の間で少ししわになる。言った瞬間、誓環が柔らかく灯る。承諾の光。彼は短く息を吐き、上着を片手で直した。「夜明け前に出る」「ええ」言葉を置きすぎないように、うなずきだけで。*空があおくなる少し前、街道は音を吸っていた。雪はやみ、硬くなった地
雪は昼の光をやわらかく返して、薄い粉になって空気に混ざっていた。世界が静かすぎて、胸の奥の音が外へこぼれそうな午後。灰薔薇の日録をひらくと、紙の肌にゆっくりと言葉が上がってくる。〈共鳴〉〈安堵〉〈兆し〉手首の誓環が、同じ間隔でかすかに脈を打つ。痛みはない。ただ、温度だけ。その時、扉の向こうで短いノック。木の繊維がふるえ、低い声が落ちた。「入る」レオン。白手袋を外して近づき、封書を机へ置く。紋章の赤が光を吸って、朝より深い色。私は端だけ指でなぞり、目で読み、息をゆっくり吐いた。彼は何も言わない。沈黙が、部屋の隅からすこしずつ積もっていく。「……怖くは、ないんですね」自分の声が思ったより小さくて、驚く。彼は私の顔に浮いた影を一度拾い、視線を窓へ滑らせた。「慣れているだけだ」「慣れるほど、怖くなることも」薄い間。窓硝子の白がひろがる。喉がひとつ動く音。「……それも、知っている」誓環が、ほのかな光で答えた。痛みではなく、熱のほう。胸の内側でゆるんだ糸が、もう一度静かに結び直される感じ。封書は机の端へ寄り、彼は視線だけで礼の合図を置いてから出ていく。扉が閉まっても、部屋の空気には少しだけ彼の温度が残った。夕方、雪明かりが窓へ寄ってくる。外庭では近衛の稽古。白の上を刃の音が細く走っては、空にほどける。私はカーテンの縁を摘んで、指先の白さを確かめた。同じ窓辺へ、黒い外套の肩が来る。歩幅を崩さない足音。私の視界の端で、影が同じ高さに止まった。「……寒くないんですか」硝子に小さな霧がつく。彼はその曇りを目で追い、短く言う。「寒い」「じゃあ、なぜ」「静かなものは、壊されやすい。守るには音が要る」靴底が雪を踏む音。刃の交わる歌。掛け声。守るための音。その言葉に、誓環がふっと明滅する。炎ではなく、灯の明るさ。消えかけても、また戻ってくる種類の光。彼がゆっくりこちらを見る。氷の色の瞳に、一瞬だけ迷いの影。私は見つけたのに、何も言わない。言わない代わりに、一歩だけ近づく。誓環が温かく灯る。硝子に残った二人分の霧が、呼吸の拍で重なる。痛みのない光。互いを責めない沈黙の形。夜が深い場所へ傾いたころ、書庫の灯に呼ばれた。扉は半分開いていて、蝋の匂いがこぼれている。背表紙が縦に並ぶ奥で、レオンが立ったままページへ影を落とす。指を棚の角
世界はもう温まらないのに、息だけが先に温かかった。目を開けると、薄い光がカーテンの縁をゆらし、手首の誓環がほんのり色を含んでいた。赤というより、夜の名残のような色。触れれば、指先の内側で小さく跳ねる。扉の向こうで、器の当たる遠い音。運ばれてくる湯気の匂い。ノックの前の、ためらい一つ。「入るよ、お嬢」ニナの声は、朝を起こす声だった。盆の上で湯気が揺れ、軽いパンと、甘くない果実と、薄いスープ。彼女の頬は赤く、息は白い。「庭の方、ちょっとだけ騒がしい。剣の音、する。……あ、でも怖いほどじゃないやつ」「訓練?」「たぶん。ほら、聞こえる?」耳を澄ますと、金属が擦れる高い線が、朝の白の中に細く伸びた。遠いのに、まっすぐ届く。誓環がそれに合わせて、ほんの少しだけ脈を打つ。痛いとは言えない、でも、黙っていられないくらいの合図。「……変な感じ」「冷えるとき、古傷がうずく、みたいな?」「古傷、ね。あったかもしれない」笑うと、誓環がゆるむ。そんな気がした。スープの湯気を一口だけ分けてもらい、体の中心が静かにほどけていくのを待つ。「食堂、行ける? 運ぶこともできるけど」「行くわ。歩きたい」ニナの目が、安心で少し湿った。カーテンをほんの少し開けると、白い庭。氷の彫り物に朝が触れて砕け、粉になって風に混じっていた。遠く、掛け声。剣の線。足踏み。静かな戦いのリズム。廊下は冷たい石の匂い。壁の灯が丸く、足音をやわらかく呑んでいく。食堂の扉が開く前に、誓環が先に光った。微かな、挨拶みたいな光。彼はもう来ていた。長いテーブルの端、窓のそば。背に朝を背負って座ると、影が薄い青になって床に落ちた。二人分の器。間に、湯気がふたつ。「……静かですね」声に自分の寝起きが混じる。彼は器を取る手を止めなかった。「嵐の前は、いつも」沈黙。スプーンが器の内側に触れて、小さな音。外から風がひとつ入ってきて、白い花を浮かべた水面に円を走らせた。「それでも、風の音が恋しい」「……風は、味方じゃない」言葉を飲み込む音が、喉の奥で小さく鳴る。彼の視線が、一瞬だけこちらに留まって、すぐ窓の外へ戻った。外気の冷たさが、窓硝子の白で測れる。廊下の向こうから、靴の速い音。近衛のひとりが、肩の雪を落として入ってくる。低く頭を下げ、「今朝の報告を」と言いかけて、視線が私の
世界がまだ寒いのに、息だけが先に温かかった。護送馬車の幌が少し上がって、朝靄の底から邸が姿を上げる。黒と白の石が静かに積まれ、外壁の縁に薄い氷の彫り物。光がそこに触れて砕け、粉のような白が風に混ざった。門が開く瞬間、手首の誓環がほのかに灯る。約束に、朝が触れた合図。「——お嬢!」駆け寄ってきた影に腕をつかまれて、やっと笑みを作る。栗色の三つ編み、鍵束の音。ニナの息は白く、目は少し湿っている。「生きて……ちがう、よかった。ほんま、よかった」「泣かないで。泣いたら、私まで崩れる」泣き笑いの顔がぐしゃっと歪んで、すぐ戻る。ニナは袖で鼻を拭き、小声でささやいた。「ねぇ、お嬢。ここ、寒いけど……きれい。こわい、けど」「大丈夫。きれいの方、見ておこう」白手袋が光の中から現れた。歩幅を乱さず、まっすぐ近づいてくる背の高い影。氷の色の瞳がこちらを一度だけ横切る。「部屋は東棟だ。侍女も一緒でいい」ニナが胸に手を当てる。「光栄です、閣……」と出かかった言葉を、私の肘でそっと止めた。彼は気にした様子も見せず、淡く続ける。「朝食のあと、執務室へ。——契約を、文字に」「はい」それだけで、空気に薄い線が引かれた。境界というより、手すりみたいなもの。そこに指をかければ、落ちずに済む。邸の中は静か。石の床は冷たいのに、廊下の隅の灯は柔らかく、風の通り道だけがゆっくり温度を運んでいた。ニナが荷を抱えて隣を歩く。「お嬢、私、ここで——」「一緒にいて。私が倒れそうな顔をしたら、笑わせて」「任せて。わたし、顔芸は得意」くす、と喉の奥がほどける。誓環がその音に反応したのか、ふっと温かさを増した気がした。与えられた部屋は、窓が大きい。薄いカーテンの縁に朝が揺れている。花瓶には、小さな白い花。氷を溶かしてつくったみたいな、触れたら消えてしまいそうな花。「落ち着いたら呼んで」ニナが空気を読んで一旦下がる。扉が閉まって、ひとり分の静けさが戻った。胸の下で灰薔薇の日録を抱き、指で角を撫でる。紙の端から、薄い文字が浮かび、また沈んだ。〈安堵〉。さっきより濃い。鏡に映る自分はまだ、断罪の夜の影を引いていた。けれど、目の奥に宿った小さな光は、昨日より形がはっきりしている。執務室への道は、石の匂いと蝋の甘さで満ちていた。扉の前で一瞬だけ迷って、節で軽く叩く。内側から低い声。
蝋の火は、小さな心臓みたいに揺れていた。冷えた石の壁は夜を抱え込み、息をするたび白くほどける。机の上の薄い紙に、丸い染みがひとつ、またひとつ。涙か、蝋か、血か。もう、どれでもよかった。——やり直せるなんて、思ってなかった。でも、もしもう一度だけ“選べる”なら。筆が静かに止まったとき、廊下の向こうで鉄が鳴った。重たい扉が、きぃ……と、眠れない夜の背中を裂く。黒が滲み、風が流れ込む。そこに立つ輪郭は、冬を連れてきたみたいに、空気を澄ませた。氷の色の瞳。無駄のない所作。息の音まで静かに整っている。「……君が、最後に会いたい相手がいると聞いた」低く、温度の決められた声。蝋燭の炎がぱち、と跳ね、影が壁を登る。「ええ。……あなた、です」唇の端だけを、ほんの少し上げる。笑ったのか、挑んだのか。自分でも判じきれない。「……公爵閣下」沈黙が、深く沈んだ水みたいに広がる。彼の視線が机の端へ降り、手首の鎖をなぞった。鉄は冷たい。皮膚は慣れている。「処刑前に……そんな冗談を言う気分か」「冗談を言うほど、もう元気じゃありません」小さく息を吸い、喉の奥で熱を飲む。「でも、取引なら——まだ、できる」紙の擦れる音が、夜の底を少しだけ明るくした。机に一冊、薄い小さな本を置く。灰薔薇色。端が焦げたみたいに黒ずんで、ひんやり掌に馴染む。「これが、わたしの唯一の力です」ページをそっと開く。「……未来の“感情”だけが、先に滲む本」「感情?」彼の眉がかすかに動く。氷に触れた指先みたいな変化。「言葉じゃないの。誰かの胸の温度とか、息の速さとか……そういう『残り香』だけが、先に浮くの」紙の上に、薄い文字が灯る。〈安堵〉 〈光〉。二つの語の脇に、名前がうっすら結ばれている。彼と、わたし。蝋の炎が細くなり、影が長く伸びた。外では風が石壁に沿って巡り、遠くで木の足場が軋む音がする。明日の朝のための音。「……何が言いたい」彼の声は、静かに落ちる。水面の重さで、音が小さく沈む。「王位継承戦」指が紙に影を落とす。「あなたは——裏切られる」息が少し詰まって、胸が痛む。「でも……勝てる方法を、知っている」「どうやって」「わたしと、結婚すれば」音が消える。夜鳥が一声、冗談みたいに鳴いて、すぐ黙った。息を吸えば冷たさが肺に刺さり、吐け
Comments