Masuk断頭台前夜に転生した侯爵令嬢セレーネは、生存と家族救済のため“氷公爵”レオンに一年契約の偽装婚を提案。 「王位継承戦であなたを勝たせます」。 嘘に痛む誓環、感情だけを示す未来日記。 宮廷は彼の失脚を望み、噂が刃となる。 北境の武、財・法・仁・信の五儀で共闘し、黒幕の商会を暴くうち、契約は静かな独占と信頼に変わる。 満期、誓環は白く溶ける。 それは契約の終わりか、始まりか——。
Lihat lebih banyak東の空が灰色で、屋根の縁だけが少し明るい。市は半分しか開いていない。布をかけた台が並び、値札の端に「風聞割増」と小さく書かれている。列は長いのに、足が進まない。声は低い。門柱の風聞計は〈不安〉が高く、〈好奇〉が中くらい、〈祝福〉は消えたまま。役人の腰の箱に、小さな針が見える。印を押すたび、針がわずかに跳ねて、また戻る。「並んでるのに、前が……動かない」私が言う。「噂が列を増やす」レオンが短く答える。「……先に、支える」「台、借りるね」ニナが瓦版屋に目配せして、小さく手を上げた。「息、整えて」レオンが肘を差し出す。袖が、すこし触れた。受け取る力は弱いまま。誓環は温かいだけ。風聞計の針が、〈好奇〉のほうへほんの少し傾く。瓦版台の上に立つ。人々の視線が、縁をかすめて集まる。「連名で告げる」レオンが先に言う。「——東の代替倉庫を開く」「今夜から、上限を出す」私は呼吸を合わせる。「まず、歩く順を決める」記者が前に出る。手帳を開いたまま、視線は上ずらない。「それ、誰の資金で」「払う」レオンは視線を外さない。「今は、列を進めたい」「詳しい数は、紙で」私は言葉を短く置く。「——ここでは、短く」人垣の端から、若い書記風の男が割って入る。衣の袖口に商会の紋が縫い込んである。「既に我々が手配済みです」男が言う。「港の相場は心配無用」針先で触られたみたいに、誓環がちくりと刺す。「……今」私が小さく息を吸う。「言葉より、列を動かす」レオンは群衆のほうへ目を走らせる。ニナが貼り紙を一枚抜き、角度を変える。「『倉庫—東二番→』」風聞計の札がかすかに動く。〈不安〉がわずかに下がり、〈好奇〉が上がる。噂税の箱で印が押され、針が一度だけ戻って、また揺れた。東二番の共同倉庫は、港風が当たる角にある。扉は二重錠。紐印に“連名封緘”の朱。レオンが鍵を半分だけ回して、手を止める。「一緒に」「うん」私は手首の力を整える。「……強くはしない」二人で同時に回す。鈍い音が一度、扉の芯を抜ける。紐印がほどけて落ちる。中は冷えて、粉と木の匂いが混じる。ニナが列の先頭へ声をかける。「先に子ども、次に夜勤明け」ニナは手を広げて、間隔を作る。「——怪我の人、手を挙げて」「言葉より、手が早い
馬車が白い門をくぐると、宵の灯が水に伸びていた。石畳の手前で降りる。前庭には人が多い。風聞計の掲示が門柱に吊られ、札が少し揺れる。〈好奇〉が上に、〈嫉妬〉も高い。祝福は点かない。「人、多いね」「多いほど、楽だ」レオンが短く言う。「並べばいい」「見られる前提、だよ」ニナが小声でつけ足す。「見せる前提、にする」息を合わせるだけにして、前室へ向かった。廊下の壁に、噂税の注意札が貼られている。今夜は加算率が高いと書いてある。役人の腰の小箱に、小さな針が見えた。印を押すたび、針がほんの少し跳ねる。前室で白百合の公女と対面する。アウローラは清潔な笑みを作り、杯の脚を指先で持った。その指先だけ、ひと呼吸、硬い。視線はまっすぐ、でも奥で少しだけ揺れる。「お噂は届いております」白百合が微笑で言う。「形式にお強いとか」「形式は、守るためにある」レオンは視線を落とさずに答える。「守れたら、少し楽になるから」私も短く重ねる。瓦版記者が筆を止めて、また動かした。伯爵夫人たちがさざ波みたいに近づいては離れる。「契約婚だって」「氷の輪、見える?」空気のほうに声が浮いて、耳に直接は触れない。そのとき、ルカが肩を寄せる。「護衛は充分です」耳にかかるくらいの声。誓環が、針先でつつかれたみたいに微痛を寄こす。私とレオンの視線が同時に外周へ走る。入口、退避、柱の陰、楽師の脇。一周して、ルカへ戻る。「今、ちょっと」「充分ではない」レオンが短く切る。「入口、変える」ルカはうなずき、離れる。ニナが柱影の女中と目を合わせ、貼り紙の矢印を一枚だけ向き替えた。風聞計の札がわずかに動く。〈嫉妬〉がひとつ下がり、〈好奇〉が上がる。「歩き方が合ってる」「氷公、意外に…」ささやきの角度が変わる。扇の骨が一度、鳴って止まる。合図の鐘が遠くで鳴る。大広間の扉が開き、開幕の一曲が始まる。レオンが肘を差し出す。袖が、すこし触れた。受け取る私の指は深くは締めない。「右」「うん」二歩、揃う。腰骨が半拍だけずれ、すぐ戻る。呼吸をひとつ合わせて、視線を床へ落とし、客席へ流し、互いの喉元で止める。誓環の薄い光が床面で反射し、波みたいに横へ走る。足首のところを、すっと跨いで消えた。近い席の靴裏が、板をかすめる。「
夕方の邸は、音が少ない。廊下の灯が順に点いて、息が整う。ユリウスが足を止めた。短く敬礼して、紙片を差し出す。「桟橋の風聞計、今夜は〈嫉妬〉が高い。〈恐れ〉〈好奇〉中。噂税も上がる」「了解した」レオンの声は平ら。私はうなずくだけ。ニナが外套を肩にかけてくれる。襟を直して、日録を私の手に乗せる。「書けなくても、持ってて。吸って、吐いて、が楽になる」「ありがとう」手首の誓環は静か。温かいだけ。「……行くんですね」「行く。君と」「うん、二人で。私も、ちょっとだけ」レオンがニナへ目だけ向ける。「影に」「心得てる」短い支度。扉が開く。冷たい空気が入る。歩き出す。*桟橋は、人の視線でざわついていた。風聞計の札が吊られて、今夜の空気が並ぶ。〈嫉妬〉が一番上。「『見せつけてる』『ほんとに夫婦?』って、小さく空気がざわつく。」役人が帳面を抱えて近づく。「ご夫婦、連名での入城ですね。今夜は風聞圧が高い。税率も——」「連名だ」レオンが先に答える。私は隣に立つ。群衆の視線が、私の手首へ集まる。氷の輪が見えるらしい。「……大丈夫です。私たちで、答えます」声に力を入れないで言う。誓環が淡く光る。痛みはない。〈嫉妬〉が一段下がって、〈好奇〉が少し上がる。そこで、顔色の悪い男が人混みを割ってきた。見覚えがある。「王都調査官のルカです。同船します。封呪の件、王都で続報が」「乗れ」レオンが短く返す。次の瞬間、彼が腕を差し出す。袖が、すこし触れた。歩幅を合わせる合図。私は受け取る。視線が一段、静かになる。役人が印を押す音。役人の腰の箱の小さな札メーターが、針を震わせた。船へ。*夜の運河は、船底に水の音が続く。灯が点々と流れていく。デッキに出ると、冷たい風が頬を撫でた。ルカが報告書を半分だけ開く。「(小声)倒れた使者の衣から、“鈴印”の粉が。聖堂の封呪媒と同系統……断定はできませんが。乾いた香りがします」「名を出すな」レオンが切る。ルカの喉が詰まる。「港ではテオが噂を買っています。噂は貨幣に。供給網も押さえられつつ」私は運河の匂いを吸って、吐く。「じゃあ、使えばいい。……行動で」レオンが視線だけで同意する。「……並んで立て」二人で手すりに並ぶ。何も言わない。見られることを、こちらから選ぶ。船室の窓がいくつも開いて、目がこちら
夜の底がほどけかけて、窓の白が少しずつ息をする。灰薔薇の日録をひらくと、昨日の〈名前〉のあとに、ごく薄い滲みが残っていた。指で触れた瞬間、手首の誓環があたたかく跳ねる。映像はないのに、胸の内側に——誰かを腕に抱いた、やわらかい重さだけが、そっと置かれた。廊下の向こうで足音が止まり、扉板が木の匂いを立てる。「……呼んだ?」声が出た自分に少し驚く。扉の隙がひらいて、低い呼吸が混ざる。「呼ばれた気がした」彼はいつもの角度で立ち、部屋の空気を崩さない。わたしたちはことばの先を持たないまま、窓辺へ並ぶ。外は白く、音が遠い。「袖……」視線の端、彼の手首近く。布の裏に、指先ほどの朱。彼は目で否定も肯定もしない。「……痛いの?」「痛みを残すと、静かになる」「静かにするために、痛むの?」「昔、消そうとして……声を失った」沈黙が、部屋の四隅へ薄く広がる。誓環がそのあいだで、小さな灯りを立てた。「その声……誰の?」彼は窓の外を見たまま、喉をひとつ動かす。白い庭に、吐く息が映る。「妹の。名は、もう覚えていない」冬の匂いが、胸の真ん中まで下りてきて留まる。言葉を入れると崩れる空気があって、いまはそれだった。ただ、隣に立つ。「君の誓環が、さっき……共鳴したのは、その記憶かもしれない」「……呼ばれたのは、あなたの過去」「そして、君が受け取った」ふたつの輪が、同じ速さで明滅して、すぐ引っ込む。灰薔薇の日録が、机の上でひとりでに息をした。紙の縁が、夜の名残りを吸って柔らかくなる。「触れて、いい?」返事を待たず、指の腹でページの端に触れる。瞬間、空気の密度が変わった。静かな部屋が、遠くの雪原みたいに広がって、時間が薄い膜になって揺れる。——雪の匂い。——少年の、少し高い声。——小さな手を抱いた、かすかな重さ。——呼んでも、返らない呼吸。彼の肩が、わずかに固くなる。息を吸い損ねたみたいに、胸の前で止まる。「……いま、誰を見てるの」声は小さく、輪に触れない。彼は答えないで、指の骨が白くなるほど手のひらを握った。「君じゃない。……でも、君の声で、呼ばれた」「じゃあ、戻ってきて。——もう一度」彼の手の上に、自分の手を置く。手袋ごしでもわかる温度。誓環が、合図みたいにふっと光った。しばらく、何も言わない。空気の波だけが